ポケモンGOに熱狂する人々がロシアのドーピングを批判できるのか

今、ロシアのドーピング問題が世界中で批判されている。そもそも、ロシアのドーピング問題というのは旧ソ連の時代からあった。その極めて極端な事例が旧東ドイツの事例だ。
東ドイツという人口も少なければ国力も弱い国が東欧の中にあり、優秀でプライドの高いドイツ人は国威発揚のために、ソ連の方針に沿い、スポーツを利用して国をまとめようとした。プロパガンダのひとつの手法としてスポーツ振興を図ったのだ。しかし今、東ドイツという国はなくなり、その実態が暴き出されて、いかにひどいドーピングが行われてきたのかが明らかになってきた。それは国威発揚のため、国策として行われていた。
その根本には、共産主義国の人々が自らのイデオロギーこそが優れているということを訴えたい、もしくは国家を存続させるために国民の結束を図るという国家的な意図があった。
90年代に陸上女子で一世を風靡した中国の馬軍団も、組織的なドーピングがあったことが告発された。女性が異常なまでの筋肉を持ち、大会に出れば出るほどメダルを獲得していくという時代が一時あったが、ある時にふっと消えてしまった。本当に純粋な指導力によって成績を残していたのであれば、そのような現象はあり得ないはずだ。
スポーツの世界であっても、国家的欲望の延長線上にルール違反を犯す。そこは問われなければならない。しかし、それは一種のトカゲのしっぽ切りのようなものだ。人々は表面的にものごとを捉え、誰かを悪者に仕立て上げて、批判している。ではなぜそれが起きたのかというと、その根本的な原因はもっと奥の深いところにある。今、西側諸国を中心に世界がロシアの行為を批判し、裁定を下しているが、検証すべきはその行為の奥にある、根本的な原因なのだ。

もともとオリンピックとは、アマチュア精神に基づくものだった。お金とは無関係のものであったはずだが、それがいつしか商業主義になってしまった。
例えばかつての東側諸国や北朝鮮のような国では、国威発揚のために良い成績を残した選手には、一生食うに困らないよう特別な配慮がなされる。では西側諸国はどうなのかと言うと、アメリカがその最たる事例だが、スポーツ選手がタレントになってしまった。そして異様なまでのお金を稼ぐようになった。そういった人々を周囲は持ち上げ、芸能界と同じように人気商売になってしまったのだ。
日本の相撲界でもそうだが、結局はお金が目的になっている。欲をくすぐり、お金を獲得しようとする欲望を満たすためのエネルギーが、スポーツの記録を上げている。お金に釣られているのだ。
相撲はもともと日本の国技として、神事であったが、今の力士の精神からは、そんなものは消えてしまった。相撲は厳しい稽古を究めなければ地位も上がらず、大きな怪我をすることもあり、その真剣さの中に神が降りることもあっただろう。しかし、今現在横綱に日本人がいないことも、今の相撲界の状態を表している一つの現象と言える。モンゴルの力士は出稼ぎに来ているようなもので、懸賞金が目的になっており、本来の国技としての、神事であることが忘れられたように見受けられる。

かつてヒトラーは、国威発揚のためにスポーツを利用した。スポーツで自国を応援するということは、そこに敵と味方を創るということだ。それを競わせて、自分の側が勝つことを国民の共通の喜びとしてきた。それはある意味、プロパガンダとして利用できる手法でもあった。
日本でも、日ごろから大して日の丸を大事にしていない人でもオリンピックの表彰台に日の丸が上がるととても喜ぶ。スポーツを通して競争心をくすぐり、それが高ずることによって対立を生み出してきたのだ。
国を率いるリーダーたちは、人が共通の目的の元に群がることによって、自分たちを正義とし、対象を悪とすることで国をまとめてきた。人は、自らに近いものを支持する。しかし本来、近いものも遠いものも一緒になって考えることによって、健全な世界を求めていかなければならないのだ。

スポーツをプロパガンダとして利用する要素は今も残ってもいるが、多くの人々にとっては、最終的にはお金を求める手段となってきている。スポーツ自体が、人々や地球社会に良いものをもたらすとは限らなくなってきているのだ。
現代は、優れた能力を与えられた人が、その能力を自らのためだけに使って異常なまでのお金を稼げるようになっているのだが、本来、そういった能力は天から与えられたものとして、世の中に貢献するためにあるものである。そういった精神を忘れてしまった今の世の中の仕組みは、物事の本質を忘れ、狂っている。スポーツの世界で言えば、勝ち上がることができるのは、たくさんいる中のほんの一握りどころか、ほんの一粒の人たちだ。それを子どもたちの夢だ何だと言って世の中が称賛し、そのほんの一粒をみんなが目指そうとする世界を創っている。その構造自体が、不正をしてまでも獲得したくなるようなものになっているのだ。
本来、優れた能力とは、自らの利益のために使うのではなく、社会に還元するためにある。しかし現代は、人間が個人の欲望を満たしていく時にそれを独占しようとする醜い心を持っており、その心によって生み出される現象が極みを迎えている。お金が目的の世界で起きることと、お金が目的ではない世界で起きることは、エネルギーの使い方が違う。しかし今では芸術すらも、絵がいくらで売れたかとか、曲がどれだけの人に買われたかというように、お金が目的になってしまった。本来、音楽を創るとは、ただ世の中にその曲を提供するということだけでいいはずなのだ。その結果、それにふさわしい生きる手段が得られれば、それ以上を求める必要はない。ところがそれが人気商売となり、異常なまでのお金が集まるようになった。与えられた能力を自らのために使い、自分だけが富を得ることが当たり前になり過ぎてしまったのだ。
そして多くのお金を得た人は有頂天となり、醜い姿になっていく。しかしマスコミはそういった人々を人格者のように捉え讃え、そのような社会現象を先導しているのが現状である。世の中の基準が根本的に狂っているのだ。世の中全体がそうなっていることに対して、その中に生きる人々はその矛盾に気付くことができないだろうが、そのような風潮がある限り、世の中が本当に平和で差のない、豊かな世界へと歩き出すことはできない。

みんなで豊かになろうと言っていた共産主義が崩壊し、資本主義が勝ったかのように思われていたが、資本主義とは、欲望を勝ち取った者が支配する世界だ。これはある意味下剋上であり、弱肉強食の世界だと言える。共産主義が衰退し、資本主義一辺倒の世の中になった今、その矛盾がピークに来ている。これがひっくり返らなければ、次の時代は訪れない。
今の社会は、いくら獲得しても、満たされないようにできている。ところが世の中は、獲得することを奨励している。そしてその矛盾から、格差が際限なく広がっていくことを先導していることにもなる。それは、何かを批判している人々が、実は自分たち自身がその批判しているものを創り出しているというカラクリを、まったく知らないからだ。自分たちで創り出しておきながら、その創り出したものを悪者にして、自らは正義の側に立ってごまかしているような、極めて複雑で歪んだ構造になってしまった。それは、自己中心的なものの観方をしていては、見抜くことはできない。

確かに共産主義国は、国威発揚という国策のもとにドーピングを行ったかもしれない。しかしそれは、お金を稼ぐためには何でもするという西側諸国の風潮が、同じように共産主義国の間にも広まり、ただ少し国の体制が違うために、国家レベルでそれを行ったのだとも言える。
それを西側諸国は、国レベルでやったからひどい問題だと批判しているが、では個人レベルならひどくないのかと言ったら、ドーピングはもともとアメリカが発祥のようなものであり、欲望を満たしたいがために隠れてルール違反をすることは、アメリカのスポーツの世界にもいくらでもあったのだ。それがオリンピックのようなアマチュア精神の場ではなく、お金を稼ぐためのプロの世界では、昔は問われなかった。今は問われるようになったかもしれないが、オリンピックのような場でない限り、そこまで厳しく問われることはない。

そもそも、異様なまでに体を鍛え、記録をどんどん伸ばしていく現代のスポーツのような世界は、本当に求められるべきことなのだろうか。それを追い求めることが果たして美しいことなのかということを、問わなければいけない時が来ている。
2012年12月21日の銀河の冬至というターニングポイントを越え、世の中の価値観がひっくり返る時代が始まった今、これまでのように特殊な物理的能力を持つ人々がもてはやされる社会の、奥に潜んでいた問題が、明らかになり始めている。
特別な能力を評価されることはいいだろう。しかしそれによって、異常なまでのお金を得るスポーツの世界ができあがった。東側諸国の人々は、そこまで物理的に豊かではなかった分だけ、個人の欲望に目覚めてくると、より顕著にそれが現れるようになった。国家のためというよりも、個人の欲望をくすぐることを国策として行ったのだ。それは西側諸国のモノカネ優先の価値観の延長線上にあったことであり、そこには、国策として個人の欲望をくすぐったのか、個人の欲望を野放しにしていたのかの違いがあるだけで、西側も東側も、人間の業の深さが国レベルで現れている。そして今や国家のリーダーたちでさえ、欲望にまみれて国の代表をやっている。
そのような世の中の傾向を観ると、やはりトカゲのしっぽ切りのように、ドーピングをやった人、或いはドーピングを国策として行った国だけが批判されているようでは、問題は根本的に解決しないことがわかる。スポーツ仲裁裁判所はロシアのリオデジャネイロ五輪出場を認めない裁定を下したが、それは病気の症状だけを押さえて根本的な原因を解決しようとしない現代医療の対処療法と同じだ。

現代の人々、特に芸能界や政治の世界では、人気取りが目的になっている。人気取りとは、真実を伝えるよりも大衆の支持を得るのが目的だということであり、真理の柱を世の中に立てていくということがない。自らが批判されるような言動は避け、常に差しさわりのない立ち位置で、他者を批判し、そしてそれを飯の種としている。つまりこれも、体制の側にいて、世間に媚びを売り、お金を得られる立場にいたいという心がベースになっているのだ。
世も末とは、こういった世界を言うのだろう。それに対し、ある意味天誅だとも思えるような出来事が、今世界中で起きている。解決しようにもできないテロの問題は、モノカネが目的ではないと訴える人々による命をかけた反発が、世界中に蔓延しているとも捉えられる。彼らを支持はしないが、こういった出来事を奥深くから検証しない限り、人類全体が進むべき方向をまったく見出せずにいることは確かだ。

現代社会には山ほどの矛盾があり、事例を挙げるのに何の苦労もいらない社会になってしまったが、その延長線上に、さらに滑稽なことに、ポケモンGOの大流行がある。
アメリカという国はもともと、ゲームのようなものが日本ほど熱狂的には流行らない国だった。それは個人主義で独創的な生き方を良しとする国民性があったからだが、その国で、ポケモンGOのようなゲームに没頭する人々が現れ始めた。それはアメリカの良い意味でのプライドが失われてきているということだが、金満主義が蔓延している社会はそれを経済効果として歓迎し、まったく批判しない。あのバーチャルなゲームの中で人々が揺れ動いている姿を、マスコミは微笑ましいものであるかのように報道し、日本人は日本の企業の製品がこんなに受けたのだと喜んでいる。
そして日本では、異常なまでに任天堂の株価が上がった。先日LINEが上場した時に異常な金額が投資されたのと同じように、ゲームが発売されただけで、莫大な額の欲のお金がそこに集まる。それがあたかも成功者を讃えるかのように報道され、それに没頭する者たちに対して何も危機感を感じていない。危機感があるとしたら、歩きスマホによる事故が懸念されるという程度のものだ。
これらのゲームは、スマホという既に世の中に浸透したものを利用しており、ゲームの権利を買うだけで使うことができる。既にあるものに寄生して、何も生産しなくても、何千億、時には何兆円というお金を稼ぐことができる。そういったものを微笑ましく報道し、その根本に何があるのかをチェックする目は、社会から完全に失われてしまっている。世も末というが、ここまで来るとあきれるより他はない。

