瞬間瞬間がオリジナル ~ 群れが個人を目覚めさせる

いさどん:
個々の存在は、それぞれが独立した生命だ。その独立しているものをひとつにする時に、物理的に結ばれる行為がある。結ばれることによって、共通の目的が生まれ、心がひとつになる。

ただ、物理的に結ばれる行為の奥に思惑があると、それは結ばれる行為の本来の目的から外れる原因となる。そして思惑と思惑がぶつかり合い、複雑な現象がそこに生まれる。
無垢の状態でひとつになれれば、溶け合って、そこに新たなひとつが生まれる。それは美しい世界だ。そこでは、言葉はいらない。

──── 合体することは、大切なことだよ。

ともこ:
どうして男女でしか合体できないんだろう。誰とでもひとつになれるわけじゃなく、男と女でしか合体できない。

いさどん:
そんなことはない。男と女の対向発生が元となり、それが全体に広がっていくのだから。昔なら群れの中のヲサが神事として交わりを行い、女性にそれを伝えることで群れが安定した。
ただ、昔の一人は個人というよりも、単なる群れの中の細胞にしか過ぎなかった。しかしこれからは、個人がクローズアップされていく。個々が目覚めていくために、群れの中にいることが重要になっていく。一人ひとりが群れを形成するための全体性を持った個人として、目覚めるということだ。

昔は、生きていくために群れの形態をとることは必須だった。そうしなければ存続することができないから、やむを得ずそうしていた。しかし今の社会は、生きることはそれほど難しくなくなった。だからこれからの時代は、個人が群れの中に暮らすのは生きるためではなく、目覚めるためだ。
群れの生活形態が個人を目覚めさせる。全体性を学び、エゴを洗い流し、世界の構造を理解するために、群れの暮らしが必要になる。群れて生きた結果、個人はそれぞれの歩みや個性にふさわしく目覚めていく。そしてそれぞれの事情を生かしながら、全体を創っていく。

これまでの時代は、人々は自由で個性的に生きているかのようで、実際は一律な欲求に翻弄され、惑わされて、極めて個性のない人生を生きてきた。しかしこれからの時代は、群れの中で生きる者は個人としての意識がより確立されるようになる。それは、本来別々の個性を持つ人々が一律な価値観のもとに既製品化されてきたこれまでの世の中の流れとは、逆の方向に進むということだ。

僕は群れの中の一人ひとりに、個性的であることを求めている。しかし与えられることに慣れてしまった人々は、自らそれを目指し、獲得して、輝いていくということを怠る。もっとギラギラしたらいい。そのギラギラとは、宇宙の実相である活性であり、我々が生きる上での生活の表現でもある。そしてそれは、エネルギッシュで魅力的だ。その延長線上に、それぞれの役割や個性的な表現が充実していく。
そこでは、個人プレーは大いに歓迎される。それは全体性のための個人プレーだから。

ともこ:
2012年12月21日の闇のピークに向かって、時代は既製品化の方向へと進んできた。私たちはその極みに生まれた、まさに既製品化を体現している存在だと言えるね。そして時代が闇のピークを越えて新たな方向へと進み出した中で、今なお既製品になろうとしている。

いさどん:
そうだね。しかしそこに違和感を感じ、抵抗する人々も現れ始めた。

ともこ:
これまでは、既製品化しながらどんどん分離していく時代だった。

いさどん:
同じようなものでありながら、プライドが「自分だけは違う」と自分と他者と区別しているんだよ。

ともこ:
今、自分の心が分離の極みの状態になっているのがわかるよ。自我が強くて自分にばかり意識が向いて、周りとのつながりを忘れている。そういう自分たちが今、再び群れの中で暮らし、共に生きることを始めたというのは、すごくおもしろいね。

いさどん:
それを人間がやりきれない分、地球や宇宙が、群れで生きることの後押しをしてくれている。
世界は常に我々に、つながっていることや、生かされていることを教えてくれている。例えば呼吸を止めても、眠らなくても、トイレを我慢しても、食べることをやめても、食べ過ぎても、生きることの原則から外れるとすぐに苦しくなるでしょう。そうやって世界はいっぱい教えてくれている。しかし人々はそういったことを忘れているから、それが今の世の中に生き辛さとなって現れている。これまでのようにわがまま放題で好き勝手に生きることは、これからはやれなくなるということだよ。それが地球の意志であり、宇宙の意志だ。

そもそも我々は、地球というコミュニティに暮らしている。それは、災難が起きたからといって一夜漬けのように群れでつながることとは違う。日ごろから二つのものが完全に一つになるというくらい、つながって生きる。それは阿吽の関係で生きるということだ。

ともこ:
今はまだ、ひとつになることを勘違いしていると思う。既製品化することで「みんなと同じなんだ」と自分を安心させて、それでひとつになろうとしている。

いさどん:
ひとつになることは、個が自立し、目覚めるためにある。ひとつになることによって、自らのキャパを広げ、自由自在に行動し変化していくことが可能になる。そういった余裕を身に付けるということだ。
これはやはり体感を伴わないと難しいだろうか。言葉だけで語っても、結局は聞くだけになり、現実が伴わないものになってしまう。

ひとつになることは、極めて重要だ。それぞれの事情があるから組み合わせによって意味が変わってくるが、それにしても交わることはとても大切なことだ。低俗な交わりをしていては、その有用性に全く気付けないどころか、本来の意味とはかけ離れたものになってしまう。それはただやればいいというものではなく、高次の交わりをできるだけの精神状態を有していなければ、害をもたらすことにもなる。
高次の精神状態があり、それにふさわしい交わりをすることによって、その場に出会うそれぞれの者たちの事情に相応しい有効な働きが生まれる。それは、交わることにはこういう効能があるのだと言って、マニュアルのように行うものではない。この世界は瞬間瞬間がオリジナル。常に今と向き合い、新鮮に生きるということだ。

ようこ:
だからいさどんはいつも、自らの価値を高めなさいという話をする。価値を高めると、自動的に既製品の世界から脱却してオリジナルな存在になるから。

いさどん:
そうだよ。しかし人は既製品でいたがる。自分らしくオリジナルに生きることに慣れていないし、自分が自分らしく生きると、風当たりも強くなり責任も生じるから、既製品の中に逃げ込んで楽をしていたいんだよ。
中には既製品として安穏としていながら、自分の自我は表現したいというたちの悪い者もいる。

 

────── 僕はこれから、地上の肉体を考えずに生きていく。

明日は早いから早く寝なければとか、今日は作業が忙しいからその前に休んでおこうなどと想定して自らに配慮するのは、現象を先取りしているということだ。それではいけない。僕の中には、そういったことを無視している自分がいる。

そんなことを考えながら、僕はこう思った。「突然死するのはいいな」と。

僕は今、自分の体がとても不自由だ。しかしどことなく、この状態だな、これでいくんだな、という感覚がある。突然死、いいと思わない?「来た来た来たー!!」という感じで、リセット。そして僕が死んだら膨大な情報が残してあるから、それを研究する者がきっと現れる。僕が生きている限り次がどんどん出てくるから研究はしないが、もう出てこないとなったら「あれはいったい何だったのだろう」と研究する者が現れる。その時に、びっくりすることになるだろう。「こんなものが出ていたのか!」と。
僕は早く突然死するために、これからも大量の情報を残さなければいけない。それを残せば残すほど突然死が待っているのだから、よし、残してやろう。そして、目指せ突然死!!

ともこ:
毎日を真剣に生きていれば、いつ死んでもいい覚悟が自然と生まれる。それは自分に対してもそうだし、人に対してもそうだね。真剣だったら誰かが突然死しても、そこに後悔はない。

いさどん:
依存していると、後悔するよ。

 


 

地球はそもそもコミュニティ

その中で生きるとは、どういうこと?

「1ヶ月間の真学校2017」

「医」「農」「食」「経済」「環境」「教育」「社会」「芸術」─── 多彩な切り口の講座を通して、私たちはなぜこの世界に生きているのか、あなた自身の中にある真実の目を開く、ダイナミックなプログラム
1ヶ月間木の花ファミリーに滞在し、宇宙視点で日常を生きるとはどういうことかを実体験として学びます。

【日程】2017年2月19日(日)~3月18日(土)
【会場】木の花ファミリー
【定員】15名 定員に達し次第受け付けを締め切ります。
【参加費】18~22万円 収入に応じたスライド制です。受講料や食費など1ヶ月間の滞在費全てを含みます。

講座詳細やこれまでの受講生の体験記はこちら!

→ 1ヶ月間の真学校ブログ

 


これは宇宙プロジェクトです

5月27日から約3ヶ月間木の花ファミリーに滞在している、タイの代替教育学校に通う高校生のナッちゃん・マインちゃんと、先生のワンちゃん。その滞在も残り10日間となった8月8日、3人といさどんが話す時間が持たれました。その2日前の8月6日の子どもミーティングで韓国人のソミンちゃんたちといさどんとの会話がシェアされたことを受けて、この時間は第二次世界大戦についての質問から始まりました。

■    ■    ■

ワンちゃん:
タイの学校では、大学に入るまで第二次世界大戦について詳しく勉強しません。ですから、マインちゃんとナッちゃんもそういう戦争があったことは知っていますが、なぜそれが起きたのかは知らないのです。

マインちゃん:
なぜ第二次世界大戦が起きたのですか?

いさどん:
それは一言で言えば、人間が自分のことしか考えず、他人のものを奪ってでも豊かになろうとした結果です。

第二次世界大戦の流れを簡単に説明すると、まずその始まりは15世紀から17世紀にかけて、「大航海時代」と呼ばれる、ヨーロッパ人たちが世界中を植民地にしていった時代がありました。そういった中で、アフリカの人々を奴隷とし、アメリカという国が台頭してきました。そして1914年第一次世界大戦が始まり、当時有力な国のひとつであったドイツが1918年に第一次世界大戦で負けたのです。戦争で勝った国々は世界中にさらに利権を広げ、豊かになっていったのですが、ドイツだけが貧しくなりました。そのような中でドイツではヒトラーが現れ、ゲルマン民族の優秀さを謳い、ユダヤ人の排斥を訴え、もう一度ドイツ民族を再興させようとしました。そして1939年ドイツはポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まったのです。

かたや極東の日本を取り巻く環境としては、日本は明治以降日清戦争、日露戦争で勝利し、第一次世界大戦に参戦して中国に対する利権を獲得し、世界の強国の仲間入りをしようと企んでいました。その後、日本はアジアの国々をアメリカやイギリスの植民地から解放するという名目で、ドイツと組んで戦争を始めました。当時、インドはイギリスの植民地であり、ベトナムはフランスの植民地であり、インドネシアはオランダの植民地でした。中国に至っては、世界の強国がこぞって利権を奪い合おうと群がっていました。そのような状況の中、日本は大国の仲間入りをしようとして、韓国と台湾を併合しました。その後、日本は中国に対して戦争を仕掛けたのですが、その名目はアジアをひとつにするというものでした。ところが実際は、日本の利益を求めることが目的だったのです。それで、アメリカやイギリスなど、当時世界を植民地化していた強国は、自分たちの利益を奪われるということで日本と対立することになりました。そして、日本を経済封鎖したのです。このようにして石油資源を断たれることにより日本は行き詰まり、第二次世界大戦に入っていきました。

それでも、日本一国だけで戦争を起こすことはなかったのでしょう。当時、世界最大の工業国であったドイツはヨーロッパでナチズムによって発展しましたが、国際的には孤立していました。それから、イタリアにもファシズムというムッソリーニ率いる独裁国家ができていましたが、ドイツ同様、国際的には孤立していました。そこで、ドイツ・イタリア・日本が三国軍事同盟を結ぶことになったのです。

日本の中でも冷静な人たちは、国力から言えば日本はアメリカと戦って勝てるわけがないと考えていました。しかし、ドイツやイタリアとの三国軍事同盟があったがために、日本は軍が勢力を持ち、政府を抑えてしまうという軍事国家になってしまったのです。実際にドイツは東ヨーロッパ・フランスを占領し、アフリカにまで戦場を拡大しました。しかし、戦場を広げすぎると、軍の補給をするのがさらに難しくなるでしょう?結果、三国軍事同盟が敗北するのですが、最初にイタリアが降伏し、次にドイツが降伏して、最後に日本が降伏しました。この第二次世界大戦で日本人の死者数は310万人、ドイツ人の死者数は700~900万人、中国人の死者数は1000~2000万人、ロシア人の死者数は2100~2800万人と言われており、死者数の合計は6000万~8500万人に至りました。これは当時の世界の人口の2.5%以上が犠牲になったということです。

