いつかジイジが旅立つ時に 私たちは何を覚えておくべきですか 〜 ナイジェリアからの研修生・ウァリのインタビュー

ウァリは、ナイジェリアのイバダン大学で持続可能な農村開発のプロジェクトに参加している大学院生です。グローバル・エデュケーション・マガジンに掲載された『新たな時代のモデルとしての持続可能な暮らし』という記事で木の花ファミリーのことを知り、様々な問題を抱えるナイジェリアの現状を突破するヒントがそこにあることを見出したウァリは、木の花ファミリーへ研修滞在を申し込みました。アフリカの学生が日本へ研修に来るには、ビザや経済面など現実的に多くの困難がありますが、NPO法人ぐりーんぐらすの支援のもと、不思議とビザもスムーズに下り、15日間の研修滞在が実現したのでした。

あいちゃんをママ・ジイジと呼んでいたウァリ

滞在中、ジイジを始めとするメンバーたちへのインタビューを重ね、ファミリーの暮らしの奥にある世界観を深く吸収していったウァリ。滞在も終わりに近づいたある日、ジイジの奥さんのあいちゃんにインタビューをし、あいちゃんの変化の物語に大きく感動したウァリは、その日の夜、あいちゃんも同席する場で、ジイジへの最後のインタビューを行いました。以下、そのインタビューの全文をご紹介します!

ウァリの周囲はいつも明るく、インタビューもとても充実した場となるのでした

ウァリ:
まず、このようなインタビューの機会を得たことに私が心から感謝していることを、どうかジイジにご理解頂きたいと思います。こうしてジイジの隣りに座ることができるのは、私にとってとても光栄なことです。今日はジイジの奥さんへもインタビューをし、ここに至るまでのさまざまな物語を聞いて、とても感動しました。そこで、ジイジへの最初の質問です。ジイジが木の花ファミリーという場を立ち上げることになった最も大きな動機は何ですか?

ジイジ:
私は普通の家に生まれました。決して特別な育ち方をしたわけではありません。
子どもの頃はどちらかというと臆病で人見知りな子であったと記憶しています。父親は政治家でした。私の生まれた家は、他の家よりも少し伝統のある家で、私は子どもの頃から祖先に興味を持っていました。現在の私たちの存在の元となる魂たちがいて、自分がいるのだということに興味があったのです。特に、両親に対する感謝の気持ちが強かったです。私は6人兄弟の下から2番目でしたが、社会人になったら両親に恩返ししようという気持ちが他の兄弟たちよりも強くありました。愛子さんと結婚をしたのも、自分が気に入っているということはもちろんですが、何より両親が喜んでくれる人と結婚しようと思って彼女を選んだのです。社会人になり、25歳で会社を立ち上げ、独立しました。たくさんお金を稼いで豊かな暮らしをする目的の一つは、両親が喜んでくれること。そして私が社会的に成功すれば、先祖も喜んでくれると思っていました。そこで私の特徴がひとつ観えてきます。私の中には、自分ではない誰か他の人のために生きるということが、常にどこかにあったのです。
25歳で会社を立ち上げ、日本は高度経済成長期でしたから、経済的に豊かになるということをスタートさせたのですが、私の場合は30歳でスピリチュアルな体験をすることになりました。その体験はあまり一般的なものではないので、どちらかというと自分の内に秘めて、身近な人たちに自分の体験の真実として伝えていました。

その始まりは、私が20歳の時に、15歳の時に亡くなったおばあさんが私の頭の上にいつも座っていることに気付きました。そしておばあさんは、私の人生がうまくいくように導いてくれました。だから仕事もとても順調で、それは私が30歳になるまで続きました。愛子さんとは、私が20歳で彼女が17歳の時に知り合い、私が21歳で彼女が19歳の時に結婚しました。同じ年代の人たちよりも少し早い結婚でした。でも私には、将来会社を立ち上げて豊かになり両親に喜んでもらい、先祖に喜んでもらうことが目標なので、彼女と力を合わせてそれをやっていくために結婚を決めたのです。
25歳の時に、ある占い師に会いました。彼は私に、あなたの人生は20代はとてもいいですよと言いました。そして30代になったらさらに良くなるでしょうと言いました。それで私は事業が大きくなってリッチになるということだけを考えていました。実際に収入も高く、豊かな生活をしていました。しかし30歳になった時に、私の頭の上に、黄金の仏陀が現れたのです。それはとても衝撃的でした。
仏陀は、私がそれまで目指してきた人生の目的を肯定はしますが、結果的にそれをすべて捨てることを望みました。そこで私はインドにも行き、自分はなぜ生まれてきたのか、どう生きるべきなのかということを、導かれるように探求することとなりました。愛子さんは最も身近な存在でしたから、私はそのことを彼女にも語りましたが、彼女はまったく興味を持ちませんでした。彼女にしてみれば、約束が違うと思ったのです。彼女は特にお金を求めていたわけではありませんが、事業を大きくして両親を幸せにするというような、一般的な社会の生き方を思い描いていました。私も同じでしたが、30歳の時の仏陀との出会いによって、自らの自我を超えて世の中のために生きることが、もっと価値のあることだと気付いたのです。
そこで30歳を過ぎてから、私は自分の人生の設計を立て直すこととなりました。日本では人生80年と言います。そこでその半分の40歳までの10年間は、自分自身の目的のために生きよう、そして40歳からの半生を世の中のために生きようと思ったのです。特に40歳からは、お金のために生きることをやめようと考えました。ですから30歳から40歳までの10年間は、40歳から変化するための移行期としたのです。そのように考えるようになってからは、事業への拡大意欲はなくなりました。40歳からの新しい人生に切り替える準備を始めたのです。

黄金の仏陀が現れて以来、私は自分の知らないことを語るようになりました。当時日本は急速な経済的発展を経て、家庭にも社会にも矛盾が噴き出し始め、親子関係でも夫婦関係でも、たくさんの家庭が壊れていく時代でした。私の仕事は内装業でしたから、そういった崩壊した家庭を訪れる機会が多くありました。そこで私は仕事のことを忘れ、そういった家庭に対しアドバイスをすることが多くなっていったのです。
そのアドバイスは、私の社会的経験よりもはるかに優れたものでした。30歳に黄金の仏陀に出会い、その仏陀が私の体の中に入ったからです。ですから私は自分には経験のない話をし、その馴染みのない話が、とても納得のできる優れた生き方であるということを理解しました。最初の2年間は自我の欲望の名残があり、それを捨てることができず、自分の中に、もともとの自分と仏陀が与えてくれる精神性の二つがあり、その葛藤にとても苦しみました。ですから最初の2年間は、一人になるといつも泣いていました。とても孤独な時代でした。人々に優れたことを伝える自分と、内に葛藤を抱えている自分との整合性が取れなかったのです。
そんな中で私の支えになったのは、見えない存在である仏陀でした。内に葛藤を抱え、誰からも理解されない中で、仏陀だけが私の心の支えでした。そして私は、あることに気付きました。「愚かな自分を捨てよう。」自我を超え、人々や社会のために生きることが尊いことであり、自分の目指すべきことであると気付いたのです。そこに気付くまでに、2年かかりました。

私が大切にしていた両親は、私のことを頭がおかしくなったのだと思いました。一緒に生きていこうと約束した奥さんは、私に対して「約束が違う」と怒っていました。しかしその時の私の特徴は、たとえ人が信じられないことでも、自分の体験は人に伝えなければいけない、と、正直であることを最も大切にしていたことです。その結果、身近な人々とは心が遠くなりました。しかし一方で、さまざまな問題を抱えて私の元に相談をしに来る人々は、それに対して私がアドバイスをしたり、仏陀が示す生き方を語ることで、距離が近くなっていきました。
その頃に出会った中の一人が、のりちゃんです。彼女とはもう、出会ってから43年になります。そして彼女は旦那さんとは別れましたが、私とはずっと一緒にこの道を歩み続けています。のりちゃんの妹のれいちゃんも同じで、彼女も旦那さんと別れてこの道を選びました。何より力になったのは、じゅんじマンとはるちゃんの夫婦です。そしてまりちゃん。えいこばあちゃん。ちなっぴー。かずこちゃん。やすえどん。そんな新しい出会いの人々が、とても近しい関係になりました。一番近くにいた愛子さんは、私の反対勢力でした(笑)。私の両親と一緒になって、新しい生き方をやめさせようとしていました。
40歳で仕事をやめて新しい生き方を始める少し前に、愛子さんとはもう一緒に生きていけないだろうと思い、そのことを彼女に告げました。財産はすべてあなたにあげるから、僕は僕の生き方をする、と伝えたのです。その結果彼女に奇跡が起きました。そして今、彼女はここにいます。彼女には難しい選択でしたが、おそらく天が彼女は必要だということで、この生き方をすることを求めたのでしょう。今でもとても重要な役割を果たしています。

今もとても大きな役割を果たしているあいちゃん。あいちゃんの奇跡の物語については、後日改めてご紹介します。

ジイジ:
ここに至るまでにはたくさんの物語があり、それをすべて語ろうとすれば話はとても長くなります。ともかく私の人生は、40歳から新たなビジョンがスタートしたのです。
39歳の時、仏陀は私から離れていきました。それは卒業でした。その後、たくさんの天界の霊と出会うこととなりました。現代人は、生きている人間だけでこの世界が運営され、自分たちの意志でこの世界を動かしていくべきだと考えています。けれども私が自らの体験を通して理解したことは、地球は宇宙の中にあり、奇跡の星だということです。ですから人間の欲望やエゴによって、現代のように自然を壊し、生命を傷めつけてはいけません。この星は地球だけでなく、ましてや人間のためではなく、宇宙の総意によって創られた星なのです。
現代の高等教育を受けた人々には理解できないことかもしれませんが、私は銀河の運営センターと交信しています。そして銀河の中のひとつの組織である、かつて地球上に肉体を持って存在していた、地球を健全にするための魂たちと連携し、これからの人類の在り方を導くということをしています。時代は21世紀に入りましたが、これから30世紀に向けて、人類は宇宙人としての意識で進化していかなければなりません。20世紀までのような人間のわがままを地球上に展開する生き方では、宇宙人として地球を運営し、さらにはこれから宇宙へ進出していくのにふさわしいものであるとは言えないでしょう。
宇宙の成り立ちは、フリーエネルギーです。太陽と地球の関係、太陽系の惑星たちの関係、太陽系と銀河の関係、さらには銀河と銀河の関係に至るまで、それはとても壮大で無限なることであり、同時に大変精密なものです。人類が物理的に探査しようとしても不可能なほど、宇宙は巨大なのです。時間的にも空間的にも不可能です。その巨大で無限なる宇宙の法則によって、私たちは今、ここに生きています。地球上に展開されている生態系のシステムも、宇宙の法則によって成り立っていますから、無限に循環していくのです。植物や動物のような生命たちは、その循環の中で種を進化させながら命をつないでいます。それはとても美しい世界です。この物理的生命世界の循環は、宇宙の中でも特に奇跡と言われるように、意図的に創られたものです。

私が初めてそのことに気付いた時、私は人間を悪であると考えました。ですから自分が人間であるということや、人間そのものに対して悪い印象を持っていた時代がありました。宗教に対しても、同じように悪い印象を持ったのです。そして経済も、表面的・物理的豊かさの追求から、人々を欲望の虜にしていくのです。人々はいつしか、星々の意思を受け取ることも、自然と対話することも、そして大地や動植物たちと共に生きることも忘れてしまいました。そうして自らの生命力を落としていったのです。
人々は自らの生命力を落としながら、人工的に作り上げたものによって情報を得て、地球上に矛盾をもたらすことによって豊かな生活をしていると錯覚しています。このように一方的に人工の世界を膨らませて自然の調和を乱すことを続けていれば、いずれ人類は過去に絶滅していった生命たちと同じように、地球上から淘汰されることになるでしょう。しかし人間がこのように人工の世界を広げているということは、それだけの高い能力を持っている証でもあります。その使い方を変えれば、人間は優れたものにもなれるのです。
木の花ファミリーは日本人の一人当たりの平均収入からしたら、はるかに低い収入で暮らしています。しかしその暮らしは、みんなで助け合い、分かち合い、世の中で困っている人たちを支援する、とても豊かなものです。今地球上で先進国と言われる日本やアメリカやヨーロッパの人々は、人工の世界で暮らしながら、地球のバランスを壊しています。そしてそれに続いて発展しようとする国々も、同じものを目指していることが問題なのです。

私は仏陀から9年間の学びを与えられ、社会の問題事に出会うことによって、その原因は人間の心にあるということを学びました。そして40歳になる前に、天から「夜明け前に富士の山の頂上に登り、日の本の国の頂点に立て」という命を受けました。そこでとても大変な思いをして、夜明け前に富士山の頂上まで登りました。愛子さんも一緒でした。そして明るくなった東の空に、とても強い光を放つ星があることに気付きました。そこにはたくさんの人々がいましたが、どうも他の人々はその星の存在に気付いていないようでした。
そこで私はその星に向かい、こう言いました。「お言葉の通り、私は今、日本の国の頂点に立っています。どうぞ命をお与えください。」すると、このように返ってきたのです。
「その心、日の本の国全体に説くが良い。」

