円が縁を紡ぐ 〜 人間からヒトへ

— 世界は常に我々に 次のA’を与えている —

 
いさどん:
昔、仕事で自宅のあった小牧市から豊田市に行くために、高速道路を走っていた時のこと。車を走らせていると、道路上の車線を区切る白い破線が、ピッ、ピッ、と後ろに流れていく。それがトキの流れに見えた。

小牧から豊田に向かうということは、小牧が過去になり、豊田は未来になる。未来の豊田から白い破線がサーッと流れてきて、過去の小牧へと遠ざかっていく。破線は次々と絶え間なく流れてきて、一瞬一瞬豊田が近付き、小牧が遠ざかるのだ。仕事が終わって帰る時には方向が逆になり、今度は小牧が未来で、豊田が過去になる。破線は小牧から豊田へと流れ、徐々に小牧が近付き、豊田が遠ざかっていく。

何だこの世界は、と思った。その時、僕は豊田から小牧へと向かっていたが、それはある場所からある場所へ移動しているのではなく、時間に乗っているのだということに気が付いた。破線の一つひとつがトキの区切りで、それが未来から現在に近付いて来て、過去へと遠ざかっていく。そんなふうに思えた。そして、横の景色が後ろに流れていくのが、出来事の流れに見えた。

当時のアメリカの大統領はレーガンだった。留まることなく後ろへ流れていく白い破線をトキの流れのように感じながら、遠い国に生きる人々も、例えばアメリカの大統領ですら、この薄っぺらな時間に乗っているのだと思った。現象として存在しているものは皆、この時間に乗っている。それはとても薄っぺらだ。このトキの乗り物からほんの一瞬でも外れたら、見えなくなる。死ぬとはそういうことだ。

もしかすると、この薄っぺらな時間から外れたら、死ぬのではなく消えるということなのかもしれない。そしてまたこの薄っぺらな時間に戻ってくることができたら、消えたものがパッと現れる。

過去というのは、薄っぺらな瞬間をトキが漫画のコマ送りのように渡り歩いてきた結果今に至って、認識しているのだから、過去は今もある。そうすると、未来も、実はある。もしかすると、我々は、トキと共にこの薄っぺらな瞬間の羅列をコマ送りのように渡り歩いているから、トキが動いて、現象が起きているように見えるのかもしれない。パタパタパタと漫画がコマ送りされて動画になるように、宇宙には瞬間瞬間がすべて存在し、延々と連なっていて、そこを渡り歩きながら我々は存在しているのではないか ――― 。

そんな思いを巡らせながら、高速道路の白線が後ろへ流れていくのを見ていた。この上に、アメリカの大統領でも何でも、すべてが乗っている。我々は時間人間だから、常にトキと共にある。この世界が流れている。

 
移ろいゆく世界

トキが止まらず、こうして動いているということを、人間はわかっているようでわかっていない。本当に早く動く。個人で言ったら、それは死が近付いてくるということだ。そして全体から言ったら、トキが進んで時代が動いているということ。そのメカニズム ――― メカと言うべきかどうかわからないが、トキの動きを発生させているのは天体の動きだ。天体の見えない歯車がかみ合って、トキという見えないものを過去から未来へと一方通行に動かしている。
そして驚くべきことは、その巨大なトキとトコロの仕組みが、また元へと還ると来ている。元といっても、A地点からA’へ行くわけだから、同じではない。そんなことを一体全体何が存続させているのだろう。それは思考してわかるものではない。あるから、あるのだ。

例えば、人間の体も同じことをしている。今日というA地点から明日というA’地点へ移りゆくように、毎日の羅列がトキと共に寿命を消化していく。ある部位の細胞が、寿命が来て垢となり、体から離れていくと、その部位には新たな同じ役割の細胞が生じ、体全体の維持を担っていく。しかしそれは、元のAではなく、1サイクル進んだA’なのだ。その連続によって、全体の老化が進み、寿命が尽きていく。
その時に、時々間違いが起きる。それが病気の元となったり、例えばガンのようなものを発生させることにもなる。なぜ間違いが起きるのかというと、人間が法則に沿って生きないからだ。しかしながら、そういった人間の性質も含めて、それが法則なのである。

DNAの中には、過去の体験が情報として刻まれている。そこには、病気を引き起こす要因など、そのものの性質を示す様々な情報がある。そこを解明し、病気の要因を取り除けば、その病気になることはなくなる。DNAの配列を病気の心配のない健康なものにすれば、完璧な設計図に基づいた健康体の見本のような人間を創ることも可能だろう。
ところが、人間には個性がある。一人ひとりがオリジナルかつユニークであるように、大本の設計図から少しずつずらして創られている。それが自我の表現であり、クセ性分であり、個性だ。既製品のように同じものを創るのではなく、すべての存在がオリジナルであることがこの世界の目的である。それが生命の特徴であり、同じものは何ひとつない。人間は自我を持ったがために法則から外れもするが、そういった人間の性質すらも法則の内にあるのだ。

そこで思うようにならない人生に出会ったとしても、悩むことではない。ただ、移ろいゆく世界を受け入れていく。それは「いただきます」ということだ。
「いただきます」とは、「頂き」が「増す」ということ。「頂き」とは頂上のことであり、それが増すということは、登れば登るほどその山がどれほど高いかがわかる、終わりなき道であるということだ。「いただきます」という姿勢が、精神性をどこまでも高めていく。

世界は移ろいゆくもの。それを、今日も昨日と同じでありたいと願ったり、今の富を保ち続けようと執着したり、何かを失うことを嘆いているようでは、移ろいゆくことに対して抵抗する心が生まれ、そこから悩みや苦しみが発生する。かつてお釈迦様は、生老病死は人として生きることの定めであり、人として生を受けることは四苦八苦に出会うことであると説かれた。生老病死は移ろいゆく世界の象徴であり、人生そのものだ。そこに抵抗するから苦しみが発生するのであり、ただ「いただきます」と受け入れてゆく精神状態になれば、四苦八苦は自ずと消える。