このようにして、日本・ドイツ・イタリアが敗れ、正義の連合国が第二次世界大戦に勝ったのです。そろそろ日本が負けそうだというときにヤルタ会談が開かれました。そのときにイギリスのチャーチル、アメリカのルーズベルト、ロシアのスターリンが会談しました。結局そこで話し合われたことは、この戦争が終わったときに自分たちがどこの国を自分のものにするか、ということでした。しかし元々、アメリカやポルトガル・スペイン・オランダといったヨーロッパの国々が世界中を植民地にしていたのです。それが結果として第二次世界大戦が起きることによって、彼らの国力が落ち、そして植民地が解放されたという意味では、第二次世界大戦は悪いことばかりではありませんでした。

そして第二次世界大戦を最終的に終結するきっかけとなったのが、広島と長崎への原爆投下でした。しかしそれは、ソビエトの共産主義とアメリカの資本主義という巨大な強国による二極化へとつながり、そこから冷戦時代が始まったのです。その影響下ですぐに、朝鮮半島では朝鮮戦争が始まり、現在の北朝鮮と韓国に分かれることになりました。結局、それはソビエトや中国という共産国に対するアメリカの代理戦争だったのです。次に、ベトナム戦争でも同じことが起きました。タイの隣国であるカンボジアではポル・ポト派が大虐殺をしましたが、彼らも共産主義勢力でした。それから、ヨーロッパにいたユダヤ人たちがドイツの迫害によってアメリカに渡り、彼らの科学技術の優秀さでアメリカにそういった技術をもたらすと同時に、ユダヤ資本はイスラエルを建国するために使われていきました。アラビアのロレンスという物語があるのですが、第一次世界大戦中にイギリスはユダヤ人に対して、中東にユダヤ人国家を創るという約束をしました。ところが、アラビアのロレンスは、正確に言うとイギリスのスパイだったのです。

ワンちゃん:
でも、彼はヒーローとして描かれていますよね。

いさどん:
それは西側諸国によって描かれているからです。それで、もともとアラブ人が住んでいたところにイスラエルというユダヤ人国家を創ってしまったのです。そして、入植したユダヤ人の多くは、ソビエトにいたユダヤ人でした。ですから、ソフホーズやコルホーズといった集団農場の考え方が、今のイスラエルのキブツ(集団農業共同体)の元になっているのです。

ワンちゃん:
まあ!知らなかったわ!

いさどん:
このように第二次世界大戦に至った出来事を簡単に説明しましたが、実際にはもっとたくさんの悲惨な出来事があり、たくさんの人々が死ぬことになったのです。そしてそういった国家の体質は終わることなく、今につながっているのです。

ですから、第二次世界大戦が終わっても、世界にはたくさんの利権の物語があり、中東戦争やイラク戦争、今のISにまですべてつながっているのです。このように、近代の国家は常に国益ばかりを追い求め、強国が世界を支配し、そして戦勝国という立場に立った側は、常に正義の旗印のもとに世界をリードしてきたのです。その背後には、どの国家も自らの欲望を満たそうとする弱肉強食の性質が隠されていたのが今、明らかにされてきています。

ワンちゃん:
それは、アメリカが戦争を終わらせたくないからですね。

いさどん:
そうです。今までアメリカは正義の側にいましたが、アメリカは利権によって動いています。イラン・イラク戦争でも、最近の世界のほとんどの戦争はアメリカが絡んでいるのです。

ワンちゃん:
アメリカの権力は、銃や武器を売ることから来ているのですよね。

いさどん:
オバマ大統領は、今年の5月に日本で開催された伊勢志摩サミットに参加する前、ベトナムへ行き、武器を売る商談をしてきたのです。そして広島を訪れ、「核のない世界を創りましょう」というスピーチをしたのですよ!

マインちゃん:
なぜオバマ大統領は武器を売るためにベトナムへ行き、それから日本へ来て平和について語ったのですか??

ワンちゃん:
それは彼が政治家だからよ!!

いさどん:
政治家というのは国益が元にあるのです。そして利権によって選ばれるのです。ですから、社会的に地位の高い人が優れた社会を創る人とは限らないのですよ。それは、今の人々が常に自分の利益ばかりを追い求めていることが原因です。そこでいさどんは、そのような利権を求める人々の代表が創る国ではなく、一人ひとりが目覚め、優れた人となり、地球というクニをひとつと考え、共に創っていく世界を目指しているのです。

いさどんを世界の独裁者にしても良い世の中ができるのは、いさどんは自分のことを先に考えないからです。それは、神様の姿勢と同じです。神様はこの世界を独裁して創っていますが、自分が創ったものたちにこの世界を任せているのです。ですから、後は人間が神様の意志を感じてそれに従えば、理想の世界はいつでもできるのです。

ナッちゃん:
なぜ腐敗している政治家が世の中で権力を持つことができるのですか?

いさどん:
それは、人間が自分が得することを優先して考え、自分に有利な政治家ばかりを選ぼうとするからです。たとえば、お金儲けの世界は人々が欲深でないと、成立しないのです。今、日本やタイは平和なように見えるかもしれませんが、人々の心はお金儲けや競争の中で、毎日戦争をしているようなものなのです。さらに、マクドナルドやケンタッキー、セブンイレブンなどのアメリカ資本の会社が世界にはびこり、金融システムもすべて、今はアメリカに支配されているのです。

このように、第二次世界大戦からの話をしていったら、物語はそこで終わらないのです。その前には第一次世界大戦があり、そのもっと前からの物語が続いていて、そして第二次世界大戦が終わった今も、この人類の欲深物語は続いているのです。

マインちゃん:
もし第三次世界大戦が起きたら、わたしたちは暮らすところがなくなることでしょう・・・

いさどん:
第三次世界大戦が起きる心配をするよりも、今、地球は地震や火山活動などによって人類にメッセージを投げかけています。2012年12月21日に銀河の冬至という25800年ぶりのターニングポイントを迎え、今、時代は大きく変わることを示しているのです。

今日、日本の天皇陛下がお気持ちを表明され、生前退位の意向を示されましたね。日本の天皇制は2600年続いており、そういった意味で日本は同一の王の元に形成されている国では世界最古の国家と言われています。しかし、それもたった2600年ですから、太陽の一螺旋である25800年からすると10分の1にしかすぎません。歴代天皇125代のうち59人が上皇(天皇が位を退いてからの尊称)になっていますから、日本の歴史からすると生前退位は珍しいことではありませんが、前回の生前退位が200年前だということからすると、このタイミングで天皇陛下がお気持ちを表明されたことに僕はピッと来ました。

2012年12月21日闇のピークを過ぎ、2016年6月21日の夏至をもって銀河の夜が明けました。そして、これから光の時代へ向かうのですから、今回天皇陛下は時代の切り替わりを感じて、このようなお気持ちになられたのでしょう。これは宇宙的に観ても大きな出来事なのです。冥王星の248年の周期から観ても、日本に起きている天皇制の移り変わりと太陽と冥王星から観る時代の移り変わりが非常に連動していることが観て取れます。

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ですから今、宇宙的に大きなターニングポイントを迎えたことから、日本には大きな災難が来ることが予測されますね。もちろん、それは世界中に来るのですが、その先駆けとして日本に来るのです。

ワンちゃん:
それは、自然災害ということですか?

いさどん:
いろいろな意味においてです。日本人が本来のヤマトの心を取り戻すために、それが起きているのです。今、日本人の心はアメリカに汚染されてしまっていますから、ヤマトの心に目覚めるためにはそれが必要なのです。それで、高齢になられた天皇陛下は、これまでのように重い務めを果たすことが困難になってきたと直観で感じ、若い皇太子に皇位を継承しようと想っていたのでしょう。「天」皇陛下ですから、「天」の意志を直観で感じたのだろうと僕は観ています。そういった意味で、宇宙的な新たな時代の訪れを感じさせる今回の天皇陛下のお気持ち表明だったのでしょう。

25800年ぶりのターニングポイントを迎えた今、王や聖人が支配する時代から、一人ひとりが目覚める時代へと突入しました。これまで天皇は国家を司るために天との儀式を行ってきたのですが、これからはわたしたち一人ひとりが天とつながり、地球をどう運営していくのかを考えていく時代になったのです。それは、一人ひとりが「天人」としての意識に目覚める時代の訪れです。

エゴが膨らみ、自らの欲望を叶えることを優先させてきた人間の心を目覚めさせるために、これからも宇宙や地球は天変地異という形で、人間に厳しい環境を与えていくことでしょう。なぜなら、環境が厳しくなればなるほど、人々は助け合うことを思い出すことになるからです。

ワンちゃん:
2年前にタイで起きた大洪水も良い例ですね。自然災害が起きたことによって、人々は集い、お互いに助け合いました。

いさどん:
世界の中でも特に日本人は、そういった地震や災害があると助け合い、秩序のある民族として知られています。タイでもそういった傾向があるとしたら、それは仏教精神から来ているのかもしれませんね。

ここで僕が一番伝えたいことは、そのような厳しいメッセージをもらわなくても、自らの心を磨き、エゴを超え、優れた精神になれば、わたしたちは地上天国を創ることができるということです。そういった意味でも、木の花ファミリーの生活は新たな時代の見本になると思いませんか?あなたたちがタイへ帰っていったら、タイにもぜひそのような場所を創ってほしいと思っています。

マインちゃん:
それはとても難しいことです!

いさどん:
あきらめてはいけませんよ(笑)!

そのことを難しいと言って低い意識で生きるのか、それともあきらめないで少しでも高い意識を目指して生きるのか、あなたはどちらを選びますか?そのときに自らの自我が優先されると、低い意識で生きていくことになります。天を向いて、天を頼れば、高い意識で生きていけるのです。それが成し遂げられるかどうかは、ひとえにあなたの姿勢次第なのです。

マインちゃん:
いさどんが言っていることは真実です。わたしたちが高い意識で生きていくのか、それともあきらめるのかは、まさにわたしたちにかかっています。木の花ファミリーの人たちを観ていると、皆さんは見本となるために日々を生きようとしていますね。もしわたしがあきらめそうになったときには、ここにいる皆のことを思い出します。この生き方がどれほど難しくても、皆さんは高い意識で生きようとしています。ですから、わたしたちは簡単にあきらめるべきではありませんね!

時々、わたしは複雑な気持ちになります。人々を助けたいと思うときもあるのですが、わたしの友達たちはとても頑固なので、「彼女たちにとってこのことはふさわしいだろう」と思うこともあります。

いさどん:
それを成し遂げようと思う必要はないのです。最も大切なことは、高い意識で生きることです。今日、第二次世界大戦の話をしましたね。本当は、あのような戦争は誰もしたくなかったのです。しかし、誰もそれを止めることができず、人類はあのような悲惨なことを経験することになりました。それはある意味、時代がそういう時代だったということでもあるのです。

そして今、時代は対立の時代から統合の時代に切り替わりました。そのことに気付いた者たちには、誰よりも天や時代が味方してくれるのです。先を行く者たちのことを今の多くの人々は理解できませんが、天が味方してくれるのです。それでこそ、この世界で大事なことを成し遂げる人になれるのです。そういった人のことを「天人」と言います。ですから、自分がどのような心をしているのかが大切です。あとは、時代の流れがそのような時代に運んでいってくれます。

あなたたちは、わたしたちととても深い縁があってここへ来たのです。そして、この縁はこれで終わりではありません。これは、これからわたしたちが成し遂げていくためのスタートです。

ワンちゃん:
今、わたしが泣いているのは、自分が頑固な生徒で、大いなる先生によって叩かれたように感じているからです!だから、わたしはもっと一生懸命取り組むべきなのです。

いさどん:
まずは柔軟になることが大切です。

ワンちゃん:
それは非常に難しいことだと感じています

いさどん:
それは、自分を一番優先しているからですよ(笑)。他人のために生きられるようになったらいいですね。

ワンちゃん:
いさどんの言っていることはすべて正しいので、議論する余地がありません。ですから、それがどんなに難しくても、わたしはやるしかないのです。ある意味、わたしは野生の動物で、いさどんはハンターでわたしを捕まえ、わたしはもう逃げられない状態にあるようです(笑)!