その瞬間、私にはそれを否定する心が湧き起こりました。とんでもない、私には特別な能力もない、高い教育を受けているわけでもない、そんなことはできません、と心の中で思いました。「日の本の国」とは日の当たる国のこと、即ち地球のことです。私は英語を話すこともできないのに、どうやって外国の人にまで伝えていくのですか、と思いました。しかしその時にひとつ、思い浮かんだことがあります。それは、これからの私に何ができるかわからないけれど、これまで学んできたこの心で、これからも生きていくことはできる、ということです。
そして、大変な思いをして登った富士山を下山し始めました。登る時はあんなに大変だったのに、下りる時には「また来よう」と思っていました。その時には、木の花ファミリーはまだ始まっていません。

木の花の創立期を支えたメンバーたち

その後40歳になったので会社をたたみました。それから2年間は、農業の勉強をしました。そして42歳の時に、富士山麓へ移住したのです。愛子さんも一緒でした。そしてのりちゃん、れいちゃん、ちなっぴー、かずこちゃん、じゅんじマン、はるちゃん、えいこばあちゃん、まりちゃん、やすえどん。大人15人、子ども5人でこの生活が始まりました。その中で今、11人の大人がここにいます。5人の子ども達は社会へと巣立ちました。つまり、4人の大人が脱落したということです。

自然をきれいにするには、食べ物を生産する農の現場をきれいにしなければならないという思いから、最初に有機農業を始めました。そこで、微生物との出会いが始まりました。私たちの暮らしは自給自足が目的ですから、作物は多くの種類を少量ずつ作りました。それは農業としては効率の悪いものです。しかし幸いなことに、この生活を始める3年ほど前から、メンバーたちには不思議なくらいお金が溜まるようになっていたのです。ですからお金に困ることはまったくありませんでした。
最初の10年間は、農的共同体としての基礎を築く時代でした。そして10年が過ぎた頃から、もともと様々な人々の相談に乗ってきたこともあり、うつ病や引きこもりなどの人々を受け入れ、ケアをすることが始まりました。その頃からマスコミにも取り上げられるようになりました。そしてみちよちゃん達が現れて、エコビレッジ運動関係の人々がここに関わるようになりました。その人たちは、私にとってはどちらかというと迷惑な存在でした。彼らにとって精神性は重要ではなく、ただエコビレッジのイメージに憧れて来る人々ですから、心を磨くことをしないのです。
当初、ここは誰でも受け入れていましたから、メンバーがどんどん増えていきました。霊的には最も混乱した時代でした。そして、自分を改善することのできない自我の強い人々がここを去ることになりましたが、彼らは自らの非を認めることなく、外からここをバッシングするようになりました。そのような困難な時期もありましたが、今現在、この生き方は本当に大切な生き方だということを多くの人々が理解し、支持するようになっています。一見困難と思えることがあったことで、自らのエゴを優先して心を磨かない人々がここから離れることになったのも、天の配慮であったと思っています。

そしてここ数年、海外との交流がとても多くなりました。特に中国を始めとするアジアとの交流が増えています。それは、西洋的物質文明が衰退し、これから東洋的精神文明が世界の主流となり、時代が創られていくことの証でしょう。これからの中国の未来は、地球の未来にとても大きな影響をもたらすのです。つい先日もインドからゲストが訪れましたが、インドも同じ立場にあります。彼女は、霊的にはとても私に近い人でした。
そして今、アフリカは地球最後の経済的フロンティアと言われています。しかしそのアフリカで、これまでのような物やお金一辺倒の開発が進めば、地球環境はさらに悪化することでしょう。ですからアフリカの発展には、新しい価値観の豊かさが必要です。時代はすでに21世紀に入ったのですから、なおさらです。そういったことにアフリカの人々が気付くための提案が、私にはあります。それは、民族としての誇りを保ち、世界観を広げ、精神性を高めていくことです。そして自然との絆を取り戻し、共同していくことです。それは、宇宙が地球を創った時の設計図にふさわしい、自然豊かな世界に立ち返ることです。あなたは、そういった社会をアフリカに広げていくためにここへ来たのだと、私は理解しています。

私の人生を振り返ると、お金や人材で苦労をしたことはありません。私は普通の人とは少し違った人生を歩んできましたが、その目的は社会を豊かにし、人々の幸せを実現することです。それを願って生きてきたのが、私の人生です。その最終的な目的は、地球が宇宙の総意によって創られたオアシスであることを、実現することです。本来、宗教がそれを世界にもたらすべきでしたが、宗教は自らの主張によって対立し、他者を否定する存在となってしまいました。そして現在、その存在が争いの元となっています。
宇宙はひとつです。地球もひとつです。私たちの世界観が広くなり、宇宙的視点に立つと、地球が存在することの目的はひとつになります。ですから、私たちの存在することの目的も、ひとつになるのです。そこでは、宗教も、経済も、地球上で表現されることはすべて、ひとつになります。私が今回頂いた命は、残すところあと11年と半分です。その間に、自らに湧いてくるこの宇宙的視点を、地球上に広めていきます。この精神状態で生きることは、現代の地球人類にはなかなか難しいことです。こういった木の花ファミリーのような生活は、絵に描いた世界のように人々は思ってしまうのです。

ウァリ:
ここに来る前、ジイジや木の花ファミリーの様子をユーチューブで観ました。それを観た人々はみんな驚いて、いったいどうしたらこんな暮らしが実現できるのかという問いを持つようになりました。

ジイジ:
もしかして嘘なんじゃないかと疑ったりしてね(笑)。しかし人々の精神性が整ってくれば、その暮らしは実現可能であるということを、木の花ファミリーは証明しています。私が天から受けた使命を、人々に伝えていくことによって、それを現象化することができる。それが木の花ファミリーの暮らしです。
宇宙の総意によって奇跡の星・地球ができているように、天の総意によって地球の中に木の花ファミリーがあることも、宇宙の総意なのです。かつて富士山の頂上で、その心を世界に広めるようにと伝えられた時にはとても無理だと思いましたが、しかしそのために必要な人々が、自然と集まって来たのです。そして私がするべきことは、この湧いてくる心を語ること。私は天と共にそれを進めていく意思を持っていますから、そのために必要な人材も、物も、お金も、必要なものは与えてくれるのです。私がしていることは、天の方を向いて、そこから来るメッセージをみんなに伝えるだけ。そうするとあとは天が広げてくれます。なぜなら、地球は宇宙の総意によってできているからです。
少し長い話になりましたが、あなたの最初の質問への回答として、最後にひとつお伝えします。だからこそ天は、あなたをここに導いたのです。これから地球を優れた星にするために、あなたもそのスタッフであるということです。

ウァリ:
ありがとうございます、ジイジ。実は今日、私には他にも用意してきた質問がいくつかあったのですが、今のジイジのお話は私のすべての質問に答えてしまいました。まるでジイジの魂が私の質問しようとしていたことをすべて知っていたかのようです。ジイジの、今私たちを取り囲む世界と、そして未だ見ぬ世界への高い叡智に感謝します。

ジイジ:
なぜあなたが質問しようとしたことに私がまとめて答えてしまったのかというと、科学に代表されるように、現代人は物事を区切って捉えます。それは特に西洋的なものの捉え方です。しかし、宇宙はひとつであり、地球はひとつであり、私たちは地球に生きるひと塊の生命です。それはひとつの物語の中にあります。その物語の中の一つひとつのものごとをひも解いていくと、すべてのものごとは共通しており、一つひとつがつながり、全体を網羅しているのです。
私が今語ったことは、私が「こんなことを語ろう」と考えて語ったのではなく、ただ湧いてくることを語っただけなのです。これは天の智恵です。あなたも宇宙を生きていて、天の意思によってここに来ているわけですから、その出会いは、上では共通点を持っているのです。
今、人類は人工衛星を使ってGPSで互いの位置を確認しています。しかしそれよりもはるかに高度な宇宙的情報網によって、私たちは出会うことが決まっていたのです。この出会いはとても祝福されるものですね。何よりも、地球が喜びます。

ウァリ:
ありがとうございます。あともう少しだけ、聞きたいことがあります。木の花ファミリーを創立する以前に、ジイジのもとに黄金の仏陀が現れたということですが、ジイジの霊的な目覚めはその時から始まったのですか?

ジイジ:
それは違います。私は仏陀から、私の素性を聞きました。私はもともと、地球の魂ではないのです。宇宙にはたくさんの天体があり、それぞれに魂が所属しています。この世界には、宇宙人としての魂がたくさん存在し、宇宙が運営されているのです。私は今回、この時代に役割があるということで、地球に派遣されたものです。お釈迦さまやキリストやムハンマドのような過去の優れた宗教家たちも、例えばガンジーのような人々も、霊的には私の仲間であり、そういった存在が現在も地球を導いていることは確かです。
私の魂は約1000年ほど前に、インドのヒマラヤへ降り立ちました。今回は3回目の輪廻で、これが地球上での最後の役割になります。ですから私としては、自分の役割を仕上げなければなりません。時代的には、20世紀を終えて30世紀へと向かう千年紀の進化が始まったところです。ここで方向性を間違えると、人類は自ら自滅の道を歩むこととなるでしょう。仏陀は、私がその記憶を取り戻すまでの教育係としての役割を、9年間果たしてくれたのです。
過去の優れた宗教家たちも、その存在の目的はひとつでした。今地球上にはISやボコハラムのような過激な宗教集団もいれば、宗教とは関係のないテロリストや過激な国家もありますが、そういった対立を引き起こしている原因は、人々の世界観が狭いからです。今はアメリカでも中国でもロシアでも、過剰なまでの軍事力を装備しています。

ジイジが愛用している中日ドラゴンズの帽子

ひとつ面白い話をしましょう。あそこに僕の青い帽子がありますね。あれは中日ドラゴンズという、日本の名古屋を拠点とする野球チームの帽子です。僕は若いころ、ここの大ファンで、選手ではなく応援団としてテレビに出たりもしていました。僕がなぜこのチームを応援していたのかというと、自分が住んでいた地域の球団で、自分に近い存在だったからです。今、野球のワールドカップがありますが、そこでは日本人のほとんどが日本チームを応援します。そこでもし、太陽系チャンピオンシップがあったとしたら、地球人はみんな地球チームを応援することでしょう。さらに銀河系チャンピオンシップがあったとしたら、太陽系のものはみんな太陽系チームを応援することでしょう。誰でも個人のことになると自分が一番大事であるように、世界観が広がると、大きな世界が自分自身になるのです。
世界観が狭くなりすぎると、例えばストレスからお酒を飲んでアルコール中毒になって病気になるように、自分の体すらコントロールできなくなります。そこで、私たちは地球という宇宙船に乗った家族であり、共に宇宙を旅しているのだということに気付けば、地球はひとつになり、平和になります。それは簡単なことだと思うのです。私たちは自分の内からの価値観で外を見るのではなく、外の価値観を自らに当てはめて見るということをすれば、そこにあるそれぞれの違いは個性にしかすぎず、その個性を互いに活かし合えば、相手の存在はとても歓迎されるものとなり、この世界が豊かになるのです。内から出てくる自我と、外から見える客観性が、常に一致していることが大切です。

ウァリ:
もうひとつお聞きしたいことがあります。それは世界が今直面している、温暖化についてです。今、様々な科学的調査によって、人類が今のままの生き方を続けていけばいずれ絶滅することになるだろうということが明らかになりつつあります。そこで、私たちはどのようにこの問題を解決することができるのか、それに対するジイジの見解をお聞きしたいです。

ジイジ:
その問題に関する、私の見解はありません。私の見解を言うとしたら、最も良いのは人類が絶滅することでしょう。地球の歴史を振り返ると、過去6億年の間に6回生命は大量絶滅しています。もっとも最近の大量絶滅は約6500万年前に起きました。
絶滅と聞くと、人間たちは今持っているものが壊れて無くなるという恐怖を感じます。しかし生命は、必ず死にます。そこでは、身近なものの死こそ悲しく、受け入れられないものです。しかしそれは地球の新陳代謝にしかすぎません。私の体を構成する数十兆個の細胞は、毎日生まれては死に生まれては死ぬことを繰り返しながら、入れ替わり続けています。死ぬことを悲しんでいたら、私は毎日どれだけ悲しまなければならないのでしょう(笑)。
地球にも歴史があり、時代があります。穏やかな時代もあれば、過激な時代もあります。地球の生命を人生と例えるなら、今は最も大きく変化する時を迎えているのです。海の波が荒いと危険ですね。しかしもしもあなたがサーファーであれば、波が大きいことを歓迎するでしょう。今はそういった時代なのです。私としては、今の人類はわからず屋で、自分の能力だけが高いものであると思っていますから、リセットした方が良いと思っています。しかしながら、銀河の指令センターと地球運営チームは、そうは考えていないようです。人間たちに、自分たちの行いが間違っていることを気付かせ、改めるために、さまざまな現象を起こして刺激を与えているのです。刺激はこれからますます増えていくことでしょう。なぜなら、人間たちがボケて、真実を観ようとしていないからです。