それに対して、どこかでおかしいと思っている人々もいるはずだ。しかしマスコミも、社会全体も、国のトップの政治家すらもこの現象を歓迎するようなコメントをしている。世の中はいよいよ、逆さまの極みを迎えている。この現象がどこまで行くのかはわからないが、このような愚かなことにエネルギーを費やし、その結果地球環境に負荷をかけ、人間社会に歪みを発生させ、人々は苛立ち、最終的には対立を生み出している。テロが止まないことも、そういった社会の表れだろう。現代の対立とは、戦争のようなわかりやすい形だけではなく、社会の金満主義の中から生まれる格差や差別が、極みを迎えているということだ。
これは物理的に言えば、マイクロプラスチックが海に放たれて、一切回収できない状態になっているのと同じようなものと言える。それが今後どれほどの環境破壊や生命への危機をもたらすのかという深刻なものでありながら、取り返しのつかないほど蔓延してしまっているのと同じ現象だ。
人間の心の中にゲームがあのような形で広まっていくのも、ある意味、覚せい剤の依存症が広まっているのと同じことだと言える。それを経済効果だと言って、国のトップたちが微笑ましく眺め、マスコミも歓迎すべきこととして報道している。

僕が今こうして語っているのは、一つの視点から分析し、批判をしているのではなく、人類はここまでものが観えないところに陥ってしまったのかという、嘆きだ。
本来人間は、生命感というものを感じて生き、現実の世界の中にそれがあり続けることによって充実し、希望のある状態でなければならない。生命感を感じるとは、生きることが生命活動に直結し、常に意識が自然や社会の成り立ちとコミュニケーションを取りながら、生命が身近な生命を司るものと連携していることを実感して、充実している状態のことを言う。しかしポケモンGOは、バーチャルの極めつけの世界だ。そしてそれに取り込まれていることを、歓迎している社会がある。
そんな資本主義社会のバーチャルな金満世界に憧れて、共産主義的体質から生まれた国民性を持ちながら、資本主義的欲望の蔓延する社会の中で、人の生きるべき道を見失っている人々が、今、地球上に存在している。そのような中に生きる人々が、必死に豊かになろうと思い、そしてまた国をまとめようとしてドーピングまでやってしまったことを、そういった種をまき散らした側の人々が批判する資格があるのだろうか。
ロシアの愚かしさよりも、ポケモンGOにとりつかれている人々や、それでお金を儲けようと株式市場に群がる人々の方が、今の地球上に混乱をもたらしている罪は、はるかに大きい。覚せい剤を使用したり、野球賭博をやって追放された選手たちを責めている場合ではないということだ。そういった選手たちも、混乱する今の社会の犠牲者とも言えるのだ。

社会には金満主義が蔓延し、それを主導する人々が優秀で賢いとされている。大学の勉強でも何でも、いかに金を稼ぐかということに能力を使い、それを成し遂げた人間が優秀だということになる。こんなにおかしな世の中はない。本来の生命感を有する目で観れば、今の世の中は本当に異常だということが観えてくるはずである。
覚せい剤をこれだけ厳しく取り締まり、それを使用した人をバッシングしながら、自分たちはお金の麻薬漬けになっている。世の中が混乱の極みに来ているということだ。

 

Source of photo: @WSJJapan

 


お釈迦様の時代の悟りから、新たな時代の悟りへ

ある日の大人会議で、「いさどんの七夜物語」シリーズ第六話がシェアされました。

 
こうちゃん:
この七夜物語の第六話には僕のことがたくさん出てくるんだけど、自分を振り返ってみると、あのころから比べて意識的にとても変化したと思う。これはとてもいいなというか、誇れるというか、今日読み合わせた七夜物語の第六話の中でいさどんが話した境地までは、まだ至っていないと思うけれど、この先が楽しみだと思います。
これを読んで、みんなは「自分が主役であること」や「一人一人が全体性を持つことが大切」と言っていたが、それと同時に僕が思うのは、こういった意識を七夜物語のところからずっと育ててもらったのだと思っています。
この意識を日常でいつも持っていたら、常に自分が主役であるという意識を持つことや全体性を意識して心がけることに加えて、世界観を広げる意欲があれば、その延長に着実に歩んでいることを感じられるし、今度アンテナショップもできることになったので、そこにこの心をもっていけば、外の人たちに異次元空間は提供出来ると思っている。

いさどん:
人間に生まれてきた「性(さが)」、これを人間性といいますが、その人間性は生きているとどのレベルかということが問われます。人として生まれてくるものの特徴は、思考回路が複雑で、願望を持つようになり、さらに願望を膨らませることもします。そこに、長年生きてきた結果しみついた心の癖(カルマ)に翻弄されて生きれば、さらに複雑な生を生きることになります。
そういった生を通しての経験は、垢を取り去り、意識が高まって高次元の美しい人生を生きるようになるのが本来の在り方ですが、人間の性(さが)というのは低い次元の状態でいると、しみついたカルマが垢として、高次元の美しい人生に到達することの障害物にもなるものです。そして、そこで得た経験やものが執着となり、さらに人生の足かせになっていくものなのです。

現代社会において、高い地位や優れた能力を発揮し、評価されているような立場の人々が、その立場に相応しい立派なことを語っていても、その人の奥にある精神性が、自我そのものであるということが今の世の中にはたくさんあるのです。優れた能力を発揮したからといって、その奥にある性質により、その人自身の霊的な価値は図れないのです。結果それでお金儲けに走ったり、その立場に執着するようであれば、世の中に混乱をもたらす原因にもなるのです。

それは、今の時代の成功者として評価されているリーダーたちや、政治家、経済人、宗教家、教育者などなど、そういった人たちが多いのです。そのような人々は、自らの内側に向き合い、自分の魂を潔く禊ぐくらいの精神を持っていかなければ、自らは善い行いをしていると思っていても、世の中には混乱をもたらす原因となり、霊的には罪人にもなるのです。

そういった現代のからくりが、今ひも解かれる時を迎え、社会ではその裏側が各方面で暴露されてきています。パナマ文書はその一つの事例です。そのような現象は、今地球のマグマが活動期に入り、世界中の火山が活発に活動し始めたように、それはある意味、精神世界の火山が噴火し始めたようなものです。このような世の中の闇の部分は、これから益々暴かれていくことになるでしょう。

そういった時代を表現する人間の性(さが)に対して、その昔お釈迦さまは仏法を通してどのように道を示したのでしょうか。すべては、自分という認識が成立することによって世界を解釈し始めることから始まります。人のすべての解釈は、自我の成立から始まり、その自我の位置を基準としてそれを尺度とし、この世界を図り始めます。ですから、始まりの始まりは自分というものの成立から始まっているのです。

一体全体、人間とは何者なのでしょうか。そして自分とは何者なのでしょうか。ほっておけば悩むし、ちょっと迂闊にしていれば腹も立つし、妄想も膨らませれば、願望も膨らみ、それに囚われればことが成らないといって萎縮もするし、ことが成れば自信過剰にもなる、感情の荒波に翻弄される複雑な存在です。それが、それぞれの個体で個性的な特徴を有し、無数に存在しているとしたならば、このような不可思議な生き物がほかにいるでしょうか。

そんな人間の中の自分というのは何なのか。自分が存在するばかりに、この世界を解釈するのです。その解釈は、人間の数ほど尺度があり、人間の数ほど物事の捉え方が違うのです。それを客観的に観察すると観えてくるものがあります。その目線は、自分というものの自我の窓を通してしか外が見えない。どんなことをしても、自分以外の窓から見ることはできないのです。そして、この自分というものをどのように捉えるのかというと、お釈迦さまの示された道はネガティブモードの道だったのです。

その道の始まりは、生老病死に始まり、人生の全ては四苦八苦なのですから。だから、この世界に生まれ存在することの全てが苦痛であると、説かれたのです。そして、生まれ出ることが苦痛の始まりであり、生きることが苦痛の連続なのですから、その苦痛から離れるためには、どうしたらよいのかと考えたのです。そこにはたくさんの理屈があるのですが、結局は自我という尺度を持っているから苦しみに出会うのだと結論づけています。そして、諸行無常、色即是空と説いたのです。

しかし、そのような苦痛からの解放を求める境地のものに、手法としてこのように思えばいいんだと伝えたところで、その思いが湧き出す自分がいる限り、思いは湧いてくるのだからどうしょうもないのです。そこでどのように瞑想をしたところで、その結果は迷走に繋がることになるのです。それは、実態の伴わないバーチャルな体験に基づく境地を求めるものだからです。このような体験をいくら積んでも、その思考形態で生きていること自体、四苦八苦を産み出す仕組みの中にいるのですから。
そこで、どうしたらいいと思いますか?

A子:
死ぬ。

いさどん:
死ぬ?違うよ。死ぬんじゃないよ。反対だよ。

B男:
生まれなければいい。

いさどん:
そう。お釈迦さまは、生まれなければいいと示したのです。生まれなければこの苦しみを体験することもなく、結果この苦しみから解放される。お釈迦さまはネガテイブですね。(みんな笑い)

生まれてきたが、人生で出会うのは四苦八苦で苦痛の道だから、ここから逃れるためには、生まれなければいいということになります。生まれてくるということは、肉体という特定を得、自我というカルマが発生し、それにふさわしい自我の人生を生きることにより、それが次のきっかけとなり、また生まれてくる。何回も何回も生まれ変わって輪廻を繰り返すのだから、そのけじめのない輪廻に嫌気がさし、生まれないためにはどうしたらいいのか、又はなぜ生まれてくるのかを考えたのです。そうして行きついたのが、「自らに囚われ、執着する心に自我が成立することにより生まれてくる」ということ。それが人間の性(さが)なのです。

ところが面白いことに、13000年前の叡智であるカタカムナでひも解いていくと、ヒトという境地に至った存在は、完成された悟りの境地のものを指します。そこでは、「ヒトであるということ=この世界の始まりから終わりまでを悟り、統合している者=悟っている状態」と示しています。それは本来、仏教で言う、生まれてくることのないもの、もしくは生まれてきたとしても、人の性(さが)に苦しむようなものではなく、自我を超越した存在(菩薩)と示しているのです。

ところがカタカムナの後の時代、今から2500年ほど前、お釈迦様が道を示すために役割をもらって降りてきたころには、「人間は生きることにより四苦八苦するものである」というように人間性は固定されてしまい、世界は特定の王に支配され民衆には希望のない混沌とした時代だったのです。「生まれてくることがいけないんだ」と、生きること自体を否定的に捉える時代だったのです。

そこで小乗仏教で象徴されるように、現世が苦痛であることから、少しでも功徳を積んで生まれ変わり良い人生が生きられるように願うようになっていったのです。
さらに大乗仏教になると、苦痛の世界から極楽浄土を求めご利益的救済への道に変わっていったのです。そこでは本来、自我を超越する道であった探求の道が、苦痛から解放されたい願望をかなえる道に変貌し、そのことにより結果として人々はカルマにまみれていくことになったのです。

中国の天盤の巡りで示されているのは、地球上に宗教観がもたらされたのは、今から約3000年前のことなのです。そういった歴史の流れから捉えれば、そんなに古い話ではないのです。そして3000年の時を経て、天盤の巡りで示されているのは、時代は今宗教の時代を終え、新たな時代を迎えようとしているのです。その新たな時代を生きる人々は、生きることに、願望をかなえたり救済を求めるのではなく、自らが自らを正しく悟ることによって、願望(自我)に翻弄されることなく、救済される必要のない高い意識の存在(菩薩)となるのです。
そうするとこれからの時代は、宗教の時代に示されたような、「人として生まれ、人の性(さが)に翻弄され生きなければならない」というネガティブな感情からの解放ではなく、自我を理解し自我に翻弄されることなくコントロールし、その個性を有効に生かし、高い意識のもとに自らにも他者にも有益な人生を生きる人であることが望まれるのです。

3000年の宗教の時代を経て、人々が新たな時代を生きる人間性になったとき、「性」という字を「サガ」と読むか「セイ」と読むかの違いが示されてきます。そこではセイという読み方は「聖なるもの」のセイに通じることになります。そしてセイという示しは交わりの性に通じ、全ての生命の始まりのセイであり、宇宙の根源の働きに繋がるものです。そういった秘められていた仕組みが今、解き明かされ、その時代が今訪れたということになるのです。ですから、宗教の時代のお釈迦様は人々に悟りを説いたのですが、今新たな次の段階の悟りを人類は迎えようとしているのです。そのことに気づき、私たちは社会の先端を生きているのですから、そういった自覚の元に、自らと向き合って生きていきたいものです。

今日「七夜物語」の第六夜を聞いて、晃ちゃんの話がたくさん出てきましたね。晃ちゃんの精神性の成長のプロセスの一段階を見ました。晃ちゃんは、第六夜に出てくる自らの段階をみて、「自分はあそこにいたんだ」と振り返りました。そして、あそこからここへ来たんだと気づいたときに、いさどんがその後にその次の段階の話をしてくれました。そこでまだ、次の段階には至っていないけれど、以前のもっと下にいた時から今の段階にいることの意味がよく分かり、そこを目指すんだという希望が生まれた、と言っていました。