いさどん:
その先は、家族として迎え入れて、一緒に楽しく暮らすのですよ♪

ワンちゃん:
ありがとうございます!!

いさどん:
これはあなたたちのためのプロジェクトではありません。日本とタイのプロジェクトでもありません。これは地球物語であり、宇宙プロジェクトなのです。

ですから、ここに来て、「木の花ファミリーは良いところだ!」と思って、タイへ戻り、「タイではできない!」と思ってはいけませんよ♪今、天のプロジェクトがスタートしたのですから。これからはあなたのような頑固な人たちがあっという間に目覚めていく時代になります。時代はもう、ターニングポイントを超えたのですからね。

わたしたちには天が味方しています。そして、時代はそのように流れていきますから。大切なことは、高い意識で生きるということです。

 

宇宙プロジェクトは、これからが本番です!
 宇宙プロジェクトは、これからが本番です!

 


ポケモンGOに熱狂する人々がロシアのドーピングを批判できるのか

今、ロシアのドーピング問題が世界中で批判されている。そもそも、ロシアのドーピング問題というのは旧ソ連の時代からあった。その極めて極端な事例が旧東ドイツの事例だ。
東ドイツという人口も少なければ国力も弱い国が東欧の中にあり、優秀でプライドの高いドイツ人は国威発揚のために、ソ連の方針に沿い、スポーツを利用して国をまとめようとした。プロパガンダのひとつの手法としてスポーツ振興を図ったのだ。しかし今、東ドイツという国はなくなり、その実態が暴き出されて、いかにひどいドーピングが行われてきたのかが明らかになってきた。それは国威発揚のため、国策として行われていた。
その根本には、共産主義国の人々が自らのイデオロギーこそが優れているということを訴えたい、もしくは国家を存続させるために国民の結束を図るという国家的な意図があった。
90年代に陸上女子で一世を風靡した中国の馬軍団も、組織的なドーピングがあったことが告発された。女性が異常なまでの筋肉を持ち、大会に出れば出るほどメダルを獲得していくという時代が一時あったが、ある時にふっと消えてしまった。本当に純粋な指導力によって成績を残していたのであれば、そのような現象はあり得ないはずだ。
スポーツの世界であっても、国家的欲望の延長線上にルール違反を犯す。そこは問われなければならない。しかし、それは一種のトカゲのしっぽ切りのようなものだ。人々は表面的にものごとを捉え、誰かを悪者に仕立て上げて、批判している。ではなぜそれが起きたのかというと、その根本的な原因はもっと奥の深いところにある。今、西側諸国を中心に世界がロシアの行為を批判し、裁定を下しているが、検証すべきはその行為の奥にある、根本的な原因なのだ。

もともとオリンピックとは、アマチュア精神に基づくものだった。お金とは無関係のものであったはずだが、それがいつしか商業主義になってしまった。
例えばかつての東側諸国や北朝鮮のような国では、国威発揚のために良い成績を残した選手には、一生食うに困らないよう特別な配慮がなされる。では西側諸国はどうなのかと言うと、アメリカがその最たる事例だが、スポーツ選手がタレントになってしまった。そして異様なまでのお金を稼ぐようになった。そういった人々を周囲は持ち上げ、芸能界と同じように人気商売になってしまったのだ。
日本の相撲界でもそうだが、結局はお金が目的になっている。欲をくすぐり、お金を獲得しようとする欲望を満たすためのエネルギーが、スポーツの記録を上げている。お金に釣られているのだ。
相撲はもともと日本の国技として、神事であったが、今の力士の精神からは、そんなものは消えてしまった。相撲は厳しい稽古を究めなければ地位も上がらず、大きな怪我をすることもあり、その真剣さの中に神が降りることもあっただろう。しかし、今現在横綱に日本人がいないことも、今の相撲界の状態を表している一つの現象と言える。モンゴルの力士は出稼ぎに来ているようなもので、懸賞金が目的になっており、本来の国技としての、神事であることが忘れられたように見受けられる。

かつてヒトラーは、国威発揚のためにスポーツを利用した。スポーツで自国を応援するということは、そこに敵と味方を創るということだ。それを競わせて、自分の側が勝つことを国民の共通の喜びとしてきた。それはある意味、プロパガンダとして利用できる手法でもあった。
日本でも、日ごろから大して日の丸を大事にしていない人でもオリンピックの表彰台に日の丸が上がるととても喜ぶ。スポーツを通して競争心をくすぐり、それが高ずることによって対立を生み出してきたのだ。
国を率いるリーダーたちは、人が共通の目的の元に群がることによって、自分たちを正義とし、対象を悪とすることで国をまとめてきた。人は、自らに近いものを支持する。しかし本来、近いものも遠いものも一緒になって考えることによって、健全な世界を求めていかなければならないのだ。

スポーツをプロパガンダとして利用する要素は今も残ってもいるが、多くの人々にとっては、最終的にはお金を求める手段となってきている。スポーツ自体が、人々や地球社会に良いものをもたらすとは限らなくなってきているのだ。
現代は、優れた能力を与えられた人が、その能力を自らのためだけに使って異常なまでのお金を稼げるようになっているのだが、本来、そういった能力は天から与えられたものとして、世の中に貢献するためにあるものである。そういった精神を忘れてしまった今の世の中の仕組みは、物事の本質を忘れ、狂っている。スポーツの世界で言えば、勝ち上がることができるのは、たくさんいる中のほんの一握りどころか、ほんの一粒の人たちだ。それを子どもたちの夢だ何だと言って世の中が称賛し、そのほんの一粒をみんなが目指そうとする世界を創っている。その構造自体が、不正をしてまでも獲得したくなるようなものになっているのだ。
本来、優れた能力とは、自らの利益のために使うのではなく、社会に還元するためにある。しかし現代は、人間が個人の欲望を満たしていく時にそれを独占しようとする醜い心を持っており、その心によって生み出される現象が極みを迎えている。お金が目的の世界で起きることと、お金が目的ではない世界で起きることは、エネルギーの使い方が違う。しかし今では芸術すらも、絵がいくらで売れたかとか、曲がどれだけの人に買われたかというように、お金が目的になってしまった。本来、音楽を創るとは、ただ世の中にその曲を提供するということだけでいいはずなのだ。その結果、それにふさわしい生きる手段が得られれば、それ以上を求める必要はない。ところがそれが人気商売となり、異常なまでのお金が集まるようになった。与えられた能力を自らのために使い、自分だけが富を得ることが当たり前になり過ぎてしまったのだ。
そして多くのお金を得た人は有頂天となり、醜い姿になっていく。しかしマスコミはそういった人々を人格者のように捉え讃え、そのような社会現象を先導しているのが現状である。世の中の基準が根本的に狂っているのだ。世の中全体がそうなっていることに対して、その中に生きる人々はその矛盾に気付くことができないだろうが、そのような風潮がある限り、世の中が本当に平和で差のない、豊かな世界へと歩き出すことはできない。

みんなで豊かになろうと言っていた共産主義が崩壊し、資本主義が勝ったかのように思われていたが、資本主義とは、欲望を勝ち取った者が支配する世界だ。これはある意味下剋上であり、弱肉強食の世界だと言える。共産主義が衰退し、資本主義一辺倒の世の中になった今、その矛盾がピークに来ている。これがひっくり返らなければ、次の時代は訪れない。
今の社会は、いくら獲得しても、満たされないようにできている。ところが世の中は、獲得することを奨励している。そしてその矛盾から、格差が際限なく広がっていくことを先導していることにもなる。それは、何かを批判している人々が、実は自分たち自身がその批判しているものを創り出しているというカラクリを、まったく知らないからだ。自分たちで創り出しておきながら、その創り出したものを悪者にして、自らは正義の側に立ってごまかしているような、極めて複雑で歪んだ構造になってしまった。それは、自己中心的なものの観方をしていては、見抜くことはできない。

確かに共産主義国は、国威発揚という国策のもとにドーピングを行ったかもしれない。しかしそれは、お金を稼ぐためには何でもするという西側諸国の風潮が、同じように共産主義国の間にも広まり、ただ少し国の体制が違うために、国家レベルでそれを行ったのだとも言える。
それを西側諸国は、国レベルでやったからひどい問題だと批判しているが、では個人レベルならひどくないのかと言ったら、ドーピングはもともとアメリカが発祥のようなものであり、欲望を満たしたいがために隠れてルール違反をすることは、アメリカのスポーツの世界にもいくらでもあったのだ。それがオリンピックのようなアマチュア精神の場ではなく、お金を稼ぐためのプロの世界では、昔は問われなかった。今は問われるようになったかもしれないが、オリンピックのような場でない限り、そこまで厳しく問われることはない。

そもそも、異様なまでに体を鍛え、記録をどんどん伸ばしていく現代のスポーツのような世界は、本当に求められるべきことなのだろうか。それを追い求めることが果たして美しいことなのかということを、問わなければいけない時が来ている。
2012年12月21日の銀河の冬至というターニングポイントを越え、世の中の価値観がひっくり返る時代が始まった今、これまでのように特殊な物理的能力を持つ人々がもてはやされる社会の、奥に潜んでいた問題が、明らかになり始めている。
特別な能力を評価されることはいいだろう。しかしそれによって、異常なまでのお金を得るスポーツの世界ができあがった。東側諸国の人々は、そこまで物理的に豊かではなかった分だけ、個人の欲望に目覚めてくると、より顕著にそれが現れるようになった。国家のためというよりも、個人の欲望をくすぐることを国策として行ったのだ。それは西側諸国のモノカネ優先の価値観の延長線上にあったことであり、そこには、国策として個人の欲望をくすぐったのか、個人の欲望を野放しにしていたのかの違いがあるだけで、西側も東側も、人間の業の深さが国レベルで現れている。そして今や国家のリーダーたちでさえ、欲望にまみれて国の代表をやっている。
そのような世の中の傾向を観ると、やはりトカゲのしっぽ切りのように、ドーピングをやった人、或いはドーピングを国策として行った国だけが批判されているようでは、問題は根本的に解決しないことがわかる。スポーツ仲裁裁判所はロシアのリオデジャネイロ五輪出場を認めない裁定を下したが、それは病気の症状だけを押さえて根本的な原因を解決しようとしない現代医療の対処療法と同じだ。

現代の人々、特に芸能界や政治の世界では、人気取りが目的になっている。人気取りとは、真実を伝えるよりも大衆の支持を得るのが目的だということであり、真理の柱を世の中に立てていくということがない。自らが批判されるような言動は避け、常に差しさわりのない立ち位置で、他者を批判し、そしてそれを飯の種としている。つまりこれも、体制の側にいて、世間に媚びを売り、お金を得られる立場にいたいという心がベースになっているのだ。
世も末とは、こういった世界を言うのだろう。それに対し、ある意味天誅だとも思えるような出来事が、今世界中で起きている。解決しようにもできないテロの問題は、モノカネが目的ではないと訴える人々による命をかけた反発が、世界中に蔓延しているとも捉えられる。彼らを支持はしないが、こういった出来事を奥深くから検証しない限り、人類全体が進むべき方向をまったく見出せずにいることは確かだ。