ともこ:
おもしろいね。例えば過去のある一時点で出来事が起き、それに対してネガティブな感情が発生したとするでしょう。そしてその後もその感情を引きずって落ち込んだりするけれど、宇宙には瞬間瞬間がすべて連なって存在し、私たちもそこを渡り歩きながら生きているとしたら、それは過去の出来事によって起きた感情がずっと継続しているのではなく、毎瞬毎瞬、そのネガティブを持ち続けることを自分が選択していることになる。世界が次へ次へと移りゆく中で持ち続けるのだから、ある意味その姿勢はすごく積極的だよね。

いさどん:
出来事自体は何も感情は表現していない。そこに感情的に反応している自分がいるだけだ。自分の中にあるクセ性分がその感情を引き起こしている。そこに気付けば、悩み苦しみはたちどころに消えるだろう。

 
世界を感じ取る

すべてのものは動いている。それを一直線に進んでいるかのように見る捉え方は、動いているものの本質をつかんでいない。本質がつかめていないと、単純なものの捉え方をする。一直線にものを見ていては、ただ左から右へと流れていくように一瞬一瞬を無自覚にやり過ごすだけで、その全容を捉えることはできない。

トキが経つとは、「今」が移りゆくということ。刻一刻と今が刻まれ、世界が移ろいゆく。今この瞬間も、トキは刻まれている。
僕は毎朝目が覚めると、「ああ、また朝が来た」と思う。日常の中でも、道路の破線が、ピッ、ピッ、と後ろへ流れていくように、「また行った」「今も行った」と、絶え間なくトキが流れ続けていることを感じる。毎瞬毎瞬、新鮮なトキがやって来る。朝が来て、夜が来て、また朝が来て、夜が来る。それを延々とくり返す。ただトキが流れているだけではなく、そこには常に新鮮な出来事との出会いがある。トキは留まることなく新鮮な瞬間を刻み、新たな出来事との出会いを我々に提供し続けている。それはとてつもないエネルギーだ。そのエネルギーによってこの世界が動いているのだが、ほとんどの人はそのことを意識せぬまま、トキのもたらす動きの中にどっぷりと無自覚に浸かっている。

なぜこれが存在しているのだろうか。このような思考回路が動き出した者には、世界はとても新鮮で不可思議なものに観える。しかしそこに意識が向かない、或いは興味のない人々にとっては、何を言っているのだろうという世界だ。言葉で表現するのは無理なのかもしれない。それは言葉で表すものではなく、感じ取るものだから。

我々はトキに乗って動いている。そうしてこの世界が移りゆくことを、時代と言う。我々生命が存在する世界を動かしているトキと時代は、生命そのものだ。
人々はその存在を意識していない。意識したとしても、それに逆らうことはできない。それは目で見ることはできない。しかし、確実にある。とてつもないエネルギーで世界を動かし、紡いでいる。それはいったい何ものなのだろうか。

 
それはあたかも銀河のようだ

トキは一方通行に、コッ、コッ、コッ、コッ、と確実に刻まれてゆく。それが昨日から今日、明日へと進むのを一直線に見ているのは、思考の幅が狭いからだ。単純な発想で見ていると左から右に動くように見えるが、ものが動くということは、そこに必ず中心となる一点がある。そして縁のあるものがその周りに集い、回転するという形になって初めて、ものが動くことが持続する。直線ではなく、円運動をしているのだ。
それは「縁」というもので紡がれる。「円運動」とは、「縁運動」でもあるのだ。縁とは、約束事。縁という見えない糸があり、それがバラバラであったものを約束のようにつないで、全体が回り、巻き込んでいく。それはあたかも銀河のようだ。

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円の中心の一点は、止まっているかのように見える。しかしその一点も、さらに大きな役割のもとに何かの周りを回っている。中心が止まっている状態になったら、外の円運動も起きない。すべてが連動して動いているからこそ、個々の円も成り立つのだ。

そう聞くと、科学する人々は「それはどういう仕組みですか」と聞いてくるかもしれない。それを解明し、立証するのがその人たちの役割だ。
インドのある聖者は、素粒子のことを「宇宙電子」と言った。インドの思想に素粒子という概念はなかったが、彼らは素粒子の存在を理解していた。では素粒子を物理的に説明できるかというと、それは物理的に解説するものではなく、この世界はそういったものでできている、ということに過ぎない。それは素粒子よりもさらに微細な、宇宙最極小微粒子である「カ」も同じことだ。物理的に説明するものではなく、それがあることを感じるものであり、それが真実だ。人間には、それを感じる能力がある。
アインシュタインが相対性理論を頭の中で思い描いた時も、その時点では物理的な裏付けはなく、後から立証されていった。今でこそ人々はそれを素晴らしいと称賛しているが、ではそれが立証される以前に同じことが語られていたら、同じようにそれを認めただろうか。物理的に立証されてもされなくても、人が「そうだ」と感じることが真実なのだ。

 
世界は生命そのもの

ともこ:
人は解明できないことを、物理的な理屈をつけて解釈したがる。それでは「なぜ生命は生まれたのか」というような話になってしまうね。

いさどん:
なぜ生命が生まれたのかというと、世界があるからだ。この世界は生命そのものであり、それを立証するために三次元生命が生まれた。その三次元生命の発生の元となっているのが縁であり、縁とはこの世界の秩序をつなぐもののことを言う。
この世界は、秩序を持って動いている。秩序があるから生命は発生する。そして秩序があるということは、その奥に、秩序を束ねている意志があるということだ。その究極を神という。なぜ生命が生まれたのかと言えば、そこに秩序があるからであり、世界が生命であるということを悟らせるために三次元生命が創られたのだ。
しかしそこに秩序が観えないものにとっては、神はいないことになる。そして生命は発生しない。秩序を観たとしても、その秩序をどのレベルで観ているのかによって、神の存在も、生命の成り立ちも、変幻自在に変化する。同じ生命であっても、その人間の意識がどこにあるのかによって観えるものが変わってくるのだ。そのくらい世界は変幻自在であり、至るところにその種は遍満している。科学が探求していく先にも、常にその答えは待っている。

この世界の成り立ちは円運動から成り、それは秩序のもとに、約束通りに動いている。約束通り動くには、軸が必要だ。すべてのものの中心には軸があり、それがもう一つ大きな軸の周りを回っている。地軸があるから地球は自転し、振動し、歳差運動をしながら、太陽の軸のもとにその周りを回っている。そして太陽もまた同じように自転しながらセントラルサン(銀河の中心)の周りを回り、銀河も同じように、さらに大きなものの周りを回っている。単独で存在しているものは何ひとつない。すべてが無限に連鎖して、その関係の中で互いの存在を成り立たせている。ということは、世界がひとつだということだ。