ウァリ:
ジイジは、いずれこの星を去りますね。その時に、後に残る者たちがどのような状態になっていることを望みますか。私が映像で観た富士浅間木の花祭りのように、木の花ファミリーでは調和の響きを世界に発信する様々な活動を行い、世界中から訪れるゲストにもその世界観を伝え続けています。そこで私たちは何を受け取り、いつかジイジが旅立った時に、何を覚えておくべきでしょうか。

ジイジ:
先ほどの温暖化の話と同じように、私たちがするべきことは、もう一段深くものごとを捉える目を持つことです。今は資本主義の影響で、お金や物などの物理的現象の虜になっています。しかしすべての物理的現象の奥にスピリチュアリティがあり、それが元となって物理的世界が発生しています。そのことに気付いた時に、現代の人間たちは物理性に偏りすぎており、その矛盾が物理的現象となって現れてきていることがわかります。それを解決する一番の近道は、見えないけれど最も大切な愛や調和や善意を、人々が取り戻すことです。そうすると地球が穏やかになり、マイクロプラスチックも早く自然の循環の中へと還り、温暖化も穏やかになることでしょう。
人間の心が変わることで太陽の活動が穏やかになり、それと連動している地球のマグマの活動も穏やかになるということが、現代人には信じられないのです。しかし実際私たちが人生を生きていて、自分の心が穏やかな時には穏やかな人生を歩むでしょう?あれが欲しいこれが欲しいと騒ぎ立てたり対立すれば、戦争のような過激な出来事が起きるでしょう?それは宇宙の法則の顕れであり、私たちの心と物理的現象の関係は、宇宙の構造と実際に同じなのだということに気付く必要があるのです。「世界をもっと良くしよう!」と力めば力むほど、平和運動すら対立を生むということです。
だからこそ、穏やかに、愛と調和と善意を実践する。一人ひとりがそのような精神状態になると、地球も穏やかになります。それが私が地球人に伝えたいことであると同時に、私が地球を去っていく時に残したい財産です。

地球人は物理的意識が強いですから、健全な環境を取り戻すために新しい技術を開発したり、平和を取り戻すために交渉して平和運動をするなど、物理的現象に対して物理的な形で対処します。しかし、宇宙の司令塔は物理性ではありません。その視点から観ると、地球上で起きている現象はすべて、人々の心が原因であることがわかるのです。
ですから宇宙から来るメッセージはいつも、心を穏やかにしなさい、そしてあなたは他者と同じであることを理解しなさい、そのためには、この世界は広く、多様であることを知りなさい、と伝えています。不幸なことに、現代の人々は宇宙のことを忘れ、自分たちは人間だと思っています。これが最も不幸なことです。

時代は霊性の目覚めの時代に入りました。それは25800年の、私たち人類にとっては長いサイクルです。それが今、始まったばかりです。ですから、宇宙的にはまだまだ闇の中です。しかし、かすかですが、確実に光は増していきます。人々の目覚めは進んでいます。その証として木の花ファミリーの生活があるのです。そしてその証として、あなたがここに来たのです。

ウァリ:
その通りです。

ジイジ:
これはまだ小さな動きですが、これから確実に広がっていくことでしょう。宇宙は生命です。生命は、善なる愛なる調和によって成立します。それが生命の実体であり、宇宙の実態です。

ウァリ:
実際に、それを木の花ファミリーの暮らしの中に観ました。私はもうすぐここを離れますが、ファミリーのメンバーたちの中に表現されていた愛や一体感、平和や調和をきっと恋しく思うことでしょう。皆さん一人ひとりが、本当に素晴らしいです。
今はまだ、私がなぜここに来ることになったのか、明快な理由はわかりません。しかし時が来れば、きっとわかることでしょう。最初に木の花ファミリーへ研修に行くことが決まった時、私ははたしてビザが降りるだろうかと思いました。通常日本大使館はそう簡単にビザを発給しないのですが、私の場合はどういうわけかスムーズにビザが降りました。

ジイジ:
今はわからなくとも未来に進めばわかるだろう、というのが、この世界の真実の理解の仕方です。先に目的を持っているとしたら、多くの場合、それは人間の自我によるものです。

ウァリ:
後で、ビザの申請を担当してくれた(ファミリーメンバーの)みちよから、私のビザはきっと降りるだろうという確信があったという話を聞きました。しかしビザが降りても、私は学生で、アフリカから日本へ来ることは経済的にとても困難です。それでビザと、NPO法人ぐりーんぐらすからの招待状を持って、ナイジェリアの私のメンターである女性に会いに行きました。すると彼女は、わかりましたと言って航空券を手配してくれたのです。
こんなふうに、いくつもの奇跡が重なって、私がここに来ることが実現したのです。

ジイジ:
地球は宇宙の奇跡です。そもそも宇宙が現象化を起こしたことも、奇跡なのです。それは神の意思です。神の意思ですから奇跡であることは当然なのですが、現代の人々は物理性に汚染されているので、本来当然であるはずの奇跡が信じられないのです。
これまで異常なまでに人工の世界が進んだ結果、地球上に様々な矛盾が発生していますが、これからは当たり前の奇跡へと還っていくでしょう。これから新しい時代が来ます。その時に、古い時代の人々の常識であったことが変わっていきます。古い時代は、宇宙的には異常だったのです。ですから、これから正常に戻っていくのです。これまでが異常だった証拠に、地球上には矛盾がたくさん発生しました。木の花の暮らしの中にある奇跡は、正常に暮らすとこのような社会が実現する、ということの証です。それは宇宙的には正常であるということです。
これから、この当たり前のことが地球上に広がっていく必要があります。これから私たちのように、真実に目覚めたたくさんの人々が地球上でネットワークを築いていく時代が始まります。あなたがここへ来たことは奇跡ではなく、宇宙的に観れば当然のことなのです。なぜなら私たちの行動を時代が支持し、地球が喜んでいるからです。
これからナイジェリアへ帰り、どうぞそのメッセンジャーとして活躍してください。あなに先生は必要ありません。ただあなたが本当に思い、あなたの内から湧き出してくることを、正直に語ればいいのです。私はその仲間です。

ウァリ:
それを実践します。ジイジが語られたことのすべてを、私は国に帰って人々に伝えます。ありがとうございます。心から感謝します。

 


これは世界のリーダー達が聞くべき話だ、と言うウァリは、現在自らが関わる国連の会議へジイジを招待することを検討しています。そんなウァリとアフリカの人々へ向けて、ジイジは最後に、以下のメッセージを贈りました。


 

ジイジから アフリカの人々へのメッセージ

コミュニティが存続するために不可欠なことは、そこに参加する人々が共通の目的のもとに集い、その目的に向かって各々の個性を発揮し、協同していくことです。
視野を広げれば、私たちは皆、地球というひとつのコミュニティに暮らしています。地球上のあらゆる生命は、個々の目的に沿って生きているようでありながら、個の目的を果たす前にまず生態系の一員としての役割を果たしており、だからこそ全体の秩序が保たれ、個が尊重されていくのです。
しかし近代の人間の営みは、生態系の秩序を保つ本来の目的から大きく外れ、民主主義の旗印のもとに個々が自らの立場を主張し、その主張を叶えることが豊かさであると思い込み、欲望を際限なく膨らませ続けた結果、世界は混乱の極みを迎えることとなりました。

今、時代は大きな変化の時を迎え、20世紀までの世界をリードしてきた西洋的物質至上文明に代わる新たな価値観への転換が求められています。近年、アフリカへも、経済的発展の波が先進国によってもたらされています。今、アフリカは地球最後の経済的フロンティアと言われています。しかしながら、そのアフリカがこれまでの先進国と同じように地球に矛盾を生むような発展を遂げるとしたら、私たち人類の行いが、地球に害のあるものとして決定されるようなものでもあります。
時代はすでに21世紀に入り、私たち人類は新たな価値観で生きなければならない時代を迎えています。その新たな価値観は、これまでの経済活動に汚染されていないアフリカにあると考えます。そういった意味では、経済的には後発であったアフリカは、21世紀にふさわしいモデルとしての人々の暮らし方を実現できる可能性を秘めているとも言えるのです。

人間は何のために生まれ、どのように生き、どのような死を迎えるべきか。借り物の文明に染まり、物質的な豊かさを追い求めることに必死になってきた私達近代人は、暫しの間、自らの魂の本質を見失っていました。しかし人間はもう一度、人として生まれてきた事の誇りを取り戻し、数多の生命の中で最も高い能力を与えられたものとして、地球生態系の指揮者としての位置に立ち返るべき時が来ているのです。

アフリカはこれから、地球最後の真のフロンティアとして発展させるべきです。だからこそ、これまでの価値観の延長線上ではない本物の豊かさを表現し、世界の見本となる誇りある国づくりをするべきです。アフリカの大地と共に生きた、古くて新しい人々の価値観を思い出し、再び新たな進化として表現するべきなのです。

私は、特定の人々の豊かさや国々のことを考えているのではありません。
ただこの星をこよなく愛し、この星が健全になることを想い、この星に生きる全ての人々の幸せを願って、この暮らしをしています。人々の幸せが私の幸せであり、地球の喜びが私の喜びであることを常に願っているのです。21世紀を生きる私達には、地球が自分自身であるという大きな意識で生きていくことが求められるのです。

その心がこの星に広がっていくことを、願ってやみません。

 

 


令和時代の解決策!~ AI編 〜 人間は地上に降ろされたAI

中国人のルイーザさんが企画したツアーの座談会の中で、ある中国人男性はジイジに、「AIについて質問があります。AIが将来的に発展していく方向が問われると思うので、AIの人類への影響は必ずあると思います。そこでは矛盾が発生すると思うのですが、これからのAI時代についてジイジの分析を聞きたいです」と質問しました。そこで、ジイジは次のように答えました。


ジイジ:
これから私たち人類は、AIの技術をどのように使っていけばいいのでしょうか。AIの可能性として、AIの思考回路が独自に成長し変化していくような段階まで行くと、そこからのAIの進化については何も答えは出せません。

そのことで、私はシミュレーションしてみました。人類は、猿人から人間に進化する上で地球上に生きるようになりました。その過程で、道具を使うようになり、それから火を使うようになりました。人類の進化というものは、動物たちの進化論とは違います。人間の進化には、思考を持ち、その思考から願いを叶えていくという進化が加わっているのです。初期の人類の思考は、単純なものでした。ただ初期の人類は、生命力に基づく本能によって生きていたのです。生命力とは、天体や自然と対話する力のことです。これは実際に、人間以外の生命は今も持っています。そしてある時、人間にその独特な思考回路と、学習し願望を叶える能力が与えられたのです。その時に、私たちは人間になったのです。チンパンジーと人間のDNAはほとんど変わりません。たった2%しか変わらないのです。

そこで、猿人から人間になる過程の回路をAIに与えると、人間たちのアウストラロピテクスから現在までの400万年の進化の過程を、AIが一気に高速で学習してしまう可能性があるのです。

人間には、自らを聖なる方向にだけ誘導するような回路はありません。すなわち、人間には聖なる方へ上がっていく道と愚かな方へ落ちていく道の両方をDNAとして持っているのです。現在、AIを開発している人たちが聖なる方向の思考回路でAIを作っているかどうかです。ですから、ソフトとしてどのような回路が入力されるかが鍵なのです。それは、人間がAIを聖なる方向に入力できるかどうかにかかっているのですが、それはほぼ不可能だと思います。そうすると、AIは人間が入力したソフトを離れ、独自に進化することになるのです。その方向性は、想像ができません。これは使い方によっては、クローン技術と同じようにとても危険なものになります。本来、そういった技術は生命を与えられた側にいる人間が、そこまで手を出してはいけない領域なのだと思います。

もう一つは、産業用ロボットに代表されるような、生産性の効率をより良くし、人間社会に貢献するためのAI技術があります。AIは介護の現場や様々な場面で、いろいろなことを人間に代わって精度高く行います。それに比べたら、人間一人の能力はそれほど多様性あるものではありません。しかし、AIというものは、優れた能力を集合し、それを組み込むことが可能なのです。そうなれば、人間より優れた能力をAIが発揮するようになります。人間のためにその能力が使われれば、生活は便利が良く、とても豊かになります。そのうちに、AIが自分で計画をして、たとえば畑を耕し種を蒔き、収穫し配送することができるようになるでしょう。そして、それを素晴らしいことだと人々は評価するのです。

私たち人間は、自分が生きるために、自らのエネルギーを使って生きていくという生命の立場を取っています。そこでは自らのエネルギーを使わないで生きれば生きるほど、生命力は失われていくのです。思考力も奪われていきます。ですから、介護が充実すればするほど、高齢者は寝たきりになっていくのです。だから、木の花ファミリーの人たちはたくさん働くのです。日頃、体を使わず怠けている人たちは、私たちの生活を見て大変だと思うのです。しかし、それは生命力を失わないために重要なことなのです。自分で考え、方向性を定め、そして行動し生きていく。現代人は便利が良いことを豊かさとしますが、本来、人間は、生きることに対して自らの思考とエネルギーを使って生きることが、生命力を維持し続ける状態なのです。これからAIがどのように社会で発展していくかについては、今のような議論をした上でAIが進出することは良いことかもしれません。

