凛とした心で

木の花ファミリーでは、毎年節分前の一年でもっとも寒い時期に、「富士浅間木の花祭り」を開催します。奥三河の山村で700年間受け継がれてきた国の重要無形民俗文化財「花祭(はなまつり)」を富士の地で継承し、独自に発展させたこの祭りは、人々が丸一日舞い踊ることで心の穢れを祓い清め、調和の響きを世界に発信して新たな時代の幕開けを祝う地球のお祭りとして、毎年立冬を過ぎた頃から本格的に準備が始まります。
祭りは、祭事前日の「神寄せの神事」に始まり、様々な鬼や舞手と観客が混然一体となって踊り続ける祭事を経て、祭りに使った道具を燃やして天へ還す「火の御用」、水を川へ注いで地に還す「水の御用」を節分に行って一年の節目とし、新たな気持ちで翌日の立春正月を迎えます。

*詳しくはこちらのページをご覧ください。
 また、祭りの様子を以下の動画でもご紹介しています。

以下は、2016年2月4日の「立春正月祭」でのいさどんの挨拶です。
立冬を過ぎ、世界中を様々なニュースが駆け巡った2016年も最終章へと入った今、年初めのこの挨拶が、改めて私たちに大切なことを伝えてくれます。

 

凛とした心で

立春正月、明けましておめでとうございます。

1月30日に富士浅間木の花祭りが終わり、節分を迎えました。節分とは季節を分けると書きます。冬の時代が終わって、春を迎える。今はまだ、春はもう少し先です。しかし土の中では春を迎えるための準備が着々と整い、植物の根が動き出し、芽吹きの準備をしています。虫たちも、そろそろ冬眠から目を覚まし、春に向けて動き出そうとしています。
そんな季節の折り、私たち地上を生きる生命の代表である人間も、そろそろ大地を耕す準備を始めます。

冬眠から芽吹きの季節に切り替わる時を、節分といいます。木の花祭りという祭りは、そのための地ならしをし、新たな生命の息吹をよみがえらせる神事として行われました。これから一年、自然から命をいただきながら、その循環の中で生かされていくことのスタートを切るわけです。それは一度も止まることなく、くり返しくり返し、毎年訪れるものです。ですが、今年が終わって来年が始まるという単純なことではありません。それは積み重ねていくものですから、連綿とつながる長い時の中で、世界が変化を続けながら進化していく、宇宙の実相そのものです。

昨日は節分で、今日は立春正月です。12月31日に大晦日を迎えて1月1日に新年を迎えるように、それは一つのサイクルの節目ではありますが、宇宙的には、地球という星は他の星々と連携しながら、常に未知なるところへ進んでいます。未知なるところとは、まだ私たちが一度も行ったことのないところです。昨日から今日に向かって時が動き、今朝を迎えたということは、まったく新しい日を迎えたということです。だからこそ、毎日新しい心で今日を迎えるのです。一日が終わる時には、一日を終えてまた新たな日を迎えるのだという心構えで眠り、次の日の朝は新たな日を迎える。ですから、自分も新しい人のはずなのです。

そういう意識を、地球は無意識の中で繰り返し、時代を刻んでいます。人間も、もっと自然と近いところで生かされていた時には、そういったサイクルを意識していました。人間は地球とともに、自然のサイクルの中で生かされてきたのです。そういった時代には、人間は自然に害を与えることはありませんでした。自然を敬い、命をいただき、感謝し、また命をいただく中で、生死を繰り返してきました。時代が進み、現代になると、人々はたくさんの願望を持ち、それを叶えたいという欲望を持つようになりました。それは人間にそれだけの特殊な能力があるということですが、その高い能力を与えられたがために、自らの願いを叶えようとして自然を変え、自分たちの心地よい環境を創り出したのです。

しかし、それが人間だけの都合に偏って表現されると、世界に無秩序をもたらします。それもさらなる新たな時代へと進化するためのきっかけであると思いますが、特に2016年が明けてからの世相を観ると、いよいよ人間の社会は混乱の極みに至っています。今までのように、国と国、組織と組織が争い、競争してきた時代から、それを構成する細胞である一人ひとりの心にまでそれが染み渡り、人々が我先の心で自らのことだけを願い、競争する時代が極まってきたことが感じられます。本来ならば、自然の中で循環し、その調和の中で進化していくのが生命の実体です。しかし、その高い能力の結果、人間が増殖し、それぞれが豊かさを求めてきたことで、循環する自然の中に滞りが生じました。同時に人間社会の中にも、その豊かさが争いの種となり、混乱が生じてきたのです。

昨日節分という日があり、日本の国では、この日に邪気を祓うと言って豆まきをします。豆は五穀のひとつであり、人間が豆に生きていくためにとても大切なもので、人間に健康を与えてくれるものです。節分では、それをもって邪気を祓うと言うのです。

邪気とは本来、人間の汚れた心、曲がった心です。人々は健全に生きていくために、節分の豆まきを通して、そういった邪気を祓おうとしています。昔から人々の間では、この邪気祓いの意識が、鬼に向かって豆をまいてきました。そこでは鬼という存在が悪者となり、人々は自らの喜びや願いが叶うことを福と言います。この節分の儀式を長年やってきた結果、今の世の中に至ったのです。

「鬼は外、福は内」の掛け声のように、本当に邪気が祓われ、福が訪れたならば、この世界は素晴らしく調和的で豊かで、命が健全な世界が表現されているはずです。ところが実際の世相を観ると、それとは逆さまな、争いの極みに至っています。そして人々が欲望を叶えようと思えば思うほど、地球は汚染され、我々を生かしている自然のサイクルまでもがおかしくなってきています。

そのような現状の中、私たちはこれからの時代を生きていく上で、とても大きな試練を迎えようとしています。
新たな季節を迎える節目の節分では、邪気を祓うということで、聖なる穀物である豆によって鬼が打ち祓われてきました。それが、本当に世の中に福をもたらしたのかどうかを、今の世の中を通して観てみると、そこには福という欲望が蔓延し、欲のままにあり続けようとひしめき合っている人々の姿が観えてきます。
そこで鬼に向かって邪気祓いの豆をまく人間の心を観ると、幸せになりたい、豊かになりたい、というものでした。そういった幸せや豊かさを求める心も、最近では、他者のことや世の中を想うよりも、自らの願いだけが叶えられればいいというような、わがままな傾向になってきています。それがたくさんの人の心に広がったことが、この世界に不調和を生み、そこから対立が生まれ、現代の優れた技術によって生み出された本来豊かになるためのものであるテクノロジーも、大地を汚し、自然のサイクルを曲げ、人々の中に格差を生み、混乱をもたらすものとなったのです

ここで人間の立ち位置に立たず、この世界の現状を観るために、自らの視点から離れて観ることができたら、邪気とは、我先の心で自らの欲望を叶えることを求め、他者のことを想わない人の心の中にある、ということがわかるでしょう。それがわかれば、人間を健やかに育ててくれる豆は、人の中に巣食っているわがままな心にまかないといけないということが観えてきます。
それが、2016年を迎え、これからの1年を見通してみると、社会の中に顕著に感じられます。しかし世の中では、こういった切り替えの時を迎えても、まだまだ冬が続いているかのように、新たな息吹は感じられません。それは、社会を構成する人々の中に、我先の心が強すぎるからです。
富士浅間木の花祭りは、そういった世相の邪気を祓い、人々が生まれ清まり、新たな時代にふさわしい心となり、美しい社会を生み出すための願いを込めて行われているのです。