 
「縁」とは「円」

このように複雑な動きが、なぜ継続してあり続けることができるのか。ものとものとは、互いに存在し合うために対向発生をする。そこでは約束事のもとに縁が生まれ、円運動をすることによって縁が紡がれていく。
そこでひとつの円を区切って見ると、中心は止まっているように見える。例えば太陽暦の視点から見ると、太陽は止まっている。しかし視野を広げてみると、太陽ももうひとまわり大きな縁によって円運動をし、らせんを描きながらさらに大きなものの周りを回り続けていることがわかる。そのらせんとは、私たち生命のDNAの構造と同じだ。

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太陽系や宇宙というマクロの世界も、DNAのようなミクロの世界も、同じ構造で成り立っている。人間が人生を生きる上で出会う出来事や人間関係も、それと同じ構造になっている。おもしろいことだ。
これからの時代を生きる人々は、そのような宇宙的仕組みを理解し生きることで、個人的な欲望や野心によって生きるのではなく、大いなる意志(時代の流れ)に寄り添っていくことに目覚めなければならない。

 
混乱にも意味があり、一瞬のことである

2016年も世界中で様々な出来事が起こり、世の中は大きく混乱している。どのような対策をとっても出口を見出せない、泥沼のような混沌とした状態が続いているが、世界のリーダーたちは、表面的な対策でその解決が図られるかのように、今なお同じような対策を取り続けている。それもいずれは、無意味だということに気付く時が来るのだろう。

視野を広げて観れば、今の混乱も意味があることであり、一瞬のことであることがわかる。我々の寿命を80年とすると、冥王星の1周である248年のサイクルからしたら3分の1だ。地球の46億年の歴史を1年に例えたら、我々の80年の寿命はたったの0.7秒だ。1秒にも満たない。
高速道路の白線がピッ、ピッ、と後ろへ流れていくように、トキは留まることなく確実に刻まれていく。その中で、無数の生死が繰り返されている。そのとても巨大で複雑なメカニズムは、とても単純な仕組みでできている。ということは、ものごとを観る視点を変えれば、とても簡単に理解できるということだ。

 
その視点をあなたは持てるか

そうやって心を大きく広げながら、ふっと肉体目線になる。今、木の花では「ロータスランド」というアンテナショップをオープンさせるための準備をしているが、それもこの壮大なトキの流れからしたら、ほんの一瞬の出来事だ。そう思いながら、地上で生きている限り、その一瞬のサイクルに付き合っていくことで命が紡がれていくことを意識し、それに付き合っていく。もしもそれに付き合わない立場でトキの動きを眺めるというのなら、命を返上して上から眺めていくことになる。
上から眺めるには、意識が高くなることが必要だ。もうひとつ大きな意識の命のサイクルに入るから俯瞰できるようになるのであり、対象と同じサイクルに乗っかっていてはそれを俯瞰することはできない。そこを超えた意識になってこの世界を眺めると、全体を俯瞰しながら「ちょっと方向を変えてみようかな」というように、この世界を運営する側に立つことになる。その領域に行けるかどうか。

ともこ:
そうやって世界を俯瞰して運営するのも、自分の心を観て自分をコントロールしていくのも、同じ仕組みだね。

いさどん:
同じだよ。我々の思考回路も天体の動きも同じ仕組みになっていて、その仕組みをどこに当てはめたのかというだけだ。大宇宙に当てはめたのか、地球生態系に当てはめたのか、個人の人生に当てはめたのか。

 
トキの旅人

いさどん:
円運動には、必ず中心の軸がある。中心の軸とは、トキ軸だ。現象界は、「トキ」と「トコロ」の対向発生によって成り立っている。縦のトキ軸に対しトコロ軸という横の働きが生まれ、現象が発生し、その連なりが時代を紡いでいく。
その一部を切り取って見ると、それは十文字に見える。それがカタカムナ文字の「+」=「ト」(統合を表す)だ。しかしそれは平面上に表すからそうなるのであり、実際はトコロ軸は回転運動をしている。そして留まることなく進み続けるトキ軸にトコロ軸がついていくということは、トコロ軸の円運動は常にらせんを描くことになる。さらに、中心のトキ軸も、もうひとつ大きなトキ軸の周りを回っており、それもらせん運動になっている。とても複雑な関係だ。

すべての現象は、円運動をしている。その円運動の関係の中で出会う現象に自らがどのような縁を持っているのか ――― 近いのか遠いのか――― それによってトコロが移り変わり、互いに対向発生をしながら円運動を続けていく。それが人生だ。
円(縁)は無限にあり、そのすべての中心をトキ軸が貫いている。つまり、この世界はいたるところがトキ軸だらけだ。我々の体はおよそ60兆個の細胞から成っているが、その細胞の一つひとつをトキ軸が貫いている。なんという宇宙ロマンだろうか。

そしてらせんを描いているということは、そこには必ずサイクルがある。円の一つひとつに固有のサイクルがあり、我々の一生である80年というサイクルもあれば、虫の一生である何ヶ月というサイクルもあり、バクテリアなら何秒ということもあるかもしれない。星々なら何十億年、何百億年だ。ミクロからマクロまで、無数のトキ軸が複雑に連鎖しており、そのすべてを束ねて貫くのも、トキ軸だ。その仕組みが理解できると、トキを紡ぐ時代は生き物であり、その時代を生きる我々は、トキの旅人であると言える。

縁が切れれば円運動は止まり、現象が消える。それは、円運動が縁を継続させているということだ。

ともこ:
昨日、なぜ日本の通貨の単位は「円」なんだろうと考えていたら、ちょうど今日いさどんから円の話が出てきたのがおもしろい。

いさどん:
お金は社会の血液であり、世の中を巡り巡って隅々までをつなぎ、また戻ってくる。すべてが円運動だ。そしてそれは、縁で紡がれていく。我々の体の中をめぐる血液と同じ仕組みであり、役割だ。

ともこ:
私たちの命も円運動によって成り立っている。円運動がなくなれば、トキ軸が消滅し、現象も消える。

いさどん:
それが死だよ。寿命というのは、例えるならはずみ車の動きのようなもので、回転が始まると縁ができて、そこにひとつの生命としての形が成り立ち、その生命固有のサイクルが始まる。そしてその回転が終わる時が寿命だ。回転が強くて広いほど長いサイクルになり、弱ければ短いサイクルになる。それが他の円運動と複雑に連鎖して、壮大な生命の織物を織りなしているのがこの世界の実態だ。

 
すべては宇宙の始まりから終わりまでを紡ぐひとコマ

ともこ:
なぜ自分は存在しているのだろう、と思う。縁によって紡がれた結果「私」という形が存在しているけれど、そもそもなぜ縁は発生するのか。少なくとも自分で意図して私を私たらしめている気はしないのだけど、縁が発生するということは、そこにやはり意図が働いているということ?