人間というものは、一人一人個性的な人間性という性を持っているのです。お釈迦様の時代は、生まれてくると四苦八苦を繰り返し生きることの結果、わかればわかるほど生きることはつらいと解釈しました。そこで、「じゃあ早く死のう」という発想になるのではなく、四苦八苦の原因を消滅させずに死んだところで、またそれが原因となって生まれてくることになり、また四苦八苦を生きることになる。ということなのだから、生きることを吟味して生まれることのないようにしましょう、という道を示したのです。この道理はそういった生に対する認識の時代にはその通りですが、それがその時代にふさわしい道理と捉えるならば、今の時代には今の時代にふさわしい道理が求められるのは当然のことです。

2012年の12月21日25800年ぶりの「銀河の冬至」を迎え、時代は闇のピークを越え、今私たちは、人間性の愚かしさのピークも観たわけです。この時代には、戦争で示されるような物理的地獄もあれば、人々の心が創り出す闇の世界もあるのです。

最近の注目すべき話題として、日本で行われる伊勢志摩サミットを機会にアメリカのオバマ大統領が70年前に原爆を投下された広島へ初めて訪れることになっているのですが、オバマ大統領は、大統領就任後に核廃絶を訴えてノーベル平和賞を受賞しました。しかし、自国の核にすら何らの対策もうたないままに、世界は核の緊張の上のパワーバランスにより、北朝鮮の核開発が進むことを誘発するような現状のままにあります。その結果、辻褄を合わせるように今回の広島訪問が実現したようにもとれます。そういった出来事も含め、人類の心の闇も極みのところへ達し、世界のリーダーや、聖職者と称される人々が現代社会の行きついた矛盾の根源であることが観えてきました。それを時代が示していると受け取れます。

そういった表面的に取り繕った見せかけの平和を唱えるのではなく、このような現状を踏まえて、ターニングポイントを超えた次の時代の聖なるものとは、どういった精神に基づく探求であるべきなのかが、これから人類が目指すべき方向性です。人間に生まれてくると、人間性という人間であることの「定め」がついてきます。人間に生まれてきたら、ほかの動物とは違って、自らを認識する、考える、願望を持つ、膨らませる、叶える、喜ぶ、ということをします。そういった願望がかなわない時には、悲観することもします。その時に我々の喜びというものは何なのかというと、今までは全部損得勘定です。この損得勘定というものは、次元によって質が全く違うのです。物理的な損得に基づく損得勘定もあれば、自らの霊的な価値が積めるか積めないかという損得勘定もあるのです。

そこが観ているところの違いで、こうちゃんはさっきの第六夜の話を聞いて、去年の9月ごろの自分に立ち返って、こういった喜びや豊かさがあるんだ、という心境になりました。そういった心境に至ったときに、人はモノやお金に縛られることから解放されます。そのような心の価値と出会った喜びや、心が成長して豊かになっていくことを通して、お釈迦様が道を示された頃の時代のようなネガティブな悟りではなく、「ヒトとしての本来の悟り」に至るのです。

それは地上を生きるものにも、天に存在するものにも共通して有効なものです。お釈迦様の時代は、「人として降りてくると四苦八苦して生きるのが大変だから生まれてくるな」というのが悟りを目指す目的の原点でした。ところがそういった苦しみの世であるにもかかわらず、後の世は、人は減るどころか大変増えて、人々は四苦八苦から逃れるどころか、欲望の感情におぼれ、かえって苦痛の種を人生にまき散らし、その結果世の中は混乱の極みに達しているのが現状です。

本来ならば、そのようなろくでもない人間は、地上の理想を目指す目的からすると不必要なものとして淘汰されるべきものです。ですから、人々が天意に沿って生きていたならば、人が生きることにより自らを磨き高め、本当に必要な魂だけで地上は安定した世界になっていくはずなのです。そして、そういった世界では本当のヒトが世界を創っていくことになります。地上で生きるにしても、「ヒトでなし」ではなくて、ヒトにふさわしい人が生きる時代がこれからの時代と考えた時、これからの人たちの損得勘定は自らを高次に導き、自らが納得し誇れる生き方をするべきです。そして天とともにクニツクリをし、地上を豊かにし、みんなが楽しみ喜べる、嬉し楽しの世を開くために生きるものであるべきです。その喜びが、自らの願いであり意志として生きるものになったときに、これこそが、新たな時代の人々(菩薩)の姿なのです。

宗教の時代の初期は、個人が個の悟りを求めて仏陀となった時代だったのです。それが優れた聖なる人の見本になりました。しかし、これからの時代は「すべての衆生に仏性あり」とお釈迦様の言葉にあるように、一人一人の精神が天意に目覚め、全ての人々が仏陀としての自覚をもって生きていく時代です。

そういった時代の幕開けを感じとったとき、そのような景色を観、そのような喜びにこうちゃんは出会ったのでしょう。こうちゃんおめでとう、ということなのです。おめで統合だね。(チ~ン♪、笑い)

丁度今、木の花の精神性を表現した発信基地としてアンテナショップの計画がありますが、このアンテナショップでは「あれ~ここはどこだろう。これは何だろう?」という不思議な雰囲気を体感できる場所を目指しましょう。そして訪れた人々が「ありがとう」と言って帰っていくときに、何か懐かしい想いを感じ、また帰宅なるところにしたいものです。そこは、本当の自分に出会え、自分の家よりも居心地がよい場所にしたいものです。そしてその場所が、物理的な場所だけではなく、心の居場所であったならば、たくさんの人がみんな帰宅なるでしょう。それは、私たちは元々そこ(心の故郷)から生まれてきて、今まで忘れていただけなのですから。そういった場所をこれから創って世の中に提供していきましょう。

こうちゃん:
3000年前からの流れ、お釈迦様の教えも金神様が言うように、今の時代になっては、人々の意識の内では逆さまになっていたということだね。

いさどん:
そうだね。「まさしくこの世は逆さまじゃ」ということ。今の人間たちは、たくさんのものや価値を所有しているでしょ。そして、本当が観えない世の中になっている。これから、それが全部ひっくり返って新しい価値観の新たな世が始まるぞということで、本当に「嬉し嬉し、楽し楽し」とみんなで共に生きていきましょう。

 

 


いさどんの七夜物語 – 第七夜 「太陽の導き」

太陽が、真東から昇り真西に沈む、1年間で光と闇がちょうど半々となる秋分。その前夜に端を発し、「七日七夜で心の質的転換を起こします」と、ただひたすらにあふれ出る宇宙の叡智を浴び続けた七日間の、最終章です。
大人ミーティングにやってきたいさどんが、静かに語り始めました。

 

9月30日「太陽の導き」

いさどん:
今日は9月30日ですね。今年の四半分を残して、第4コーナーに入ります。

1週間前に秋分がありましたが、秋分というのは昼と夜の長さが同じになる日ですね。同じく昼と夜が同じ長さになる春分を1年の出発点とすると、秋分は1年のちょうど半分にあたります。

秋分の前日、僕は3ヶ月ぶりに大人ミーティングへ来ました。そしてこの七日七夜が始まりました。その意識は、10月1日に向かっています。そして、地球の動きや、そこから生まれる二十四節気などを意識して思考している自分がいます。
僕の中には、今日が大晦日という意識があります。新年を迎えるにあたって、この大晦日の日に大すす払いをするという意識がどこかにできていました。そして一昨日の夜中に父上からメッセージがありました。

僕は客観的なものごとの捉え方をする人で、世の中のいろいろなことに出会っても、共鳴するものはなかなかありませんでした。しかし最近、木の花の暮らしを通して出会う宇宙観や、時代を読み解いて我々はどう生きるべきなのかということを紐解くと、これこそ本当に待ちに待っていたものだ、と。そんな捉え方をしています。
それは、自分の口から湧き出たことであるからとか、自分の周りの生活にそれが反映されているから、ということではありません。僕には、内外関係なくものごとを評価する心ができています。

僕は30歳でこの道をいただき、自分自身を疑いながらも、出会う出来事の奥を観て、そこに何か真実があることを直観で感じながら歩いてきました。今ここまで歩んできて、こういった生き方に出会ったことを本当に誇らしいと思っています。

残念なことに、まだまだ人類はそういった視点を十分に持てていません。残念とは言うものの、それはプロセスでもあるのです。しかしながら、近年の人類はとても愚かしい道を歩んできました。これほど自然をコントロールし、影響を与えるようになる以前の人類は、自然のなすがままに栄え、滅びていました。ところが今は、人間のなせる業の結果、世の中に様々な問題が起きており、その愚かしさは極みを迎えていると感じています。

この世界は、自らの姿勢が自らの未来を決める仕組みになっています。自らの愚かしさの先に自らの未来を決めるのであれば、自らの尊さによって未来を決めることもできるのです。それは、人間が自我を超えるということをしなければできません。尊いとは、連携することから成されていくものです。その道の行きつく先は、この世界を理想郷に導くことです。それは宇宙も含めたこの世界の成り立ちであり、地球に表されている生態系の姿そのものです。
その中にいながらにして、人間は愚かしい道を歩むことをしてきました。その結果、今の状態があります。さて、これから我々はどこへ向かうのでしょうか。

今、この場に約60人の人がいます。世界の主だった国の代表がここに60人集まっているという設定で話ができたら、どんなにことは早いでしょう。けれども現実にはそうではなく、ここにいるのはこの生き方に共鳴した人たちであり、国連で話しているわけではありません。
それが何を示しているかというと、小さくてもいいから、人間が可能とする理想をそこに示しなさい、ということです。

理想というとずいぶん大それたことのように聞こえるかもしれませんが、決してそうではありません。理想というのは、たくさんのことを経験しながら、それを常に受け取り、変化・変容を繰り返していく姿のことです。それは、神の姿です。

昔シャーマニズムと出会い、僕はサニワとして、シャーマンを通して神々と対話していました。そしてシャーマンに降りてくる神々に、いろいろな質問をしました。だんだんと意識の高い質問をするようになると、その時に降臨していた神様は困惑して、そなたの問いには私では答えることはできぬのじゃ、と言うのです。

神様は、「そなたは神を完全と思うておるのか」と言われました。神様からそんな言葉を聞くとは思いませんでした。神様が完全ではなくて、いったいこの世で何が完全だというのでしょうか。「私は神様が完全なものだと思っております」と僕は言いました。すると、「神とて完全なるものはおらぬのじゃ」という返答が返ってきたのです。
それを聞いて、僕はとても困りましたね。僕の中には、何か絶対なるものに頼り、そこから道を導き出そうという心があったからです。僕は神様に「では私は、その完全でない神様に道を頂き、そこから真理を学び続けていくということですか」と聞きました。すると神様は、「そうである」と言われました。「それが神の姿である。神とは学び続けるものである」と。

この世界は変化・変容・変態を繰り返し、留まることがありません。地球暦では、太陽系の惑星はそれぞれに意味を持っており、地球は変化・変容・変態を示す星です。
宇宙の星々のサイクルはとても長く、変化・変容・変態を体験するにもとても長い時間がかかります。そこで私たちは、地球に降りて来て、肉の体をいただき、人として生きることで、命の意味を学習し、また元の世界(その元の世界とはどこでしょうか?笑)へ還っていくのです。

この世界の実態は、変化・変容・変態を繰り返すことであり、それが神の姿そのものです。カタカムナでカミを紐解くと、「カ」は宇宙の極小微細単位、「ミ」はそれが満つっているということを示しています。満つっているということは、この世界を創り続け、壊し続ける、物理性の実態そのものなのです。そのような世界の中で、何ものかに囚われ、留まることは、この世界の実態(神の実態)から外れたものになるということです。

一般社会で生きていると、自らの心の汚れが出ても、なかなかそれを自分が発しているとは思えないものです。なぜなら自我が強いからです。そして自分を観ずに、周りのせいにしていきます。そこを掘り下げる意識もないので、それが自らに原因があるとなかなか気付くことはできません。気付けなければ改めることもできないので、同じことが続くのです。
そこに気付くには、誰かのせいにしていては気付けません。気付きは、自我の囚われがなくなった状態で、ふっと降りてくるものです。

