私たちが快適な生活ができるのは、電気とガスとテクノロジーの力のおかげだ。たとえば、内モンゴル人の青年は今、自分のふるさとでコンポストトイレを普及させようとしているが、内モンゴルでも近代化の波は押し寄せ、人々の生活は変化してきている。し尿の処理は、日本の都市であれば終末処理場で処理し、インフラ整備は出来上がっている。それは、バクテリアの力と言いながら、やはり近代テクノロジーの力だ。私たちの生活においても、それは今、浄化槽を設置することで可能になっているが、これは日本のような水や電力エネルギーが豊富にあるところでできることだ。それで、コンポストトイレが画期的とは言え、コンポストトイレは使いすぎると単なるウンコ溜めになってしまう。冬のモンゴルのとても寒いときに、あの仕組みでは機能しない。寒いとバクテリアが働かないので、単なるウンコ溜めになる。それを機能させるためには、適度なテクノロジーが要る。そうすると、結果としてコンポストトイレを内モンゴルで使うためには、電力とそれを機能させるテクノロジーが必要になってくる。やはり、現代の問題は人口が増えすぎてしまったことと、自然界の生き物のようにその枠を超えず、人間が自らの生命の枠の中で存在することができない限り、現代文明はいずれ消滅するしか仕方がないのだろうか。いかに自然を壊さず、人間の営みを安定させるかというと、やはり人工に偏ったテクノロジーが必要になってくるが、その結果、さらに人工の世界は広がっていくことになる。
しかし、かたやこれからの時代、このようにインフラ整備を行い、人間たちが豊かに暮らすことを維持しようとしても、その暮らしが自然に矛盾を与え、その矛盾が人間に襲いかかってくることが同時に起きてくる。そうしたら、未来の人々にどのような生き方をすべきなのかを伝えることが大切だ。欲をかかず、ほどほどの生き方をしなさい、と伝えるしか仕方がない。人工であふれる都市機能を維持しようとすること自体が、自然界においては異常なことなのだから。だからどこかで、人間の存在と自然のキャパを見極めなければならない。
これだけのエネルギーに依存する消費社会を創ってしまって、これからどうすればいいのか?これは、100年ぐらいの単位のことであれば、地球もなんとかキャパの中に取り入れられるが、200年、300年、1000年となると、もはや限界だ。しかし同時に、これはたった1000年のことだ。これは地球規模で考えれば、スケールとしては小さなことでもある。だから、人工のような発展的に自然を否定するような場所を創ることではなく、ただ粛々と自然とともにありなさい、ということになる。
だから、この問題を解決するのに画期的なことは提案できない。実際に、昨日、一昨日と僕たちは車を使って長い距離を移動し、高速道路を利用し、サービスエリアでそのサービスを受けながら、つまり社会のインフラの恩恵を受けながら行動している。かたや、「自然に倣いなさい」と言いながら、しかしその実態はテクノロジーに支えられている。ほんの一時、人工が暴走することに気づいたとしても、その捉え方を人々の中に継続するように共有しなければいけない。
現状の人間の姿勢を観ると、持続可能なことを実現するためには、打つ手がないと思う。朝が来て、夜が来て、これを繰り返していく。このときに、朝が来るということは人間の営みが紡がれていく。我々は人間の営みが紡がれていくときに、社会にすでにあるインフラを利用している。そのインフラをこれからも維持するためには、とてつもないエネルギーと人工の力が要る。日本では少子高齢化が進んでいくと、これを維持することがたいへんな時代が来る。これが10年、20年の単位の話であれば問題は小さいのだが、1000年という単位からしたら、インフラを維持することも整備することも切り替えていかなければいけない。人間がそのような長いスパンでものを考えて生きてこなかったから、この行き詰まりができたのだが、もっと前に人間の営みと自然の営みが整合することを考えなければいけなかった。ただ欲を膨らませるだけ膨らませ、今、我々が享受している快適な暮らしは、近代科学とテクノロジーに支えられている。近代科学とテクノロジーを使うときに、独りよがりで欲望を膨らませ、人々が不調和の社会を創るようになれば、その行為自体が破壊の矛先にもなる。しかし、このテクノロジーとエネルギー消費を地球や宇宙を意識し、「地球とともに」という想いで人々が調和して使用すれば、無駄がなくなる。無駄がなくなれば、地球はまだ自らのキャパによってそれを許してくれる。どこかでその整合性を取らなければいけない。
私たちも、近代的なテクノロジーに支えられてこの生活をしている。だから、一方的にそれを否定する側に立つべきではない。一方的ではなく、近代テクノロジーが暴走することを懸念し、それからテクノロジーが広がるときにそれを広めようとする者の背景にある精神がどこにあるのか。それを吟味することが大切である。その精神が自我にまみれ、一方的なものであるならば矛盾の発生源となる。しかし、今の人間たちは、自我を膨らませることが最優先になってしまっているがために、聞く耳を持たない。