いさどん:
縁は、意図が働くことで生まれる。意図とは、糸だ。縁という見えない糸がバラバラのものをつなぎ、回転が起きて、現象(形)が生まれる。

人間には、自らが認識している自分と、認識できていない自分とがある。それはどういうことかと言うと、人間はある段階に至ると、それまで認識せずにいた新たな自分を発見する。しかしその自分とは、認識する以前からずっとあり続けたものだ。
現在の自分が成立する以前から、自分というものはある。過去の自分がつくったものが因となり、その結果として現象が現れる。それを因縁という。この世界は、因縁にふさわしく現象が起きる因果応報の仕組みで成り立っている。遠い過去からずっと続いてきた物語として現在があり、今この瞬間も紡いでいる縁が次の出来事につながり、そこからまた新たな縁が生まれて次の出来事へとつながって、物語は未来へと続いていく。因縁の始まりは宇宙の始まりであり、因縁の終わりは宇宙の終わりだ。それは永遠に続くということ。すべての存在は、宇宙の始まりから終わりまでをつないでいるひとコマだ。

宇宙の終わりとは、潜象界に還るということ。成住壊空で言えば、「空」の状態だ。空とは永遠であり、我々現象界の存在には解釈できない世界だから、一瞬の点であるとも言える。
宇宙は、誕生、維持、破壊、空という成住壊空のプロセスを延々とくり返している。その終わりのひとコマは、次の始まりのひとコマと重なっている。そこは空であり、永遠だ。しかし我々現象界の者には、終わりが即始まりであるかのように見える。法華経に「三千塵点劫(さんぜんじんでんごう)」という言葉がある。宇宙は誕生から消滅までを三千回繰り返してきたのだと言う。三千回というのは、それだけ気の遠くなるほど、無限にくり返しているということだ。

それだけのスケールでものごとを考えるようになると、身近なことに囚われなくなる。しかし囚われないからと言って、今目の前にあること、例えば朝起きたり、食事をしたり、仕事をするという日常のことをおろそかにするということではない。すべての現象は自らの意識レベルにふさわしく存在するのだから、それを無きものにしてはいけない。それは壮大な宇宙ドラマからすれば瞬時のことであるのだから、囚われる必要もない。囚われずに、情報としてそれと付き合っていくことだ。

 
人間にとって最大のテーマ

人々は物語の一部を切り取り、それを自分だと思っているが、すべてがつながって現在の自分がある。その一部を区切って捉えていては、真実にたどり着くことはできない。瞬間瞬間紡がれている因縁によって現象は次へ次へと変貌し、そのうちに過去が記憶の彼方へと追いやられると、今記憶している自分だけが自分であるかのように思うのだが、記憶の彼方の自分が築いた因縁の結果が、今のあなた自身だ。ということは、自分は宇宙そのものである、ということになる。

ようこ:
「インネン」の思念をカタカムナでひも解くと、「イ」は「位置」を意味する思念で、「ン」はその思念を強めるもの、そして「ネ」は「根」を表している。つまり、位置が特定されるとそれが根のように見えないところでぶわぁっと広がっていく。それが因縁なんだよ。

いさどん:
つまり因縁とは、とても根深いものだということだ。過去の因縁の結果が今に現れているということは、逆に言うと、今起きている現象が、見えない根、即ち過去の因縁を示しているとも言える。つまり、現在の自分自身を深く観察すれば、過去世に想いを馳せなくとも、自らが過去にどのような歩みをしてきたのかが観えるということだ。

ともこ:
同じ出来事であっても、それをどのように解釈するかという瞬間瞬間の自分の心の状態が未来の縁を紡いでいく。

いさどん:
意識が高いのか低いのか、広いのか狭いのか、それによってトコロ軸の振幅や、サイクルの緻密さが変わる。それをどう表現するのかは、自分次第だ。人にはそれぞれその人固有の歴史があり、過去の体験をもとにした情報がその人の人間性や性質によってDNAに刻まれていく。その情報が元となり、未来が創られていく。だから縁を紡ぐ意図とは、生命輪廻を司る宇宙法則そのものであり、その人自身の意図でもある。

ともこ:
だけどこういう仕組みを知らなければ、意図も無自覚な意図になる。それでも意図と言えるのだろうか。

いさどん:
それは無自覚に紡いできた意図が、無自覚に表現されている状態だ。それを自覚して生きる状態になれば、生きること自体を自己コントロールできるようになる。それがどんどん拡大していくと、生命であるこの世界を運営する側にまで育っていく。自分すらもコントロールできずに翻弄されて生きるレベルもあれば、この世界を運営する側に立つ者にもなれるのだから、人間の可能性は本当に幅が広い。
可能性を開くには、そこを探求する意欲が必要だ。それを求める意欲があれば、トキはそこに到達するために動く。このトキという列車の行き先は、意図によって変わっていくのだ。意図が働かなければ、単なる無自覚の時間がどんどん経つだけになる。それを無自覚の意図と言う。

ともこ:
例えば何かの事故に出会えば、多くの人は自分を被害者にして相手を責めるけれど、それも実は過去の自分が築いた因縁によって出会っている。そうかと言って、じゃあ全部自分が悪いんだとすればいいのかというと、そういうことでもないね。