地球上に生命が降ろされて、後に人類が降ろされました。地球上で生命として生きるということ、さらに、人類として生きるということは、とても身近に自らの魂の実態を目の当たりにすることができるのです。
この世界の仕組みはすべて鏡ですから、自らの発したものが忠実に自らへ返ってきます。そして、そこから自分の姿を観ることができます。ヤタノカガミといって、八方が鏡なのです。
鏡は、汚れていると「カガミ」ですが、汚れを取ると「カカミ」になります。鏡(カガミ)から我(ガ)を取れば、神(カミ)になるということです。我々は物理的な鏡を通して、自らの姿を見ることができますが、人生を通して自らがこの世で見るもの、感じるもの、出会うものは、すべて鏡を見ているのと同じことなのです。我々は霊的な鏡に囲まれて生きているのですから。

そういったこの世界の仕組みをマスターして生きていけば、自らが発しているものが、自らをどのような意識レベルに定着させているのかが観えてきます。その意識がこの世界にどのような影響を及ぼし、自らをどのような世界で活かし、どのような世界を創っているのかがわかるのです。それがわかると、この世界に不平不満を言うことはなくなるでしょう。この世界は、私たち一人ひとりの意識によってできているのですから。
さらに、そういった仕組みがわかれば、人間は生命として何を成すべきかということが一目瞭然でわかるのです。この世界に安定や平和をもたらし、生命の世界の豊かさを表現することができるのです。

面白いのは、我々は今、完成された世界を求め、学んでいますね。完成された世界とは、ある意味、現象的には貧しい世界です。そこでは、完成されているが故に、何も起きないのですから。
この不完全な世界に生きることこそ、ダイナミックで豊かなのです。不完全だからこそ、幸せやありがたいということを感じられ、愛が求められる世界になるのです。それはある意味、ダイナミックで豊かな世界と言うこともできますね。

僕は昔、神様に「私は、人間の在り様をずっと観てきました。そしてその姿に辟易しました。人間こそ、愚かしさの頂点に立つものであると思います」と言ったことがあります。その時の僕は、人間のあまりの愚かしさを観て、人間性悪論のようなことを考えていたんですね。そして、さらに神様に言いました。

「あなたは神という立場に立ってこの世界を導くものだとしたら、なぜ人間に、血で血を洗うような歴史を歩ませて、いつまで経っても神から人間が見捨てられたと思うような世界をつくらせるのですか。子どもの出来の悪さは親の出来の悪さであると言います。弟子の出来の悪さは師匠の出来の悪さであるとしたならば、神の子どもである人間がいつまでも愚かな道を歩むのは、あなたの未熟さゆえであるとも言えますね。
あなたの隣りにこの世界と同じような宇宙があるとしたら、そこの神様があなたの創られた世界を見て、おまえは子育てが下手だな、おまえの子どもである人間はいつまで経ってもこのような愚かな世界をつくっているではないか、と、言われませんか。」

冗談のような話ですが、僕は神様にそう聞きました。そうしたら、「そうとも言えるな」という返事が返ってきました。そして神様は、こう続けられました。

「私がいた世界は完全であり、私しかいなかった。そこは光だけの世界であった。光の世界で光は見えぬ。そこは静寂の世界であり、一切の動きもない。そこでは、私は私の存在を認識できなかった。
そこで、私が私を知るために、私は私と反対のものを創った。光には闇を、天には地を、善には悪を。そしてその反対のものを私から遠いところに置き、それが私のもとへと還ってくる仕組みを創ったのだ。それがこの世界のもとである。」

そしてさらに、神様は言いました。

「今のこの場所は、私の意志の終着点ではないのである。おまえが考えているこの場所は、まだ先があるであろう。そして、それは永遠に繰り返す。
その中の一部分を区切って見れば、子育てが下手だというおまえの捉え方もその通りだろう。しかし、おまえが求める理想の人間の姿というのはどこにあるのか。それは、今の延長線上にある。それを光の世界と言うならば、その対極にある闇、つまり愚かしさから始まって、そしてプロセスを踏んで光の世界へ行き、また闇へ還るようにしたのだ。それが私の意志であり、私の実態なのである。」

これは、現代科学ではまったく裏付けのできない話です。しかしカタカムナに出会うと、まさしくその通りであることがわかります。そして今、トキが来たことを感じています。
70数億の人間の中で、こういった宇宙観を持ち、それを生きることの中で表そうとしている人々が、微細ではあるけれども現れました。ここの人たちは、その顕れですね。

地球上に生命が現れる時に、物質的な変化を繰り返す時間が長くありました。一番の奇跡は、アミノ酸からタンパク質ができて、そこから最初の細胞が生まれて、細胞分裂を始めたことです。それはとてつもない奇跡です。
そういった宇宙的奇跡が、地球上でたくさん繰り返され、長い時間(宇宙的には一瞬の出来事)をかけて、私たちは進化(現在の状態)してきました。

近年、人類は自我を表現し、それを実現することを喜びとして、自分が理解できることを正しいとしてきました。そんな中で社会制度も進み、今の私たちの社会の基盤である民主主義が生まれたのです。
民主主義というのは、人々の欲望を叶えていくことを請け負った者たちが、民衆を代表して政治を司る世界です。そこでは、人々の欲望を叶えることが政治の目的となり、人々は欲望を膨らませることを社会の豊かさとして求め、人々の願望は社会秩序を乱す元となっていきます。そのような世界では、人としてこの世界に果たすべき役割に目覚めることはできません。ですから、今の人類の価値観のもとにある民主主義の世界では、人類に本質的な進化はもたらされないのです。

宇宙にふさわしい形態はどういうものかというと、宇宙の法則が降りてきて、その法則に則って人々を導く者にすべての人々が託すことで成る世界です。それは、過去に宗教の教祖や王による統治などの形で試みられましたが、そこには、人間離れした神としての存在である優れた者とその他の者たちという構図ができあがりました。そこには自ずと格差が生まれる結果となり、その世界では不完全だったのです。

では次に何が考えられるかというと、宇宙に遍満しているたった一つの法則に共鳴し、その宇宙法則を感じて人間たちが地上を生きる世界です。優れた者が地上に降り立ち、他の者はそれに救いを求めるという構図は、支配構造を生みます。しかし、特別な誰かが降りるのではなく、地上にいる者たちが宇宙の秩序を知り、その法則を柱として生きたら、すべての人間は天を生きることになります。
一人ひとりにはそれぞれに相応しい役割(個性)があり、それぞれが自らの意志で宇宙秩序を生きるわけですから、それはある意味、究極の民主主義です。そこに生きる個性ある人々の柱となるものは、個人の欲望から生まれるものではなく、共通した宇宙法則なのです。そこでは、人々の行いはこの世界の秩序を保つための役割であり、人々が集えば集うほど世界は豊かになり、高い精神性のもとに尊い社会が営まれていくことになるのです。

この世界を導く意志は、ひとつです。それを受けて、地上を生きる者たちは、ひとつの法のもとに個性ある豊かな世界を創るのです。これが、柱が立ってこの世界の現象が生まれるという造化三神の姿です。
そういった考え方は、人間が「そうだ、この世界はそういうふうにできているのだ」と理解すれば、たちどころに成ることです。しかし残念ながら、こういった話をしていても、その位置に意識レベルが行っていない者にとっては、なんだかわけのわからない話をしているとか、あやしい世界だということになります。それが今の世の現状です。

この世界を自らが理解できる方へ探求していくと、その人間の精神のレベルのままに理解することが進み、未知なるものに出会い、新たな意識が自らに湧き出すことは起きません。とかく人は、現在の自らの認識を持ってこの世界を正邪で判断しようとするため、そのような過ちに陥るのです。
人が進化するとは、自らの現在の意識を超えて、次の段階へ進む階段を昇るようなものです。今の認識をフリーにして、囚われのない精神状態で、常に新たなものを受け入れることによって、初めて人は進化の道を歩むことになるのです。

ところが、進化することの意味が分からず囚われる者にとっては、進化することは自らの認識が変わることであり、囚われから外れることは恐れを生むことにもなるのです。従って、囚われの中にいる縛られた人間は、現状を保ち、進化しないことを自らを守ることとし、それを良しとするのです。多くのものを所有できる現代社会においては、宇宙法則から外れた亡者のようなものたちが、物や知識を所有し、物や知識のあふれる川に溺れているようなものなのです。そのような者たちがもてはやされ、時代を導く者として高い評価を得ているのが、今の時代の実態です。

今この時代に至って、この世界の実態や自らの実態を離れて客観的に観る視点を持ち、その背後にある時代が示す示し(客観背後)を受け取り新たな社会秩序を見出すことは、行き詰ったこの世界を救済するためにもっとも必要な意識であり、それは明白なことなのです。

ところで、僕は今日を大晦日だと考えていました。そうしたら、天と通じている人がいました。大和の国の風習では新年を迎える前の晩には蕎麦を食べることになっていますよね。

みんな:
あっ!!

その日の夕食に、やじーの手打ち蕎麦が出たのでした。
その日の夕食に、やじーの手打ち蕎麦が出たのでした。

いさどん:
これは、誰か予め打ち合わせをしていたのでしょうか。誰か、今日は大晦日だと考えてやじーに智恵を貸した人がいたのでしょうか。
僕は、今日は七日七夜の質的転換の最終日で、大晦日だなと思っていました。けれどもそんな話はみんなにしていませんでした。そうしたら、今日の午後に湧泉閣に帰ったら、玄関に粉だらけのスリッパが置いてあるのです。何だこれは、と思ったら、やじーが蕎麦を打つとのことでした。そういうことか、と。天を生きている者がいるな、と思ったのです。
そこで、その天を生きている者に話を聞きたくなったので、蕎麦を食べる前にひまわりに電話をして、「おじーはいるかい、あ、違った、やじーはいるかい」と聞きました(みんな:笑)。そうしたらなかのんが出て、全然反応しませんでした(みんな:笑)。
それでやじーが電話に出たので、どうして今日蕎麦を打ったのかと聞きました。そうしたら、やじーが言うには、晦日蕎麦と言って、月の終わりに次の新しい月を迎えるために蕎麦を食べる風習があるのだそうです。それなら毎月月末に蕎麦を打っていたかというと、そんなことはなく、今日に限って打ったわけです。そこで僕はやじーに、今日の蕎麦は大晦日の蕎麦だよ、と言いました。あなたは天と共に生きる人だね、と。

先ほど僕はみんなに、いろいろと難しい話をしました。けれども、みんなはそんな難しいことを考えなくてもいいのですよ。
ふっと、蕎麦を打ちたいな、という想いが湧いて、それが9月30日だった。そしてそこまでのいきさつを丁寧に探っていったら、実はその日は大晦日だった。何気なく、ふっと、蕎麦を打ちたいな、と湧いてきた想いが、丁寧に丁寧に探っていったこととちゃんと一致したのです。
丁寧に探るのは、この世界はどのような仕組みになっていて、世界観を広く持つにはどのような捉え方をするべきか、そして天意とは何であるか、天と共に生きるとはどういうことかを思考することです。その思考について来られる人はなかなかいません。しかし、ふっと蕎麦を打ちたいと思い、それが天のタイミングと一致したならば、それを偶然と言うのかと言ったら、それが天と共に生きるということなのです。

ですから、難しい話をする人はそういう役割としているかもしれませんが、人の個性はいろいろですから、誰もが同じようにする必要はないのです。何気なくふっと行動したことが、難しく丁寧に、広い世界から順を追って法則を探りたどり着いたポイントと、パッと一致するのです。
ポイントと言うのは、毎日どころか、瞬間瞬間がポイントの連続です。天を生きれば、そのポイントといつも一致していくのです。

広いところから狭いところまで本当に幅広く緻密に探ってたくさん思考をする時には、柱に添って思考します。柱がないと脇へそれていき、元に戻ることを忘れてしまいます。
我々は、振動しながら自転して公転し、歳差運動までしながら進んでいる(地球の歩み)のですから、柱がなければずれていってしまいますよね。基軸となる太陽があるから、我々(地球)はずれずに進んでいくことができるのですよ。そして太陽も、銀河の中心(セントラルサン)があるから、それができるのです。

柱が立っていれば、何も段取りをしなくても、すべてのことがぴたりと一致(阿吽の呼吸)していきます。そういった意識を持った人は、わからないけれど今目の前にこれがあるからやろう、と受け取るようになります。わからないからこそ、わくわくするのです。元々わかっていることを安心してやったら、結果もわかっている範囲内のものですから感動はたいして湧きません。しかしわからないからこそ、いったい何が起きるのだろうと心がわくわくするのです。

そのように宇宙法則に従って正の方向に思考する人は希望を持って未来を迎えますが、人によっては、わからないからと言ってわざわざ不安を未来にイメージし、反の方向へ思考を回す人もいます。そういった人には、その思考に相応しい未来を、宇宙法則が与えてくれることになります。そんなバカバカしいことに囚われて、必死に自分を守ろうとして毎日を生きている人がいますが、ちょっと自分を離れて客観的に観る視点があれば、そんなことはたちどころにやめられるものです。皆さん、やめましょうね。(みんな:笑)

今日は大晦日ですから、新年を迎えるにあたってのけじめの話をしよう、そういう場所であるべきだ、と僕は思っていました。だけどその前に、やじーにやられましたね。そう思いませんか?