今、この富士の地で新たな時代の息吹が芽生えてきています。それを感じると、寒いながらも新たな息吹の芽が伸びようとしているのですから、気持ちがとてもシャキッとします。心が真実に目覚めると、本来世の中はこうあるべきで、人の生き様はこのようにあるべきだという心の柱が立つものです。
それは、凛としています。その凛とした心に基づいて、私たちは生きています。そうすると、世の中がまったく正反対の世界になっていることが観えてきます。その正反対の世界を立て直すためには、出来事の一つひとつを立て直す必要はありません。私たち一人ひとりが凛として立っていれば、それが軸になり、世の中が自然と立ち直っていくのです。

今の世の中は、そういった意味からすると正反対で、軸を見失ってしまった状態です。だから人々が正しいと思うことをやればやるほど、混乱していきます。それがさらに続くと、人々は不動の柱を何処かで求めるようになります。そして混乱が極みに至ると、いよいよ人々の中にも、浮ついた心が創る世界が本当ではないという想いが湧きだし、本物を求めだすものです。

その時のために、真実に目覚めた者たちは何をするべきか。
たったひとつ。凛とした心を、柱を立てて生き、社会がそれを必要とする時を待っていればよいのです。
そうしていれば、自ずと柱のない者たちが寄ってきて、柱を立てることを求めるものです。それが私たちにこういった道を与えたものの意志であり、私たちの役割です。

時代はそういった変革の時を迎えています。そしていよいよ社会の混乱の中に、それが反映されていることが観えてきました。まだ兆しで、これから芽が出るところですが、それでもその根はうずうずとうずきだしています。根は土の中にあるから見えません。そして今、芽吹くことの準備をしています。いずれその芽は大きく伸び、その実体を私たちに見せてくれることでしょう。私たちはそのことを感じ、凛とした柱を立てて生きる。それが私たち、大地と共に生きる者の姿勢です。

私たちは畑を耕し、自然から食べ物をいただいています。健全な食べ物を世の中にもたらすということも役割ですが、私たちの生き方はそのような小さなものではありません。
私たちは、世の中という畑を耕し、そこに正しい生命の息吹となる、種をまく。それは心の種です。そういった役割が、私たちの生きる道にはあるのです。
そういった大切な時代の流れを感じ、天の意志を受け、その役割をいただいているということに気付いた時に、私たちは生きていることの意味を実感し、充実した尊い人生を生きられるのです。

そういった人々の姿勢の先に、とびっきり美しい世界が待っています。その人々には、美しいを求め、豊かさを求め、幸せになろうとして行き着く先があるのです。人類は今、そこに向かう道を歩んでいます。それは自らの汚れを知ることから始まります。泥の中から美しい花を咲かせる蓮のように、人生の花を咲かせる。そういった芽を出すのが、その大事に気付いた者の、社会に対する責任なのです。

そういった時代が訪れたのです。これまでの長い時の中で、これだけの節目を迎える時はなかなかありませんでした。私たちは、そのような時代に生まれ、生き、その役割が果たせることの喜びを知り、凛とした心を持って、新たな年を迎えています。宇宙の法が働き、時代が動き、それを受けて私たちは行動するのですから、難しいことではありません。天体の動きと共に、地球の動きと共に、時代は巡ってくるのですから、私たちはその動きに合わせるだけでいいのです。それを感じ、その流れに委ねることが本来の私たち生命の姿に戻ることなのです。ですから、ただ素直に素直に、そこに流れる大いなる流れに合わせていただいていくだけです。

今日の立春を迎えて、とても新鮮な気持ちです。みんなでその心を束にして、この地球に柱を立て、新たな時代の人々の指針とならんがために、生きたいと思います。

今年もよろしくお願いします!!

 


2017年1月28日(土)

富士浅間木の花祭り 開催!

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新たな時代の幕開けを祝い、うれしうれし、たのしたのしと丸一日舞い踊り、調和の響きを世界に向けて発信しませんか。どなたさまもどうぞお越しください!

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お釈迦様の時代の悟りから21世紀の悟りへ

僕が中学3年生のときに思ったことがあります。僕の父親は生まれは本家の長男で、社会的にも地位があり、自分の思ったように生きている人でした。近所の人からは、「本家の兄様で筋の通ったことを言う人」ということで、一目置かれていました。しかし、彼には敵・味方がいました。僕はそういった父親が嫌だったのです。僕は皆に支持される人生を生きたいと思っていました。しかし、父親はそのような敵・味方がありながらも、多くの人に支持されないといけない政治家をしていたのです。その立場は嫌いな人からも支持をもらうために、そのような人たちにもへつらわないといけなかったのです。それで選挙に出ると、父親のことをとても支持してくれる人もいれば、大反対して彼を落選させるための候補者を立てるような人たちもいました。僕はそういったことがとても嫌でした。それで、本当に筋の通った生き方をしようと思ったのです。しかしながら、筋を通すということは、ある意味筋のわからない人たちの反対に出会うこともありますが、少なくとも自分が筋を通したことに対して揺るぎのない心を持ちながら歩んでいくことを心がけ、これまで生きてきました。

それで中学3年生のときに、「このまま僕が自分の心にメスを入れないで生きていけば、親子だから父親のようになるだろう。だからこそ、今から自分の心にメスを入れるのだ!」と決意したのです。そこから僕は高校進学を決め、高校ではそれまでの自分では考えられないような生徒会活動に参加したり、応援団をやってみたりと、自分の苦手だと思うことを積極的にやっていきました。なぜなら、それが自分を変えることだと思ったからです。

自分を変えるとは、内から湧き出た想いと向き合い、日頃から自分が苦手だと思うことにチャンレジしていくことです。つまり、自分にとって嫌なことに向き合っていくその心が自分を新たな世界へいざなっていくのです。

多くの人々は「これは嫌だ!」「あれは嫌だ!」と嫌なことを遠ざけて、心地良いと思うことを正しいとして生きる傾向にあります。それは時として、自身の実態と向き合わなければならない場面では、自分自身の実態から逃げるような姿勢を取ることにもなるのです。そのような人生を積み重ねていくと、「あなたは一体何のために生きているのですか?」ということを問われることになります。

人が生きているということは、「四苦八苦」と言われるように、いろいろな問題に出会うことになります。なぜ、わたしたちはその四苦八苦に出会うのでしょうか。それは自らが自業自得で招いたことなのですから、そこを学びクリアしていくためです。つまり、わたしたちの生きた結果、その答えとして四苦八苦に出会っているのですから、それは自らの生きる姿勢の結果出会ったことになります。わたしたちが人生を学びとして生き、人間性の成長につなげていくならば、そうした自分自身の性質に向き合い、その性質の問題点をクリアしていくことが、わたしたちが生きる目的ということになります。ですから、出会ったことを学びとし成長につなげていけば、人生は四苦八苦から解放されることになります。