いさどん:
それは、ものごとの成り立ちを学ぶ学習の機会だからね。だからこそ、そこに感情が入ってはいけない。感情を入れずに客観的に捉えれば、それは学習の機会となり、この世界を理解するための積み重ねとなっていく。そのことによって自らのキャパを広げ、より高く広い意図のもとに人生を歩むことができるようになる。
逆に言えば、自らの感情に囚われて特定の概念でものごとを解釈していては、いつまでもそれを学習の機会とすることはできず、同じ状態に留まり続けることになる。それは、常に変化変容し続けるこの世界からしたら、落ちていくということだ。世の中には、自らが感情的になっていることすらわからない人々がたくさんいる。冷静に判断しているつもりでも、実は無自覚な感情に基づいて判断しているのだが、本人にはそれがわからない。現代は、そういった人々の感情が募り、国家規模で感情と感情のぶつかり合いが生じ、それが難しい時代を創る大きな原因となっている。
自らを冷静に観て、自身が何者であるかを知るということは、人間にとって最大のテーマだ。自らがどのような状態でいるかによって、可能性を限定することにもなれば、どこまでも無限に広がっていくことにもなるのだ。

 
壮大なるクセ性分

縁は、円によって継続していく。トキ軸の動きは一直線に見えるが、区切らずに見ればすべて円運動になっている。円運動がトキ軸の動きに連動すると、らせんとなる。太陽系の惑星たちがらせんを描きながら太陽を回り、太陽もまたらせんを描きながら銀河を回って宇宙を進んでいく動きは、この世界の構造そのものだ。

太陽系の惑星には、それぞれに個性がある。「伝達」や「素早さ」を表す星である水星は太陽の一番近くを高速でクルクルと回り、「愛」や「美しさ」を表す金星は安定して美しい真円の軌道を描き、地球は微妙な楕円軌道をグゥウン、グゥウンとグルーヴを刻みながら回り、「情熱」や「行動」を表す火星は極端な楕円を描きながらダイナミックに回っている。軌道もスピードもそれぞれで、その動きはクセ性分そのものだ。太陽の周りをその星らしく回りながら、互いに連携し合い、共に進んで、全体がハーモニーを奏でている。
それぞれの星はクセ性分のまま一定のリズムでサイクルを刻み、ワンパターンに進んでいる。それが個性として約束通りに存在しているから、互いに連携することができる。太陽系のトキ軸は太陽だが、太陽もまたクセ性分のままに、約束通りに進んでいる。

ともこ:
そうか!クセ性分とは秩序なんだ。まったくクセがなく完全にフリーだったら、そこにサイクルは生まれないから、約束もできず、連携しようがないよね。

いさどん:
そう。クセ性分が秩序だ。木の花ファミリーというコミュニティで言うと、僕がトキ軸で、みんなはその周りをクセ性分のままに回っている。僕が向かうべき方向を示すと、それに沿っていく者もいれば遠く離れていく者もいて、もう戻って来ないのかと思えばやっぱりメンバーだから遠回りしながらも戻ってくる。
クセ性分とは、言い換えれば個性のこと。自らがどのような特性を持ち、全体の中でどのような動きをしているのか。ただ無自覚にクセ性分のまま行動すれば全体の調和を乱すことにもなるが、それを客観的に捉え個性として活かせば、多様性を広げ、全体の可能性を開くことになる。なくすのではなく、有効利用するということだ。
クセ性分があるから、この世界に動きが生まれ、現象が起きる。人間も惑星も銀河もクセ性分を持って存在している。その究極の壮大なるクセ性分が、神の実体だ。

ともこ:
そうだね!神様にクセ性分があるから、世界に秩序があるんだね!地球や太陽が秩序を持ってらせん運動をしているから、毎日同じように朝が来て、夜が来て、四季が生まれて、私たちの命の営みが可能になる。もしも秩序がなくてみんなバラバラに動いていたら、四季もなければ一日もないから、作物を育てようにもいつ種まきしたらいいのかもわからないし、そもそも生命自体が発生しようがない。クセ性分があるからこそサイクルが生まれて、生きていける。

いさどん:
それは命の約束事だ。神のクセ性分というルールの中で、すべてのものは存在している。
星々は一つひとつが本当に個性的だ。そして単独で見ると偏っている。例えば木星は「拡大」や「発展」が役割であり、土星は「制御」や「そぎ落とし」が役割だが、拡大ばかりでも、そぎ落としばかりでも、コミュニティは成り立たない。単独では成り立たないものが集い、それぞれの個性を表現しながらネットワークすると、全体でバランスが取れていく。一つひとつは個性的で偏っていながら、全体が調和している。それが宇宙の法則だ。
庶民が目覚めるとは、そういうことだろう。中国の天盤の巡りによれば、21世紀は「庶民の目覚めの時代」だと言う。これまでは「豊かさとはこういうものだ」とか「優秀であるとはこういうことだ」というように、それぞれのイデオロギーや宗教によって定義付けをし、皆が一律に同じ理想を追い求めてきたが、宇宙の実体はそうではない。あなた自身が、実は極めて個性的で、他にはないオリジナルな存在なのだ。そのことに無自覚でいると、個性は単なる不調和の原因ともなり得るが、それを十分に理解し、自分にしかできない役割を果たすことで社会に還元していけば、「ここにあなたがいてくれてよかった」というように、あなた自身が活かされていく。そのハーモニーを創るのが庶民の時代だ。一律の価値観で既製品化していくのではなく、誰もが個性的で、活かされる。そうしたら、いらない人はいない。それはとても豊かな世界だ。

 
当たり前の「宇宙評論家」

ともこ:
いさどんを見ていると、楽しそうだな、と思う。いさどんは何かをする時に、一人でやるということがないでしょう。例えばプレゼンを作る時はみかちゃん、鬼の面ならりょうちん、木の花菌ならひろみちゃんというように、場面ごとにいろんな人やチームと、木の花のメンバーに限らず外の人ともパートナーシップを組んで事にあたる。それだけ個性的な人たちと何かをすれば、それぞれに違った世界がそこに生まれる。一人では表現できなかったことが可能になっていく。それはこの世界の仕組みそのものだと思う。