(みんな拍手!)

ようこ:
本当にびっくりした。今日が大晦日だというのは私といさどんの間だけで話していたのに、誰の誕生日でもないのに蕎麦を打っている人がいて、あれっ、年越し蕎麦だ!って(笑)。

やじー:
今日は、いつも蕎麦打ちを手伝ってくれているみっちーの体調が悪くて、蕎麦を明日以降にずらすこともできたんだけど、なぜか今日だったんですよね。一人でもやるか、と。後でわけを教えてもらって「そういうことだったのか」と思ったけど、自分では意識してなかったです。

いさどん:
わからないけれど何かしら感じるものがあって進むと、その意味の深さや大きさ、そしてそうやって生きることの大切さが、後からわかってくるのです。これが天と共に生きるということです。
考えて考えて先に理由をわかって「これなら行くぞ」というのは人智です。それはどういうことかと言うと、自分の思っていることを叶えたい、ということです。自分の思っていることを叶えるということは、それが叶った後も、その前と変わらない自分がいるのです。

この七日七夜の最初の日に話した話を覚えていますか。

18538

今日も明日も明後日も、生まれた時から死ぬまでピーーーッと一直線。これはある意味、宇宙の法からは外れています。同じ状態をずーっと続けている状態は、変化・変容・変態を繰り返す宇宙からしたらおかしいのです。
ピーーーッと一直線に進んでいるということは、霊的には順調ではないということです。本来変化して行くものが、何かに囚われて同じ状態を保っているということですから。
宇宙の法を生きるということは、図に現せば山があり谷があり、だんだんと上がっていくということです。それは、人生を通して私たちがいろいろなことに出会い経験することと、同じことなのです。それが正常な状態だとすると、ピーーーッと横一直線に進んでいるのは、落ちているということなのです。魂は輪廻転生を繰り返しますから、何も変化なく一生を終えた人は霊的には落ちているということであり、その落ちた位置から次の生をスタートすることになります。

ちょっと、今から皆さんを、芸術の世界へご招待しようと思います。

(ここで突然、音楽が流れ始める。)

みんな:
なにこの曲??

いさどん:
みんな、細胞にこの曲が刻まれてないですか?

こうちゃん:
刻まれてる~。

みんな:
知らな~い!

いさどん:
知らない?これは『映像の世紀』のテーマ曲です。

『映像の世紀』
戦後50年を記念し、1995年から1996年にかけて「NHKスペシャル」にて放映された全11集のドキュメンタリー番組。日本国内はもとより世界各地から、二度の世界大戦やベトナム戦争などを含む20世紀の記録映像を収集し、現代の視点から20世紀の記録を克明に映し出して、多くの反響が寄せられた。

こうちゃん:
昔、本宅でみんなで観たよね。

いさどん:
第4集(ヒトラーの野望~人々は民族の復興を掲げたナチス・ドイツに未来を託した)、第5集(世界は地獄を見た~無差別爆撃、ホロコースト、そして原爆)あたりは、本当に地獄です。ここからさらに、第7集(勝者の世界分割~東西の冷戦はヤルタ会談から始まった)へとつながりますが、そのような世界では、戦争に勝っても負けても犯罪者です。そして東西の核の対立があり、ベトナム戦争へと続きます。いつまで経っても、人類の対立は止みません。

第二次世界大戦を経てアジアの国々が独立するわけですが、そこでもまた多くの殺戮が行われました。イギリスのチャーチル、アメリカのルーズベルト、ソ連のスターリンによるヤルタ会談では、戦後の自国の領土をどうするかということが話し合われました。ドイツのヒトラーや日本の軍閥の浅はかさがそこには映し出され、勝者が善になっていますが、実は勝利者の中にも恐ろしい精神が隠れているのです。
それが、今の時代になってやっと観えてきました。2012年12月21日に銀河の冬至を迎え、戦後70年の今年は、これまでの終戦記念日とは違ったものが放送されていました。愚かしさというものが戦後の体制によって裁かれてきましたが、実態はそうではありませんでした。真実は、その時代に関わったすべての者たちの意識を示すためにあったのです。

『映像の世紀』は戦後50周年に制作されたもので、その時にはそれを観た人々は気付けませんでした。
戦争はすべてが悪であり、被害者になると、どちらが善でどちらが悪ということはない、とよく言います。しかし本当の意味で、自分の立場を離れてこういったものを客観的に捉える時代が始まったのです。時代は、そういった解釈ができる時代に突入したということです。

先日、中国で抗日戦勝利70周年記念の軍事パレードがありましたね。あの時に、習近平国家主席は日本の軍国主義についての話をしました。いくら日本が安保法を進めていると言っても、あの時代の軍国主義とはもう違うでしょう。けれども、彼らはまだその亡霊に憑りつかれて、何に怯えているのか、或いは何の利権を争っているのか、未だに戦後のままの意識で主張しているのです。
先日、習近平国家主席はアメリカでオバマ大統領と会談しました。アメリカは中国のサイバー攻撃と海洋進出に抗議し、中国はサイバー攻撃については共に原因を探求していきましょうという話で濁し、海洋進出については、元々我が国の領土であるところを我が国の権利として開発することに我々は何ら揺らぐものはない、と主張していました。確かに中国には長い歴史がありますから、何千年という昔にはそういうこともあったでしょう。しかしそんな話を始めたら、みんながそういった主張をするようになります。まだそんな解釈によって自分の主張を繰り返しているのです。そして問題が解決しない状態があるのです。
極端なことを言えば、地球すべてが自分のものだという意識に行きつくでしょう。なぜかと言うと、私たちの先祖はひとつだからです。

第二次世界大戦の時、連合国軍がアウシュビッツへ足を踏み入れると、静寂の中に異様な匂いがしたそうです。それが何の匂いであるかは想像がつきました。人間の匂いです。そこで彼らが見たものは、人間はここまでのことをするのだ、という世界でした。そしてそれを他人ごととは思えなかったと言います。私の中にもきっとこういったものがあるのだろう、と思ったそうです。
扉を閉めてある部屋があり、中へ入ると、そこには餓死者がたくさんいました。そこで彼らは、初めて人食いの痕跡を見たそうです。死んだ人間のお尻に人がかじりついていて、そのかじりついている人間も死んでいました。
それは、人間のやることです。

日本軍も、フィリピンのミンダナオ島でジャングルに逃げ込み、食料のない中を生きていかなければなりませんでした。
生き延びた人たちの証言によると、島の中を歩いていくと、あたりに倒れている兵士の死体のほっぺたが、みんなそぎ落とされてなくなっていたそうです。ナイフでそぎ落とすのは、ほっぺたが一番簡単らしいですね。
そして煙が上がっていて、人がいるんだと思い行ってみると、香ばしい香りが漂ってくる。近付いてみると、そこで肉を焼いていた兵士たちがこちらを見たそうです。その目が、人間の目をしていなかった、と。

そういった世界にまで、人間は行きついてしまうのです。それを他人ごとにしているから、今の時代が先へ進まないのです。

世界の指導者に、本当に平和を望んでいる人はいるでしょうか。
例えば、中国の国父と言われる孫文。彼の弟子が蒋介石であり、周恩来、毛沢東であり、戦後に国民党軍と八路軍とに分かれて戦い、殺し合った人たちです。
それから、ベトナムのホー・チ・ミン。ベトナムを独立に導き、今も国民から慕われています。その独立の過程では多くの戦いがあり、人々が死んでいきました。
そして、ガンジー。平和を訴え、非暴力・不服従をうたいました。その時の映像をよく観てみると、暴力をふるうイギリス兵に対して、非暴力を掲げて果敢に挑戦する、非暴力の暴力をふるっている人たちがいるのです。
それを非暴力と言うのでしょうか。その結果どうなったかと言うと、最後には非暴力が「勝った」と言うのです。暴力がないところに、勝ったも負けたもないはずです。そこでは、ただ銃を使わなかったとか相手を殴らなかったというだけで、精神はイギリス兵と同じなのです。

そのことをわからないと、人類はこの先へ行けません。いつも自分の側が正しく、相手の側が間違っていると考えている。いつも、結果的に勝利した側が正義で、負けた側が悪になる。
『映像の世紀』のホロコーストの話は、ユダヤ人が強制収容所に送られるところから始まっています。強制収容所ではたくさんの人が殺されました。しかしその前に、この民族がどういうことをしていたかということは、そこでは何も語られていません。お金や力で権力を操ってきて、それに危機を感じたヒトラーが制裁を加えたとしたら、因果応報が現象化したとも言えるのです。そして今なおその精神は衰えずにイスラエルという国につながり、アメリカの社会を操り、その保護のもとに核兵器を持って、パレスチナを蹂躙しています。そういった世界では、どこにも正義などないのです。

20世紀までの映像を観て、正義はどこにもありません。人間の本質があるだけです。

 
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木の花ファミリーは、最初は木の花農園という名前でした。農的共同体でしたから。それがなぜ木の花ファミリーになったかというと、外国人やたくさんの人々が訪れるようになり、農園という枠を超え始めたからです。そして木の花ファミリーとなり、それはアースファミリーであるという精神で歩んできました。
それは、今の社会のある一部の人たちが、この生き方は世の中の最先端だね、それを世の中に広めたいね、ということで始めたことです。けれども実際は、その先にこんな世界があるなどということは想像もしていませんでした。当初は物理的にも狭い世界で生きていました。たまたま僕の奇妙な話に共鳴したスピリチュアルな小集団がこの暮らしの始まりとなっただけで、わけもわからず突き進んできたのです。
今は80人になりましたが、相変わらず小集団であることに変わりはないですし、やはりわけもわからないまま突き進んでいます。けれども、わけがわからないということの質が変わってきました。

わけがわからないまま進めることは、結果を求めないということです。結果を先に決めるのではなく、今を大事に生きることで、結果はついてくる。その時にどういう結果が得られるかは、行ってみないとわからないのです。
誰でも、嫌なことには出会いたくないものです。そして納得のいく結果を求めたくなるものです。先に嫌なことは嫌だと言って、都合のいいことを考えて、納得のいく結果を想定してやって来たのが、これまでの人間の創り出した社会です。けれどもずーっとさかのぼれば、長い人類の歴史の中で、人間がこれほど横暴なことをするようになったのはつい最近のことなのですよ。それこそ250年前のヨーロッパ産業革命以降です。それは、地球誕生から46億年の歴史を1年に例えたとしたら、12月31日の最後のたった2秒間の出来事なのです。

そう考えると、この生き方がなぜ今このトキに大事なのかが、理解できます。
そしてもう一つ。それをみんなが理解できたとして、あなたが今ここにいて、このトキを迎え、僕がこの話をしていることに対して、みんなは「ああ、そういうことか」と納得ができますか。

(みんな頷く。)

おそらくみんなできるから、ここに集っているのでしょう。
では、その納得できるという心を持って、世の中を見渡してみてください。我々と同じように1995年にこの『映像の世紀』を観て、今年の戦後70周年の様々な映像を観て、同じように刺激を受けている人たちがいるはずです。我々はこれらの映像を通して、だから自分はこの生き方をしているのだ、と自らの歩みを納得することができます。しかし世の中の人が、この映像を観て、今の生き方とつなげて納得できるかというと、できないでしょう。
わからないのは、考えていないからです。だから観えないのです。