今から2500年ほど前、お釈迦様は「人として生を受けることは四苦八苦に出会うことである」と説かれました。当時の人々にとって生きることは食べることでした。つまり、今日一日食べられるかどうかが生きられるかどうかを左右するような、必死な時代だったのです。ですから、生きることは苦に出会うこととして、生きる定めを生老病死につなげて説かれたのです。そのような時代には、お釈迦様は「この世界に生まれ存在することのすべてが苦痛である」と説かれ、生まれ出ることが苦痛の始まりであり、生きることが苦痛の連続なのですから、その苦痛から逃れるためにはどうしたらよいのかと説かれたのです。当時、世の中は特定の権力者に支配され、民衆には希望のない混沌とした時代でした。ですから、「生まれてくることがいけないのだ」と生きること自体を否定的に捉える時代だったのです。

そこで小乗仏教で象徴されるように、現世が苦痛であることから少しでも功徳を積んで生まれ変わり、次の生まれ変わりは良い人生が生きられるようにと人々は願うようになっていきました。それがさらに大乗仏教になると、苦痛の世界から極楽浄土を求めご利益的救済への道に変わっていったのです。そこでは本来、自我を超越する道であった探求の道が、苦痛から解放されたい願望を叶える道に変貌し、そのことにより結果として人々はカルマにまみれていくことになったのです。

大乗仏教の代表的な経典である般若心経は、色即是空といって、すべてを「空(くう)」にして境地に逃れることを説いています。しかし、苦痛からの解放を求める者に手法として「このように思えばいいのだ」と伝えたところで、その想いが湧き出す自分がいる限り、苦痛から逃れることはできません。そこで座禅を組み瞑想をしたところで、その結果は迷走につながることになるのです。それは、実態の伴わないバーチャルな体験に基づく境地を求めるものです。そこで現実に囚われない境地に至ったとしても、肉体という現象を持っている限り、わたしたちが「無」になることはありません。そのようなバーチャルな境地に至ったところで、現実の問題事は何も解決されません。そういった空(無)を掴むような心境に至るのが、般若心経の限界なのです。さらに、実体のない仏や神をつくってそこにすがり、救われようとするのが南無阿弥陀仏です。それは、どのような生き方をした者も、ひとたび天に向かって呪文を唱え救いを求めれば極楽に至るという、インスタントに人々を救済する魔法の教えです。そういった組織宗教になってしまった教えは、「どうか、わたしを救ってください」という精神の人々を亡者に仕立ててしまったのです。

それに対し、仏教の究極の教えとされる法華経の教えでは、色即是空とは言え、実体はあることを説いています。現実に宇宙はあり、トキは動き、宇宙は永遠に紡がれていく――、そうした宇宙の実体を理解し、宇宙そのものである自分自身がどのようにそれを喜びとして表現し、この世界で役割を果たしていくのかが、法華経の本来の教えなのです。しかし、現代の人々はそこまでの解釈をしていません。法華経すら、ひとたび南無妙法蓮華経と唱えれば救われるという、結局南無阿弥陀仏と同じご利益宗教になってしまっているのです。

本来、生老病死の実体を知れば、そこから逃げる必要はまったくありません。その実体を理解し、「ヒト」としてどのように生きたらいいのかを悟れば、この地球上にいながらにして宇宙の法のもとに生きることができるのです。「ヒト」とはこの世界の始まりから終わりまでを悟り、統合した者のことです。それが、「無」の状態で「有」を生きるということです。ですから、何でも「無」としてはいけないのです。それは、「無」もしくは「空」の状態で「有」を生きる術を身につけることです。そこに至れば現象界という「有」の世界で、無欲という「無」と、「空」という何も特定していない「いただく」精神になることができるのです。それがこの世界の大本(潜象界)を理解し、現象が潜象界(ない世界)から現象界(ある世界)に現れることの意味を理解することであり、現象界に生まれ出た人間の本来の意味を理解することなのです。わたしたちは生きることで、地球に肉体を持つことの意味を発見できるのです。

宇宙は「成住壊空(じょうじゅうえくう)」と言って誕生・維持・破壊・空を繰り返しています。「成住壊空」の「空」の状態が涅槃(ニルヴァーナ)の境地です。しかし今、わたしたちの世界は「成住壊空」でいう「住」の段階にあります。ですから、「住」の道をどのように生きるのかを語るとき、「住」にいながらにして涅槃を目指すことは本来おかしいのです。それは今を生き、「成住壊空」の仕組みがわたしたちの日常に遍満していることを知ることから、始まるのです。

時代は21世紀に入り、2000年から3000年の新たな1000年サイクルに入った今、わたしたち人類は生きることの真の意味を悟る時代を迎えています。お釈迦様の時代は、「人として生まれ出でると四苦八苦して生きるのが大変だから生まれてくるな」というのが悟りを目指す目的の原点でした。ところがそういった苦しみの世であるにもかかわらず、後の世は、人は減るどころか急激に増え、人々は四苦八苦から逃れるどころか、欲望におぼれ、かえって苦痛の種を人生にまき散らし、その結果世の中は人々の四苦八苦の渦に巻き込まれ、混乱の極みに達しているのが現状です。

中国の天盤の巡りによると、地球上に宗教がもたらされたのは今から約3000年前のことです。そして3000年の時を経て、今、宗教の時代は終焉を迎え、わたしたち一人ひとりが目覚めていく民衆の時代を迎えています。新たな時代を生きる人々は、願望を叶えることや救済を求めるのではなく、自らが自らを正しく悟ることによって、自我に翻弄されることなく、誰にも救済される必要のない、高い意識の存在となれる時代を迎えているのです。

そこで2000年からの新たな1000年紀は、欲望と共に拡大し得たものを必要なものと不必要なものに仕分け、そぎ落としていく時代です。人間は他の生物と違い、食べていければそれで満足していくものではありません。植物や動物なら、自らの生命を維持できる環境が整っていれば安定して存在しています。ところが、人間は生きていられても、それだけでは安定しないのです。人生に希望や喜びがあることによって、安定するのです。ですから、いくらお金を持っていても、そこに希望や喜びがない限り、さらにお金を求めるようとするのです。そこで、本当の生きる目的が観えていれば、お金やものに執着したり翻弄されなくなります。ものは少なくても不安になりませんし、人と共有することが魅力的になり、その境地に至れば真の希望や喜びが湧いてくるのです。21世紀から始まる人類の歩みは、そのような心の価値と出会った喜びや、心が成長し霊的な豊かさを通して、「ヒト」としての本来の悟りに至る道なのです。

しかし、たとえば今現実にニコチン中毒やアルコール依存になっている人たちに、「そこから解放されると喜びですよ」と伝えても、現状の状態でそれを手放すのは彼らにとっては苦痛を感じること以外の何物でもありません。何かの中毒になっている人にはそれは無理な話です。ここで大切なことは、「なぜ今の自分はその中毒を引き起こすものを必要としているのか」を理解し、自然にそういったものがいらなくなる状態になることです。今の時代、多くの人々は様々な中毒症状を引き起こしていることに気付いていません。一生懸命幸せになりたいと願っても、自我に囚われていたら、自らを不幸にしていきます。そして、わたしたち一人ひとりの中にある矛盾が地球上にこれほどの矛盾をつくっているのです。