いさどん:
それはとても面白くて楽しいことだよ。僕は全てを与えられているわけではない。感覚的なことや智恵が湧き出すことはあるが、それを全て自分でやろうとしたら、やりきれないだろう。例えば鬼の面でも、今回はこういうものだというひとつの感性のようなものはあるが、それを創る人は別にいる。いろいろなことに関わってそこに何かを提供しながら、どれも自分がやっている気持ちでありながら、実はどれも自分一人ではやれない。そこにいろいろな人が個性を発揮しながら関わっていくことで、普通ではできないようなことがやれるようになる。これからは、そういった個人の活かし方の時代が始まるのだろう。

ともこ:
それはどこでも起こり得るのだろうと思う。今はまだ、意識が自分という枠の中に囚われているから各自がバラバラに動いているけれど、意識が解放されていけばどこでもそれが起きるようになる。

いさどん:
自分の中で自己完結したいと思う人間は、一人でそれを抱える。僕は表面を泳いでいるようなものだ。いろいろなことに関わりながら、どれひとつ、一人でやっているものはない。それもひとつの個性なのだろうね。

ともこ:
いさどんは、悩む時でも自分のことではなく人のことで悩んでいる。

いさどん:
「どうしたらいいだろうか」と思うのは人のことばかりだね。自分のことは、「こういう性質のものだ」と捉えているから、そこに感情が動くことはない。それが一種の定めとも言えるだろうか。定めと言うと固定されているもののようだが、固定されているのではなく、あえて言うなら「宇宙評論家」のようなものだ。

ともこ:
それも個性だね。

いさどん:
しかし僕が語っている内容自体は、個性的ではない。僕が語っているのはこの世界の法則であり、個性的でも何でもない、当たり前の話だ。人々はなかなか自我から抜け出せず、世界を客観的に観ることができないから、僕が個性的に見えるかもしれないが、ひとたびその視点に立てば極めて当然のことを語っているに過ぎない。
生命は皆一定のサイクルでらせんを描いており、トキが昨日から今日、明日へと進んでいく日常はらせん構造だ。もともと星がそのように動いているのだから、我々もすべてその仕組みによって成り立っている。その一部だけを切り取って、わからないと否定する自我のフィルターをかけ、新たな情報を取り入れようとしない姿勢を取っていると、「理解できない」という結論になる。しかし、囚われのない姿勢でそれを情報として受け取り、道理に沿って考えてみれば、当たり前に理解できることだ。

ともこ:
その中で毎日生かされているんだものね。今こうして世界の仕組みを聞いて、改めて「すごい!」と感動しているけれど、こんなふうに驚いていること自体が、いかに日々そういうことを観えずに生きているかということだね。

いさどん:
それだけ視野が狭いということだ。自分の身近なところしか見ていない。

ともこ:
昔、時計もカレンダーもなかった時代には、人々は天体の動きを観て季節の巡りを知り、それを狩猟や農に反映することで、生活を成り立たせていた。天体が世界の移り変わりを教えてくれる唯一の手掛かりで、そこに意識を向けることで命をつなぐことができた。生きることと天体の動きが直結していたんだね。

いさどん:
かつて人々は、天と対話していた。そして宇宙を生きていた。その瞬間の空気を感じ、湿度を感じ、天変地異や獣の脅威なども直観でかぎ分け、そこから逃れて生きてきた。それだけ鋭い直観力を持っていたということだ。
その直観とは、天の天体の動きを感じとるものであり、一瞬の危機、即ち点を感じとるものでもあった。それによって自らの命を継続させることのできた者がDNAを未来へつないできたのであり、その末裔が我々だ。つまり我々は、天と点を感じ取る直観のDNAの延長線上に生み出された遺産のような存在なのだ。
しかし、現代の人間はそれをすっかり忘れて物質的な欲望に溺れ、本当に必要なものを嗅ぎ分ける直観力が麻痺している。それ故に、生命にも、社会にも、現代は大きな混乱が生じているということだ。

 
点(一点)とは、天(宇宙)である

トキは絶え間なく流れ、瞬間瞬間未来が近付き、過去が遠ざかっていく。そしてそれは円運動だから、1周して戻ってくるのだが、1年というサイクルであっても一生というサイクルであっても、同じA地点に戻るのではなく、1らせん分進んだA’地点に至ることになる。

回転が止まってトキ軸が消滅すれば生命は終わるが、その生命を構成していた要素はそれぞれの微細なサイクルに入る。肉体は、人間としてのサイクルが終われば、原子のサイクルに戻り、やがてまた次の役割のサイクルへと組み込まれていく。死とは、どのサイクルに所属するのかが変わるだけのこと。毎日体の一部が自然に還っていくことや、食べ物を取り入れて体の一部にしていくことは、生死の連鎖であり、円(縁)運動であり、らせん運動だ。

ともこ:
この間、「出発(たびだち)プロジェクト」について話し合っている時に、みかちゃんが生命の仕組みの図を描いた。図ではトキ軸は一直線に描かれていて、ずっと同じように流れて見えるけれど、あの図の「人生」以外の部分、つまり死の期間というのは「点」なんだと言っていたね。

みかちゃんが描いた生命の仕組みの図
みかちゃんが描いた生命の仕組みの図

いさどん:
死には、二つある。一つは、現象界(ある世界)の死。それは「見える世界」と「見えない世界」を行き来しており、肉体は解体されても、魂は解体されない。そしてもう一つが、潜象界(ない世界)の死。魂が解体され、すべての源である潜象界へと還り無に帰する、悟りの結果至る世界だ。

目に見える形の世界を成立させているのは、その奥にある目には見えない世界だ。心や人間性、物の性質といったものは、目に見えない。その「見えない世界」と「見える世界」の対向発生によって成り立っているのが、現象界だ。そこでの死は、見えるところから見えないところへ行くということ。そしてある一定の期間が経つと、また見えるところへ戻ってくる。見える、見えない、見える、見えない、というサイクルをくり返しているのが現象界の生死であり、そこにはずっと一定のトキが流れ続けている。

structure-of-world

それに対して、潜象界の死は消滅である。消滅するということは自我のなくなった状態だから、そこでは何かを解釈するということ自体が存在しない。トキも消滅する。だからそこは点であるとも言えるし、我々生きている者が解釈できないサイクルに入ったのだから、ものすごく長いとも言える。それは、「あってあるもの、なきてなきもの」。長くて、短い。それを現象界の思考で捉えていては、てんでわからない。(チーン♪)点(一点)とは、天(宇宙)なのだ。