現代社会には山ほどの矛盾があり、事例を挙げるのに何の苦労もいらない社会になってしまったが、その延長線上に、さらに滑稽なことに、ポケモンGOの大流行がある。
アメリカという国はもともと、ゲームのようなものが日本ほど熱狂的には流行らない国だった。それは個人主義で独創的な生き方を良しとする国民性があったからだが、その国で、ポケモンGOのようなゲームに没頭する人々が現れ始めた。それはアメリカの良い意味でのプライドが失われてきているということだが、金満主義が蔓延している社会はそれを経済効果として歓迎し、まったく批判しない。あのバーチャルなゲームの中で人々が揺れ動いている姿を、マスコミは微笑ましいものであるかのように報道し、日本人は日本の企業の製品がこんなに受けたのだと喜んでいる。
そして日本では、異常なまでに任天堂の株価が上がった。先日LINEが上場した時に異常な金額が投資されたのと同じように、ゲームが発売されただけで、莫大な額の欲のお金がそこに集まる。それがあたかも成功者を讃えるかのように報道され、それに没頭する者たちに対して何も危機感を感じていない。危機感があるとしたら、歩きスマホによる事故が懸念されるという程度のものだ。
これらのゲームは、スマホという既に世の中に浸透したものを利用しており、ゲームの権利を買うだけで使うことができる。既にあるものに寄生して、何も生産しなくても、何千億、時には何兆円というお金を稼ぐことができる。そういったものを微笑ましく報道し、その根本に何があるのかをチェックする目は、社会から完全に失われてしまっている。世も末というが、ここまで来るとあきれるより他はない。

それに対して、どこかでおかしいと思っている人々もいるはずだ。しかしマスコミも、社会全体も、国のトップの政治家すらもこの現象を歓迎するようなコメントをしている。世の中はいよいよ、逆さまの極みを迎えている。この現象がどこまで行くのかはわからないが、このような愚かなことにエネルギーを費やし、その結果地球環境に負荷をかけ、人間社会に歪みを発生させ、人々は苛立ち、最終的には対立を生み出している。テロが止まないことも、そういった社会の表れだろう。現代の対立とは、戦争のようなわかりやすい形だけではなく、社会の金満主義の中から生まれる格差や差別が、極みを迎えているということだ。
これは物理的に言えば、マイクロプラスチックが海に放たれて、一切回収できない状態になっているのと同じようなものと言える。それが今後どれほどの環境破壊や生命への危機をもたらすのかという深刻なものでありながら、取り返しのつかないほど蔓延してしまっているのと同じ現象だ。
人間の心の中にゲームがあのような形で広まっていくのも、ある意味、覚せい剤の依存症が広まっているのと同じことだと言える。それを経済効果だと言って、国のトップたちが微笑ましく眺め、マスコミも歓迎すべきこととして報道している。

僕が今こうして語っているのは、一つの視点から分析し、批判をしているのではなく、人類はここまでものが観えないところに陥ってしまったのかという、嘆きだ。
本来人間は、生命感というものを感じて生き、現実の世界の中にそれがあり続けることによって充実し、希望のある状態でなければならない。生命感を感じるとは、生きることが生命活動に直結し、常に意識が自然や社会の成り立ちとコミュニケーションを取りながら、生命が身近な生命を司るものと連携していることを実感して、充実している状態のことを言う。しかしポケモンGOは、バーチャルの極めつけの世界だ。そしてそれに取り込まれていることを、歓迎している社会がある。
そんな資本主義社会のバーチャルな金満世界に憧れて、共産主義的体質から生まれた国民性を持ちながら、資本主義的欲望の蔓延する社会の中で、人の生きるべき道を見失っている人々が、今、地球上に存在している。そのような中に生きる人々が、必死に豊かになろうと思い、そしてまた国をまとめようとしてドーピングまでやってしまったことを、そういった種をまき散らした側の人々が批判する資格があるのだろうか。
ロシアの愚かしさよりも、ポケモンGOにとりつかれている人々や、それでお金を儲けようと株式市場に群がる人々の方が、今の地球上に混乱をもたらしている罪は、はるかに大きい。覚せい剤を使用したり、野球賭博をやって追放された選手たちを責めている場合ではないということだ。そういった選手たちも、混乱する今の社会の犠牲者とも言えるのだ。

社会には金満主義が蔓延し、それを主導する人々が優秀で賢いとされている。大学の勉強でも何でも、いかに金を稼ぐかということに能力を使い、それを成し遂げた人間が優秀だということになる。こんなにおかしな世の中はない。本来の生命感を有する目で観れば、今の世の中は本当に異常だということが観えてくるはずである。
覚せい剤をこれだけ厳しく取り締まり、それを使用した人をバッシングしながら、自分たちはお金の麻薬漬けになっている。世の中が混乱の極みに来ているということだ。

 

Source of photo: @WSJJapan

 


お釈迦様の時代の悟りから、新たな時代の悟りへ

ある日の大人会議で、「いさどんの七夜物語」シリーズ第六話がシェアされました。

 
こうちゃん:
この七夜物語の第六話には僕のことがたくさん出てくるんだけど、自分を振り返ってみると、あのころから比べて意識的にとても変化したと思う。これはとてもいいなというか、誇れるというか、今日読み合わせた七夜物語の第六話の中でいさどんが話した境地までは、まだ至っていないと思うけれど、この先が楽しみだと思います。
これを読んで、みんなは「自分が主役であること」や「一人一人が全体性を持つことが大切」と言っていたが、それと同時に僕が思うのは、こういった意識を七夜物語のところからずっと育ててもらったのだと思っています。
この意識を日常でいつも持っていたら、常に自分が主役であるという意識を持つことや全体性を意識して心がけることに加えて、世界観を広げる意欲があれば、その延長に着実に歩んでいることを感じられるし、今度アンテナショップもできることになったので、そこにこの心をもっていけば、外の人たちに異次元空間は提供出来ると思っている。

いさどん:
人間に生まれてきた「性(さが)」、これを人間性といいますが、その人間性は生きているとどのレベルかということが問われます。人として生まれてくるものの特徴は、思考回路が複雑で、願望を持つようになり、さらに願望を膨らませることもします。そこに、長年生きてきた結果しみついた心の癖(カルマ)に翻弄されて生きれば、さらに複雑な生を生きることになります。
そういった生を通しての経験は、垢を取り去り、意識が高まって高次元の美しい人生を生きるようになるのが本来の在り方ですが、人間の性(さが)というのは低い次元の状態でいると、しみついたカルマが垢として、高次元の美しい人生に到達することの障害物にもなるものです。そして、そこで得た経験やものが執着となり、さらに人生の足かせになっていくものなのです。

現代社会において、高い地位や優れた能力を発揮し、評価されているような立場の人々が、その立場に相応しい立派なことを語っていても、その人の奥にある精神性が、自我そのものであるということが今の世の中にはたくさんあるのです。優れた能力を発揮したからといって、その奥にある性質により、その人自身の霊的な価値は図れないのです。結果それでお金儲けに走ったり、その立場に執着するようであれば、世の中に混乱をもたらす原因にもなるのです。

それは、今の時代の成功者として評価されているリーダーたちや、政治家、経済人、宗教家、教育者などなど、そういった人たちが多いのです。そのような人々は、自らの内側に向き合い、自分の魂を潔く禊ぐくらいの精神を持っていかなければ、自らは善い行いをしていると思っていても、世の中には混乱をもたらす原因となり、霊的には罪人にもなるのです。

そういった現代のからくりが、今ひも解かれる時を迎え、社会ではその裏側が各方面で暴露されてきています。パナマ文書はその一つの事例です。そのような現象は、今地球のマグマが活動期に入り、世界中の火山が活発に活動し始めたように、それはある意味、精神世界の火山が噴火し始めたようなものです。このような世の中の闇の部分は、これから益々暴かれていくことになるでしょう。

そういった時代を表現する人間の性(さが)に対して、その昔お釈迦さまは仏法を通してどのように道を示したのでしょうか。すべては、自分という認識が成立することによって世界を解釈し始めることから始まります。人のすべての解釈は、自我の成立から始まり、その自我の位置を基準としてそれを尺度とし、この世界を図り始めます。ですから、始まりの始まりは自分というものの成立から始まっているのです。

一体全体、人間とは何者なのでしょうか。そして自分とは何者なのでしょうか。ほっておけば悩むし、ちょっと迂闊にしていれば腹も立つし、妄想も膨らませれば、願望も膨らみ、それに囚われればことが成らないといって萎縮もするし、ことが成れば自信過剰にもなる、感情の荒波に翻弄される複雑な存在です。それが、それぞれの個体で個性的な特徴を有し、無数に存在しているとしたならば、このような不可思議な生き物がほかにいるでしょうか。

そんな人間の中の自分というのは何なのか。自分が存在するばかりに、この世界を解釈するのです。その解釈は、人間の数ほど尺度があり、人間の数ほど物事の捉え方が違うのです。それを客観的に観察すると観えてくるものがあります。その目線は、自分というものの自我の窓を通してしか外が見えない。どんなことをしても、自分以外の窓から見ることはできないのです。そして、この自分というものをどのように捉えるのかというと、お釈迦さまの示された道はネガティブモードの道だったのです。

その道の始まりは、生老病死に始まり、人生の全ては四苦八苦なのですから。だから、この世界に生まれ存在することの全てが苦痛であると、説かれたのです。そして、生まれ出ることが苦痛の始まりであり、生きることが苦痛の連続なのですから、その苦痛から離れるためには、どうしたらよいのかと考えたのです。そこにはたくさんの理屈があるのですが、結局は自我という尺度を持っているから苦しみに出会うのだと結論づけています。そして、諸行無常、色即是空と説いたのです。

しかし、そのような苦痛からの解放を求める境地のものに、手法としてこのように思えばいいんだと伝えたところで、その思いが湧き出す自分がいる限り、思いは湧いてくるのだからどうしょうもないのです。そこでどのように瞑想をしたところで、その結果は迷走に繋がることになるのです。それは、実態の伴わないバーチャルな体験に基づく境地を求めるものだからです。このような体験をいくら積んでも、その思考形態で生きていること自体、四苦八苦を産み出す仕組みの中にいるのですから。
そこで、どうしたらいいと思いますか?

A子:
死ぬ。

いさどん:
死ぬ?違うよ。死ぬんじゃないよ。反対だよ。

B男:
生まれなければいい。

いさどん:
そう。お釈迦さまは、生まれなければいいと示したのです。生まれなければこの苦しみを体験することもなく、結果この苦しみから解放される。お釈迦さまはネガテイブですね。(みんな笑い)

生まれてきたが、人生で出会うのは四苦八苦で苦痛の道だから、ここから逃れるためには、生まれなければいいということになります。生まれてくるということは、肉体という特定を得、自我というカルマが発生し、それにふさわしい自我の人生を生きることにより、それが次のきっかけとなり、また生まれてくる。何回も何回も生まれ変わって輪廻を繰り返すのだから、そのけじめのない輪廻に嫌気がさし、生まれないためにはどうしたらいいのか、又はなぜ生まれてくるのかを考えたのです。そうして行きついたのが、「自らに囚われ、執着する心に自我が成立することにより生まれてくる」ということ。それが人間の性(さが)なのです。

ところが面白いことに、13000年前の叡智であるカタカムナでひも解いていくと、ヒトという境地に至った存在は、完成された悟りの境地のものを指します。そこでは、「ヒトであるということ=この世界の始まりから終わりまでを悟り、統合している者=悟っている状態」と示しています。それは本来、仏教で言う、生まれてくることのないもの、もしくは生まれてきたとしても、人の性(さが)に苦しむようなものではなく、自我を超越した存在(菩薩)と示しているのです。

ところがカタカムナの後の時代、今から2500年ほど前、お釈迦様が道を示すために役割をもらって降りてきたころには、「人間は生きることにより四苦八苦するものである」というように人間性は固定されてしまい、世界は特定の王に支配され民衆には希望のない混沌とした時代だったのです。「生まれてくることがいけないんだ」と、生きること自体を否定的に捉える時代だったのです。

そこで小乗仏教で象徴されるように、現世が苦痛であることから、少しでも功徳を積んで生まれ変わり良い人生が生きられるように願うようになっていったのです。
さらに大乗仏教になると、苦痛の世界から極楽浄土を求めご利益的救済への道に変わっていったのです。そこでは本来、自我を超越する道であった探求の道が、苦痛から解放されたい願望をかなえる道に変貌し、そのことにより結果として人々はカルマにまみれていくことになったのです。