近代科学が進み、天文学の解釈も進み、キリストやお釈迦様の時代には解釈できなかったことが今、紐解けるようになりました。人類がその優れた能力を使い、ここまで宇宙を解き明かせるようになったからこそ、今、わたしたちは生きることの真の意味を悟れる時代が訪れたのです。宗教の時代のお釈迦様は苦から逃れることの悟りを説かれましたが、21世紀に入った今、わたしたちは新たな時代の悟りを迎えようとしているのです。

宗教の時代の初期は、個人が個の悟りを求めてブッダとなった時代でした。それが、優れた聖なる人の見本となりました。しかし、これからの時代は「すべての衆生に仏性あり」というお釈迦様の言葉にあるように、わたしたち一人ひとりが宇宙の真理に目覚め、すべての人々がブッダとして目覚めその自覚をもって生きる時代です。さらに、「仏の悟りは仏のためにあらず。仏の悟りは一切衆生のためにあり」とお釈迦様が説かれたように、他者の目覚めが自らの願いであり喜びとなったとき、それこそが新たな時代の人々の姿なのです。

僕の話は個人レベルの話が常に地球レベル、そして宇宙レベルになります。日常生活が地球レベルであり、宇宙レベルなのです。なぜなら、この現実は地球の自転と公転、太陽と惑星との関係、銀河との関係によって紡がれており、大宇宙の中に繰り広げられている物語だからです。そこまで自分自身を広げ、その精神をもって日常生活を生きることが人類には可能なのです。わたしたちはその境地に至れば、自らの自我に翻弄されることなく、この世界を自由自在に生きることができる存在です。それが、21世紀を表現する時代に込められた願いであり、わたしたち人類が果たすべき役割なのです。

 

Source of photo:www.tbs.co.jp/heritage/feature/2012/201201_06.html

 


わたしたちは時代人(じだいびと)です~時代から地球上に生きるすべての人々へのメッセージ

わたしたちは、「時代人」です。つまり、時間という共通した乗り物に乗って旅する旅人です。この時間という乗り物には地球も乗っています。この世界に存在するものはすべて、時間に乗って旅しています。そして物理的にも、地球は宇宙を旅しているのです。

なぜ、時間は進んでいくのでしょうか。それは、一秒、一分、一時間、一日、一年と人間が時間の基準をつくり、時間を認識しているからです。それは人間社会だけの話のようですが、実はこの世界はサイクルのもとに成り立っています。そのサイクルは、一秒、一分、一時間、一日、一年と人間が便宜上区切っただけではありません。一日は地球の一自転であり、一年は地球の一公転です。春・夏・秋・冬の四季のサイクルの中で植物は芽吹き、栄え、種を残し、しばらく冬眠した後、また春に芽吹いてきます。その繰り返しによって時間が刻まれていくのです。ですから、これは人間がつくったものではありません。そして、人間以外のそういった仕組みを認識しないものもすべて、そのサイクルの中にあるのです。

その大いなるサイクルの中で今、わたしたちは歴史的な転換期を迎えています。皆さんもそのような時代の移り変わりに気付き始めているからこそ、今、このメッセージに出会っているのでしょう。地球環境や世界情勢は今、混乱の極みを迎えています。しかし、時代は常に未来へ向かって進み続けていますから、この混乱もいずれ収まり、この延長線上に世界が進み続けていくことはないでしょう。それは、目先のことや自らの欲望におぼれず、ひとつの物語として時代を読み解いていくことができれば、今の延長にある流れがいずれ行き詰まることは明らかなことが観えてきます。その証として、今、世界中では人類史上稀に見る危機を迎え、わたしたちが自らの姿勢を転換する必要があることを時代が教えてくれています。

そこで、わたしたちはこれからの時代をどのように生きていくべきなのでしょうか。

「時代が生命であり、時代が意志を持って、時代を紡いでいる。」
21世紀は「時代主義」の始まりです。「時代主義」を生きる人々は、自らの願望に翻弄されることなく、世界を自由自在に生きることができる宇宙の旅人(時代人)です。

「時代主義」とは、これまでの共産主義や資本主義に代わる新たな時代の生き方です。共産主義は人間が考えた理想世界ですが、彼らの創っている社会のベースには自然の存在が組み込まれてはいませんでした。ですから、環境破壊と共に共産主義は栄えていったのです。そして、資本主義は人々の欲望を刺激し、競争や格差を生み続け、自然に矛盾をもたらしてきました。ですから、資本主義も共産主義と同じ道をたどっているのです。皮肉なことに、そのような社会に自然保護などという極めて傲慢な言葉が生まれています。ですから、資本主義もいずれ終焉を迎えることでしょう。そこで、共産主義や資本主義の次に現れるイデオロギーは、人間が主役なのではなく、時代が生命であり、時代が意志を持っているという考え方です。そこで初めて、わたしたち人類は時代と共にこの世界を創造していくというレベルにまで到達できるのです。

未来は、常に未知なるものです。時間は常に進んでいるのですから、時代を生きることは常に未知なる世界に向かって旅することです。進んでみた結果至ったところが答えであり、それが時代の意志であり、宇宙の意志です。もし、人類の未来の姿が人間自身に観えていたとしたら、それでは人間の思惑の上に時代は動いていくことになります。しかし、時代は人間の思惑を超えて紡がれていくものなのです。

人類の近年の歴史を振り返ってみると、それはこの世界と人間の営みが融和しない破壊の歴史でした。そしてそれを反省し、切り替えたところで、結局人間たちは人間のための社会をつくり続けてきただけでした。その姿は、人間に与えられた役割の延長にもうひとつ大きな枠組みの世界を完成させるという、宇宙の意志からはほど遠いものです。歴史的にも宇宙的にも、人間は自らの意志によってこの世界に生み出され、時を刻んでいるのではありません。わたしたち一人ひとりはそれぞれ生まれ死んでいきますが、わたしたちは人類、そして地球生命というひとつの生き物の構成員にしか過ぎないのです。地球や宇宙ですら、ひとつの生き物であり、そこで営まれる世界はすべて物語なのです。

主役は、時代の流れや宇宙の法則です。そこには意志があり、それが時代を通して何かを表現していくために、わたしたち人間が地上に降ろされたのです。その舞台に表現される物語を読み解く意志を持たなければ、わたしたちは時代の意向を受け取り、生きることはできません。人類の祖先であるホモサピエンスが地上に誕生したのは今から20万年前と言われています。そこからさらにさかのぼり、40億年前に地球に生命が登場してから、何百万種と言われる生命がこれまで地球上に存在してきました。その中で、「地球史上最強の生物」とされるティラノサウルスが地球上に闊歩していたのは、今から約7000万年前のことです。

そのように捉えると、恐竜時代も宇宙のプロジェクトだったのです。生命はどれほど大きく強くなれるのか――。元々全長3m・体重75kgの小さくひ弱な恐竜だったものが環境の変化と共に時代の意志を表現しながら、およそ1億年の進化の時を経て、全長13m・体重6トンのティラノサウルスとして地球史上最強の地位にまで登りつめました。しかしその結末は、この世界を征服したことによって生命バランスを崩し、他を絶滅させることによって、結局共食いするまでに至ったのです。地球史上最強の生命として頂点に立ったその先には、お互いを殺し合う姿がありました。その姿は、現代の人類と同じです。戦争や争いが絶えない世の中で、人間たちは今、まさに共食いしているようなものなのです。