現象界(ある世界)は「見える世界」と「見えない世界」から成る二重構造となっており、さらにその源である潜象界(ない世界)までを含めると、世界は三重構造になっている。「見える世界」と「見えない世界」が対向発生をしているように、「ある世界」と「ない世界」も対向発生をしているのだ。

現象界の生死のサイクルは「見える」と「見えない」が交差する二重らせん構造だが、そこに潜象界の生死のサイクルを加えると「ない世界」までを行き来する三重のらせん構造になる。現象界の中だけでのらせんと、潜象界までを含めたらせんがあるのだ。そしてその中心を、トキ軸が貫いている。
現象界のサイクルではトキはずっと一定に流れ続けているが、潜象界までを含めたサイクルではトキは流れたり止まったり、流れたり止まったりしている。そうして宇宙は発生と消滅を繰り返しており、そのサイクルを図に表すと、蓮根のように見える。それが「蓮根宇宙」だ。

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ようこ:
「トキ」も「トコロ」も、「統合」を意味する「ト」から始まる。その統合が「発生(起・キ)」しているのが、「トキ」。そして「トコロ」の「コ」は転がり出ること、「ロ」は中空状のものを表している。つまり、トキという統合したエネルギーが流れていて、そこから転がり出てトコロが生まれ現象が起きるのだけれど、それは実体のない移ろいゆく中空状のものだということ。

いさどん:
トコロが発生するということは、そこに現象が起きるということであり、それは目に見えるから確実なもののように思える。しかし、目に見える形というのはどんどん移りゆくから、実際はつかみどころがない。「見える世界」とは、つかみどころのない世界なのだ。だから、現象界を「諸行無常」と言う。
我々は形を持って「見える世界」へ現れるが、それはいっときの姿であり、形の奥にある「見えない世界」こそが我々の実体であると言える。そしてそのどちらの世界もトキと共に流れ、移ろいゆくものだ。

ようこ:
トコロは中空で、中が空っぽであるからこそ、トキ軸がそこを貫くことができる。

いさどん:
トキだけでも、トコロだけでもこの世界は成立しない。それは対向発生して同時に双方を成り立たせている。

 
「わかったか?」

ともこ:
神様はおもしろい世界を創ったね。

いさどん:
ひも解けばひも解くほど、「ここまでくまなく散りばめられているのか!」と感動するほど、目には見えない微細なミクロの世界から巨大なマクロの世界まで、すべてが同じ法則のもとにあり、本当に緻密に配慮され尽くしている。しかしその法則とは、とても単純だ。この世界の隅から隅まで余すところなく配慮された本当に緻密な世界を創りながら、その仕組みはミクロからマクロまでが極めてワンパターンに連なって、壮大な世界が創られている。
僕はこの世界を創られた大本の実体に想いを馳せると、そのあまりの素晴らしさに「よくぞここまでやりましたね」と感動して、愛おしくなるくらいだよ。そう思っていたら、今、あちらの方からニヤッとして、こう返ってきた。「わかったか?」
想いを共有し合えた ―――――― すごいね。

そこに宇宙の実体がある。我々人間の思考が法則に馴染んでいくと、その実体はどんどん解明されていく。しかしそれは永遠のもの、無限のものであり、どこまでも先がある。

今、地球上で、人々は宗教の名のもとに神を語る。しかしそれは、自らの感情に乗せて神を見ている。だから神の名のもとに対立が生まれ、戦争が起き、人々が死んでいく。いかに狭い視野でものを見ていることか。
感情に乗せては、神の実体は観えない。感情に乗せているということは、自分自身のクセ性分のままにものを見ているということ。それでは実体は観えない。真実は観えない。感情を抜きにして、自分自身のクセ性分も抜きして、自らをフリーにして感じ取ることが大切だ。それは感じ取るものだから、言葉で語ることはできない。
だからこそ、まずは自分を知るということ。自らのクセ性分を知り、いかに偏ってものごとを観ているかを客観的に知ることが、この世界を知るきっかけになる。

ともこ:
でもなかなか人間にはそれができない。伝えられても伝えられても、自分の実態が見えない。

いさどん:
それは自分の内側からしか外を見ていないからだ。自我というフィルターを通してしかものが見えていない。自分がある限り、その自分の内側から外を認識する目線はあるのだから、それはそれでいいのだが、同時に、自我のフィルターを抜きにした外側から同じように自分を観る目線が必要なのだ。それは、自らと他者との距離がなくなるということ。他者の目線が自らの目線であり、自らの目線が他者の目線になる。そこは何の境もない、「あなたは私、私はあなた」という世界だ。そのあなたと私の差を取ることが、差取り=悟りにつながる。

その世界を体現するためには、人々は群れて、運命共同体として生きる必要がある。その昔、厳しい自然の中を人々が群れというひとつの生命として生き残ったように、我々はもう一度群れて、コミュニティがひとつの生命として生きることによって、この世界の真実を現していく。それは、個が個に走り過ぎて自我からしかものが見えなくなった現代社会が混乱から抜け出す、唯一の方法だ。それをやらずして、いくら理想世界を語ろうとも、新しい世界は生まれてこない。
さて、そのことを解釈できる精神状態に到達できるかどうか。そこにすべての答えがある。

ともこ:
神様がニヤッと笑いかけた心を、いさどんと神様は共有している。今こうして話を聞いていると、私もその心を感じるよ。

いさどん:
僕は神の存在を感じると、涙が出てくる。

ともこ:
いさどんは、ただその心をみんなに伝えようとしているだけなんだよね。みんなで感じて、心通じ合おうとしているだけなんだよね。

いさどん:
僕は神を感じ、その偉大さを何とか人々に伝えようとする。しかし「神はいる」と言うと、人々は自分の意識レベルで「神はいる」と考える。するともう、そこで心は通じていない。
神の偉大さを語れば、人々は自分の中の概念で偉大さを解釈する。するとやはり偉大さは伝わらない。そこで「それは感じ取るものだ」と言うと、人々はやっぱり自分の意識レベルで感じようとする。どうやっても通じない。
それは無理なことなのかもしれない、と思う。今のあなたのようにその場面に出会った人は、その場に漂う空気を感じて「そういうことか!」と感じることができる。感じるためには、ただその場にいるだけではなく、そこに寄り添う姿勢が必要だ。しかし自分流の概念を保っている者は、どこまでも自分流の解釈をする。だから心通じ合うことができない。――― それも仕方のないことだね。