中国の天盤の巡りで示されているのは、地球上に宗教観がもたらされたのは、今から約3000年前のことなのです。そういった歴史の流れから捉えれば、そんなに古い話ではないのです。そして3000年の時を経て、天盤の巡りで示されているのは、時代は今宗教の時代を終え、新たな時代を迎えようとしているのです。その新たな時代を生きる人々は、生きることに、願望をかなえたり救済を求めるのではなく、自らが自らを正しく悟ることによって、願望(自我)に翻弄されることなく、救済される必要のない高い意識の存在(菩薩)となるのです。
そうするとこれからの時代は、宗教の時代に示されたような、「人として生まれ、人の性(さが)に翻弄され生きなければならない」というネガティブな感情からの解放ではなく、自我を理解し自我に翻弄されることなくコントロールし、その個性を有効に生かし、高い意識のもとに自らにも他者にも有益な人生を生きる人であることが望まれるのです。

3000年の宗教の時代を経て、人々が新たな時代を生きる人間性になったとき、「性」という字を「サガ」と読むか「セイ」と読むかの違いが示されてきます。そこではセイという読み方は「聖なるもの」のセイに通じることになります。そしてセイという示しは交わりの性に通じ、全ての生命の始まりのセイであり、宇宙の根源の働きに繋がるものです。そういった秘められていた仕組みが今、解き明かされ、その時代が今訪れたということになるのです。ですから、宗教の時代のお釈迦様は人々に悟りを説いたのですが、今新たな次の段階の悟りを人類は迎えようとしているのです。そのことに気づき、私たちは社会の先端を生きているのですから、そういった自覚の元に、自らと向き合って生きていきたいものです。

今日「七夜物語」の第六夜を聞いて、晃ちゃんの話がたくさん出てきましたね。晃ちゃんの精神性の成長のプロセスの一段階を見ました。晃ちゃんは、第六夜に出てくる自らの段階をみて、「自分はあそこにいたんだ」と振り返りました。そして、あそこからここへ来たんだと気づいたときに、いさどんがその後にその次の段階の話をしてくれました。そこでまだ、次の段階には至っていないけれど、以前のもっと下にいた時から今の段階にいることの意味がよく分かり、そこを目指すんだという希望が生まれた、と言っていました。

人間というものは、一人一人個性的な人間性という性を持っているのです。お釈迦様の時代は、生まれてくると四苦八苦を繰り返し生きることの結果、わかればわかるほど生きることはつらいと解釈しました。そこで、「じゃあ早く死のう」という発想になるのではなく、四苦八苦の原因を消滅させずに死んだところで、またそれが原因となって生まれてくることになり、また四苦八苦を生きることになる。ということなのだから、生きることを吟味して生まれることのないようにしましょう、という道を示したのです。この道理はそういった生に対する認識の時代にはその通りですが、それがその時代にふさわしい道理と捉えるならば、今の時代には今の時代にふさわしい道理が求められるのは当然のことです。

2012年の12月21日25800年ぶりの「銀河の冬至」を迎え、時代は闇のピークを越え、今私たちは、人間性の愚かしさのピークも観たわけです。この時代には、戦争で示されるような物理的地獄もあれば、人々の心が創り出す闇の世界もあるのです。

最近の注目すべき話題として、日本で行われる伊勢志摩サミットを機会にアメリカのオバマ大統領が70年前に原爆を投下された広島へ初めて訪れることになっているのですが、オバマ大統領は、大統領就任後に核廃絶を訴えてノーベル平和賞を受賞しました。しかし、自国の核にすら何らの対策もうたないままに、世界は核の緊張の上のパワーバランスにより、北朝鮮の核開発が進むことを誘発するような現状のままにあります。その結果、辻褄を合わせるように今回の広島訪問が実現したようにもとれます。そういった出来事も含め、人類の心の闇も極みのところへ達し、世界のリーダーや、聖職者と称される人々が現代社会の行きついた矛盾の根源であることが観えてきました。それを時代が示していると受け取れます。

そういった表面的に取り繕った見せかけの平和を唱えるのではなく、このような現状を踏まえて、ターニングポイントを超えた次の時代の聖なるものとは、どういった精神に基づく探求であるべきなのかが、これから人類が目指すべき方向性です。人間に生まれてくると、人間性という人間であることの「定め」がついてきます。人間に生まれてきたら、ほかの動物とは違って、自らを認識する、考える、願望を持つ、膨らませる、叶える、喜ぶ、ということをします。そういった願望がかなわない時には、悲観することもします。その時に我々の喜びというものは何なのかというと、今までは全部損得勘定です。この損得勘定というものは、次元によって質が全く違うのです。物理的な損得に基づく損得勘定もあれば、自らの霊的な価値が積めるか積めないかという損得勘定もあるのです。

そこが観ているところの違いで、こうちゃんはさっきの第六夜の話を聞いて、去年の9月ごろの自分に立ち返って、こういった喜びや豊かさがあるんだ、という心境になりました。そういった心境に至ったときに、人はモノやお金に縛られることから解放されます。そのような心の価値と出会った喜びや、心が成長して豊かになっていくことを通して、お釈迦様が道を示された頃の時代のようなネガティブな悟りではなく、「ヒトとしての本来の悟り」に至るのです。

それは地上を生きるものにも、天に存在するものにも共通して有効なものです。お釈迦様の時代は、「人として降りてくると四苦八苦して生きるのが大変だから生まれてくるな」というのが悟りを目指す目的の原点でした。ところがそういった苦しみの世であるにもかかわらず、後の世は、人は減るどころか大変増えて、人々は四苦八苦から逃れるどころか、欲望の感情におぼれ、かえって苦痛の種を人生にまき散らし、その結果世の中は混乱の極みに達しているのが現状です。

本来ならば、そのようなろくでもない人間は、地上の理想を目指す目的からすると不必要なものとして淘汰されるべきものです。ですから、人々が天意に沿って生きていたならば、人が生きることにより自らを磨き高め、本当に必要な魂だけで地上は安定した世界になっていくはずなのです。そして、そういった世界では本当のヒトが世界を創っていくことになります。地上で生きるにしても、「ヒトでなし」ではなくて、ヒトにふさわしい人が生きる時代がこれからの時代と考えた時、これからの人たちの損得勘定は自らを高次に導き、自らが納得し誇れる生き方をするべきです。そして天とともにクニツクリをし、地上を豊かにし、みんなが楽しみ喜べる、嬉し楽しの世を開くために生きるものであるべきです。その喜びが、自らの願いであり意志として生きるものになったときに、これこそが、新たな時代の人々(菩薩)の姿なのです。

宗教の時代の初期は、個人が個の悟りを求めて仏陀となった時代だったのです。それが優れた聖なる人の見本になりました。しかし、これからの時代は「すべての衆生に仏性あり」とお釈迦様の言葉にあるように、一人一人の精神が天意に目覚め、全ての人々が仏陀としての自覚をもって生きていく時代です。

そういった時代の幕開けを感じとったとき、そのような景色を観、そのような喜びにこうちゃんは出会ったのでしょう。こうちゃんおめでとう、ということなのです。おめで統合だね。(チ~ン♪、笑い)

丁度今、木の花の精神性を表現した発信基地としてアンテナショップの計画がありますが、このアンテナショップでは「あれ~ここはどこだろう。これは何だろう?」という不思議な雰囲気を体感できる場所を目指しましょう。そして訪れた人々が「ありがとう」と言って帰っていくときに、何か懐かしい想いを感じ、また帰宅なるところにしたいものです。そこは、本当の自分に出会え、自分の家よりも居心地がよい場所にしたいものです。そしてその場所が、物理的な場所だけではなく、心の居場所であったならば、たくさんの人がみんな帰宅なるでしょう。それは、私たちは元々そこ(心の故郷)から生まれてきて、今まで忘れていただけなのですから。そういった場所をこれから創って世の中に提供していきましょう。

こうちゃん:
3000年前からの流れ、お釈迦様の教えも金神様が言うように、今の時代になっては、人々の意識の内では逆さまになっていたということだね。

いさどん:
そうだね。「まさしくこの世は逆さまじゃ」ということ。今の人間たちは、たくさんのものや価値を所有しているでしょ。そして、本当が観えない世の中になっている。これから、それが全部ひっくり返って新しい価値観の新たな世が始まるぞということで、本当に「嬉し嬉し、楽し楽し」とみんなで共に生きていきましょう。

 

 


いさどんの七夜物語 – 第七夜 「太陽の導き」

太陽が、真東から昇り真西に沈む、1年間で光と闇がちょうど半々となる秋分。その前夜に端を発し、「七日七夜で心の質的転換を起こします」と、ただひたすらにあふれ出る宇宙の叡智を浴び続けた七日間の、最終章です。
大人ミーティングにやってきたいさどんが、静かに語り始めました。

 

9月30日「太陽の導き」

いさどん:
今日は9月30日ですね。今年の四半分を残して、第4コーナーに入ります。

1週間前に秋分がありましたが、秋分というのは昼と夜の長さが同じになる日ですね。同じく昼と夜が同じ長さになる春分を1年の出発点とすると、秋分は1年のちょうど半分にあたります。

秋分の前日、僕は3ヶ月ぶりに大人ミーティングへ来ました。そしてこの七日七夜が始まりました。その意識は、10月1日に向かっています。そして、地球の動きや、そこから生まれる二十四節気などを意識して思考している自分がいます。
僕の中には、今日が大晦日という意識があります。新年を迎えるにあたって、この大晦日の日に大すす払いをするという意識がどこかにできていました。そして一昨日の夜中に父上からメッセージがありました。

僕は客観的なものごとの捉え方をする人で、世の中のいろいろなことに出会っても、共鳴するものはなかなかありませんでした。しかし最近、木の花の暮らしを通して出会う宇宙観や、時代を読み解いて我々はどう生きるべきなのかということを紐解くと、これこそ本当に待ちに待っていたものだ、と。そんな捉え方をしています。
それは、自分の口から湧き出たことであるからとか、自分の周りの生活にそれが反映されているから、ということではありません。僕には、内外関係なくものごとを評価する心ができています。

僕は30歳でこの道をいただき、自分自身を疑いながらも、出会う出来事の奥を観て、そこに何か真実があることを直観で感じながら歩いてきました。今ここまで歩んできて、こういった生き方に出会ったことを本当に誇らしいと思っています。

残念なことに、まだまだ人類はそういった視点を十分に持てていません。残念とは言うものの、それはプロセスでもあるのです。しかしながら、近年の人類はとても愚かしい道を歩んできました。これほど自然をコントロールし、影響を与えるようになる以前の人類は、自然のなすがままに栄え、滅びていました。ところが今は、人間のなせる業の結果、世の中に様々な問題が起きており、その愚かしさは極みを迎えていると感じています。

この世界は、自らの姿勢が自らの未来を決める仕組みになっています。自らの愚かしさの先に自らの未来を決めるのであれば、自らの尊さによって未来を決めることもできるのです。それは、人間が自我を超えるということをしなければできません。尊いとは、連携することから成されていくものです。その道の行きつく先は、この世界を理想郷に導くことです。それは宇宙も含めたこの世界の成り立ちであり、地球に表されている生態系の姿そのものです。
その中にいながらにして、人間は愚かしい道を歩むことをしてきました。その結果、今の状態があります。さて、これから我々はどこへ向かうのでしょうか。

今、この場に約60人の人がいます。世界の主だった国の代表がここに60人集まっているという設定で話ができたら、どんなにことは早いでしょう。けれども現実にはそうではなく、ここにいるのはこの生き方に共鳴した人たちであり、国連で話しているわけではありません。
それが何を示しているかというと、小さくてもいいから、人間が可能とする理想をそこに示しなさい、ということです。

理想というとずいぶん大それたことのように聞こえるかもしれませんが、決してそうではありません。理想というのは、たくさんのことを経験しながら、それを常に受け取り、変化・変容を繰り返していく姿のことです。それは、神の姿です。

昔シャーマニズムと出会い、僕はサニワとして、シャーマンを通して神々と対話していました。そしてシャーマンに降りてくる神々に、いろいろな質問をしました。だんだんと意識の高い質問をするようになると、その時に降臨していた神様は困惑して、そなたの問いには私では答えることはできぬのじゃ、と言うのです。