地球上の生命進化の歴史を観ると、過去6億年の間に6回大量絶滅が起きています。前回の絶滅は恐竜が絶滅した約6500万年前に起きており、近い将来生命が絶滅する可能性があると言われています。この歴史的な統計からすると、わたしたちは今絶滅に向かっているとも言えるのです。絶滅はその都度いろいろな理由によって起きています。今から6500万年前、巨大な隕石が地球に落下することにより、恐竜の時代に予期せぬ幕切れが訪れました。その後の劇的な環境変化により恐竜は絶滅に追い込まれたのですが、地球に隕石が落下していなくても、ティラノサウルスは共食いによってやはり絶滅する運命にあったのかもしれません。そして、地球をひとつの生命と捉えるならば、人類は今、地球に対してまさしく癌細胞の様相を呈しています。つまり、地球生態系バランスからすれば、このような生き物は淘汰されるべき時を迎えているとも言えるのです。

絶滅していった恐竜と、今、絶滅の危機を迎えているわたしたち人類を比べると、人間には過去から未来までを見通せる能力が与えられています。さらに、世界の仕組みを理解し、世界を創造する側にも立つ能力が秘められています。ある意味、地球史上最も高い能力と大きな影響力を与えられたのが人間です。つまり、ティラノサウルスが「地球史上最強の生物」であるならば、わたしたち人類は「地球生命の最高傑作」なのです。ところが、その人間の優れた能力は諸刃の剣のようなものであり、この能力をエゴ的に使い続けていくと次の絶滅の原因にもなります。その優れた能力を有効に使えば、絶滅の危機を乗り越え、さらに進化した世界をもたらす可能性もあるのです。それは、ティラノサウルスの教訓を超えて、宇宙が人類に求めていることなのかもしれません。

今から1万年前、人間がまだ原始的な生活をしていた時代、その頃の人間たちにとって生きることはこの世界の仕組みそのものでした。栄えることも滅びることもすべて天気任せ、つまり天の気分次第だったのです。その時代には太陽の黒点活動や地球の地殻変動、時代の変遷といった地球生命進化の歴史の中で、人間は登場人物としてそこに現れていました。そこでは、自らの意志を表現するのではなく、植物や動物と同じように自然のままに生きていた人間の姿がありました。

ところが、ティラノサウルスが1億年という時をかけて地球史上最強の生物にまで進化していったように、そこから人間は地球史上最も優れた能力を持つ生き物にまで進化していったのです。つまり、自我の成立と共に進化したのが人間であり、人類には個々に希望が与えられ、それを自己実現するという奇跡のような能力と使命が与えられました。地球上に生きる生命の中で、自らの願いを持ちそれを叶える能力を与えられたのは、人間だけです。これまで人類は、自らから湧き出る願望を叶えることが生きる目的だと思い、それに翻弄されてきました。

しかし本来、生命は自らの願望を叶える立場にはいません。願望を叶えることは欲望を満たすことであり、その結果欲求の虜になっていくことになります。願望を叶えようとすればするほど、そしてその願望が叶えば叶うほど、人間の欲望は際限なく膨らみ、さらに自我が強くなっていった現代人は今、その矛盾を世界に振りまくと同時に混乱のピークを迎えているのです。

これは、もし人間というものにそのような可能性を能力として与えたら、どのような結末になるのかという大いなる宇宙実験でもあるのです。さらに、その優れた能力を持つことにより、人間たちが自らやこの世界にもたらした矛盾をどのように克服し、その危機をどのように乗り越えていくのかという大いなる挑戦でもあるのです。

今、2000年の扉が開き、2000年から3000年までの1000年紀の幕が開けました。それは、2000年までの人間の可能性を観てきた時代から、その可能性を観た人間が「一体自分たちはこの世界にとって何者なのか」を知り、その目的の真実を生きる時代に入ったということです。

なぜ宇宙は存在するのか。なぜ地球は存在するのか。なぜ生命は存在するのか。なぜ人類は存在するのか。そして、なぜあなたは存在するのか。

これからは地球自体、人類自体が目覚める時代です。人類が皆、この宇宙船地球号に乗っている意味を理解し、宇宙に創られたオアシスであり、奇跡の理想郷・地球に時代の意志を表現していく時代の始まりです。

時代は生きています。時代は意志を持っています。わたしたち人類はその時代の変化を感知し、時代に寄り添っていく立場にあるのであって、時代を創ろうとする必要はないのです。

そのように考えていくならば、この世界は一体です。すべてのものが時代と共に一体となって動いています。それが宇宙の実相です。そのような意識レベルを有した者が地球上に現れたならば、その響きがこの世界に放たれ、それに共鳴した者たちの行動が少しずつこの世界を変えていきます。そしてさらにそれに共鳴した者が行動することによって、その響きがこの世界に放たれていく――、その連鎖が時代を動かしていきます。その響きがこの世界の混乱を鎮め、人類の営みによって傷つけられてきた地球を包み込み、地球を本来の美しい星へといざなっていくのです。

一人ひとりの目覚めがウエーブとなって連鎖し、地球上を巡っていきます。そこには、音もなく、力もいりません。それは、時が刻まれていくときに、時の音がわたしたちの耳には聞こえないのと同じです。地球が自転し公転するときに、その音が聞こえないのと同じことなのです。ですから、時代が動くときに、その音はわたしたちには聞こえないのです。耳をすませてその音を感じてみてください。そのような人類の目覚めの動きが今、地球上に始まっているのです。

今こそ、わたしたちは自らを自我の枠から解き放ち、この無限なる宇宙の中で自由自在に生きる時が来たのです。わたしたちの中から願望や野心が消えた時、宇宙の真理が湧いてくるようになります。そして、人類が誕生した目的にのっとった最もふさわしいポジションにわたしたちは立てるのです。そういった真理に目覚め悟った者は、時代を読み、流れを感じ、今を生きる「時代人」となるのです。

それが、21世紀初頭にあたり、時代がわたしたち人類に伝えているメッセージです。

 

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今、目の前にあることが天の与えた道

35歳の男性ゲストがいさどんに、「自らを探究し、精神性を高めていくために一番必要なことは何ですか?かつていさどんが1000日の業を行ったように瞑想することですか?」と質問したとき、いさどんは次のように答えました。

――

僕は昔、お釈迦様にこう言われたことがあります。僕が30歳のときにお釈迦様に出会い、それから5年くらい経ったとき、僕はそのときまだ会社を経営していて、普通の生活をしていました。毎日仕事へ行くのですが、ある朝ふとこう思ったのです。

「この世界にはいろいろな人生がある。いろいろな人生の中で、自分は自らが生活するための生業をしている。なりわいとは「生きる業」と書き、業とはカルマのことでもあり、自らの欲得のために生きているということ。世間では尊いとされる者が宗教の教祖になったり、中には修行だといって滝に打たれる者もいれば、瞑想している者もいる。そのような道を歩む者に比べ、自分は単なる生業のために日々を送っている。意識はしていても、世間でいう優れている人の生き方はしていない。」

だから、お釈迦様にこう尋ねました。
「わたしはあなたからこのように道をいただきながら、昨日も今日も、こうして自分が食うがための生業で一日を過ごしております。しかし本来、あなたは出家という道を説かれ、難行苦行をし、人々に仏法という道を広げられました。それだったならば、わたしも町へ出て、人々に道を説くべきなのではないでしょうか。もしくは瞑想するとか、滝に打たれるとか、自らを磨くための修行をするべきなのではないでしょうか?」