ともこ:
本当に、ただ通じ合おうとしているだけなのにね。みんな自分の自我を通して見るから、それがわからない。

いさどん:
神はこの世界の実体だから、どの切り口からでもアクセスし、感じることができる。それは、宗教が積み上げてきたものとは違う。目的が違う。宗教とは本来、願い事を叶えたり救済したりするためのものではなく、この世界の実体を理解するための道なのだよ。
こうして言葉にした時点で、既に微妙に違っている。この世界の実体を理解すると言うと、人間的には知識として学習するかのような話になるが、そうではない。自分自身が世界そのものであり、その一体感を理解して存在するということだ。
――― そこまで行くと、地球上の出来事など、どうでもよくなるね。切り口は無限にあり、そのどこからでも「もう何でもいい」という心にたどり着ける。それはある意味「無」の境地だ。しかし現象は無ではなく、「ある」。実体はあるのだ。

ようこ:
例えば大人ミーティングの場でみんなが「ああもう何でもいいね」という心になったら、それは全体がいい段階まで来ているという証だね。

いさどん:
そういった場ができると、訪れる人が「あれ?ここはどこだろう?」と不思議な感覚になる世界ができる。

 
自我は満たすものではなく、超えていくもの
~ 人間から、ヒトへ 〜

今、来年3月21日のプレオープンに向けて、ロータスランドの準備が進んでいる。昨日、数ヶ月ぶりにここを訪れたYさんが、「ここがものすごく変化していることを感じる」と言っていた。ロータスランドの一部はカフェになる予定で、食事のカロリーを表示する必要があると思っていたら、ちょうど彼女は管理栄養士としての実績があり、ぜひロータスランドの運営に関わりたいと言う。彼女は夢を追って九州に行き、一生懸命やったもののうまくいかなくて僕のところに相談に来て、ロータスランドの話に出会った。
ロータスランドは、我々が意図して始めたわけではない。ただその時々の出会いをいただき、流れに沿って進んでいくと、今回の彼女との出会いのように必要な時に必要な人やものとの出会いが訪れる。彼女はこれまで一生懸命自分で考えて計画を立ててやってきたが、何もうまくいかなかったと言う。僕がロータスランドの計画がどのように出来上がってきたかというこれまでの経緯を話すと、「どうしてそんなにうまくいくの?」と言うので、「それは縁をたどっていくからですよ」と答えた。
自分の頭で考えて企むと、縁を無視した自我の欲求によってやることになるから、うまくいかない。この世界には、トキを軸としたトコロのサイクルがある。そのサイクルから外れるということは、この世界の実態から外れるということ。そのサイクルに乗れば、ことは自然と流れていく。そして物事(トコロ軸)は自ずと成っていく。それには、ある境地に至らないと出会えない。

何かひとつ行き詰まっても、例えばAで行き詰ってもA’があるように、行き詰まりの先に次の世界があるからこそ、突破口は開かれる。同じように見えても、そこに現れるのは1サイクル進んだA’であり、前とは違うものなのだ。そこで、自我を超え、「答えをいただく」という精神になることが肝要だ。自我は満たすものではなく、コントロールし、超えるものである。その精神になると、流れに沿ってやるべきことが自ずと湧いてくる。
人間は、自我によって自らを生かそうとし、いろいろなことを企む。しかし、自我を超えてこの世界を観てみると、世界が我々に秩序を与え続けていることがわかる。世界は常に我々に、次のA’を与えている。理解しようとしまいと、我々はその仕組みの中で生かされているのであり、今日は常に、昨日とは違う新鮮な世界なのだ。

その仕組みを理解した時、人間は「ヒフミヨイムナヤコト」と進む宇宙の始まりから終わりまでを理解する存在 ―――― 即ち、「ヒト」となることだろう。

大宇宙は巨大な生命だ。銀河、太陽系、地球、生態系、国家、我々の体、細胞の一つひとつまで、すべてが相似形になっており、とてつもなく巨大なマクロの世界も、目には見えないミクロの世界も、すべてが同じ仕組みで動いている。この世界は相似形の渦だ。

いったい誰がそれを動かしているのか。
それは「大いなるもの」としか言えない。

 

 


 

囚われを外したら

そこは宇宙だった

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2017年2月19日~3月18日
「1ヶ月間の真学校」開催!

何か問題が起きた時「自分は悪くないのになぜこんな事が起きるのだろう」と思ったことはありませんか。
人は問題を見つけると、とかく自分の外に原因を探し、周りを変えようとします。ところが周りはどうにも変わることなく、問題だけが積み重なり、今や家庭の中から地球規模に至るまで、どこもかしこも問題だらけの、行き先の見えない世の中となりました。
しかしそれは視点を変えれば、大転換のチャンスでもあるのです。

1ヶ月間の真学校は、人生の問題のあるなしに関わらず、生きることの突破口を開く場です。そこに特定の正解はありません。一人ひとりが客観的に自己を捉える冷静な目を養い、視野を広げ、その人らしい人生を自ら切り開いていく力を身に付けます。

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【日程】
2017年2月19日(日)~3月18日(土)
【会場】
木の花ファミリー
【定員】
15名 定員に達し次第受け付けを締め切ります。
【参加費】
18~22万円 収入に応じたスライド制です。受講料や食費など1ヶ月間の滞在費全てを含みます。
【内容】
「農」「食」「医」「経済」「環境」「教育」「社会」「芸術」と多彩な切り口の講座を通して、受講生一人ひとりの心の性質や人生の使命、そして時代の流れを読み解きながら、この世界の真実を観抜く心の目が開かれるよう、いざないます。
講座例:人格を学ぶ講座(カルマ読みと地球暦)/コミュニティ創設講座/天然循環法の畑作・稲作/ファシリテーション/世界観を広げる/菩薩の里の経済/自然療法プログラム/食養生/有用微生物群の培養/天然醸造味噌作り/創造性と芸術/カタカムナ/性と宇宙/自然災害と防災/持続可能な心の持ち方

講座詳細やこれまでの受講生の体験記はこちら!

→ 1ヶ月間の真学校ブログ

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