みんなは今ここにいて、この話を聞いています。今日は大晦日で、その裏付けとしてやじーが手打ち蕎麦を打ちました。これはこじつけでしょうか?
僕は、そういうものだと思うのです。それを偶然ではなく、これが天と共に生きるということであり、宇宙を生きるということであり、星の意志を受け取って生きている人たちの生き方であるとわかることなのです。

秋分の前日に、頼みもしないのにある人が秋分の意味を送って来てくれました。そして満月の前日には、また別の人が満月の意味を送ってくれました。誰かがそんなものを送ってほしいと頼みましたか?こういうことを考えているのでその裏付けとなる資料を送ってください、なんて頼みましたか?
そういうふうに、宇宙を意識して日常を生きている人は、当たり前のようにポイントがはまっていくのです。
毎日の瞬間瞬間の思考の一片一片が、すべて宇宙と共にあるのです。宇宙の星々の意識をもらって生きているのです。同時に、自分がここで何をどう表現するのかが、星を運行させているのです。

一昨日、父上からメッセージがありました。

「これからは力強く支援するぞ。流れが変わる。
 それに遅れをとらぬように、よろしく頼む。」

力強く支援すると言われると、あさましい人ならば自分が得をすると思って喜ぶかもしれません。けれども力強く支援するというのは、おまえたちが今まで歩んできたのは難しい道だった、手探りでやってきて御苦労であった、私もそれを認めている、もう一つ扉を開けるからその歩みが明快に観えてくるぞ、だから確信を持って行け、ということです。
そうすると、エネルギーが少なく楽をして行けると思うかもしれませんが、そうではないのです。
ことが明快に現れてくるということは、求められるぞ、ということです。それは楽になるということではなく、さらに心して行け、ということなのです。それに応えられるだけの者に成れということです。

新年を迎えるにあたり、改めてみんなに話があります。

ここ何年か、毎年その年のテーマとなる言葉が降りてきていました。
2015年は「船出」でした。乗組員たちが一つの船に乗っているという意識を持って、自分に与えられた部署に専念し、船が円滑に進んでいくように努める ――― と言っても、なかなかポンコツな船出ではありましたね。船の性能が悪いのか、乗組員の意識が低いのか。けれども確かに船出をしました。そしてあと4分の1が残っていますので、仕上げとして、やはり一人ひとりがこの船のどこを担っているのかを意識して、自分の分をしっかりやり、そして連携すれば、この船は2015年の目的を達成して新たな年へ向かうでしょう。

新たな年には、新たな目的が与えられます。すでに、それが何であるか僕は予感しています。
先ほど『映像の世紀』のテーマ曲を聴きましたね。何とも言えず淋しいというか、侘しいというか、暗い感じがするでしょう。その奥にあるものを感じられるところまで、僕たちは来たのです。
今年もたくさんの映像を観ましたが、なぜああいったものを観るのかと言ったら、NHKが狙っているところに我々の目的はありません。なぜかわからないけれど、NHKの担当者に「こういう番組をつくりたいな」という想いがふっと湧いて番組をつくるとしたら、そこには彼らが頭で考えて「日本人にこういうことを伝えたい」というものを超えたものがあるのです。それは、星がそうさせているのです。時代がそうさせているのです。

多くの人間には、まだそれがわかりません。けれどもここの人たちはそれを受け取るからこそ、何回も何回も、必要な時にこういったものを観るわけです。20世紀の人間たちがたくさん経験をしてきて、それを映像にまで残して振り返って、戦後70年経ってもまだ怨念が消えないほど辛い体験をしながら、それでもなお観えずにいるものを、我々は観ているのです。
たかだか80人の人たちが何を真剣に毎日夜中までやっているのかと言ったら、僕は、世界を代表しているのだと思うのです。安倍さんも周近平さんもオバマさんもプーチンさんもわかっていないことを解釈できているからこそ、名もない人たちが、こういった場所を真剣に保っているわけでしょう。

今、9月30日の午後10時35分です。もう少しで新しい年を迎えるというところに、我々はいます。
この新年は前倒し新年です。というのは、2016年に向けてしっかり心構えをつくり、相応しくなって新しい年をスタートしなさいということです。だから、四半分を与えるから、心の体制をつくってのぞめということです。

それで、2016年のテーマは何か。
テーマは、少し前にようこちゃんと話している時に降りてきました。どういういきさつでそれが降りてきたのかは覚えていませんが、何か新しい動きを感じる話をしていました。ようこちゃんは覚えていますか?

ようこ:
その時のいさどんの言葉をテープ起こししてあります。
(と言って、ホールのスクリーンに文章を映し出す。)

いさどん:
すごいね!僕が何も言っていないのにそこまで用意してる。

ようこ:
それでは、2016年のテーマ発表です!

 
■    ■  9月17日朝のいさどんの話  ■    ■

世の中はまだ十分に木の花ファミリーの実態を理解していない。しかし、我々はこの生き方は本当に大切だと理解してきたし、世の中がわからないといっても、勘の鋭いポイントの人たちにはわかってきた。そうすると、我々が投げかけることに対する受け皿が出来たんだよ。後は「発信」するだけだよ!

発信するということは、こちらが勝手に発信するということもあるが、実際のところ発信してもその受け皿がなければ、どうしようもないことなんだよ。それでは長続きしない。

ところが、発信したことの受け皿があれば、その手ごたえがあるから発信し続けることが出来る。だから、これからどんどん出していく。

それも、後ろに潜象界を置いて発信していくということだ。

しかも、その発信は、地球を意識して、地球にまわるというイメージなんだよ。

■     ■     ■     ■     ■

 

いさどん:
実は、これを発表するのは元旦だね、と話していました。そうしたらようこちゃんは「流れだね」と言っていました。そして今日、僕はここで話しながら流れを観ていたら、僕のこれから出会うであろう出来事の先を読んで、幅を持って、いつでもどこでもどんな対応もできますよという人がいて、ぴったりのタイミングでこれを出してくれました。
また、今日は大晦日だねと言っていたら、勝手に蕎麦を打っている人がいました。どちらも全く予期せぬ話で、そういう準備をしている人がいるのです。

人と人の関係というのは、自分を超えて、自分が自分を想う以上に、近くなれるのです。自分が一生懸命自分のためを想って自分を大事にするよりも、人との関係はもっと自分を大事にしてくれて、もっと自分のためになって、もっと近くなれるのです。これが、「あなたは私、私はあなた」という世界です。これが地球の姿です。これが宇宙の姿です。

そういう人間関係を、誰とも結びたい。それは木の花曼荼羅にも表されているでしょう。

72角形のすべての点を線でつなぐことで、自然と中心が現れる木の花曼荼羅
72角形のすべての点を線でつなぐことで、自然と中心が現れる木の花曼荼羅

 
いさどん:
これは難しいことですか?

みちよ:
難しくない。

いさどん:
いや、難しいですよ。確かに難しくないとも言えますが、これまでの実際の自分の歩みを、一人ひとり振り返ってみてごらんなさい。こんな自分がそんな世界へ行くのだと思ったら、難しいことでしょう。
しかしそれは、ここまで歩んできたのだから、その先の世界へも必ず行けるね、ということでもあるのです。

そこへ行くためには、自分よりもまず全体を大事にして、自我をコントロールできる人になること。たったそれだけです。

何の勉強もしてなければ言葉を話すこともない道ばたの木や草花、動物、空気・・・みんなそれをやっています。人間だけが、それをやれないのです。なぜならば自我が邪魔をしているからです。
21世紀に入り、様々な分野で最先端にいる人たちが、それができない。それは損得勘定で頭が回っているからです。しかし人間には、必ずそれができるのです。自然にならい、自我をコントロールしていけば、簡単にできます。それをやらなければもうこれ以上もたないと地球が言っています。地球というひとつの生命の中で争いが起きているなんて、おかしいでしょう。

真実は、どこからどう捉えてもひとつです。正義は解釈でいくらでも変えることができます。しかし、真理とは、どこからどう捉えてもそれしかない、というものです。
この生き方は、時代を超えて、民族を超えて、人類がこの世界で進むべき道なのです。

みんなは、外観からはとても聖者には見えませんね。(みんな:笑)
けれども、体の一つひとつの細胞が目覚めて全身が健康になっていくように、この何でもない人たちが目覚めていくことで、地球全体が健康に、美しくなっていくのです。
それが21世紀の悟りであり、「コミュニティの仏陀」として生きる、新しい意識の人々が創る社会の姿なのです。

地球は、天(宇宙)が人類に生命の理想を表現することを託した、唯一の場所なのです。私たちは、その尊い使命を負って生まれてきた者たちです。自らに囚われず、広い世界に目を向ければ、時代がそのことを私たちに示していることがわかります。その意志が受け取れたならば、私たち一人ひとりはこれからどう生きるべきかが明快にわかるはずです。
そこに、誰も指導者はいません。あなたが自らの人生を導く、あなた自身の尊い指導者なのです。

 
皆さん、新年明けましておめでとうございます!!

 

 

― 最後にみかちゃんが、「太陽の導き」という歌を歌いました ―

 
「太陽の導き」

心に輝く一番星 それは近づいてみれば 太陽だった
その太陽を心の真ん中に置いて いつも心を照らしていよう

泥のような道を歩んでいても
太陽がいつもあなたを導いてきた

歩いては転び そして起き上がり
歩いては立ち止まり そしてまた歩き始める

ここまで生きてこれたのも
こちらへおいでと手招きしている 太陽の導き

今 振り返って 自分の歩いた軌跡を
自分の心の姿を 太陽に照らして見てみよう

太陽は教えてくれる ただみんなのことを思うことを
太陽は教えてくれる いつも私の方を向いてるように

そうして生きてゆくならば この世界は生きたバイブル
いつでも振り返りひも解いて 太陽の道を歩んでゆこう

何てありがたいこの道を歩んでいるのか

あなたという小宇宙が もっと大きな大宇宙の中で
どんなふうに輝いているのか どんなふうに歌っているのか

この道は尊き道ゆえ この道は尊き道ゆえ この道は尊き道ゆえ

いつも心を太陽に向けて いつも心を太陽に向けて

歩いてゆこう

 

 

 

 

 


いさどんの七夜物語 – 序章 「秋分前夜」

木の花ファミリーは、現代社会の行き詰まりに突破口を開く次世代の生き方を探求する場として、創立以来、時代と共に変化しながら、メンバー一人ひとりが心を磨くことをもっとも大切にして歩んできました。その結果、皆が心から安心して暮らせる豊かな場を築いてきましたが、いつしかその豊かさに甘んじ、一人ひとりが真剣に自分と向き合い変化し続ける意識が薄らいでいく、ということが起こりました。このことを感じたいさどんは、今年6月、1年でもっとも光の多い夏至のころから、毎晩の大人ミーティングに参加しなくなりました。
そして3ヶ月後、光と闇がちょうど半々となる秋分の前夜に、いさどんは久しぶりに大人ミーティングに姿を現しました。

1年で闇のピークとなる冬至を越え、今年も残すところあと3日。2015年「船出の年」最後のいさどんブログは、大人ミーティングに出ない間もずっと皆の成長を見守り続けていたいさどんが、秋分前夜を皮切りにあふれるように語り続けた七日七夜の物語をお届けします。無限にあふれ出す宇宙の叡智を浴びながら、この世界の真理を探求する7日間の旅へようこそ!
(写真は、秋分の日の朝日です。)

 

9月22日 秋分前夜

いさどん:
皆さん、遠くに座っていても、下を向いて何か作業をしていてもいいですが、意識はこちらへ向けていてください。

今朝、すごく大事な話をしました。どんな話だったのかというと、今は全くそれが出てきません。ただ、大事な話であったことは間違いありません。
では今日僕が何でこの場に来たのかというと、語り出せば出てくるからです。語り出せば出てくるということは、僕の中に確固たるものとしてそれがあるということです。しかし今何だったのかと考えても出てこないということは、考えて出てくるものではないということです。それは、時が来れば湧き出してくるものです。

僕は40歳でそれまでの仕事をやめました。今は64歳ですから、あれから24年経ったということです。
僕の人生は、とてもおかしな人生です。僕は30歳でこの道をいただきましたが、始めの頃は上からのメッセージを疑っていました。それこそ悪魔か何かが僕を騙そうとしているのではないかとも思いました。しかしそのメッセージはその都度、道理が通っているのです。だから疑いながらも、道理の通る方を選んできました。