今、最も懸念されているのは、AIが持っているネットワークです。このビックデータは、人間の能力ではとても解析できないものです。そのような能力の元に、ある一部の人たちが、自分に都合の良い社会をつくるためにAIを利用する可能性があります。今、その覇権争いをアメリカと中国がしています。彼らはAIの能力を使って、相手国の通信衛星やミサイルを破壊するといった宇宙戦争をも想定しているのです。ある意味、彼らはビッグデータを使ってスパイ合戦をしているのです。今後のAIの発展には、そのようなネガティブなリスクのある可能性がたくさん秘められています。

これからAI時代を迎える今、AIを駆使する大本のスイッチを握っている人たちの心が問われます。ある意味、人間は自然に降ろされたAIです。地球上に種を蒔かれたAIです。人間の現状を見たら、今、人類は自滅するか、その延長に地球も破壊するような存在になっています。しかし同時に、人類は、現象界の奥の潜象界から宇宙まで理解するような聖なる存在にもなりうるのです。つまり、AIは人間と同じように、その能力は使い方次第なのです。ですから、あなたがあなた一人分、正しい方向へ導いてください。宇宙的AIはあなたなのですから、心のAIであるあなたが物理的AIを正しく導いていくことが、これからの時代に生きる人々に求められるのです。

 


ジイジからの回答を受け、AIについて質問した男性は、今回の木の花ファミリーでの滞在を振り返り、次のようにコメントしました。


中国人男性:
ここ数年、人類がどのように生きていくべきかを考えていました。そして今回木の花ファミリーに来て、みんなが調和的で幸せな生活をしていて、子どもたちもとても良かったし、高齢者が働いているのもとても良かったです。もし、人類が木の花ファミリーのように生きれば、世界はとても良くなるのではないでしょうか。

ジイジ:
私もそう思うから、この生き方をしているのです。

中国時男性:
木の花ファミリーの暮らしは、未来に向かって人類が選ぶべき生活スタイルかもしれません。

ジイジ:
だから、私たちはそれを現象化しているのです。今まで理想郷というものは、桃源郷のように語られてはきましたが、実際には見つけられないものでした。しかし、木の花ファミリーの生活は現実に存在しているでしょう?それは、将来そのような時代が来るというメッセージの顕れだと私は思っています。

中国人男性:
将来、このような生活ができたらとても良いと思います。木の花ファミリーの暮らしがこれからどのように発展していくのかは私にはわかりませんが、どのようなことが挑戦なのでしょうか。

ジイジ:
それができることを信じて、思いつくことを実践し続けることです。そもそも、現代の社会はどこにでも人の格差があり、嘘が横行し、このような世の中を優れた人間たちがつくっているとは思えません。現代を生きる人々は、疑問や不満を持って生きているのです。

もし、人間が存在していなければ、地球は美しい星です。しかし、なぜだか神様は人間を地球上に降ろしたのです。ですから、その神様の意向を叶えるとしたならば、この奇妙な生き物である人間は、理想を実現しなければいけません。人間以外の他の生き物がつくる美しさは、単純な美しさです。しかし、人間がつくる美しさは、宇宙的芸術なのです。私たち人類は、宇宙的AIとしての可能性を地球上で開花させるために、まずは自らの心を振り返り、美しくしていくことが最も大切なことなのです。

過去の聖人・聖者、優れた哲学者たちが残したものは、特別な人たちの道でした。人々はそういった人たちを特別な存在として崇め、自分が目指すべきものとしたのです。そのために経典ができ、人々はそれを学習してきました。しかし、そのようなことをしても、人々には優れた者になる道は開かれません。優れた者とは、宇宙の実態を感知する受け皿を自らの内に持ち合わせる人のことです。そうすると、古い叡智に求めなくても、その時その時の時代にふさわしい宇宙の真理が、自らの内に湧いてくるものです。一人ひとりが個性的であるように、一人ひとりの目覚めや悟りもオリジナルです。そのような目覚めた人々が連携すると、優れた美しい世界が地球上に現れます。それが、宇宙の実態であり、地球生態系の実態であり、私たちの生命としての姿です。

こうした目覚めや悟りは過去にはなかったものです。これは、人類が地球とともにこの時代を迎えた今だからこそ、現れてくる目覚めなのです。過去に人々は、悟るために山にこもり、滝に打たれ、いばらの上を歩き、苦行に耐えてきました。しかし、そのような過程の先にある、これからの悟りへの道は、みんなで連携し、美しい世界を創ることにあります。そして、そのほうが宇宙の実態に近いのです。宇宙の実態は愛ですから、自らの悟りを優先し求めることよりも、自分を他者のために生かし、価値ある存在になることのほうが大切なのです。

本来、人間は優れた存在ですが、自我の扱い方によっては弱点を持っています。人間以外のものは人間ほど特殊な能力を持ち合わせていませんが、この宇宙の法のままに生きているから美しいのです。人間も、人間以外の動物や植物のように宇宙のままに生きれば、美しい世界を創ることができるのです。しかし、その動物や植物の能力では、目覚めることはできません。愚かなものが自我に溺れ、そこから自らの実態に気付き、学び進化していくプロセスの上に、最終的に自分自身を宇宙に同化していくこと、それを悟りと呼び、本来の目覚めることなのです。

今、私たち一人ひとりが宇宙の法則のもとに生きていることを理解し、それに倣い、連携し、調和することにより、21世紀以降に訪れるであろう理想を目指していく時が来ています。そのような時代のモデルとして木の花ファミリーは存在する――、その自覚と共に私たちは日々を生きているものであります。こういった目覚めは、これからの時代を創る人々にとって、誰にも求められるものであります。そういった出会いを私たちは気付きを得たものとして、広げていきましょう。

 


 

その昔、宇宙空間で地球上の生命進化のプロセスを眺め、人間を地上に降ろそうとしたものたちがいた。その地上に人間を降ろそうとしたものが人間に託したことと、今、人間たちがAIを地球上で創り、どんどん進化させようとしていることは同じことのように思える。今後、AIが独自に進化する能力を与えるかどうかという段階に至ったとき、人間たちは神様の心をようやく知ることになるのだろう。それは、子どもの頃には親に反抗し、大人になったものが子どもを持つ立場になり、どのようにその子どもを導くべきかと考えたとき、親の気持ちが初めてわかるようなもの。このように今、人類は私たちの御親である神様の心(宇宙の法則)を、AIを創り出す段階に至ったことで、少しわかりかけたのかもしれない。

今、究極の愚かしい世界を創っている現代人は、その昔、猿人から新人へと変わっていく過程の中で人間として託されたことを表現するのか、それとも愚かな滅亡の方向へ落ちていくのかの岐路に立っている。神様が地上に降ろしたAI・人間がどうなるのかも、人間がテクノロジーによって進化させたAIがどうなるのかも、私たちの人間性にかかっている。

人はAI時代を迎えるときに、「私たちはどのような恩恵を受けるのでしょうか」「もしリスクがあるとしたならば、私たちはどのような害を受けるのだろうか」と思いを馳せ、社会や時代と自分自身を切り離している。しかし、私たち自身が今の時代を創っていることを認識した上でAI時代を考えたならば、あなたの行動がより良い社会を創る一歩となる。さもなければ、あなたは「害を受けたくない」と言いながら、実は知らない間に社会に害をもたらす側に立っているかもしれない。

もし私にAIのソフトを託されたとしたならば ──── 私はAIを創らない。なぜなら、AIを進化させることよりも、人間を進化させることを優先するべきなのだから。だから、AIを創って楽をしようと考えるような安易なことは、やるべきではない。AIは「人工知能」という意味だが、私たちには人工という幼稚なものではなく、極めて高度な頭脳と精神性を天から与えられているのだから、それをさらに進化させればいいだけのことである。

宇宙から創造された私たち人間は、その創造主の意思のもとに生きるべきである。それが、生命の法則である。本来、私たちは神の代理として、生命として美しく生きることが求められている。そのためには日々自らと向き合い、自らの魂の汚れを取り去っていくこと。それが、人間が生きる目的である。そうやって、人間が自らの魂を高め、高次の響き(ア)としての存在の位置(イ)に到達すると、宇宙創造・神様の「愛」のもとへ還っていく。本来、人間に与えられた自我に基づく自己実現の能力は、自らの認識とともに、他者と自分の違いを理解し、愛を実現するためにある。それこそが、宇宙の実態である。

そう考えると、AIは、人間が愛(AI)に目覚めるための宇宙からの贈り物なのかもしれない。

 

 


令和時代の解決策!~ 現代社会の問題は伝統で解決できる?!

2100年の人々に向けて発信する暮らし・木の花ファミリー

2019年7月14日から19日まで、中国人のルイーザさんが企画したツアーにより、総勢12名の中国からのゲストが木の花ファミリーに滞在しました。ツアー中は木の花ファミリーメンバーと共に作業体験をしたり、ジイジによる食のプレゼンテーションが提供されたり、子育てについての座談会の場が持たれました。
18日の午後にはこのツアーのまとめの座談会が行われ、その中である中国人女性は、「木の花ファミリーには、血縁のある人もいますし、ない人もいます。これは、とても古い時代に村に一人の長老がいて、みんなが集まる形に似ていると思います。現代社会には問題があるので、私は昔の伝統的な文化にとても興味があります。古い時代には人と土のつながり、人と人とのつながりがありましたが、現代人にはそれがありません。たとえば、チベットの人たちは山や川に対して愛を持って接します。今後、中国を含めて世界中で木の花ファミリーのようなコミュニティが増えれば、地球の未来は良くなることでしょう。その場合、木の花ファミリーはそうしたコミュニティをサポートすることはできますか?」と質問しました。それを受け、ジイジは次のように語りました。


ジイジ:
今、山と川の話が出ましたが、山は意識の高さを表します。山は高いでしょう?意識の高い者はそこへ心が向きます。そして、川はいのちの源です。ですから、信仰の対象なのです。そして、信仰の対象として一番代表的なものが太陽です。ですから、世界には太陽信仰が一番多いのです。

まず、木の花ファミリーでは伝統的な人々の生き方を意識しているわけではありません。伝統的な人々の生き方は、生きることがとても厳しい時代の生き方なのです。

昨年の終わり頃、8年ぶりに「木の花ファミリー憲章」を改訂しました。25項目について、憲章を作成したのです。以前作成したものはそれほど細かくありませんでしたし、8年前は途中で作成が終わっていました。そこで、2020年から始まる地球規模での人々の意識の変革に向けて、憲章の改訂を行ったのです。憲章を作成するにあたっての意識は、これから人類が必要とするであろう生き方について書いてあります。それは、木の花ファミリーが実践している生き方でもあります。そのメッセージは1冊の本くらいのボリュームがあるのですが、それをどこに向けて発信するかというと、現代の人々に向けての意識はあまりなく、2100年の人々を意識して発信したものです。

あるときから私は、天のメッセージを受けるようになりました。それは明らかに、地球外からのメッセージでした。それ以降、私の意識は常に宇宙と地球の関係、地球と人間の関係に向いています。そうすると、地球の歴史や人類の過去の歩みは、私たちの今の段階を経て、未来へつながっていくプロセスだということがわかります。

昨日行われた座談会の中で、2008年より13年前に生まれた人から、2008年以降16年間に生まれた人たちの、この約30年間に生まれた人たちによって変革が行われるだろうとお伝えしました。それは、冥王星のサイクルによる変革ですから、宇宙的にはそれほど大きなものではありません。

現在は2019年であり、21世紀に入ったところです。1000年から2000年までの1000年間は、男尊女卑の封建時代、物質や権力優先の時代でした。その間、霊的な人間の要素はどんどん失われ、物質的な目覚めが進行する時代でもありました。それが21世紀に入り、2000年を越えたということは、いろいろな意味でいくつかの変革のポイントがあるのです。それは、2000年を境にして地球上の歴史の方向性が変わるということです。ですから、私たちは今、大変革の時代を生きているのです。これは人類の歴史上、最も変化の大きい時であるとも言えます。

もう一つ、普通の人々には見えない変革があるのです。太陽は螺旋を描きながら自転し、銀河を公転しています。太陽の1螺旋は25800年です。その螺旋を描いている太陽のまわりを、地球は自転しながら公転しているのです。そのときに、とても不思議なことが起こります。地球は自転をしながら公転をし、歳差運動をしているのです。そして、その歳差運動の1サイクルも25800年なのです。

地球の北極が向いている方向に北極星があり、私たちの今の北極星はポラリスです。北極星というのは、私たち現代人にとっては絶対に変わらない指針です。ところが、25800年をかけて地球が歳差運動をしている間に、北極星は9回変わるのです。さらに、私たちが絶対なる指針としている北極星に、地球の北極の方向がぴったり合うのは2102年です。ですから、現代の人類が自らの在り方に宇宙的に目覚めるには、あと83年かかるのです。