神様は、「そなたは神を完全と思うておるのか」と言われました。神様からそんな言葉を聞くとは思いませんでした。神様が完全ではなくて、いったいこの世で何が完全だというのでしょうか。「私は神様が完全なものだと思っております」と僕は言いました。すると、「神とて完全なるものはおらぬのじゃ」という返答が返ってきたのです。
それを聞いて、僕はとても困りましたね。僕の中には、何か絶対なるものに頼り、そこから道を導き出そうという心があったからです。僕は神様に「では私は、その完全でない神様に道を頂き、そこから真理を学び続けていくということですか」と聞きました。すると神様は、「そうである」と言われました。「それが神の姿である。神とは学び続けるものである」と。

この世界は変化・変容・変態を繰り返し、留まることがありません。地球暦では、太陽系の惑星はそれぞれに意味を持っており、地球は変化・変容・変態を示す星です。
宇宙の星々のサイクルはとても長く、変化・変容・変態を体験するにもとても長い時間がかかります。そこで私たちは、地球に降りて来て、肉の体をいただき、人として生きることで、命の意味を学習し、また元の世界(その元の世界とはどこでしょうか?笑)へ還っていくのです。

この世界の実態は、変化・変容・変態を繰り返すことであり、それが神の姿そのものです。カタカムナでカミを紐解くと、「カ」は宇宙の極小微細単位、「ミ」はそれが満つっているということを示しています。満つっているということは、この世界を創り続け、壊し続ける、物理性の実態そのものなのです。そのような世界の中で、何ものかに囚われ、留まることは、この世界の実態(神の実態)から外れたものになるということです。

一般社会で生きていると、自らの心の汚れが出ても、なかなかそれを自分が発しているとは思えないものです。なぜなら自我が強いからです。そして自分を観ずに、周りのせいにしていきます。そこを掘り下げる意識もないので、それが自らに原因があるとなかなか気付くことはできません。気付けなければ改めることもできないので、同じことが続くのです。
そこに気付くには、誰かのせいにしていては気付けません。気付きは、自我の囚われがなくなった状態で、ふっと降りてくるものです。

地球上に生命が降ろされて、後に人類が降ろされました。地球上で生命として生きるということ、さらに、人類として生きるということは、とても身近に自らの魂の実態を目の当たりにすることができるのです。
この世界の仕組みはすべて鏡ですから、自らの発したものが忠実に自らへ返ってきます。そして、そこから自分の姿を観ることができます。ヤタノカガミといって、八方が鏡なのです。
鏡は、汚れていると「カガミ」ですが、汚れを取ると「カカミ」になります。鏡(カガミ)から我(ガ)を取れば、神(カミ)になるということです。我々は物理的な鏡を通して、自らの姿を見ることができますが、人生を通して自らがこの世で見るもの、感じるもの、出会うものは、すべて鏡を見ているのと同じことなのです。我々は霊的な鏡に囲まれて生きているのですから。

そういったこの世界の仕組みをマスターして生きていけば、自らが発しているものが、自らをどのような意識レベルに定着させているのかが観えてきます。その意識がこの世界にどのような影響を及ぼし、自らをどのような世界で活かし、どのような世界を創っているのかがわかるのです。それがわかると、この世界に不平不満を言うことはなくなるでしょう。この世界は、私たち一人ひとりの意識によってできているのですから。
さらに、そういった仕組みがわかれば、人間は生命として何を成すべきかということが一目瞭然でわかるのです。この世界に安定や平和をもたらし、生命の世界の豊かさを表現することができるのです。

面白いのは、我々は今、完成された世界を求め、学んでいますね。完成された世界とは、ある意味、現象的には貧しい世界です。そこでは、完成されているが故に、何も起きないのですから。
この不完全な世界に生きることこそ、ダイナミックで豊かなのです。不完全だからこそ、幸せやありがたいということを感じられ、愛が求められる世界になるのです。それはある意味、ダイナミックで豊かな世界と言うこともできますね。

僕は昔、神様に「私は、人間の在り様をずっと観てきました。そしてその姿に辟易しました。人間こそ、愚かしさの頂点に立つものであると思います」と言ったことがあります。その時の僕は、人間のあまりの愚かしさを観て、人間性悪論のようなことを考えていたんですね。そして、さらに神様に言いました。

「あなたは神という立場に立ってこの世界を導くものだとしたら、なぜ人間に、血で血を洗うような歴史を歩ませて、いつまで経っても神から人間が見捨てられたと思うような世界をつくらせるのですか。子どもの出来の悪さは親の出来の悪さであると言います。弟子の出来の悪さは師匠の出来の悪さであるとしたならば、神の子どもである人間がいつまでも愚かな道を歩むのは、あなたの未熟さゆえであるとも言えますね。
あなたの隣りにこの世界と同じような宇宙があるとしたら、そこの神様があなたの創られた世界を見て、おまえは子育てが下手だな、おまえの子どもである人間はいつまで経ってもこのような愚かな世界をつくっているではないか、と、言われませんか。」

冗談のような話ですが、僕は神様にそう聞きました。そうしたら、「そうとも言えるな」という返事が返ってきました。そして神様は、こう続けられました。

「私がいた世界は完全であり、私しかいなかった。そこは光だけの世界であった。光の世界で光は見えぬ。そこは静寂の世界であり、一切の動きもない。そこでは、私は私の存在を認識できなかった。
そこで、私が私を知るために、私は私と反対のものを創った。光には闇を、天には地を、善には悪を。そしてその反対のものを私から遠いところに置き、それが私のもとへと還ってくる仕組みを創ったのだ。それがこの世界のもとである。」

そしてさらに、神様は言いました。

「今のこの場所は、私の意志の終着点ではないのである。おまえが考えているこの場所は、まだ先があるであろう。そして、それは永遠に繰り返す。
その中の一部分を区切って見れば、子育てが下手だというおまえの捉え方もその通りだろう。しかし、おまえが求める理想の人間の姿というのはどこにあるのか。それは、今の延長線上にある。それを光の世界と言うならば、その対極にある闇、つまり愚かしさから始まって、そしてプロセスを踏んで光の世界へ行き、また闇へ還るようにしたのだ。それが私の意志であり、私の実態なのである。」

これは、現代科学ではまったく裏付けのできない話です。しかしカタカムナに出会うと、まさしくその通りであることがわかります。そして今、トキが来たことを感じています。
70数億の人間の中で、こういった宇宙観を持ち、それを生きることの中で表そうとしている人々が、微細ではあるけれども現れました。ここの人たちは、その顕れですね。

地球上に生命が現れる時に、物質的な変化を繰り返す時間が長くありました。一番の奇跡は、アミノ酸からタンパク質ができて、そこから最初の細胞が生まれて、細胞分裂を始めたことです。それはとてつもない奇跡です。
そういった宇宙的奇跡が、地球上でたくさん繰り返され、長い時間(宇宙的には一瞬の出来事)をかけて、私たちは進化(現在の状態)してきました。

近年、人類は自我を表現し、それを実現することを喜びとして、自分が理解できることを正しいとしてきました。そんな中で社会制度も進み、今の私たちの社会の基盤である民主主義が生まれたのです。
民主主義というのは、人々の欲望を叶えていくことを請け負った者たちが、民衆を代表して政治を司る世界です。そこでは、人々の欲望を叶えることが政治の目的となり、人々は欲望を膨らませることを社会の豊かさとして求め、人々の願望は社会秩序を乱す元となっていきます。そのような世界では、人としてこの世界に果たすべき役割に目覚めることはできません。ですから、今の人類の価値観のもとにある民主主義の世界では、人類に本質的な進化はもたらされないのです。

宇宙にふさわしい形態はどういうものかというと、宇宙の法則が降りてきて、その法則に則って人々を導く者にすべての人々が託すことで成る世界です。それは、過去に宗教の教祖や王による統治などの形で試みられましたが、そこには、人間離れした神としての存在である優れた者とその他の者たちという構図ができあがりました。そこには自ずと格差が生まれる結果となり、その世界では不完全だったのです。

では次に何が考えられるかというと、宇宙に遍満しているたった一つの法則に共鳴し、その宇宙法則を感じて人間たちが地上を生きる世界です。優れた者が地上に降り立ち、他の者はそれに救いを求めるという構図は、支配構造を生みます。しかし、特別な誰かが降りるのではなく、地上にいる者たちが宇宙の秩序を知り、その法則を柱として生きたら、すべての人間は天を生きることになります。
一人ひとりにはそれぞれに相応しい役割(個性)があり、それぞれが自らの意志で宇宙秩序を生きるわけですから、それはある意味、究極の民主主義です。そこに生きる個性ある人々の柱となるものは、個人の欲望から生まれるものではなく、共通した宇宙法則なのです。そこでは、人々の行いはこの世界の秩序を保つための役割であり、人々が集えば集うほど世界は豊かになり、高い精神性のもとに尊い社会が営まれていくことになるのです。

この世界を導く意志は、ひとつです。それを受けて、地上を生きる者たちは、ひとつの法のもとに個性ある豊かな世界を創るのです。これが、柱が立ってこの世界の現象が生まれるという造化三神の姿です。
そういった考え方は、人間が「そうだ、この世界はそういうふうにできているのだ」と理解すれば、たちどころに成ることです。しかし残念ながら、こういった話をしていても、その位置に意識レベルが行っていない者にとっては、なんだかわけのわからない話をしているとか、あやしい世界だということになります。それが今の世の現状です。

この世界を自らが理解できる方へ探求していくと、その人間の精神のレベルのままに理解することが進み、未知なるものに出会い、新たな意識が自らに湧き出すことは起きません。とかく人は、現在の自らの認識を持ってこの世界を正邪で判断しようとするため、そのような過ちに陥るのです。
人が進化するとは、自らの現在の意識を超えて、次の段階へ進む階段を昇るようなものです。今の認識をフリーにして、囚われのない精神状態で、常に新たなものを受け入れることによって、初めて人は進化の道を歩むことになるのです。

ところが、進化することの意味が分からず囚われる者にとっては、進化することは自らの認識が変わることであり、囚われから外れることは恐れを生むことにもなるのです。従って、囚われの中にいる縛られた人間は、現状を保ち、進化しないことを自らを守ることとし、それを良しとするのです。多くのものを所有できる現代社会においては、宇宙法則から外れた亡者のようなものたちが、物や知識を所有し、物や知識のあふれる川に溺れているようなものなのです。そのような者たちがもてはやされ、時代を導く者として高い評価を得ているのが、今の時代の実態です。

今この時代に至って、この世界の実態や自らの実態を離れて客観的に観る視点を持ち、その背後にある時代が示す示し(客観背後)を受け取り新たな社会秩序を見出すことは、行き詰ったこの世界を救済するためにもっとも必要な意識であり、それは明白なことなのです。

ところで、僕は今日を大晦日だと考えていました。そうしたら、天と通じている人がいました。大和の国の風習では新年を迎える前の晩には蕎麦を食べることになっていますよね。

みんな:
あっ!!