始めの頃は、その道理は僕の意志とは別のところにありました。ですから、どちらかというと、それは僕にとっては自らを否定する方にありました。それでもそちらの方が道理が通っているから、常にそちらを選んできました。
だけど、みんなは違いますね。そちらの方が道理が通っているとわかっていても、自分の意志の方を選ぶ。そうすると、結果的にバカを見ます。
自らの意志とは違うけれども道理の通る方を選んできたのが僕の人生です。その結果、今こういった暮らしが出来上がりました。

一昨年、ある女性と22年ぶりに再会することがありました。
彼女は、僕ととても深い縁があった人です。しかし僕がここに来てから22年間はまったく縁がありませんでした。ところが一昨年再会しました。縁が深いと、22年も経ってからでも復活するのです。

彼女は僕と再会する前に、こんな夢を見たそうです。宇宙人がやって来て、彼女をさらっていこうとしました。彼女は、自分は地球から離れるんだ、それもいいか、と思い、仰向けになったまま、体がどんどん宙に浮いていくのに任せていましたが、最後に街が見たいと思って、体をひっくり返して下を見ました。その時、地球から離れる前にもう1度いさみくんに会いたい、と思ったそうです。そうしたら体がくくっと下に降りて、元に戻った。彼女は結婚して子どももいるけれど、その時、夫や子どものことはまったく頭に浮かばなかったそうです。そしてその後、偶然インターネットで僕を見つけて、再会することになりました。
普通、20年も経ったら互いの気持ちは変わっているものでしょう。ところが彼女は22年ぶりに再会してここに来ても全く違和感がありませんでした。そして彼女の心は、ここにどんどん定着しています。家に帰れば普段の生活があるわけですから、ギャップを感じて苦しくなるものですが、彼女は苦しい感じがまったくしないのです。それは、「道」があるのだということに気付いたからです。

それを聞いた時に、僕という人は一体どういう存在なのだろうと考えました。すると、カタカムナの単音の思念が浮かんできたのです。
「イサミ」をカタカムナで表すとこうなります。

      イェ
      イェ
      サ
      サ
      ミ
      ミ

 

 

 

 

「偉佐美」のイは、「ヰ(イェ)」の方です。まっちゃん、これを単音の思念で読み解いてください。

まっちゃん:
3文字の場合は、普通、真ん中の文字から読みます。まず「サ」にはいろいろな思念があるけれど、「心の隙間」「狭い隙間」「動きの始まり」という思念があります。

いさどん:

なぜ始まりかと言うと、「サ(差)」ができることによって現象化するから。もしもまったく差がなかったら、それは「サトリ」の状態だから、始まらないのです。
「ミ」は「満つる」。満つっているけれど、これはまだ現象界に現れる前の、潜象過渡の状態です。

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みかこ:
「ミ」は「観る」。心で感じるもの、ということでもある。

いさどん:

「観る」とは、奥にあるものを観るということ。この目では見えないのです。

みかこ:
「ミ」には「みつご」という意味もあって、電気、磁気、力が満ちていること。でもそれは目には見えないでしょう。

いさどん:
電気、磁気、力というのは、この現象世界の物理的原理。何かの現象が起きるのは、その3つの働きがあるから起きている。だけど、現象は目に見えても、その奥にある3つの働きは目に見えない。だから、浅く見ている人にはわからないのです。

まっちゃん:
「ヰ」は、「サ」と「キ」の重合した状態。重合とは、七重、八重、九重を超えて十重に至ると、八鏡文字で表されている大円が溶けて一体化する、つまり悟りの状態になるということ。

みかこ:
八つの小円も、この次元まで来ると小円も溶融し、境界面に密集していた高密度の小円の密度差が取れる。それが悟り。

いさどん:
カタカムナで言う精神位置の、一番高い、仕上がったところだということ。

みかこ:
この形は鳥居の形を表し、悟りを意味する思念を持つ符号であるとも言っている。

いさどん:
そうすると、この「イサミ」という名前は、まだ隙間にあって、そろそろ動きだそうとしている状態で仕上がったもの、奥にいて満つっているものを表している。現象界にはまだ現れていない。
どこにいるかというと、ここに現象界と潜象界の間の壁があって、現象界に現れる少し手前のところで、準備ができている状態。その位置にいて、現象界の人からは見えない。見えないところで、完成された心を持ってそこにいるということです。

かつて、僕はこういう道をいただいて、いったいどんな役割があるのでしょうかとお釈迦様に聞いたことがあります。なぜかと言うと、いろんな人に心の道を語ってきましたが、いつも手応えがあるようなないような状態だったからです。
表面的にその人が楽になるという意味では、手応えがありました。だけど僕は、楽になってもらうためにやっているわけではないのです。あなたが、楽になる前に苦しかったことの意味を理解しなさい。苦しいとは尊いことであり、苦しさがあったからこそ、楽になった時にこの世界の有り難さに気付くことができた。そのことをわかるために伝えているのに、みんなは楽になることだけを求めて、それで終わりにするのです。
だから多くの人は、自分が苦しみから解放されると「ありがとうございました」と言ってそれ以上学びに来ませんでした。それで僕は、孤独になっていました。

大事なことは、どこからでも理解できます。四方八方どこでも自分の鏡ですから、どんなにありがたいことからも愚かしいことからも学べるのです。全てはそのためにあるのに、人は自分に都合のいいことだけを受け取って、苦しみが取れたらそれで良しにして、その苦しみの本当の意味を理解しないで終わっていきます。それではいけないでしょう。中には、「ありがとうございました」と言ってお礼を置いていこうとする人もいました。だけど僕は、そんなことが目的で語っているわけじゃない。だから、お礼は受け取りませんでした。

そんなふうに矛盾を感じていた時に、お釈迦様に聞きました。「私はどういう者なのでしょうか」と。その質問の奥にどんな心があったかというと、「私は理解されたい」という想いがありました。それは、僕を理解してほしいということではなく、僕が語っていることを理解されたい、ということです。それは、本当に人が楽になる道だからです。
だけど人々は、浅く受け取って「ありがとうございました」と言って帰って行きました。だから、ものごとの奥をずっと観続けて、生きるとは何であるかを知っていくということを忘れるのです。清涼飲料水を飲んだように一時的にはスカッとして爽やかになっても、その後が続かないから、また清涼飲料水が必要になるのです。
僕はそれが不可思議で仕方ありませんでした。それで「私がやっていることはいったい何なのですか」とお釈迦様に聞きました。僕が理解されたいとか、評価されたいとかいうことではなく、かけたエネルギーが無駄にならずに相手の中で生きるように。そしてその人が自分の愚かしさに気付いて大切な生き方をするようになるように。簡単に言えば、幸せになるように。もっと言えば、本当の価値が上がるように。そういう想いがありました。でもなかなかそうはなりませんでした。

本当ならば、同じことをグダグダと続けなくても「やめた!」と言ってサッと切り替えれば、別の人生があるのです。それなのに同じことを繰り返すのが、その人の癖、性分、つまりカルマです。
そのカルマからの解放を表すのが、「ヰ」の文字。僕は今、肉体を持ってこうやって生きているのだから、それを人々に伝えることで本当に成っていくのだろうと思っても、いっこうに動きが進まない。
それでお釈迦様に質問をしたら、こう返事が返ってきました。
「おまえが生きているうちは、おまえが伝えたいことは世の中に理解されない。」
それは、おまえのやっていることは効果がないという意味ではありません。おまえはそれだけの覚悟を持って、それをやる気があるか?ということを問われたのです。

一昨年、不二阿祖山太神宮へ参拝した時に、天から「難しいことを与えておるゆえ心していけ」というメッセージがありました。わかっております、とその時は思いましたが、その後にいろいろと起きたことを考えると、改めて、本当に難しいことを与えられたと思います。僕が伝えようとしていることと、相手に伝わることがまったく真逆になることもあるのですから。面倒くさいったらありゃしないし、いい加減わかりなさいよという気にもなります。
それでも、何度も同じことを繰り返す人に対しても、もう知らないとは言わずに付き合ってきました。わかってほしいのにわからない者たちだな、と思いながら。

その時に僕はどこにいるのかというと、潜象界と現象界の間に壁があって、その壁の手前にいる。潜象界から現象界に語りかけても、それは現象界の人間にとっては「ない世界」からのメッセージだからわからないのです。
「イサミ」という名はすべて潜象過渡であり、「サ」は現象界に入っていく始まりを表しています。「ヰ」は、現象界ですべてのことが起きた後の最終到達地点。僕は潜象界の側にいて、満つっている状態です。ムラムラムラというのか、モコモコモコというのか。だけど、人間の体を持っているから、それを語ります。「サ」から「ヰ」まで、つまり始まりから仕上げまでを語ります。だけどみんなは、僕がいくら高い視点のことを語っても、自分の足元しか見ていない。いくら僕がこっちだよと言っても、足元の低いところにしか興味がないのです。

それで僕は、お釈迦様にさらに質問をしました。私の道はどのような道なのでしょうか、と。そうしたらお釈迦様は、こう言われました。

「おまえは今、一にいる。あるいは二にいる。しかし、道は十への道である。そのおまえが、私の道はどこにあるのでしょうかと十を聞いている。
私は、その問いには答えない。なぜなら、肉の体を持って生きる人間は、答えをすぐに求めたがるから。形をすぐに求めたがるから。もしも私が十を答えたら、おまえは一にいれば三に行きたがり、三にいれば五に行きたがり、七に行きたがり、十を求めるだろう。もしくは、いきなり十に行きたがる者もいるだろう。
しかし、一は必ず二に通じ、二は必ず三に通じ、三は必ず四に通じる。そして九まで行けば、自ずと十になる。
今、おまえは私に問うている。それは、私に通ずる道にいて、私の道はどこにあるのでしょうかと問うているとのである。ならばおまえのすることは、今一にいるとしたら、二に進みなさい。二に行ったら、三に進みなさい。三に行ったら、四に進みなさい。次の場所は必ず観える。しかし一にいては、三は見えない。
一つずつ進んで九まで行けば、自ずと十は観える。それが道だ。」

そしてお釈迦様は、「おまえは八十にして滅する」と言われました。なるほどと思いました。僕は四十で仕事を辞めると決意していましたが、それは折り返し地点だったのです。
そしてこう言われました。
「おまえが生きている間は、おまえの言うことは世の中に理解されない。つまり、世の中に道は開かれない。しかし、おまえが滅したら、世の中にそれが広がり始める。」

僕が八十歳ということは、2031年です。2031年に、世の中がそういう時代の扉を開けるということです。
2012年の12月21日に銀河の冬至があり、宇宙の扉は開きましたね。そこから2031年までは、19年間のギャップがあります。その間は理解されないということは、世の中が本当には動き出さないということです。お釈迦様は、それを覚悟して行けということを言われたのです。
僕は、世の中の扉が開く前の土台をつくる人間です。そういう役割なのです。そう思っていたら、ちゃんと扉を開ける役割の魂が生まれてきましたね。銀河の冬至を越えて、世の中に質的転換を起こして成す役割の魂たちが生まれて来ています。

6月の終わりから、ずっと僕は大人ミーティングに出ていませんでした。このわからない話をみんなにどうやって伝えたらいいだろうと考えていました。わからないはずです。理解されないという役割で生まれてきているのだから。
本当は、安倍総理でもパン国連事務総長でもアメリカ議会でも、この話を聞かなければいけないのです。今度アメリカで、日本とアメリカと韓国が話し合いをしますね。今年、日中韓で話し合いをする前に、アメリカの意向を聞かなければいけないということで集っています。名目上は北朝鮮対策ですが、本当の目的は中国対策です。そんなことをやっている限り、いつまでもこの状態は続くでしょう。だからこそ、彼らは僕の話を聞かなければいけないのです。それは、僕の話ではなく、僕を通して湧き出てくる天の意志を聴くということです。

だけど、まだそういう時は来ていません。でも少なくとも、ここの人たちは僕の話を聞かなければいけない。この不可思議な生き方は、「なるほど!そういうことか!」というとびっきりの合点がないと生きていけないでしょう。では世の中はなぜ合点がなくても生きていけるのかというと、欲と我にまみれているからです。汚れているからです。
だけどここではこんなにも汚れを取ることを大切にしているのだから、それを取らずにいて、何を目標にして生きるのですか。目標を見失ったまま、どうして前へ進めるのですか。