そうしたら、お釈迦様はこう言われました。「わたしはそうであった。そなたがわたしに出会ってこの道を受け継ごうと思うのならば、この世界は時代と共につながっていく。わたしの時代があって次の時代があって、おまえの時代がある。わたしの時代とおまえの時代は切れているのではなく、すべてつながっている。時と共に時代が進んでいくことも、原因と結果という因果の法によってつながれている。そうしたら、わたしとおまえに違いはあるか?この道をわたしが生きて、これに出会ったおまえがわたしの延長に生きるとしたならば、おまえはわたしに出会ったからといって、なぜもう一度わたしがしたことをする必要があるのか?それなら、おまえはわたしの時代に生まれればよいではないか。しかし事実、おまえはおまえの時代に生まれている。もしそなたがこの道に目覚めて歩むのならば、わたしの歩んだ延長に受け継げばよい。二度と再び、わたしのしたことを繰り返す必要はない。」

さらに、お釈迦様はこう言われました。
「ならば、町へ出て、家の戸を叩き、そして語りかければいい。誰が耳を傾けるか?おいしい言葉や恐怖でも語れば人は聞くかもしれないが、それは本当に道を求めるものではない。道とは、生命の道であり、それは生きることの上に現されるもの。おまえは生きるという生業のために今日一歩を踏み出そうとしている。それも、志はわたしの心に出会ってその道の延長だと言っている。その延長に今日があるとしたら、おまえはそんな余分なことを考えず、今目の前にあることをやればいい。その先に道が必ず用意してある。」

それで、僕は毎日仕事に行くと、そういう話をしなければいけない家庭不和の家に出会ったり、いろいろな問題のある場所に出会って、そのカラクリを伝え、行くところ行くところでちゃんと場が用意されていたのです。僕は仕事をしていると思っていたら、仕事は単なるきっかけであって、「道とは生活であり、それは生命の成り立ちである」と気付いたから、自分で計算しないようになりました。

今、目の前にあることが天の与えた道です。なぜなら目の前にあることで今日自分が一日動くと、地球の一自転に付き合うことになるのです。一年生きたら、地球の一公転に付き合うことになるのです。それは二度と同じところへは行きません。常に新鮮なところへ行くのです。ですから、常に新鮮な心でそれを受け取らなければいけません。僕はお釈迦様からそう伝えられました。

だから、「自分はこうするべきなのではないだろうか?」と思わないことにしたのです。そうすると、確実に新鮮な毎日が来ます。

お釈迦様はさらにこう言われました。
「わたしの時代は、そのような苦行の道を歩む時代だったが、それは道が観えるための働きであった。ただ、わたしの時代の人々は、心がまだ美しかった。人々には、正しいことを正しいと言えば、正しい方へ行こうとする仏の心がまだ残っていた。しかし、そなたは今の世に生きるゆえ、人々に正しいことを伝えても、世の中には正しいがいっぱいあって、人々はどれが正しいかわからない時代になっている。わたしが苦業を通して苦を味わい切り開いた以上に、そなたが道を歩むことは苦と出会うことであり、それはわたしの時代よりもたいへんなのである。その時代に真実を伝えることは、並大抵の覚悟ではできない。そのような覚悟を持っていけ。もしおまえがわたしの道を受け継ぐと言うならば、その先を行けばいい。だから、わたしの道を真似ることは一切いらない。」
道というものは、常に受け継がれていくものであり、時代と共にあって、新たに生まれ変わっていくものなのです。そこに共通するのは、志のみ。その道を継承する者は、常に前人未到の道を歩むことになります。それがこの宇宙の実相を歩む者の姿勢なのです。

 


時代の大局と共にある人々へ、エールを送ります

タイの代替教育学校から留学生として木の花ファミリーにやってきた、高校生のナッちゃんとマインちゃん、そして先生のワンちゃん。3ヶ月間の滞在を終えた最後の日、3人といさどんが話し合う時間がありました。

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いさどん:
いよいよ、最後の日になりましたね。この3ヶ月間は、短かったですか、長かったですか?

ナッちゃん:
短かったです。通常なら3ヶ月はとても長く感じますが、ここでの3ヶ月は本当に短かったです。

いさどん:
僕はこの出会いをとても大切なものだと思っています。だからと言って、この先に何か具体的なことを期待しているわけでもありません。大切なことは、皆さんが何か新しいものを取り入れて、変化することです。そして変化した姿でタイに戻ると、周りの人々もそれを感じて、反応が変わるでしょう?
とかく人は何かを得ると、それをもって何かを起こそうとします。そういった意欲を持つことは大切です。その時に、あなたが起こすことへの答えとして、周りの人たちの意識レベルにふさわしい反応が返ってきます。そしてその反応に応えていくということが、冷静な対応です。
3ヶ月間というサイクルの中で、今はひとつのポイントでもあります。皆さんが自分は変化したと思っている以上に、周りはそれを感じるはずです。ここに来てすぐの頃には、ごはんがおいしくて食べ過ぎて、体重が増えるという変化があったでしょう?(笑)でも、今はまた元に戻りましたね。3ヶ月というのは、ちょうどいいサイクルなのです。

ワンちゃん:
そうです。3人とも体重が元に戻りました。

いさどん:
体は元に戻ったけれど、心は大きくなりましたね。それがお土産です。次のサイクルに行ってみましょう。答えはその先にありますから。

マインちゃん:
責任と共にタイに戻るのだと感じています。

いさどん:
僕は、伝統的な優れた教えというものには、あまり興味がありません。新しい時代には価値観がガラリと変わります。僕は、21世紀をどう生きるかということについてはたくさんの情報を持っていますから、それをまた皆さんに共有できたらと思います。来年の2月から3月にかけて1ヶ月間の真学校が開催されますから、ナッちゃんもマインちゃんもそれまでに英語をしっかり勉強して、受講できるくらいになるといいですね。
皆さんからは、この3ヶ月間の感想は何かありますか?いいことはたくさんあったと思いますが、例えば何か大変だったことはありますか?

ナッちゃん:
タイの学校では週に2日休みがあるので、ここの人たちのように毎日働くのが少し大変でした。

いさどん:
「働く」というのはね、本来、生きることそのものなんですよ。ここではみんな、今の社会のようにお金を得るために義務的に労働するのではなく、生きるための毎日の行動として働いています。自然界に休日はないでしょう?人間でも、例えば食べることや排せつすることを休む人はいませんよね。

ワンちゃん:
ここの皆さんのエネルギーに感心します。日中は働いて、夜も遅くまで大人ミーティングをしているのに、皆さんの魂がとてもいい状態なのを感じていました。私は時々朝に「もっと寝ていたいな」と思うことがありましたが、「みんな働いているんだから、こんな風に怠けていちゃいけないわ!」と思って起きるようにしていました。