その日の夕食に、やじーの手打ち蕎麦が出たのでした。
その日の夕食に、やじーの手打ち蕎麦が出たのでした。

いさどん:
これは、誰か予め打ち合わせをしていたのでしょうか。誰か、今日は大晦日だと考えてやじーに智恵を貸した人がいたのでしょうか。
僕は、今日は七日七夜の質的転換の最終日で、大晦日だなと思っていました。けれどもそんな話はみんなにしていませんでした。そうしたら、今日の午後に湧泉閣に帰ったら、玄関に粉だらけのスリッパが置いてあるのです。何だこれは、と思ったら、やじーが蕎麦を打つとのことでした。そういうことか、と。天を生きている者がいるな、と思ったのです。
そこで、その天を生きている者に話を聞きたくなったので、蕎麦を食べる前にひまわりに電話をして、「おじーはいるかい、あ、違った、やじーはいるかい」と聞きました(みんな:笑)。そうしたらなかのんが出て、全然反応しませんでした(みんな:笑)。
それでやじーが電話に出たので、どうして今日蕎麦を打ったのかと聞きました。そうしたら、やじーが言うには、晦日蕎麦と言って、月の終わりに次の新しい月を迎えるために蕎麦を食べる風習があるのだそうです。それなら毎月月末に蕎麦を打っていたかというと、そんなことはなく、今日に限って打ったわけです。そこで僕はやじーに、今日の蕎麦は大晦日の蕎麦だよ、と言いました。あなたは天と共に生きる人だね、と。

先ほど僕はみんなに、いろいろと難しい話をしました。けれども、みんなはそんな難しいことを考えなくてもいいのですよ。
ふっと、蕎麦を打ちたいな、という想いが湧いて、それが9月30日だった。そしてそこまでのいきさつを丁寧に探っていったら、実はその日は大晦日だった。何気なく、ふっと、蕎麦を打ちたいな、と湧いてきた想いが、丁寧に丁寧に探っていったこととちゃんと一致したのです。
丁寧に探るのは、この世界はどのような仕組みになっていて、世界観を広く持つにはどのような捉え方をするべきか、そして天意とは何であるか、天と共に生きるとはどういうことかを思考することです。その思考について来られる人はなかなかいません。しかし、ふっと蕎麦を打ちたいと思い、それが天のタイミングと一致したならば、それを偶然と言うのかと言ったら、それが天と共に生きるということなのです。

ですから、難しい話をする人はそういう役割としているかもしれませんが、人の個性はいろいろですから、誰もが同じようにする必要はないのです。何気なくふっと行動したことが、難しく丁寧に、広い世界から順を追って法則を探りたどり着いたポイントと、パッと一致するのです。
ポイントと言うのは、毎日どころか、瞬間瞬間がポイントの連続です。天を生きれば、そのポイントといつも一致していくのです。

広いところから狭いところまで本当に幅広く緻密に探ってたくさん思考をする時には、柱に添って思考します。柱がないと脇へそれていき、元に戻ることを忘れてしまいます。
我々は、振動しながら自転して公転し、歳差運動までしながら進んでいる(地球の歩み)のですから、柱がなければずれていってしまいますよね。基軸となる太陽があるから、我々(地球)はずれずに進んでいくことができるのですよ。そして太陽も、銀河の中心(セントラルサン)があるから、それができるのです。

柱が立っていれば、何も段取りをしなくても、すべてのことがぴたりと一致(阿吽の呼吸)していきます。そういった意識を持った人は、わからないけれど今目の前にこれがあるからやろう、と受け取るようになります。わからないからこそ、わくわくするのです。元々わかっていることを安心してやったら、結果もわかっている範囲内のものですから感動はたいして湧きません。しかしわからないからこそ、いったい何が起きるのだろうと心がわくわくするのです。

そのように宇宙法則に従って正の方向に思考する人は希望を持って未来を迎えますが、人によっては、わからないからと言ってわざわざ不安を未来にイメージし、反の方向へ思考を回す人もいます。そういった人には、その思考に相応しい未来を、宇宙法則が与えてくれることになります。そんなバカバカしいことに囚われて、必死に自分を守ろうとして毎日を生きている人がいますが、ちょっと自分を離れて客観的に観る視点があれば、そんなことはたちどころにやめられるものです。皆さん、やめましょうね。(みんな:笑)

今日は大晦日ですから、新年を迎えるにあたってのけじめの話をしよう、そういう場所であるべきだ、と僕は思っていました。だけどその前に、やじーにやられましたね。そう思いませんか?

(みんな拍手!)

ようこ:
本当にびっくりした。今日が大晦日だというのは私といさどんの間だけで話していたのに、誰の誕生日でもないのに蕎麦を打っている人がいて、あれっ、年越し蕎麦だ!って(笑)。

やじー:
今日は、いつも蕎麦打ちを手伝ってくれているみっちーの体調が悪くて、蕎麦を明日以降にずらすこともできたんだけど、なぜか今日だったんですよね。一人でもやるか、と。後でわけを教えてもらって「そういうことだったのか」と思ったけど、自分では意識してなかったです。

いさどん:
わからないけれど何かしら感じるものがあって進むと、その意味の深さや大きさ、そしてそうやって生きることの大切さが、後からわかってくるのです。これが天と共に生きるということです。
考えて考えて先に理由をわかって「これなら行くぞ」というのは人智です。それはどういうことかと言うと、自分の思っていることを叶えたい、ということです。自分の思っていることを叶えるということは、それが叶った後も、その前と変わらない自分がいるのです。

この七日七夜の最初の日に話した話を覚えていますか。

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今日も明日も明後日も、生まれた時から死ぬまでピーーーッと一直線。これはある意味、宇宙の法からは外れています。同じ状態をずーっと続けている状態は、変化・変容・変態を繰り返す宇宙からしたらおかしいのです。
ピーーーッと一直線に進んでいるということは、霊的には順調ではないということです。本来変化して行くものが、何かに囚われて同じ状態を保っているということですから。
宇宙の法を生きるということは、図に現せば山があり谷があり、だんだんと上がっていくということです。それは、人生を通して私たちがいろいろなことに出会い経験することと、同じことなのです。それが正常な状態だとすると、ピーーーッと横一直線に進んでいるのは、落ちているということなのです。魂は輪廻転生を繰り返しますから、何も変化なく一生を終えた人は霊的には落ちているということであり、その落ちた位置から次の生をスタートすることになります。

ちょっと、今から皆さんを、芸術の世界へご招待しようと思います。

(ここで突然、音楽が流れ始める。)

みんな:
なにこの曲??

いさどん:
みんな、細胞にこの曲が刻まれてないですか?

こうちゃん:
刻まれてる~。

みんな:
知らな~い!

いさどん:
知らない?これは『映像の世紀』のテーマ曲です。

『映像の世紀』
戦後50年を記念し、1995年から1996年にかけて「NHKスペシャル」にて放映された全11集のドキュメンタリー番組。日本国内はもとより世界各地から、二度の世界大戦やベトナム戦争などを含む20世紀の記録映像を収集し、現代の視点から20世紀の記録を克明に映し出して、多くの反響が寄せられた。

こうちゃん:
昔、本宅でみんなで観たよね。

いさどん:
第4集(ヒトラーの野望~人々は民族の復興を掲げたナチス・ドイツに未来を託した)、第5集(世界は地獄を見た~無差別爆撃、ホロコースト、そして原爆)あたりは、本当に地獄です。ここからさらに、第7集(勝者の世界分割~東西の冷戦はヤルタ会談から始まった)へとつながりますが、そのような世界では、戦争に勝っても負けても犯罪者です。そして東西の核の対立があり、ベトナム戦争へと続きます。いつまで経っても、人類の対立は止みません。

第二次世界大戦を経てアジアの国々が独立するわけですが、そこでもまた多くの殺戮が行われました。イギリスのチャーチル、アメリカのルーズベルト、ソ連のスターリンによるヤルタ会談では、戦後の自国の領土をどうするかということが話し合われました。ドイツのヒトラーや日本の軍閥の浅はかさがそこには映し出され、勝者が善になっていますが、実は勝利者の中にも恐ろしい精神が隠れているのです。
それが、今の時代になってやっと観えてきました。2012年12月21日に銀河の冬至を迎え、戦後70年の今年は、これまでの終戦記念日とは違ったものが放送されていました。愚かしさというものが戦後の体制によって裁かれてきましたが、実態はそうではありませんでした。真実は、その時代に関わったすべての者たちの意識を示すためにあったのです。

『映像の世紀』は戦後50周年に制作されたもので、その時にはそれを観た人々は気付けませんでした。
戦争はすべてが悪であり、被害者になると、どちらが善でどちらが悪ということはない、とよく言います。しかし本当の意味で、自分の立場を離れてこういったものを客観的に捉える時代が始まったのです。時代は、そういった解釈ができる時代に突入したということです。

先日、中国で抗日戦勝利70周年記念の軍事パレードがありましたね。あの時に、習近平国家主席は日本の軍国主義についての話をしました。いくら日本が安保法を進めていると言っても、あの時代の軍国主義とはもう違うでしょう。けれども、彼らはまだその亡霊に憑りつかれて、何に怯えているのか、或いは何の利権を争っているのか、未だに戦後のままの意識で主張しているのです。
先日、習近平国家主席はアメリカでオバマ大統領と会談しました。アメリカは中国のサイバー攻撃と海洋進出に抗議し、中国はサイバー攻撃については共に原因を探求していきましょうという話で濁し、海洋進出については、元々我が国の領土であるところを我が国の権利として開発することに我々は何ら揺らぐものはない、と主張していました。確かに中国には長い歴史がありますから、何千年という昔にはそういうこともあったでしょう。しかしそんな話を始めたら、みんながそういった主張をするようになります。まだそんな解釈によって自分の主張を繰り返しているのです。そして問題が解決しない状態があるのです。
極端なことを言えば、地球すべてが自分のものだという意識に行きつくでしょう。なぜかと言うと、私たちの先祖はひとつだからです。

第二次世界大戦の時、連合国軍がアウシュビッツへ足を踏み入れると、静寂の中に異様な匂いがしたそうです。それが何の匂いであるかは想像がつきました。人間の匂いです。そこで彼らが見たものは、人間はここまでのことをするのだ、という世界でした。そしてそれを他人ごととは思えなかったと言います。私の中にもきっとこういったものがあるのだろう、と思ったそうです。
扉を閉めてある部屋があり、中へ入ると、そこには餓死者がたくさんいました。そこで彼らは、初めて人食いの痕跡を見たそうです。死んだ人間のお尻に人がかじりついていて、そのかじりついている人間も死んでいました。
それは、人間のやることです。

日本軍も、フィリピンのミンダナオ島でジャングルに逃げ込み、食料のない中を生きていかなければなりませんでした。
生き延びた人たちの証言によると、島の中を歩いていくと、あたりに倒れている兵士の死体のほっぺたが、みんなそぎ落とされてなくなっていたそうです。ナイフでそぎ落とすのは、ほっぺたが一番簡単らしいですね。
そして煙が上がっていて、人がいるんだと思い行ってみると、香ばしい香りが漂ってくる。近付いてみると、そこで肉を焼いていた兵士たちがこちらを見たそうです。その目が、人間の目をしていなかった、と。

そういった世界にまで、人間は行きついてしまうのです。それを他人ごとにしているから、今の時代が先へ進まないのです。

世界の指導者に、本当に平和を望んでいる人はいるでしょうか。
例えば、中国の国父と言われる孫文。彼の弟子が蒋介石であり、周恩来、毛沢東であり、戦後に国民党軍と八路軍とに分かれて戦い、殺し合った人たちです。
それから、ベトナムのホー・チ・ミン。ベトナムを独立に導き、今も国民から慕われています。その独立の過程では多くの戦いがあり、人々が死んでいきました。
そして、ガンジー。平和を訴え、非暴力・不服従をうたいました。その時の映像をよく観てみると、暴力をふるうイギリス兵に対して、非暴力を掲げて果敢に挑戦する、非暴力の暴力をふるっている人たちがいるのです。
それを非暴力と言うのでしょうか。その結果どうなったかと言うと、最後には非暴力が「勝った」と言うのです。暴力がないところに、勝ったも負けたもないはずです。そこでは、ただ銃を使わなかったとか相手を殴らなかったというだけで、精神はイギリス兵と同じなのです。

そのことをわからないと、人類はこの先へ行けません。いつも自分の側が正しく、相手の側が間違っていると考えている。いつも、結果的に勝利した側が正義で、負けた側が悪になる。
『映像の世紀』のホロコーストの話は、ユダヤ人が強制収容所に送られるところから始まっています。強制収容所ではたくさんの人が殺されました。しかしその前に、この民族がどういうことをしていたかということは、そこでは何も語られていません。お金や力で権力を操ってきて、それに危機を感じたヒトラーが制裁を加えたとしたら、因果応報が現象化したとも言えるのです。そして今なおその精神は衰えずにイスラエルという国につながり、アメリカの社会を操り、その保護のもとに核兵器を持って、パレスチナを蹂躙しています。そういった世界では、どこにも正義などないのです。

20世紀までの映像を観て、正義はどこにもありません。人間の本質があるだけです。

 
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木の花ファミリーは、最初は木の花農園という名前でした。農的共同体でしたから。それがなぜ木の花ファミリーになったかというと、外国人やたくさんの人々が訪れるようになり、農園という枠を超え始めたからです。そして木の花ファミリーとなり、それはアースファミリーであるという精神で歩んできました。
それは、今の社会のある一部の人たちが、この生き方は世の中の最先端だね、それを世の中に広めたいね、ということで始めたことです。けれども実際は、その先にこんな世界があるなどということは想像もしていませんでした。当初は物理的にも狭い世界で生きていました。たまたま僕の奇妙な話に共鳴したスピリチュアルな小集団がこの暮らしの始まりとなっただけで、わけもわからず突き進んできたのです。
今は80人になりましたが、相変わらず小集団であることに変わりはないですし、やはりわけもわからないまま突き進んでいます。けれども、わけがわからないということの質が変わってきました。