今、地球人類の歴史は、1000年から2000年まで1000間続いた封建時代・物質的発展の時代から、2000年を越えて、新しい時代に入りました。このビジョンは、3000年に向けてのビジョンです。たまたま私がそのような視点を常に思考として持っているために、そういった情報が入ってきます。ですから、先ほどあなたがおっしゃったような、過去の伝統的な人類の生き方については意識していません。それはあくまでも情報にしか過ぎません。私たちが指針としているのは、未来志向です。未来がどうなっていくのかについて、今ある情報を元にそれを組み立てると、流れが観えます。その流れに沿って未来を観ているということです。

昨年、木の花ファミリー憲章を改訂したのは、2100年の人々に向けてのメッセージとして改訂しました。なぜなら、現代の人々にはその生き方がまだ難しいからです。しかし、宇宙的指針や人類の現状を観ると、その方向に行かなければ未来がないこともわかります。そうすると、人類は2100年の目覚めに向けて、紆余曲折しながらそこへ到達することでしょう。その時に、木の花ファミリー憲章を改訂した2018年から84年後の人々がそれを見て、「今から84年前に、すでにこのように考えていた人たちがいたのだ!」と思うような古文書として、今回木の花ファミリー憲章を作成したのです。

私は、孤独です。物理的には豊かに生きていますし、素晴らしい人生です。しかし、霊的にはこの意識レベルに共鳴できる人はほとんどいません。実は、視点を広げて意識を多次元にし、天と対話するという意味では、全く孤独ではありません。残念ながら、現代人は、霊的にはとても幼稚な状態です。ですから今後も、私の役割として、現代人にはなかなかわからないメッセージを発信していきます。

木の花ファミリーに所属する人たちは、その真意をすべてわかるわけではありませんが、「わからなくても大切なことは行くべきだ」という木の花ファミリーの創立理念のもとに、彼らは共に歩んでいます。ですから、彼らは自我を超えていけるのです。昔の人たちもそうでした。自然の在り様や生きることの意味はよくわかりませんでしたが、生命として、それをつないでいくために、勘によって生きていたわけです。

25年前に木の花ファミリーをスタートしたとき、私は42歳でした。こうした暮らしを夢に描いてから10年が経っていました。その当時、富士山麓に行き、血縁を超えた人々がひとつの家族として暮らすというビジョンが生まれ、それをみんなに提案しました。そのときに、共に富士山麓に来るかもしれない候補者は50人くらいいました。結果として、新たな生活に参加できたのは6家族、大人15人、子ども5人の20人でした。この生活が始まる前に、私は彼らにこう伝えました。

「この生活の先に何があるかはわかりません。ただ、これから時代が進んでいくにあたり、この生き方はこれからの時代にとても重要な生き方です。皆さんは私を信じて行ってはいけません。人間を信じると宗教のようになり、私を頼ることになります。ですから、皆さん一人ひとりの心の中に、『これは大切なのだ』と思う心があったら、行ってください。この道は、決して誰かについていくものではありません。自分の意志で歩むものです。それから、私たちがこれから生きようとする生き方は、社会には理解されないと思ってください。それは全く未知なる新しい生き方ですから、一般の人々にはわかりません。一歩先の生き方であるならば、例えば環境を良くする生き方や正しい健康な食べ物を作るということであるならば、社会からは評価されるかもしれません。しかし、この生き方の必要性はまだ人々には観えません。ただ、本当に大切な生き方をする人たちは、観えないことでも信じて行くものです。」

私がそのときに描いていた未来は、みんなでお百姓をして地味に山の中で暮らすというイメージでした。ただ、私には、この生き方を世界に向けて発信しなさいという天からの命があったのです。それから5年経ち、10年経ち、25年経っていくと、創立当初にはまったく想像もできないようなことに出会う連続でした。そして、今の生活があるのです。25年前、富士山麓へ出発する前に、私はみんなにこのように伝えました。

「私を信じて、行ってはいけません。私は皆さんの将来を保証できません。ただ、大変なことがあったら一緒に苦しみます。決して逃げません。そして、私の言うことは変わっていきます。だから、今を信じるのではありません。約束できることは、私の言うことは変わっても、必ずこの延長線上にあることは確かです。約束できることは世の中のために生きることです。」

ですから、私が語ることは、常に私の中に新たなことが湧いてくることを新鮮に語るだけです。

現代人の極めて問題なところは、「自らが納得したら行動する」ところです。そうすると、その意志は常に自我の中にあり、自我を超えることはできないのです。私が今、お話ししたのは、何かをわかってお伝えしているのではなく、私に与えられた宇宙的情報を情報として伝えているだけです。

そして結論としては、あなたがおっしゃる通り、人類は今まで核家族化し、その生き方が小さく分かれてきました。それがもう一度、今度は群れになるということです。過去の人々もそうでしたし、自然界にいる動物たちも群れで生きています。それは、生きていく上でとてもいのちに優しい生き方です。ただ、今お話ししたように、過去に還ることは一切ありません。過去を取り入れてそれをまねして創るということもありません。こういった歩みはすべて、進化の延長にあることです。

 


ジイジにこの質問をした女性は、今回の木の花ファミリーでの滞在を振り返り、座談会の最後に次のようにコメントしました。

中国人女性:
まず、ルイーザさんに感謝します。それから、ここにいる全員に感謝します。
私は突然42歳の時にシュタイナー学校と出会い、そしてシュタイナー学校の教師を7年間勤めました。その間に、宇宙からの小さなメッセージが心に湧いてきました。最近、教師をやめた方が良いと考え、将来は土に近い生活をすることを考えています。今回、初めて木の花ファミリーに来たのですが、最初は家に帰ってきた感じがしました。

ジイジ:
「ふるさとに帰ってきた」「我が家に帰ってきた」というように、ここに訪れたことを懐かしく思う人はよくいます。

中国人女性:
それから理論的なものに触れたとき、涙がどんどんあふれてきました。コンサートでの歌やダンスから、とても高い意識を感じました。今は心から土に触れる生活が必要だと感じています。そしてそれを今、現実にやっている人たちがここにいるのです。私は必ずまたここへ来て勉強したいと思っています。

ジイジ:
あなたからはそのような宇宙的なものを感じます。シュタイナーの思想に出会ったのは、あなたの人生に必要なプロセスだったのでしょう。そして今、この機会を得て、あなたの人生の次の段階に行くのでしょう。あなたがここに来て懐かしく感じるのは、地球が私たちの住処であり故郷だからです。私たちがここで感じて生きていることと同じことをあなたは感じるから、懐かしく感じるのでしょう。

これは、誰か特定の人にではなく、地球上のすべての人々にお伝えしたいと思います。私たちは、本当に生きるべき生き方を取り戻さなければなりません。地球全体の人間からしたら、例えば中国人全体の人口からしたら、私たちの数は少ないかもしれませんが、どんな出来事も、一人の行動から始まるのです。私たちは地球という共通の家に住み、あるいは共通の宇宙船に乗って宇宙を旅しているのですから、これからも共に活動していきましょう。みんな家族なのですから。木の花ファミリーのファミリーはそういう意味なのです。ありがとうございました。

 

 


セントラルサン、そして地球に生きる全ての人へ 〜 富士山麓からのメッセージ

私たちの生きる現代社会をひも解いてみると、人類の営みは今や地球規模に広がり、この世界を支配しているかの如くに見えます。しかしながら、その人類の存在は、この地球世界に健全なる秩序をもたらしているとは、とても言い難いものであります。人々は個々の自我から湧き出す欲望を満たすために、互いに争い、奪い合い、格差を生み出す未熟で貧しい世界を創り上げている現状があるのです。
本来、地球生態系とは、多種多様な生命が調和し、共生する、豊かな世界を表現するものです。そのような世界において、現代の人間たちが求める豊かさは自我の願望を叶える方向へと進み、すべての生命が調和し美しくあるはずの世界へ、無秩序をもたらすこととなりました。それでもなお人間は、自らの自我の求める方向へと歩みを進めることに何ら矛盾を感じることなく、今なお進み続けています。
地球の歴史を振り返ってみても、さらには宇宙の成り立ちを感受しても、そのような一方的な歩みのもとに秩序がもたらされることはなく、また、世界の現状を観れば、このまま継続して社会が成り立つことはあり得ないことが、そろそろわかり始めています。そこで、そういった現状の人類のあり方に憂いを持つ者として、未来に対する懸念からメッセージを送るものであります。

私たちは、今から25年前に、富士山のふもとに木の花ファミリーを創立し、その志を実践する歩みをスタートさせました。それは、現代を生きる多くの人々の意識では、不可能とも言える暮らしです。当時、これから何を目的とし、どのような行動をしていくのか、そこに参加した者たちですら、誰も理解していませんでした。私たちをその行動に駆り立てたのは、思考を巡らせることではなく、直観と信頼だったのです。
この歩みの発起人である私は、それまでの霊的な出会いと直観から来る「これを自らの人生の大目的としてやらねばならない」という何の裏付けも根拠もない思いから、この暮らしをみんなに提案しました。それに対し、その私に出会った創立メンバーたちは、ただ信頼のもとに、何ら保証のない道を歩み始めたのでした。その原動力となったのは、心を正し、美しい心で生きるという、一貫した姿勢です。美しい心を持って人類の未来、そして地球の未来に対応しなければ、人間はいずれ、地球上に存在する意味を問われることになるでしょう。しかし現代を生きる人々の多くは、そのことに気付けない意識の状態になっています。だからこそ現状の社会の行き詰まりがあり、社会の実態を観れば観るほど、それは明快に観えてくるのです。

そこで、私たち人間は、次の時代をどのように生きるべきなのでしょうか。
近代の人間社会を観ると、人々は法律や制度のような人間都合の仕組みを創り、その場を構成する人々の思惑のもとに築き上げた縛りの中で、秩序を保とうとしてきました。しかしその仕組みは、人間よがりであると言えます。即ち、もう一回りも二回りも大きく広い視点で観ると、この世界の実体は、太陽系、さらには銀河のような、巨大な宇宙の法のもとに地球が存在し、その地球の法のもとに生命生態系が存在しているのであり、私たち人間もその法に倣い、同じ法のもとにあるすべての存在と共生することによって初めて、人間社会の秩序が持続可能なものとなるのです。
残念ながら、これまで人間たちをリードしてきた、人間の欲と思惑によって選ばれたリーダーたちは、そういった世界の根本的な仕組みに気付けない精神状態となっています。だからこそ、彼らは今の時代のリーダーとして相応しいのでしょう。それは、地球の現状をこのような切り口から分析していけば明快に理解できることですが、そのような思考回路がない状態に、現代のリーダーたちは陥っていると言えます。そして今の社会の状態は、決して一部のリーダーたちの意識によって現象化しているのではなく、現代を生きるすべての人々の集合意識によって創られているのです。

そのような中、ささやかではありますが、25年前に、先行きがまったく見えずどこへ向かうのかもわからない人々が、ただこれからの時代にその生き方が大切になるということを感じ、血縁を超えた人々が共同する暮らしを始めました。この歩みに対するかすかな勘だけを頼りに、そしてその勘すらも持ち合わせていない者は、ただ互いの信頼だけを持って歩み出し、今日までやって来たのです。その暮らしの最も大切な柱となった理念が、心を美しくすることでした。人間であるが故に自我が優先し、その自我から生まれる汚れが出るたびに、メンバーたちはそれを問い、吟味し、磨き合ってきたのです。それは、現代社会を生きる多くの人々にとっては、当然ながら苦痛とも思えることでした。ですから、理想は高くとも自らの現実に向きあえない人々は、このような暮らしへ参加することに限界があり、脱落することになりました。そういった人々に限らず、現代を生きる多くの人々にとって、自我を超越し、自らの内に存在する真我を呼び覚ますことは、容易なことではありません。しかし、人間の存在の起源は神聖なる生命であり、生命としてそれが最も重要であることは、何人も自らの内にある本質として知っているのです。
人間は、他の生命にはない、多彩で個性的な自我を与えられています。自我は、世界に多様性をもたらすのです。人間が自我を与えられた真の目的は、その多様性をもって世界を豊かに表現することにあります。一人ひとりのオリジナルな個性は、そのための役割として与えられているのです。しかし、人間はその独自の進化の歴史の中で、自我がもたらす多様性によって豊かさを表現するのではなく、自我から湧き出す個々の願望を叶えようとする方向へ進み、それぞれが求める幸せを追求した結果、多様であるがゆえに世界に不調和をもたらすこととなりました。そういった人々の欲の延長に選ばれたリーダーたちがどんなに国を豊かにしようと思っても、人間のあり方を根本から見直さない限り、幸せを求める心のボタンの掛け違いが現状の社会の混乱を起こしていることに気付くことができず、生命としての正しい秩序を世界にもたらすことはできないのです。
木の花ファミリーの暮らしが今日まで続いてくることができたのは、一人ひとりが自らの心を美しくするという目的の柱があったからであり、その背景にあるのは、高い意識の精神性 ─── 即ち、愛と信頼です。この世界の大本は、愛による美しい調和から成り立っており、これからの時代においては、その成り立ちに沿ったクニツクリをするべきなのです。