僕の役割は潜象過渡ですから、まだ世の中からは観えません。しかし宇宙は既にそうなっています。宇宙はそうなっているけれど、現象化されるにはまだ時間がかかりますから、その間に新しい時代を迎え入れる心の準備をみんなができるように、僕はこれをやっています。ものの奥を観ようという意志を持った人にだけ、初めて通じるのです。
潜象過渡から伝えられることは、汚れが取れないと観えません。だけど僕は肉体を持って、現実に現象界に現れています。だからみんなは、僕を利用しようと思ったらいくらでも利用できるのです。だけど、利用する意志を示さなければ、利用できないですよ。観ようとする心、引き出そうとする心、学ぶ心がなければ、利用できません。それではもったいないでしょう。
利用しようという意志があれば、僕はどこまでも出ていきますよ。それは、みんなが僕に対してどうするということではなく、あなたはなぜ今ここにいるのか、自分は何者なのか、どうしてこの道を選んでいるのか、ということを明快にするということです。

昔僕がお釈迦様に、私の人生は何なのですか、どこへ行くのですかということを聞いた時に、答えをいただきました。どこへ行くのかという答えはなかったけれど、そこへ行く姿勢を教えられました。それが答えです。そして歩んでいけば、ちゃんと形は観えてくるのです。

明日は秋分。いよいよ今年も第四コーナーです。来年の指針も出ました。着々と天は用意されています。
700年の伝統を持つ奥三河の花祭が、ここに「富士浅間木の花祭り」として継承されました。花祭は国の重要無形民俗文化財ですが、今やここには世界各国から祭りのための聖水が集まって来ています。いったいどこまで進化していくのでしょう。
カタカムナ勉強会は、今年からカタカムナ研究会になりました。そうしたら、それに参加したモンゴルの青年が、ここを人類の歩むべき新たな道を探る研究所にしましょうと言いました。
僕はかつてお釈迦様から、名前から人のカルマを読み解く「カルマ読み」をいただきました。さらに3.11と共に、惑星配置からその人を読み解く「地球暦」がやって来ました。それでより深く人を読み解けるようになり、自然療法プログラムが進化しました。そして一昨年カタカムナと出会い、カタカムナの思念から読み解けるものがカルマ読みや地球暦とぴったり一致するのです。地球暦の太陽から冥王星までの九つの惑星は、カタカムナのヒフミヨイムナヤコトで十で悟りに至る道とぴったり符合します。そんなことを、いったい誰が考えたのでしょうか。

ヒフミヨイムナヤコト

地球暦は、ここで進化、発展しています。カタカムナも、いよいよこれまでの熟成期間を経て、これまで潜象界にあったものが現象化していくのです。これから独自のカタカムナ理論ができあがっていきます。まっちゃんをどうやって活かしたらいいだろうと考えていましたが、活かしどころが見つかりました。少し前まではずっとグダグダしていて、もう好きにしろと言いましたが、これからは好きにしろではなく、ちゃんと役に立ってもらいます。

まっちゃん:
そうします!

いさどん:

地球暦に出会ってから、僕とみかちゃんで力を合わせて読み解きを進化させてきました。これからは、まっちゃんと力を合わせてカタカムナを深めていきます。そうやって、ことが成っていく時に一人ひとりに役割があるのですよ。今、新プロジェクトの計画がありますが、全てそこにふさわしい人がはまっていくのです。現世的には仕事としてですが、霊的には、自分の魂のはまりどころにパズルのピースのようにはまるということです。
そうやってみんなが活かされて、それが社会にメッセージとして発信されていく。これから、今の社会にはまることのできない人材がたくさん集まってくるでしょう。そういうことを、我々は真剣に考えなければいけません。それは、損得勘定で考えることではないのです。宇宙はフリーエネルギーであり、潜象界から無尽蔵にエネルギーが供給されています。道理に沿ったものには、必要なエネルギーが与えられます。その心になったら、何でも可能になるのです。

僕は今日、大事なことをみんなに伝えました。みんなはそれを聞いて、この現象界でどうしたらいいと思いますか。

ヒロッチ:
ありきたりなことだけど、ここの役割を世の中に対して果たしていく高い自覚を持つことが一番だと思います。

なかのん:
ものごとの奥を観ていく。

いさどん:
その結果何を求めるのですか。

なかのん:
宇宙の意志を感じる。それでどうなっていくかはわからないけれど。

あや:
世界を清浄の地に導くということをする。

いさどん:
そういう目的のために我々はこの道を歩んでいるわけですから、それはこの先にある結果のことでしょう。それがいつ来るのか、どういう形になるのかはわかりません。けれども、揺るがない目標です。この道を知ってこの道を歩み出した者は、本来そこから外れるということはないはずなのです。

えいこばあ:
意識していく。

みちよ:
天意を感じて生きていく。

いさどん:
その目的は?

みちよ:
天の意志を現象化して、調和的な社会を創ること。

いさどん:
あなたが創るの?

みちよ:
天のプロジェクトのもとにみんながやっていく。

いさどん:
そのプロジェクトを感じるためには、何が必要なの?

あや:
我を捨てる。

まっちゃん:
我を超えるじゃない?

あわ:
自らの役割を果たす。

あつこ:
人のために生きる。

やじー:
道具になり切って使っていただく。

いさどん:
みんな正解ですね。外れている人はいない。それをまとめて言うと、大切な道を生きているという自覚を持つということです。それができたら、今みんなが言ったことは自動的に成っていきます。簡単でしょう。大事を生きている。だから大切に生きなければいけない。忘れちゃいけないんだ、ということです。

それだけ大事だということは、いい道を生きてありがたいな、得したな、ということではないのですよ。僕がみんなに伝えたいのは、責任があるということです。ここがやり切らなければ誰が扉を開けるのか。

そういったことを想って生きれば、具体的なことは自動的に成っていきます。大事だということがわかったなら、すべてのことの一番にこれを置いて考えることです。そうしたら、良い世界ができるでしょう。

 

 

いさどんの七夜物語 – 第一夜「思い出す」へ続く

 

 


宇宙から一人ひとりにオリジナルな人生が託されている

2015年マヤ新年の日、地球に祈りのウェーブを巻き起こす式典の中で、いさどんは次のように語りました。

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■     ■     ■     ■

今日2015年7月26日、マヤの新年・11MENの祭典に立ち合わせていただきました。そしてその最中に、ひとつの文字が浮かんできました。それは、「時(トキ)」という文字です。マヤ暦はおよそ20000年前から始まりました。その歴史をたどれば、今わたしたちはカタカムナを学んでいますが、そのカタカムナ以前に太平洋という地球上で一番大きな海にムー大陸があったそうです。そのムー大陸が消滅したとき、時(トキ)の文明を東に移し、マヤの文明にしたのです。そして、言魂の文明を西に移し、ユーラシア大陸の端に存在していたヤマトの国に移したのです。それから13000年の時を経て、一昨年、わたしたちはそれをカタカムナの学びとして出会いました。そして昨年から、メキシコの太陽マヤ族最高司祭の尊母ナー・キン氏との出会いにより、このヤマトの地で、マヤの新年の祭典が行われるようになったのです。

歴史を振り返ってみますと、2012年12月21日に25800年ぶりの銀河の冬至を迎えました。わたしたちの地球にも冬至はありますが、冬至とは光がもっとも少ない闇のピークのことです。わたしたちは太陽の生命エネルギーをもとにして、地球上で生命活動を行っています。そして、全ての生命が自分という個性をいただいて、時代を紡いでいるのです。その太陽の一螺旋である25800年ぶりの銀河の冬至が2012年12月21日に訪れ、この日を持ってマヤ暦は終わっています。それは、時(トキ)の文明を継承したマヤの人たちが、太古の昔にそういった宇宙の仕組みや太陽の構造を理解していたということです。

これまで、わたしたちは新たな時代を迎えるための心の準備をしてきました。一人ひとりが自らの個性的な心の歴史を知って、カルマを読み解き、そして新たな心とともに新たな時代を迎える準備をしてきたのです。それが木の花ファミリーの21年の歴史です。

そしてくしくも、新たな時代の扉を開けることになった4年前の東北の震災3.11を持って、わたしたちは地球暦に出会ったのです。地球暦に出会って、わたしたちは自分個人を生きているのではなく、星々の対話を受けて、宇宙の意志を一人ひとりの人生に表現していることがわかってきました。

こうした様々な出会いのもとに、今日2015年7月26日、わたしたちはこの富士山麓の地で地球一周の始まりとしてマヤの新年の祭典を迎えています。この祭典はヤマトの国・日本で始まり、そして24時間かけて地球を一周していくのです。

イメージしてください。宇宙を意識した人々の心が羽ばたくようにウェーブとなって、地球を一周するのです。つまり、地球は丸く、時代は途切れることなく永遠に紡がれながら、わたしたちはひとつの世界を生きているのです。

地球上にはまだまだたくさんの争いや様々な困難がありますが、これは人間以外のものが創ったものではありません。それは、人間が自我を自らのためだけに活かそうとして生きてきた結果なのです。それも、それほど長い期間のことではありません。時をさかのぼれば、およそ250年前のヨーロッパ産業革命以降のことでしょう。さらにもう少しさかのぼれば、800年、1600年くらい前のことでしょう。それ以前、人間は自然とともに生かされ、生命ネットワークの中の役割のひとつとして他の生命とともに繁栄していました。

今、この時を迎え、人間の中で自我が沸騰しています。しかし、これは悪いことなのでしょうか。

それは決してそうではありません。人間の可能性と高い能力を知るためには、思い切りその能力を表現する必要があったのです。そして現実にそれを表現したときに、その問題点も噴き出してきました。それが今の時代です。今、それをコントロールする時(トキ)が訪れ、そして自らのカルマを表現する言魂によってコントロールしていく時代になったのです。今、トキとトコロ、マヤとヤマトが出会って、この祭典につながったのです。

そのように考えますと、わたしたちは自分でわかっている範囲で生きているわけではないのです。星の対話によって時代が刻まれているのであり、それは宇宙の仕組みで生きているのです。その仕組みの中で、わたしたちは常に変化・変容・変態を繰り返しながら進化しているのです。

そういったことをイメージしながら、調和の世界を地球上に表現していきましょう。わたしたち人類は、非常に優れた能力と大きな影響力を持っています。人類が目覚めたら、次の時代にはきっと、この地球生命、さらに宇宙に大きな貢献をするような魂となって育っていく姿がイメージできます。

時代は21世紀に入り、ようやくそのような時代になったのです。2012年の銀河の冬至を迎え、新たな扉が開き、2013年・2014年・2015年と3年間その変化の準備期間をいただいて、2015年はその最後の年です。この新年が明けると、いよいよ新たな時の流れを世界中の人々が感じるようになり、人類も地球自身も新たな宇宙時代を迎えるのです。

それぞれの歩みがあるとしたならば、木の花ファミリーは世界に先駆けてそのことに気付き、目覚めたものとしてこの生活を通して表現するものなのです。これは今後の木の花ファミリーの生き方にますます反映され、そして宇宙を通し、地球ネットワークを通して、全世界に広がっていくものだと確信しています。今日のこの快晴は、天がそのような意志を示されていると感じながら、皆さんとともにその自覚を持って歩んでいきたいと思っています。

木の花の歩みが始まったのが21年前だとしたら、やっと今、時が追いついたのです。人は土星の30年のサイクルで生きていますが、最初の30年で自らが何者かを知ります。そして自らが何者かがわかったら、次の30年でそれを人生に表現するのです。そして、60年でその結果をいただき、その後旅立つための仕上げの準備をするのです。木の花ファミリーの20年から30年に向けての今後の10年間は、きっと新たな時代を紡いでいく大きな役割を果たしていくのでしょう。

そういった意味で、わたしたちは宇宙を生き、時を生き、時代を刻んでいるのです。その中のトコロという場にわたしたちの存在があるのです。ですから、心をしっかりと観て、宇宙・トキ・トコロを意識しながら生きていくことが、生命として、そして大きな役割をいただいている人間としての目的なのだと感じています。

それは、宇宙から一人ひとりにオリジナルな人生を託されているのです。そして、人々は自我から解放され、この世界のために天の意志をいただいて生きていく時代に入ったのです。それは、価値ある素晴らしい人生です。自分のことは自らで責任を持ち、高い意識で歩んでいきましょう。そして、地球上にみろくの世を実現させましょう。皆さん、これからもよろしくお願いします。

一人ひとりにオリジナルな人生が託されている
一人ひとりにオリジナルな人生が託されている