わけがわからないまま進めることは、結果を求めないということです。結果を先に決めるのではなく、今を大事に生きることで、結果はついてくる。その時にどういう結果が得られるかは、行ってみないとわからないのです。
誰でも、嫌なことには出会いたくないものです。そして納得のいく結果を求めたくなるものです。先に嫌なことは嫌だと言って、都合のいいことを考えて、納得のいく結果を想定してやって来たのが、これまでの人間の創り出した社会です。けれどもずーっとさかのぼれば、長い人類の歴史の中で、人間がこれほど横暴なことをするようになったのはつい最近のことなのですよ。それこそ250年前のヨーロッパ産業革命以降です。それは、地球誕生から46億年の歴史を1年に例えたとしたら、12月31日の最後のたった2秒間の出来事なのです。

そう考えると、この生き方がなぜ今このトキに大事なのかが、理解できます。
そしてもう一つ。それをみんなが理解できたとして、あなたが今ここにいて、このトキを迎え、僕がこの話をしていることに対して、みんなは「ああ、そういうことか」と納得ができますか。

(みんな頷く。)

おそらくみんなできるから、ここに集っているのでしょう。
では、その納得できるという心を持って、世の中を見渡してみてください。我々と同じように1995年にこの『映像の世紀』を観て、今年の戦後70周年の様々な映像を観て、同じように刺激を受けている人たちがいるはずです。我々はこれらの映像を通して、だから自分はこの生き方をしているのだ、と自らの歩みを納得することができます。しかし世の中の人が、この映像を観て、今の生き方とつなげて納得できるかというと、できないでしょう。
わからないのは、考えていないからです。だから観えないのです。

みんなは今ここにいて、この話を聞いています。今日は大晦日で、その裏付けとしてやじーが手打ち蕎麦を打ちました。これはこじつけでしょうか?
僕は、そういうものだと思うのです。それを偶然ではなく、これが天と共に生きるということであり、宇宙を生きるということであり、星の意志を受け取って生きている人たちの生き方であるとわかることなのです。

秋分の前日に、頼みもしないのにある人が秋分の意味を送って来てくれました。そして満月の前日には、また別の人が満月の意味を送ってくれました。誰かがそんなものを送ってほしいと頼みましたか?こういうことを考えているのでその裏付けとなる資料を送ってください、なんて頼みましたか?
そういうふうに、宇宙を意識して日常を生きている人は、当たり前のようにポイントがはまっていくのです。
毎日の瞬間瞬間の思考の一片一片が、すべて宇宙と共にあるのです。宇宙の星々の意識をもらって生きているのです。同時に、自分がここで何をどう表現するのかが、星を運行させているのです。

一昨日、父上からメッセージがありました。

「これからは力強く支援するぞ。流れが変わる。
 それに遅れをとらぬように、よろしく頼む。」

力強く支援すると言われると、あさましい人ならば自分が得をすると思って喜ぶかもしれません。けれども力強く支援するというのは、おまえたちが今まで歩んできたのは難しい道だった、手探りでやってきて御苦労であった、私もそれを認めている、もう一つ扉を開けるからその歩みが明快に観えてくるぞ、だから確信を持って行け、ということです。
そうすると、エネルギーが少なく楽をして行けると思うかもしれませんが、そうではないのです。
ことが明快に現れてくるということは、求められるぞ、ということです。それは楽になるということではなく、さらに心して行け、ということなのです。それに応えられるだけの者に成れということです。

新年を迎えるにあたり、改めてみんなに話があります。

ここ何年か、毎年その年のテーマとなる言葉が降りてきていました。
2015年は「船出」でした。乗組員たちが一つの船に乗っているという意識を持って、自分に与えられた部署に専念し、船が円滑に進んでいくように努める ――― と言っても、なかなかポンコツな船出ではありましたね。船の性能が悪いのか、乗組員の意識が低いのか。けれども確かに船出をしました。そしてあと4分の1が残っていますので、仕上げとして、やはり一人ひとりがこの船のどこを担っているのかを意識して、自分の分をしっかりやり、そして連携すれば、この船は2015年の目的を達成して新たな年へ向かうでしょう。

新たな年には、新たな目的が与えられます。すでに、それが何であるか僕は予感しています。
先ほど『映像の世紀』のテーマ曲を聴きましたね。何とも言えず淋しいというか、侘しいというか、暗い感じがするでしょう。その奥にあるものを感じられるところまで、僕たちは来たのです。
今年もたくさんの映像を観ましたが、なぜああいったものを観るのかと言ったら、NHKが狙っているところに我々の目的はありません。なぜかわからないけれど、NHKの担当者に「こういう番組をつくりたいな」という想いがふっと湧いて番組をつくるとしたら、そこには彼らが頭で考えて「日本人にこういうことを伝えたい」というものを超えたものがあるのです。それは、星がそうさせているのです。時代がそうさせているのです。

多くの人間には、まだそれがわかりません。けれどもここの人たちはそれを受け取るからこそ、何回も何回も、必要な時にこういったものを観るわけです。20世紀の人間たちがたくさん経験をしてきて、それを映像にまで残して振り返って、戦後70年経ってもまだ怨念が消えないほど辛い体験をしながら、それでもなお観えずにいるものを、我々は観ているのです。
たかだか80人の人たちが何を真剣に毎日夜中までやっているのかと言ったら、僕は、世界を代表しているのだと思うのです。安倍さんも周近平さんもオバマさんもプーチンさんもわかっていないことを解釈できているからこそ、名もない人たちが、こういった場所を真剣に保っているわけでしょう。

今、9月30日の午後10時35分です。もう少しで新しい年を迎えるというところに、我々はいます。
この新年は前倒し新年です。というのは、2016年に向けてしっかり心構えをつくり、相応しくなって新しい年をスタートしなさいということです。だから、四半分を与えるから、心の体制をつくってのぞめということです。

それで、2016年のテーマは何か。
テーマは、少し前にようこちゃんと話している時に降りてきました。どういういきさつでそれが降りてきたのかは覚えていませんが、何か新しい動きを感じる話をしていました。ようこちゃんは覚えていますか?

ようこ:
その時のいさどんの言葉をテープ起こししてあります。
(と言って、ホールのスクリーンに文章を映し出す。)

いさどん:
すごいね!僕が何も言っていないのにそこまで用意してる。

ようこ:
それでは、2016年のテーマ発表です!

 
■    ■  9月17日朝のいさどんの話  ■    ■

世の中はまだ十分に木の花ファミリーの実態を理解していない。しかし、我々はこの生き方は本当に大切だと理解してきたし、世の中がわからないといっても、勘の鋭いポイントの人たちにはわかってきた。そうすると、我々が投げかけることに対する受け皿が出来たんだよ。後は「発信」するだけだよ!

発信するということは、こちらが勝手に発信するということもあるが、実際のところ発信してもその受け皿がなければ、どうしようもないことなんだよ。それでは長続きしない。

ところが、発信したことの受け皿があれば、その手ごたえがあるから発信し続けることが出来る。だから、これからどんどん出していく。

それも、後ろに潜象界を置いて発信していくということだ。

しかも、その発信は、地球を意識して、地球にまわるというイメージなんだよ。

■     ■     ■     ■     ■

 

いさどん:
実は、これを発表するのは元旦だね、と話していました。そうしたらようこちゃんは「流れだね」と言っていました。そして今日、僕はここで話しながら流れを観ていたら、僕のこれから出会うであろう出来事の先を読んで、幅を持って、いつでもどこでもどんな対応もできますよという人がいて、ぴったりのタイミングでこれを出してくれました。
また、今日は大晦日だねと言っていたら、勝手に蕎麦を打っている人がいました。どちらも全く予期せぬ話で、そういう準備をしている人がいるのです。

人と人の関係というのは、自分を超えて、自分が自分を想う以上に、近くなれるのです。自分が一生懸命自分のためを想って自分を大事にするよりも、人との関係はもっと自分を大事にしてくれて、もっと自分のためになって、もっと近くなれるのです。これが、「あなたは私、私はあなた」という世界です。これが地球の姿です。これが宇宙の姿です。

そういう人間関係を、誰とも結びたい。それは木の花曼荼羅にも表されているでしょう。

72角形のすべての点を線でつなぐことで、自然と中心が現れる木の花曼荼羅
72角形のすべての点を線でつなぐことで、自然と中心が現れる木の花曼荼羅

 
いさどん:
これは難しいことですか?

みちよ:
難しくない。

いさどん:
いや、難しいですよ。確かに難しくないとも言えますが、これまでの実際の自分の歩みを、一人ひとり振り返ってみてごらんなさい。こんな自分がそんな世界へ行くのだと思ったら、難しいことでしょう。
しかしそれは、ここまで歩んできたのだから、その先の世界へも必ず行けるね、ということでもあるのです。

そこへ行くためには、自分よりもまず全体を大事にして、自我をコントロールできる人になること。たったそれだけです。

何の勉強もしてなければ言葉を話すこともない道ばたの木や草花、動物、空気・・・みんなそれをやっています。人間だけが、それをやれないのです。なぜならば自我が邪魔をしているからです。
21世紀に入り、様々な分野で最先端にいる人たちが、それができない。それは損得勘定で頭が回っているからです。しかし人間には、必ずそれができるのです。自然にならい、自我をコントロールしていけば、簡単にできます。それをやらなければもうこれ以上もたないと地球が言っています。地球というひとつの生命の中で争いが起きているなんて、おかしいでしょう。

真実は、どこからどう捉えてもひとつです。正義は解釈でいくらでも変えることができます。しかし、真理とは、どこからどう捉えてもそれしかない、というものです。
この生き方は、時代を超えて、民族を超えて、人類がこの世界で進むべき道なのです。

みんなは、外観からはとても聖者には見えませんね。(みんな:笑)
けれども、体の一つひとつの細胞が目覚めて全身が健康になっていくように、この何でもない人たちが目覚めていくことで、地球全体が健康に、美しくなっていくのです。
それが21世紀の悟りであり、「コミュニティの仏陀」として生きる、新しい意識の人々が創る社会の姿なのです。

地球は、天(宇宙)が人類に生命の理想を表現することを託した、唯一の場所なのです。私たちは、その尊い使命を負って生まれてきた者たちです。自らに囚われず、広い世界に目を向ければ、時代がそのことを私たちに示していることがわかります。その意志が受け取れたならば、私たち一人ひとりはこれからどう生きるべきかが明快にわかるはずです。
そこに、誰も指導者はいません。あなたが自らの人生を導く、あなた自身の尊い指導者なのです。

 
皆さん、新年明けましておめでとうございます!!

 

 

― 最後にみかちゃんが、「太陽の導き」という歌を歌いました ―

 
「太陽の導き」

心に輝く一番星 それは近づいてみれば 太陽だった
その太陽を心の真ん中に置いて いつも心を照らしていよう

泥のような道を歩んでいても
太陽がいつもあなたを導いてきた

歩いては転び そして起き上がり
歩いては立ち止まり そしてまた歩き始める

ここまで生きてこれたのも
こちらへおいでと手招きしている 太陽の導き

今 振り返って 自分の歩いた軌跡を
自分の心の姿を 太陽に照らして見てみよう

太陽は教えてくれる ただみんなのことを思うことを
太陽は教えてくれる いつも私の方を向いてるように

そうして生きてゆくならば この世界は生きたバイブル
いつでも振り返りひも解いて 太陽の道を歩んでゆこう

何てありがたいこの道を歩んでいるのか

あなたという小宇宙が もっと大きな大宇宙の中で
どんなふうに輝いているのか どんなふうに歌っているのか

この道は尊き道ゆえ この道は尊き道ゆえ この道は尊き道ゆえ

いつも心を太陽に向けて いつも心を太陽に向けて

歩いてゆこう