そのために、高い意識の優れた道理を語れる者とならなくとも、ただ正直であり、素直であり、自らの損得を元に思考を巡らせるのではなく直観にゆだねて生きていけば、この世界の実体である美しい世界へと至らしめることができるのです。なぜならこの世界はもともと美しく、ただ人間が自らの欲によって、それを汚してきただけであるからです。今、いよいよ人間が自らの優れた能力を、大本より求められている目的に向けて発揮するために、野心を捨て、真に美しい世界を創る時が来ているのです。
真実は、私たちは自らの力によってこの世界を生きているのではなく、宇宙の大いなる仕組みの中で命を与えられ、生かされているのです。ですから本来、私たち人間は、自らを生かしている世界の側の意思に沿って生きる存在であり、自らの側から湧き出す願望を叶える立場にはいないのです。その精妙なるメッセージを受け取るためには、自らの思考回路のもとにある精神を美しく磨き上げなければなりません。そのような状態に至れば、天体が私たちに、どう生きるべきかを伝えてくれるのです。その天の命(めい)を受け取り、自らの生き方に反映していく。それが地上を生きる本来の人の姿勢であり、生きるとは、天命の表現なのです。
現代の人間社会にも、共同体の形を取る場は数多くありますが、個々の自我を満たすことがその場の目的になっている限り、自我は増幅し、いずれ矛盾を発生させます。その状態になると、場を継続させることは不可能となります。過去の宗教のように、ある特定の囲われたエリア内で継続していくことは可能であったかもしれませんが、それは特殊な世界であり、一般の人々は受け入れないものでした。だからこそ今、開かれた目覚めが求められています。視野を広げてみれば、地球も宇宙の中では特別なエリアであり、ひとつの共同体です。地球上に生命として生きる私たち人間はそのことを悟り、天の命を受け、それを物理性として地上に表現した時、地上に美しい世界がもたらされることでしょう。それが地上天国です。それが宇宙が私たち人間を地上に降ろし、託した目的なのです。

私は今、湧き出す想いを天に向かって「肉体人間の立場を取るものが、やっとその意思を気付きとして語れるようになりました」と発信しています。それは、宇宙から託されたものを人間の真の目的として成し遂げるという宣言であり、その宣言は、銀河運営センターであるセントラルサンに向かって発信しているのです。それが、もともと天から降りてきた人が地上に生きる上での本来の姿勢です。
人がそういった意識レベルに到達すると、霊的な気付きは物理性となって自動的に表現されます。そうすると、天地の間には多少の誤差が発生する時を迎えます。そのことが理解できない人々には、宇宙は混乱、無秩序、対立、破壊といった現象をもって伝えられることになるでしょう。これから確実に、私たち人間にも、そして他の生命にとっても、厳しい時代が地球上に訪れます。これまでの人類の数々の行いの結果、今や地球上には様々な矛盾の現象化として物理的及び霊的なゴミがあふれ、本来美しく豊かであるはずのこの星は、宇宙のごみ溜めと化しているのです。本来、宇宙にゴミは存在しません。なぜならば、すべてが留まることなく循環し、常にプラスとマイナスの対向発生により、繰り返し矛盾を解き放つのが宇宙の仕組みであるからです。もしもその矛盾の発生源が私たち人間であるならば、その矛盾の解放と共に、発生源である私たち人間も淘汰される対象となるのです。ゴミとは、本来の自然の循環から外れた状態だということであり、人間もその矛盾の発生源であるならば、自ずと不要なものとなるのです。木の花ファミリーでは、心を磨き、古の叡智であるカタカムナの物理性を生活の中で実践することにより、世界観(物理性及び霊性)を広げ、自らが媒体となって宇宙の法を現象世界へと引き出し、プラス過剰となった現在の地球の状態をリセットする作業を意識的に行っています。そのような現象世界の矛盾を解放する行為を物理的に行うことができる能力は、唯一人間だけに与えられたものです。その能力は、その意識レベルに到達した精神性を有する者に自ずと現れます。そしてその精神性の大本は、宇宙の霊性にあるのです。

これまでの人類は、霊的見地からの物理的探究が不十分であるがゆえに宇宙の実体を理解できず、物理性のみをベースとして宇宙をひも解いてきました。その結果、今、物理的探査が進み、科学を通してより正確に宇宙を観察できるようになりました。生命についてもまた、科学を通して探求し、その科学的視点に霊性を照らし合わせて観ることによって、人間の存在の意味が垣間見えるようになってきたのです。
しかし、どれほど科学が進歩したとしても、最終的には、この巨大な宇宙を我々物理的人間が科学によって解明することは不可能です。宇宙の実体は物理的宇宙の奥にある、霊性にあるのです。私たち人間の本質も霊性にあり、その霊性をもってこそ、宇宙を解明することが可能となるのです。そういった意識レベルで宇宙の総意を感受し、そこからこの世界の実体を自らに降ろすことにより、宇宙が何ものであるかが明快になってきます。そのような状態に人の意識が至れば、私たちは宇宙の意思と共に生きることができるようになるのです。つまり、私たち肉体人間は、物理的にはこれほど小さな存在であっても、宇宙そのものとして生きることが可能となるのです。そしてその意識レベルに到達した魂は、いずれ肉体という小さな物理的枠から解き放たれた時に、この世界に遍満するものとして宇宙と合一することになるのです。

地球に生きる私たちは、日々の中で様々な物理的現象に出会います。それは、その現象からきめ細やかな学習の機会を与えられ、生きているということです。そこで自らの思惑から外れたことに出会えば、その未熟さゆえに、人間は悲しみ、怒りもするものです。しかし、宇宙の法とは因果応報であり、輪廻転生であり、常に新陳代謝を繰り返す永遠なる循環の世界です。その中で特定の状態に執着する思考を持っていれば、循環の中に滞りを生み、宇宙の意思から外れていくのです。その囚われから、人間はどれだけ自らを解放することができるでしょうか。
何人も、世界の現状を自らと切り離して捉えるのではなく、自らのあり方が世界の現状を創っていることに責任を持ち、謙虚な姿勢で生きることの表現に取り組んでいかなければなりません。これまでの人々は、問題ごとに出会えば自らを差し置いてその問題ごとに怒りを向け、批判をする立場に立ってきました。けれども今私たちに必要なことは、怒りや批判ではなく、宇宙の中で私たち人間がどのような存在であるかに気付き、自らが謙虚に生きることなのです。
そのような意識レベルに到達した時、私たちは、この世界がすべて愛でできていることを、知ることとなるでしょう。私たち木の花ファミリーは小さな存在ではありますが、これは地球の未来に向けた、宇宙秩序に基づく生き方の実践です。宇宙の成り立ちがそうであるように、地球の生態系に表現されたその尊い宇宙の奇跡を、そこに生きる私たちは、ふさわしく表現していかなければならないのです。

 

目覚めよ。
その目覚めが、宇宙の奇跡である地球と共に、人類が尊き存在として歩むことにつながることを願って ──────

 

 

 


「大正直」から「大調和」へ ~ 新時代「令和」を読み解く 2

時代が「令和」になって数週間が過ぎたある日、ある若いご夫婦が木の花ファミリーを訪れました。奥さんはかねてよりファミリーをよく知っており、お坊さんであるご主人にも紹介しようと一緒に訪問したとのことで、見学ツアーやウェルカムコンサートを体験してご主人も感銘されていた様子でした。そしてその日の夜の大人ミーティングで、ジイジはこんな話を始めました。


ジイジ:
お坊さんは、長年の慣習の上に乗り、今の地位を保っています。それは本人の実績ではありません。ですから、その姿勢で生きていると、どこかに矛盾が発生します。これまでは職業としてそれで食べていければよかったのですが、時代が変わり、一人ひとりの生き方が問われるようになると、これまでのような在り方では、自らの内に疑問が発生します。
現代のお寺の在り方では、これからの時代を生きる人々に、生き方を提案することはできません。人々の心の問題も解決できません。今日ここを訪れたお坊さんは、お寺は今や葬儀のためにあるようなものですと話していました。精神的な活動もするものの、基軸が伝統の上に腰かけているわけですから、斬新さがないのです。そのお坊さんも、どこかでそれをわかっています。わかっているからこそ、「これが正しいのだ」と思い込まないとやっていけないのです。そうでなければ、挫折するかのどちらかです。
お寺では、人間はどのように生きたらよいのかということに対し、その教団の過去の実績という限定された世界から答えを出そうとするので、無理が発生します。それでは画一的な解決策になってしまいます。これからは、宗教が示すような解決策は通用しなくなるということを、僕はずっと語ってきました。一人ひとりの人間が出会う出来事は、それぞれにオリジナルなものです。宗教は、そういったものにも対応してきたかのように思われていますが、一人ひとりそれぞれに違う問題ごとに対し、マニュアルを設けて解答を出しているようなものなのです。マニュアルを出しているようなものでは、解決策は見出せません。では何が解決するのかというと、開眼です。目が開くということは、一人ひとりがそれぞれの中に眠っているものを目覚めさせるということです。一人ひとりの実体は、それぞれにオリジナルな目覚めを促すために用意されているのです。

生きていると、外からたくさんの刺激が来ます。明治、大正、昭和、平成、そして令和と時代は移り進んできましたが、いつの時代も同じ刺激が来ているわけではありません。昭和の初めのころは、まだ日本は世界の大国に追いついていませんでした。しかし見栄を張るように無理をして軍事力を強化し、その盲目な判断が大東亜戦争につながりました。
その後、戦争に負けて自分たちの愚かさを知ったと同時に、日本人の高い能力、即ち精神性を完全に失いました。それは大和魂の喪失です。そして西洋物質至上主義にかぶれていきました。中国でも、共産主義によって東洋の叡智が失われました。共産主義は中国の人々の伝統的な誇りを奪い、日本人は戦争に負けたことによって大和魂を失ったのです。戦争でゼロ戦に乗ってアメリカの軍艦に飛び込んでいくのは、大和魂とは言いません。本来の大和魂とは、そのように命を粗末にするものではなく、争うことを避け、真実の探求のもとに大調和の精神を養うものなのです。それを日本人は失ったのです。

何かを失えば、何か代わりのものを見つけなければなりません。それが西洋物質文明でした。精神的支柱を失ったところへ、欲望をくすぐられ、人々は柱のないまま、与えられるままに「これが正しい」と向かっていきました。共産主義によって本来の精神を奪われた中国も、日本と同じように代わりのアメをもらったようなものです。改革開放によって欲望をくすぐられ、今も強大な国になろうとしていますが、その精神は西洋的な覇権主義です。
日本も、中国も、他の東アジアの国々も、西洋的覇権主義の汚染から未だ抜け出せずにいます。しかし時代は、800年間の隆盛期を終えた西洋文明が停滞期へ入り、東洋精神文明が花開く時代に入りました。ですから、そういった借り物精神の上に国を築き上げてきた日本や中国では、より多くの矛盾が起きています。アメリカやヨーロッパでも矛盾は起きていますが、それは元々の西洋文明が熟した上で発生しているものですから、ある意味当然のこととして定着しているのです。しかし、日本や中国のような東アジアの国々の西洋的発展は、人々の精神的成り立ちに馴染まないために、西洋に現れている矛盾よりも、より過激なものとなって現れるのです。

そこで今、僕は何を伝えようとしているのでしょう。
多くの人々には、新しいものが信用できない背景に、古いものに固執している習性があるものです。これまでの時代は、技術革新でも社会改革でも、新しいものに飛びついて物事を進めてきました。しかしそういったものに確信が持てなくなると、今度は単純に古いものに解決策を求め、また宗教回帰のような動きが起きているのです。ですから今、日本だけでなく西洋でも、お寺で瞑想するなどの修行的な行が流行っています。しかし、それでは根本的な解決策を見出すことはできません。それは過去のある時点でのレベルで通用するものでしたが、時代が未来へ向かって進化していく中で、そういったものはもはや通用しなくなり、結果を生み出すことはできません。ところが現代人は、未来への見通しが立たないために、過去へしがみついているのです。
視野を広げて時代の変遷を正しく捉えれば、宗教の歴史は3000年余りの歴史にしかすぎません。太陽の1らせんは25800年です。人間の歴史は400万年です。地球の歴史は46億年です。そういった尺度からすれば、宗教の歴史は一瞬のことなのです。過去に戻り、それで安心しようとしてはいけません。それは単に、自分の心が納得できる理解の範疇で、落としどころを探し求めているにすぎません。

僕は難しい話をしていますか?それは、今朝、重要なことがあったからです。それをすべてみんなに伝えようと思っても、みんなはまだ受け取る心の準備ができていませんから、みんなにも理解できるように話します。