いさどん:
ハッハッハッ。働くことを義務的に考えると、そうなるんですよ。僕は、もしも休日を与えられたとしても、いつもと同じように生活しますよ。統計によると、現代の一般的なサラリーマンの暮らしは、月曜から金曜まで過酷な労働をし、土曜にストレス解消して、日曜に家族サービスをするのだと言います。そのサイクルが、実は生命本来のサイクルを壊しているのです。
それはいつから始まったのかというと、日曜日を安息日と定めて休息しなさい、というユダヤ教やキリスト教の発想から始まっています。それは本来の教えに基づいているのではなく、教会が勢力を持つ過程で、教団を維持するために信者をつなぎとめようとして、週に1回は教会に来るような仕組みを作ったのです。
日本でも、30年ほど前までは週休1日が一般的でした。僕の親の世代は、休みは月に1回でした。もっと昔の人たちは、休日なんて取らなかったでしょう。その頃の人々は、今のように毎日過剰に労働をするのではなく、リズムを刻んでいたのです。
ところが生活が西洋化するに従い週休2日制が取り入れられ、それが世界基準のようになりました。僕が子どもの頃は、みんな欧米に憧れていましたね。夏に1ヶ月も休暇を取るようなライフスタイルは、憧れの的でした。一方でウォールストリートには、寝ることも惜しむような、日本人よりも働いている人々もいます。
大切なのは、リズムを刻んでいくことです。そしてなぜそのリズムが必要なのかということを、理解していることが大事なのです。

今、僕は皆さんに「毎日働きなさい」ということを伝えようとしているわけではありません。僕が伝えたいのは、義務的に生きるのではなく、積極的に生きましょうということです。

ナッちゃん:
タイの学校での毎日の暮らしは、義務的なことがとても多いです。

ワンちゃん:
授業料がタダということもあって、何かをやりなさいと言われれば、義務としてそれをやらざるを得ないような環境です。学校や社会の仕組みがトップダウン式になっており、学校は形式的に生徒たちの意見を聞きはしますが、生徒たちは「私たちの意見を取り入れもしないのに何で意見を聞くの」と思っています。

いさどん:
それは学校に伝えてあげればいいのではないですか。その勇気が持てるかどうかですね。

ワンちゃん:
勇気を持って伝えても、どんな結果が得られるかはわかりません。

いさどん:
わからないのがいいんですよ♪でも今までの皆さんの姿勢からは、どうせうまくいかないだろう、という空気が感じられます。

ワンちゃん:
例え伝えたとしても、何で言われたことに従わないのかと頑固者扱いされるのがオチです。

いさどん:
そこで諦めるから、そういう結果になるのではないですか。
義務的に生きていると、ストレスが溜まりますね。そしてストレスが増えたから、休みが必要になりました。ストレスを解消するためにお酒が必要になったり、特別な食べ物が欲しくなったり、レジャーに出かけるようになりました。ストレスが多い社会では、性も乱れます。食べることでも何でもそうですが、人が欲求を持って何かを得ようとすることは、すべてストレスから来ているということに気付かなければいけません。
そして社会は、ストレスを発生させ、それをビジネスチャンスとしています。ビジネス優先の世界がストレスを生み、そこにそれを解消したいという欲求が生まれ、それがビジネスにつながって、経済が膨らんでいくのです。ストレスの延長線上に、最終的に到達するのは病気や争いです。そうすると、医師や弁護士が活躍する世の中になります。それが問題なのです。優れた能力を持つ人々が、医師や弁護士など、本来ない方がよい職業を選ぶようになりました。それも「お金になるから」という安易な発想で選ぶのです。

ナッちゃん:
医者や弁護士だけでなく、本来必要のない職業についてお金持ちになっている、頭のいい人たちがたくさんいます。

いさどん:
そうすると、人はお金に取り込まれ、お金のために生きていることになります。それを解消するには、自分と向き合う必要があるのです。自らの発している感情がどういったところから出てきているのかに向き合い、そこをチェックする力を持たなければ、感情のおもむくままに無自覚に行動して、ただ欲望を叶えようとする世界が広がっていくことになります。
そう聞くと、多くの人が「それは大切なことだ」と思いますよね。しかし、実際に行動する時には、自分の中にある感情に負けてしまうのです。

ナッちゃん:
本当にそう思います。インスタグラム(画像共有サイト)で、例えば誰かが「この映画を観に行ってすごく面白かった!」と言うと、私も「やるべきことのリストにこの映画を加えなくちゃ!」となって、実際に今、3つの映画がリストに入っています。そして映画を一つ観るのに200バーツ(約600円)のお金を使います。3つなら600バーツです。それで映画を観に行けば、ポップコーンを買ったり飲み物を買ったり、映画を待っている間にお店を見てかわいい服やカバンがあればそれも欲しくなって、結局映画以外にもたくさんお金を使っちゃいます。

いさどん:
それは誘惑ですね。そしてそういった精神状態が、今の巨大な経済を支えています。そこには何かを人と共有するのではなく、自分だけがそれを得たい、という感情が働いており、それがたくさんの無駄な消費を発生させて、経済を大きくしています。

ナッちゃん:
ポケモンGOのようなゲームもそうですね。自分はこれだけ獲得したぞ!ということを見せびらかして、人の気持ちをかき立てています。

いさどん:
それは完全にバーチャルな世界ですね。そういうものに乗っていくことが自分をどこにいざなうかということを、冷静に観る心が必要です。
過去に宗教は優れた生き方を表現しましたが、それは良い社会を創るばかりではなかったですね。結局、人々の欲望を誘惑するものには太刀打ちできなかったのです。いつの時代でも、優れた生き方をして社会に貢献するのは尊いことです。社会を豊かに導く、人としての本物の道を歩むならば、常に良い世の中とはどういうものなのかを意識していることが大事で、誘惑に翻弄されているようでは逆の道を歩んでいることになります。そこがわかる冷静な目を持つことが必要です。
皆さんの中では、学校をどうしていくのかということが大きなテーマになっていますね。今回、ここに来たことはよいきっかけになったと思います。新しい価値観に出会ってリニューアルし、新しい風を学校に吹かせるチャンスです。

ナッちゃん:
私にとって、今年度は今の学校の最後の年です。だけど来年2月からの「1ヶ月間の真学校」に、本当に本当に参加したいと思っています。そのためには学校に説明しないといけません。そして2月までに、タイ語の通訳なしで受講できるくらい、英語が上達するかどうかもわかりません。もし言葉がわからなければ、ここに来ても時間を無駄にすることになります。そう思うと、いったいどうやって進んだらいいのかがわからなくなります。

いさどん:
人はそうやって、人生を自分の力で生きていると思って、いろんなことを計算します。人生を計算するということは、自分の人生を、その計算の範囲内である限られた枠の中に限定することになります。でも生きるということは、もっと自由なことなのですよ。どういう風に自由なのかと言うと、可能性がたくさんあるということです。その可能性を自らに取り入れるためには、限定してはいけません。
ナッちゃんも、他の2人もその傾向がありますが、何かをする前に先に答えを決めているんですよね。それは、自分の未来を限定しているということです。

ナッちゃん:
そうですね。未来を決めつけることはできないですよね!

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いさどん:
それでね、あなた達の傾向として、悪い方に決めつけていますね。それでは自ら扉を閉じているようなものでしょう?
前にもお話ししたように、生きるということは、自分が生きているのではなく、この世界に生かされているということです。だから、生きることはいただくことなのです。そうでしょう?何か自分の力で生きていると言える要素はありますか?それは宇宙の法です。その法の中で生かされているのに、自分の考えで未来を決定するなんておかしいでしょう?