たとえば、民主主義と言われる日本やアメリカ・ヨーロッパ、韓国のような国では、個人の主張が自由にできることが豊かさだと考えられている。こういった人々の欲望を刺激する社会体制では、資本主義社会の問題点である、人々の欲望を膨らませ、それを自由の証として進めていけば、人間の営みは地球のキャパをオーバーしてしまう。このように地球の現状の問題点を解決するために、人間の営みのどこまでをOKにし、どこからをNOにするかをこれからみんなで積極的に考える必要がある。そうでなければ、私たちは自分たちがすでにあるインフラと近代テクノロジーによって支えられているにもかかわらず、自然の側に立ちテクノロジーの側を否定し、矛盾を語る者になってしまう。
今、この段階に来て、あと10年、20年は許されても、100年、200年になるとこの人類の姿勢は許されないだろう。今の人間たちの振る舞いは、もう待ったなしの瀬戸際に来ている。この状態に対して、答えは出せない。だからみんなで語り合う必要がある。
「聖なるあなたを抹殺し、私は私の希望を叶えることを繰り返していけば、それこそ私は愚かな生き物になってしまいます。だから、あなたもいて、私もいて、その中で私たちの文明を表現する生き方を持続可能にするために、あなたにも賢明に考えていただく必要があり、私も賢明に考えていきます。その連携のもと、その輪の中に地球も入れて、語り合うべきなのです。」
もし、自然生態系や地球の側から捉えたら、民主化運動も異物となる。そういった人間の自己主張をすべて超える必要がある。先日訪れた20代の中国人女性は、「木の花の活動は宇宙や地球を意識しているので素晴らしいのだけど」とフィードバックしていたが、なぜ「だけど」と言うのかというと、現状の人間社会にはそれをわかる人がいないからだ。僕はわかる人がいようがいまいが、大切なことだから語るという境地にいて、役割を果たしていくのだが、それはいずれ人類がわからなければいけないという前提に立って語っている。いつかそうなるから、語っている。それを人間たちがわからないのであれば、やっている意味がない。
そういった現状に対する答えとは言えないかもしれないが――、大町で昨日の午前中、僕はしばしの間まどろみの中にいた。そうしたら、そこに生身の体を持った仏像が現れた。体全体が黄色で袈裟・衣をつけている姿をしていたが、その袈裟・衣は仏像の姿だから体と一体になっていて、衣服のようにまとっているわけではない。黄色といっても乾いた土に近いベージュのような地味な黄色だった。頭から大きくこぶ(肉髷=にっけい)が出ていて、顔は仏像の顔をしている。しかしその仏像は生きている。その姿は非常にシンプルだが深い。複雑だが単純。そして、明快で美しい。何とも言葉にできない。無駄がなく、きりっとしているのに力が入っていない。それでいて、ゆるぎがない。その仏像の中には規律があるけれど縛られていない。自由なのだが、秩序がある。
中身はお釈迦様だったのだが、そのシンプルさと意味深さを身につけないといけない。それは、霊的な存在でもなければ、人間でもない、生きている仏像だった。仏像に魂が入っているとはああいうことなのだ。しかし、通常、仏像は動かないが、あの仏像は動いて語りかけてきた。僕がこれから人々に伝えるときに、あの響きを出すように心がける。響きといっても、非常に静寂で、しかし動きはあるし、言葉も語るが、無駄はない。しかし、あのような完成されたものにひとり、ふたりがなっても、それでは見本とはならない。最終目的としては、みんながそうなるべきである。そうすると、また宗教のような話になっては元も子もない。現状の解決策が見つからなければ、人間は滅亡するしかない道を歩んでいるとも言える。
結局、宇宙的に観れば、地球の行く末は天が握っているのだろう。そういった意味では、人間の努力には限界を感じる。現状も、天が何かの意思を持って表現しているのだろう。
我々は現代という異物の中で生きている。都会の人たちはあの社会構造の中で仕事をした上で、収入を得て暮らしている。そこに破壊が起きると、それを維持するためだけに能力を使い、この回復力はすさまじい。その能力が高いがために、目覚めが遅れる。だからといって、私たち自身もその恩恵を受け、現状を語っている。
・・・どこかに、その整合性のポイントはある。それをみんなで考え、見つけ出す必要がある。その会議に出なくても、日常生活でそれに参加している。そういった全体性を観る力がなければ、これを進めていく資格はない。今、この生き方を進めていくにあたり、人間が依存しすぎ、コントロールされる側になってしまったテクノロジーをどのようにコントロールする側に立つのか。人間が自主的に節度を身に着け、自己コントロールを意識していくしか仕方がないのだろう。現実は、社会が人間の欲望の延長に動き、人間が社会にコントロールされているのだから。
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