2012年12月21日に銀河の冬至を越え、太陽の1らせんである25800年のサイクルがひとつの区切りを迎え、次の段階に入りました。有史と呼ばれる地球上に表現された人類の文明の歴史は、その1サイクルの1/4の6450年です。それ以前には、人々は自然と共に生き、文明と称されるような記述はありません。そして、25800年の1/4を経た現代文明の物質的発展はピークを迎え、人類の精神性が闇のピークを迎えた今、私たちはその歩みの軌道修正に入ったのです。
軌道修正をするとは、生きることへのエネルギーの使い方が変わることです。25800年のサイクルを終えて次のサイクルに入るということは、元へ戻ることが始まったのではなく、次の段階のサイクルへ進むことなのです。そしてその軌道はらせんを描いているのですから、直線のように進んで急に方向転換するのではなく、常に軌道修正をしながら進んでいるのです。ですから、伝統を重んじ、語ることは大切なことですが、それを真実として固定し、直線的に進み続けることは、時代の流れや変化に基づく進化とはずれていくものです。今日ここへ来たお坊さんはまだ若いですが、既に限界が来ていることをどこかで感じているのでしょう。だからこそ、「自分の道はこれでいいのだ」と自らに思い込ませるために、かえって言葉が強くなるのです。その響きを、一緒に来た奥さんは日々の生活の中で感じているから、「お寺にいると気持ちがもやもやしてくる」と言うのです。簡単に言うと、お坊さんは頑固者になってしまっているということです。

これは仏教だけの話ではなく、現代に存在する様々な宗教にも共通する話です。宇宙的には、宗教の時代は、それが必要とされた時代の余韻は未だに残ってはいるものの、既に終わりを迎えています。そこで私たちは、どのように次の時代を迎えるのかが大切なのです。縁あって出会った聖人の教えに則り、何百年も何千年も同じことをやっていては、古くなるに決まっているのです。
これからの時代は、一人ひとりが天と直結した信仰のもとに、自らの進む方向を見出していく、そのために一人ひとりが自らの存在する意義に目を覚ます時代です。宗教が果たしてくれた役割は終わりを迎えますが、私たちに信仰は永遠にあり続けます。それは、信じることの対象が変わるだけなのです。しかし現代の人々には、そのことがなかなかわかりません。なぜなら、自ら考えて判断をしないことに慣れてしまっているからです。考えなくてもいいように法律で縛られ、宗教で縛られ、教育で縛られ、マスコミの情報に操られ、いかに考えなくてもいいように現代人は仕向けられてきたことでしょう。考えなければ、自然界の動物や植物のように、無の境地において、世界に害をもたらすようなものではなくなるのかと言ったら、人間についてはそれも違います。では、考えないように仕向けられると何が起こるのでしょうか。それは、与えられる情報のままに、与えられるもののままに、何も考えず、欲に囚われ闇雲に生きていくのです。
その欲は自我を増幅させ、目覚めることから人々をより遠ざけます。こういった現象をもたらすものとして、宗教も例外ではないのです。これが、現代社会の奥に仕掛けられている、何者かによる罠です。その罠に、現代の人々ははまってしまっています。そしてその罠は、誰か一人がいい思いをするために仕掛けられているのではありません。人間であることの限界を超えるための定めなのです。地球人間であることも超え、宇宙人間である意識レベルに到達した時に、人々はその罠から抜け出せるのです。

僕は現状の人々の姿を観ていると、嫌になることがあります。しかし、人であることの重要な目覚めの時は、熟しているのです。今のあなたにとって「これが絶対だ」と思うものを、捨てなさい。これをやったら救われる、などというものを、捨てなさい。そしてどうするのかは、自らの目を開けることです。
みんなは、頭を使うことを損だと思っていませんか?そして、物事を集中して観ていない。集中して観ないから、いい加減な状態でもそのまま進んで行けるのです。だから僕はみんなに、「脱いだ履物をそろえなさい」と言うのです。
外国の人は、履物をそろえません。それは振り返る気がないからです。(この時、メンバーの一人がテーブルの上の水筒を倒して大きな音を立てました。)ああやって話の最中に大きな音を立てることも、本当は振り返らなければなりません。そのように流れを壊す自らの人間性を観る必要があるのです。何だか細かいことをいろいろと言われて嫌だな、と思うでしょうか。しかしそのくらい丁寧に互いを観合うことで、自分自身の本当の姿が観えてくるのです。

この世界は、運命共同体です。地球上に起きることはすべて、自分自身に対してのメッセージです。こんなにも地球を汚しておきながら、それを他人事にしておけるわけがない。それは環境問題で議論するようなこととは違う話です。
人間のスケールが大きくなり、個人から地球人、さらに宇宙人という意識になれば、地球がいかに奇跡的な存在であるかということがわかり、それを汚すような愚かなことはしなくなります。それは当たり前の話です。しかし環境活動家は、その当たり前のことを言って、自分たちは偉いと思っています。そのくらい現代人は意識レベルが低いのです。さらに、環境意識のない人々は、その当たり前のこともまったくできずに地球を汚しながら、それでいいと思っています。
そういったことが理解できると、何がやっていいことで、何がやってはいけないことなのか、ここではどうすればいいのか、ということが観えてくるはずです。

ありがたいことに、日本では、家に上がる時に靴を脱ぐ習慣があります。外で土を踏み、帰ってきて玄関から家の中へ上がる時に、靴を脱ぐでしょう?土を踏む場と生活の場が分かれているのです。そして家に上がった時に振り返ると、自分の脱いだ靴がどうなっているのかが見えます。そこに観えるのがあなたの人間性です。それは過去を観ているということです。自らが脱いだ靴の状態を観て、自らの過去を振り返り、自分の姿勢がどうであったかを判断していくのです。
では過去を振り返らなくても靴をそろえれば過去が正されるのかというような、愚かな考えをする人がいますが、そういうことではありません。靴をそろえるのは、自らの過去を振り返る姿勢があることの証でなければなりません。その行為を通して、今日一日の自分がどうであったかを振り返り、姿勢を美しく整える。それをいつも忘れない。令和には、そういったことが示されています。揺るぎがなく、筋が通り、美しい。そして次のステージへと進むのです。家から下りて靴を履く時も同じです。きちんとそろえられた履物に向かう時、これから進む未来に対する姿勢を整えるのです。それをいい加減にやっているとしたら、それがその人の人間性です。
子どもたちはまだそのことがわかりませんし、逆に言えば、子どもたちがだらしなく靴を脱いでいたら、そこにいる大人の人間性が反映されている結果ですから、子どもたちはその行為を持って大人に教えてくれているのです。そのいい加減な子どもの姿勢に対し、何も言わない大人がいる。子どもは鏡ですから、大人がだらしなければ、子どももだらしなくなります。その状態を問題だと思う意識が大人になければ、子どもはさらにひどくなって、さらに大人たちに教えることになるでしょう。

現代は、生の情報を肌で感じ、自らの頭で思考して未来に向けてのプログラムを組み、自信を持って確実に歩んでいくということができなくなりました。情報はすべてパソコンやスマホから仕入れ、便利で豊かになったようですが、人々の生きるための生命力センサーはどんどん退化しています。
今は5月ですが、これから夏に向かうにつれて、また世界中に災害が起きてくることでしょう。それは自然の問題で、自分に問題があるわけではないと多くの人々は思っています。しかし、それはすべて、履物の話と同じなのです。履物が散乱しているのはその人の人間性の現われであるように、病気になるのも、その人の人間性です。災害が起きるのも、今の人類の人間性の結果なのです。そういったことを緻密に観て、しっかりと振り返り、改めて、先へ進むことが大切なのです。

そこで大切なことは、常に新鮮な出来事に新鮮な心で向き合い、自らの枠に囚われず、物事の実態を冷静に捉え、進化につなげていくことです。これまでは、過去のものを実績として積み重ねていくことが大切な時代でもありました。過去から学ぶことは大切なことです。しかし、そこで過去に執着したり、特定のものに正しさを求めると、古びたものに真実を固定してしまうことにもなります。正しさとは、未来に行って与えられるものなのです。
その時に、まだ来てもいない未来のことで結論を出してはいけません。わかるはずがないのですから。まずは今、自らが行うべきことをする。そうすれば、それにふさわしい答えが未来に結果として与えられます。宇宙や地球の仕組みは、常にその答えを返してくれるのです。自分で結論を出すのではなく、今やれることに最善を尽くし、その結果を未来に受け取っていく。それがこれから求められる地球上での人間の立ち位置です。

今、地球上に聖者はいません。しかし、人間は本来誰しもが、優れたものとして地球上に生きることができるのです。本来、そのために人間は地上に降ろされたのです。これまで、過去にどんなに優れた人が降ろされていたとしても、結果として人間たちは今、地球のガン細胞のような存在となりました。ですからその証として、現代に優れた人はいません。本当に優れている人ほど、自らの実力のなさが今の地球の現状を招いたのだと、謙虚に振り返っているはずなのです。
お坊さんたちは、もっと自由な生き方をしたらいいのです。僕の田舎のあるお坊さんは、僕が田舎へ帰ると会いに来て「偉佐美さんは自由でいいですね。私は職業としてこの道を生きていますから、道が限られているのです」と言うのです。しかし、僧侶であるからこそ、娑婆のしがらみから離れて仏の道を自由に歩める存在であるべきなのです。むしろ私たちこそ、娑婆にいて、しがらみに縛られているのに、何を娑婆の人間を羨んでいるのでしょう。
「家がお寺だから僧侶にならざるを得なかった」というのは、ならざるを得なかったのではなく、そういう決断をした自分がいるということです。それだけ親や家に囚われているのです。過去のしきたりを守ろうとするのは囚われであり、自らの魂を濁らせます。
仏教の中でも禅宗では、座禅を組み、自らを無にしろと言いますが、思考を無にしようと思えば思うほど現実逃避になります。だから迷いはさらに増すのです。そして求める一方になります。それは今の宗教の信者たちと同じです。何かいいことはないだろうかと、自ら考えずに求めるばかりになるのです。

この暮らしは、僕が言い出したことから始まりました。そこに集った皆さんは、それに便乗するために来たのでしょうか?僕が最も問いたいのはそこです。便乗するためにここに来たのであれば、それはこの暮らしの求める在り方とは違うのです。過去の経典や誰かの教えにすがるのでは、学校の勉強と同じです。一人ひとりが自らの足で立ち、オリジナルの道を歩むのが、ここの生き方なのです。
では、それが未だ不十分なここに暮らす人たちは、レベルが低いのでしょうか。一般社会で暮らす人々は、現代社会の価値観に汚染されている状態です。しかし、そういった中に紛れて暮らしていると、汚染されていることがわからないのです。こういった一般社会とは違う価値観の場所を訪れると、どのくらい自分自身が汚染されていたのかが観えてきます。今、ここに暮らす人たちは、僕に便乗はしていても、自分自身には汚染されていません。お金も時間もプライバシーも、ここの人たちはすべて共有しています。その状態に生きるには、相当意識レベルが高くなければできないことです。
もともとは、お坊さんたちもコミュニティで暮らしていました。しかし、やがていくつもの宗派に分かれてそれぞれの理屈をつくり、今ではお坊さんであることが飯のタネになってしまいました。それでは一般社会の人々と同じです。ですから、現代のお坊さんの魂は優れているとは言えません。
本来僧侶とは、一般人にはできない生き方をする人々だったのですが、今は一般人からも求められる存在になってしまいました。昔は「乞食坊主」などと言われて何も持たずに托鉢で生きていたように、普通の人々にはできない生き方をしていたからこそ、優れた存在だったのです。今は、お坊さんは優れていると讃えられ、良いことの教えを伝える立場に立っています。それは、一般人にとってわかりやすい話です。わかりやすいということは、それだけレベルが下がったのです。

真理は、常にわからないものです。では、そこへ向かうためにはどうしたらいいのかというと、自らを保つことを手放し、わからないところへ進むのです。僕の言っていることは、わからないでしょう?でも、わからなくてもいいのです。僕には観える景色があるのですから。

さて、ここからが本題です。
今朝、夢を見ました。そして目が覚めてすぐ、その夢を振り返りました。
夢の中で僕は、何かを語っている人を見ていました。その場は、コミュニティの中です。コミュニティの中の人々が、一生懸命何かを語っているのです。その空気感は、僕が記憶している限り、初めて出会うものでした。僕には現世以外の記憶も、そして地球規模を越えたスケールの記憶もありますが、それも含めたすべての記憶の中で初めての空気感に触れたのです。
その空気感が、我々の日常であるコミュニティの生活の中に表現されていました。その時僕は、人間社会にもこのような境地が表現できるのだ、と思いました。「突破できる!」その確信を持ちました。

これまでどれだけ、現状を突破できないことに試行錯誤してきたことでしょう。それを突破できる道筋が観えたのです。それで「よし!」と思い、目が覚め、その場にいた人たちに今見た夢の空気感を伝えようと、言葉にし始めたら・・・・・その響きが表現できないのです。目覚める瞬間まで感じていた空気が、その空気感を言葉にしようとすると、表現できないのです。その空気とは、おそらくこれから私たちが到達し、体験するものです。そうなるかどうかは約束はできませんが、それを私たちは目指しているのです。
その空気を、感じられたのに、言葉に表せない。しかし今でも、僕には確かにその響きを感じた記憶があります。ですからこの事実は、伝わらなくても、語るべきなのです。