ナッちゃん:
そうですね(笑)。今までそうやって自分で勝手にネガティブな結論を出して、枠を狭めてきたと思います。これからはそういう事をしないようにしていきます。

いさどん:
そのためには、姿勢を上に向けないといけませんよ。そして自分の最善を尽くしなさい。そして答えは、いただくのです。そうすると希望が生まれます。
皆さんから何か質問はありますか?

マインちゃん:
今の段階ではありません。でもタイに帰ったら、たくさん湧いてくると思います。

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ワンちゃん:
タイではポケモンGOを利用して大人が子どもを騙すという問題が起きており、保護者への警告が出ています。

いさどん:
人を依存症にさせるものというのは、それを利用する人々にとっては魅力的なものです。皆さんには食養生のプレゼンテーションを行いましたが、それは悪い食べ物への依存から目を覚まさせて、健康を取り戻すためのものです。何を食べたらいいのか悪いのかという話ではなく、正しいものを選んでいく心をつくることの大切さを伝えました。心ができれば、依存症を生み出すようなものに対して常に冷静でいられますから、そこに取り込まれなくなります。
皆さんはタイの学校に戻ってから、ここで学んだことを伝えるプレゼンテーションを行うことを企画していますね。それは個人的なものではなく、学校のためにも、タイの社会のためにも、地球の未来のためにも重要なことです。

ナッちゃん:
学校が私たちの提案を受け入れてくれるかどうかはわかりません。ようこちゃんはこの間、大事な話し合いにみんなが早く帰って来られるように、天と共同作業をして雨を降らせたと言っていましたよね。どうか学校の責任者がここに来られるように、念を送ってください!(笑)ここに来ればきっとわかるだろうから。

いさどん:
それは大いにやりましょう(笑)。それは天に心を向けるということですが、同時に、あなたたちがここでの滞在を通して、しっかり変化した姿を見せることが大事ですよ。

(ここで、その場にいたようこちゃんはいったん部屋を出ていき、しばらくして戻って来ました。)

ようこ:
では、皆さんに小さなプレゼントがあります。私は今の話を聞いて、何かを3人に渡したいなと思い、何があるかわからないけど自分の部屋に戻りました。そして、これを見つけました。

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これは長野県にある、皆神山というところのお守りです。皆神山とは「皆が神さまの山」という意味です。今年の3月8日に私たちが皆神山を訪れた時に、宮司さんからこのお守りをいただきました。
これを皆さんにあげるのは、皆さんがこれを持って「神さま、私の願いを叶えてください!」とお願いするためではありません。これは、皆さんが「私が神さまなんだ。私が神さまと共同作業をしてこの世界を創っていくんだ」ということを覚えていられるように、お渡しします。そうしたら、皆さんにようこは必要ありませんよね。そして皆さんがその意味を本当に理解できたら、このお守り自体も必要なくなります。だけど今は皆さんにこれが必要ですから、神さまからのプレゼントとして差し上げます。

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ワンちゃん:
3ヶ月間をここで過ごし、私たちは一人ではないということに気付きました。学校ではこういった生き方に共鳴する人がなかなかいなくて、自分たちだけでやるしかないのだと思っていました。これから先、困難に出会った時には、私たちは一人ではなく、皆さんと一緒に同じ目的に向かって歩んでいるのだということを思い出します。先駆者は自分で道を創っていかなければなりませんから、それは大変な仕事です。

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ナッちゃん:
でも、諦めません!

いさどん:
これからは、みんなでひとつの目的を成し遂げていくのですよ。人間だけではなく、天も、時代も、仲間です。先駆者がくじけないのは、天とつながっているからなのですよ。

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いさどん:
ここに、ひとつの文章があります。これは誰か特定の人に向けられたものではなく、目覚めようとする人すべてに向けられたメッセージです。
皆さんへのはなむけとして、この言葉を贈ります。

 

──── そして以下のメッセージが3人に贈られました。──── 

 

ある価値観が広まるということは、その時代を生きる多くの人々が、その意識にならなければいけません。たとえその価値観が、大局から捉えれば重要なものであったとしても、それが世の中の主流になるかどうかはまた別の話なのです。
世界を大局で捉えず人智で捉えている人々にとっては、その人智で進めようとしていることが主流になるためには、革命や社会変革運動のように努力して勝ち取らなければならないかのように思えることでしょう。しかし大局で捉えている者にとっては、社会変革は時代の変遷であり、流れなのです。ですから、ただただ今行き着いた精神を日々の中で実践しながら、時が来るのを待つのが、大局で世界を捉えている者の姿勢なのです。

そういった大局的な視点で世界を捉える者たちが現れたということは、次の時代が訪れる予告でもあります。なぜなら社会の動きは時代によって生み出されているからです。ですからあなたの存在が時代の流れと共にあるならば、自らの存在に自信を持ち、信念に基づいた行動をやり続けていけば、息が切れるほど長い時を待たなくとも、現実化することでしょう。それが天意であるならば、何も焦る必要はないのです。

そして天と共にあるかどうかは、行動の結果もたらされる現象が教えてくれます。だからこそ、日常の中で出会う出来事を通して、自らの立ち位置を認識することが求められます。
時の流れを感じ、時代の大局と共にある人々の勇気を讃え、エールを送ります。

 

〈 タイに向かって旅立つ3人を、みんなでお見送り 〉
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いってらっしゃい!再会を楽しみにしています。

 


 

囚われを外したら

そこは宇宙だった

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2017年2月19日~3月18日
「1ヶ月間の真学校」開催!

何か問題が起きた時「自分は悪くないのになぜこんな事が起きるのだろう」と思ったことはありませんか。
人は問題を見つけると、とかく自分の外に原因を探し、周りを変えようとします。ところが周りはどうにも変わることなく、問題だけが積み重なり、今や家庭の中から地球規模に至るまで、どこもかしこも問題だらけの、行き先の見えない世の中となりました。
しかしそれは視点を変えれば、大転換のチャンスでもあるのです。

1ヶ月間の真学校は、人生の問題のあるなしに関わらず、生きることの突破口を開く場です。そこに特定の正解はありません。一人ひとりが客観的に自己を捉える冷静な目を養い、視野を広げ、その人らしい人生を自ら切り開いていく力を身に付けます。

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【日程】
2017年2月19日(日)~3月18日(土)
【会場】
木の花ファミリー
【定員】
15名 定員に達し次第受け付けを締め切ります。
【参加費】
18~22万円 収入に応じたスライド制です。受講料や食費など1ヶ月間の滞在費全てを含みます。
【内容】
「農」「食」「医」「経済」「環境」「教育」「社会」「芸術」と多彩な切り口の講座を通して、受講生一人ひとりの心の性質や人生の使命、そして時代の流れを読み解きながら、この世界の真実を観抜く心の目が開かれるよう、いざないます。
講座例:人格を学ぶ講座(カルマ読みと地球暦)/コミュニティ創設講座/天然循環法の畑作・稲作/ファシリテーション/世界観を広げる/菩薩の里の経済/自然療法プログラム/食養生/有用微生物群の培養/天然醸造味噌作り/創造性と芸術/カタカムナ/性と宇宙/自然災害と防災/持続可能な心の持ち方

講座詳細やこれまでの受講生の体験記はこちら!

→ 1ヶ月間の真学校ブログ

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