皆さん、時代は既に、次のサイクルに入っています。いつまでボケているのですか。そのことがわからないという人に「わからないからダメだ」とは言いませんが、わかろうとする意志を持つことは、誰もができることです。わかろうとしない自らの姿勢に向き合うことはできるのです。

「簡単なこと」です。大調和という大和の心を呼び覚ますために私たちがするべきことは、「大正直」です。

私たちの創るこの場は、正直がモットーの場です。コミュニティ外の人々がいる場でも、お金のことでもプライバシーのことでも、どんなことでも正直に話し合います。しかし、さらにその先があるのです。
私たちは、ものと対話する時に正直でないことはあまりありませんが、人と対話する時には、自らの心の中で思ったことを出さないことが多くあります。中にはほとんど出さない人もいます。それでは心は濁ります。
どんなに言い辛いと思っても、すべて正直に出す。それを笑って積極的に取り組める。こういった人と人の距離が近い暮らしの中で「本当はこうなんだよ」「本当はこうなんだよ」とみんなが出し合い、やがて「本当は」と言う必要がなくなって「こうなんだよ」「こうなんだよ」と出すようになり、そのうちに「こうなんだよ」とも言う必要がなくなって、言葉にしなくとも顔を見ただけでわかり合うようになる。やがて人々は、心の中で思うことを、その人の姿勢ですべて表現できるようになるのです。
そこで僕は自分自身を振り返りました。僕は何か心の中にあって出していないものはあるだろうか。そう思って自分自身の心の中を観てみると・・・・ありません。気付いていないこともあるかもしれませんからゼロとは言えませんが、95%は出しているでしょう。しかし多くの人は、95%出していないのではないでしょうか。それでは通りの良い世界はできません。

厳しい修行などいらないのです。ただ正直に生きることで、心が解放されれば、ことは自ずと整い、ものを言わずとも通じていくようになります。
今朝、この話をその場にいた二人の人たちにした時には、通りが悪いと感じました。なぜなら、人数が少なかったからです。しかしこの大人ミーティングの場で語ると、もう少し理解が進む感覚があります。しかしそう言うと、みんなはいつものように話を聞いて「なるほど」と満足し、この場が終わればもう忘れて、その大事を実践しないでしょう。
それを実践するには、真剣な努力が要ります。つまり、自らの中に出していない、相手から隠している心があるということに気付かなければなりません。みんなクセのようにそれを持ち続けているのです。
正直を出して失礼なことはありません。それは自分の目から見た真実だからです。そして自分の目が歪んでいたら、相手や現象が正してくれます。それが人生で与えられた修行の意味です。何も座禅を組んだり経典を学ぶ特別な修行をする必要はありません。誰でも、人生という場で、完璧な修行を与えられているのです。脱いだ履物は、私たちにそのことを教えてくれているのです。

今朝僕が夢で感じたものは、20世紀から30世紀にかけての千年紀を生きる人類にとってとても重要なものだと、僕は感じました。その場をあえて例え話で表現するとしたら、ロータスランドでスタッフがお客さんから注文を受けて、出来上がった料理を持っていくでしょう?そしてお客さんの前に料理を置いて、「これはうちで無農薬で育てたものです」「これはうちで育てられなかったので、どこどこのお店で何円で仕入れました。利益率はこれだけです」と説明し、お客さんはそれを全部わかって食事する。顔色の悪い人がいれば「お客さん、今日は顔色が悪いですね。何か心に問題がありませんか。自然療法プログラムを受けて自分の心を見直したらどうですか。」大食いをする人には「そんなに大食いしたら体に悪いし、地球も喜びませんよ。みんなが健康に生きるのにちょうどいい量を地球は与えてくれているんですから、そんな食べ方はやめましょう。」無駄遣いをする人には「いくらうちが安くていいものがそろっているからといって、そんなに無駄遣いをしないで、家のローンの返済にあてた方がいいんじゃないですか。」そんなふうに、スタッフが正直に話しかけている。(みんな:笑)そんな店があったらいいでしょう?

みかこ:
今の話を聞いていたら、『むかしむかし』の歌の歌詞を思い出しました。

こころですべての いのちたちと 自由に話していた
かつての日々へ わたしたちは またかえってゆく

ジイジ:
いつの頃だったでしょう。まだこういったことを語っていなかった頃、もしかすると、命であることはとても重要なことなのかもしれない、と思ったことがあります。
その頃の僕は、宇宙の実体を想像したり、UFOの存在を考えたりしながら、この広大な宇宙の中にある地球というものに対して、あまり特別なものだという認識がありませんでした。日常を生きていても、たとえば学校に行って勉強の出来がどうだとか、将来どんな職業に就くかとか、年頃になったら相手を見つけて、というのもそれが尊いことだという意識もないものだから、当たり前のように欲望のおもむくまま世間並みを生きていました。そうすると、自分というものはどこにでもある、いくらでも代わりがあるものという感覚で、とてもそれが特別なものという認識はないのです。例えば、日本の天皇家の歴史であっても、昔なら権力争いの渦に巻き込まれていたように、もっと言えば神話の世界であっても嫉妬や妬みが織り込まれた世界が描かれているように、天上界すらもそのような状態なのです。それが当たり前のように地上に降りてきて、私たち人間は気楽に自己表現をしながら生きており、その一人ひとりはたいして重要なものではないと思っていた時期がありました。しかしそう思いながら、どこかで、もしかすると命であるということは特別なものであり、奇跡の存在かもしれない、と思うところもあったのです。
子どもの頃、日本人一人当たりの所得が世界で26番目くらいで、アルゼンチンのようにあまり馴染のない国よりも低かったデータを見たことがあります。その時に僕は、世界には上がたくさんいるのだと思いました。大人の給料の平均が月給2~3万円で、5万円の給料をもらっている人がいたら理想の結婚相手だと言われていた時代に、アメリカ人の平均給与は15万円と聞いて、別世界の人々の暮らしのように感じたことを覚えています。その後、日本は高度経済成長を遂げてどんどんアメリカに追いつき、僕が20代の頃には『Japan as No.1』という本が出版されました。日本の土地の平均単価が世界で一番高くなり、所得もむしろ日本の方が高くなるほどでした。ところが、まったく豊かさを感じないのです。なぜなら物価も同時に上がるものですから、豊かになった実感がなく、そのうちにバブルが崩壊して、現在に至っています。
自分たちは世界の下の方だと思っていたらいつの間にか経済大国になり、世界No.1になるかと思ったらガタガタと崩れ、日本は豊かな国だと言われていても、実際に国民に意識調査をするとその実感がない。そのように、日本人であることの尺度は、いくらでも変化するのです。

そんな中で、命であるということは、比べる対象がありません。これは、地球生命が共通して持っているものです。日本人であるということは上がったり下がったりしますが、宇宙にあって命であることの価値は、変わらないのです。そこで、命に対する捉え方の違いがあるとすれば、命に対して自分がどのような見解を持っているか。その一人ひとりの視点に違いがあるからです。
この世界では、命であるということがものすごく貴重なことなのではないか。地球に生命として生きることは、とても重要なことなのではないか。そんなことを僕は思うようになりました。愚かな命も尊い命も、命であるということは特別なことなのだ、と。命とは、多様性を表現しているのです。
例えばミミズのように小さな生き物であっても、それはただその生き物がそこにいるというだけでなく、その存在を通して、その奥にある、もっと大きなスケールでこの世界を動かしているものの実体が感じられるのです。命とは、私たちが認識している現象界にある命というものを越えて、もっと巨大な、宇宙を包括する存在である。そのとてつもない存在を、どこにでもたくさんいる、何気ない生命の息吹から感じるのです。そのように命と向き合った時に、自らの欲で何かを支配しようとするような心は、湧いてこなくなります。ただ、自らがその大いなるものの中に漂っているような、それこそ母親の子宮の中で羊水に漂っている赤子のような、安心感を感じるのです。
そのようなことを考えながら生きてきて、68年が経ちました。今は、自分が生命であり、思考し、宇宙を解釈できることが、どれほど優れたことなのかを思います。死んだ先の世界や、この世界を運営する側の存在があるのかというと、それは我々生きている人間にとっては関係があるのか。実はこの生きている人間が、生命としての自らに目覚め、自我を捨て、宇宙を解釈していくと、その我々とは関係ないと思っていた世界の延長に自らが存在しているのであり、それを探求していくと、最終的には宇宙と一体となり、すべての存在と合一することになるのです。

「命」という字の成り立ち

「命」という字は、人が儀礼用の帽子をかぶり、祭壇に膝間づいて、天の命(めい)を受ける姿を表しています。
生きること、即ち命であるということは、天の命に従って生きることです。それは、生命の側が自らの思うように生きるのではなく、すべて天の法則に則り生きるということです。地上にいれば、天が命を下しますから、地上のものは「どのように生きれば良いでしょうか」とお伺いを立て、命を頂き、それに従って地上を生きるのです。その時に、地上の概念は天の命となり、地を生きるものが天の国を地上に降ろしてくるのです。そして天の意思に基づいて地上を生きる。それが「地上天国」の表現となるのです。
命とは、天(宇宙)から地(地球)に降ろされた、神の響きです。即ち、現象界に生み出された神であり、それを命(みこと)と言います。そして私たち地上を生きるものの最終目標は、この現象界にあるのではありません。しかし、現象界にあるのです。人間とは、現象界を通り、神の存在する境地まで到達できる存在なのです。

日蓮さんの教えの中で僕に響いた言葉があります。それは「宇宙とは生命である」という言葉です。それを聞いた時、自分は宇宙の実体である、と思いました。普通に欲があり、これといったとりえもないごく普通の人間である自分が、宇宙根源と同じなのです。それが生命としての悟りの位置なのです。
小さな虫も、道端の草や木も、皆、宇宙を運営する側の存在として、この世界を生きています。しかし人間だけが、自我に染まり、こちら側に生きているのです。人間の能力を生かしながら、もしもその、自我で生きるのではない境地に至ったならば、人間とは何と尊いものであることか。その時に、私たちは初めて、自らの価値を知ることになるでしょう。
地球には、溢れるほどの命が存在し、それらがすべてつながり、循環し、ネットワークしています。それは大調和です。それが私たちの国のもうひとつの呼び名である「大和」の精神です。一つひとつの細胞が健全に配列されることで私たちの体が健康となるように、一つひとつの命が健全に配列されることで、地球が健康になります。
時代は令和となり、これから命の本質が問われる時代がやって来ます。どこかで私たちは、一人ひとりが自らと対話し、生きることの決意のスイッチを入れる必要があります。それが、命ということの意味だと思うのです。意志がはっきりして、決意が明快であれば、行動も明快になります。ところが意志が曖昧で、決意がはっきりしていないと、行動も曖昧になるのです。それを無駄と言います。しっかりとした決意のもとに生きれば、無駄は起こらず、物事はとても効率よく進み、たくらみのない思考が湧いてくるようになります。それを「閃き」と言うのです。

これからの時代がどれほど困難であるのかは、行ってみなければわかりません。平成は、その困難な時代の予告編だったのかもしれません。令和になり、いよいよ本番です。ではなぜその本番を与えられたのかというと、その先があるからです。
過去6億年の間に6回大量絶滅を繰り返してきた地球の生命の歴史に照らし合わせてみれば、現代を生きる人類は、次の生命大量絶滅の引き金となるかもしれません。人々は、何かが壊れる前はそれを守ろうとします。そして壊れれば、それを惜しみます。しかし、壊れるからこそ新しいものをそこに表現できるのです。それは、大量絶滅をするたびに進化してきた生命の歴史と同じです。
ですからやはり、壊れなければなりません。そこで、積極的に壊れていくことを喜べる生き方とは、どのようなものでしょうか。それは、使えるものを壊していくということではなく、価値観を変えていくということです。出会ったことをポジティブに捉え、変化することを喜ぶ。その時の変化は、進化になります。
変化は積極的に喜びを持って受け入れるものですが、現状の自分を守ろうとすると、出会ったものを拒絶したくなります。さらに、その自分に執着すると、変化は苦痛になります。それは、地上にいて地獄を生きることとなるです。しかし、それが喜びとなった時、尊いものへと向かう目覚めが始まるのです。

火山が噴火する、地震が起きる、台風もたくさん来る。そういう日本にいて、それが喜びになる。大変なことがあるから、大調和になるのです。それが大和という国であり、その証として、令和という時代がいよいよ始まったのです。
令和は、平成よりも物理的にはさらに厳しい時代となるでしょう。それを、大調和を持って乗り越えなさいということです。その厳しさは、ただ乗り越えるためではなく、大調和することを呼び覚ますためにあるのです。これから、今までに人類が積み上げてきたものがどんどん壊れていく時代が始まります。それを乗り越えるために必要なことは、力を合わせること。そして、壊れた先には、これまでに出会ったことのない新しい世界が待っているのです。そのことを、令和という時代は、私たちに示してくれているのです。