いさどんの七夜物語 – 第一夜 「思い出す」

七日七夜でこの場に質的転換を起こします ーーー
そんな想いから始まったいさどんの七夜物語、第一夜です。
(詳しくは「序章・秋分前夜」をご覧ください。)

 

9月24日 「思い出す」

いさどん:
今日は9月の24日です。昨日は秋分でした。1年の4分の1を残して、いよいよ最終コーナーに入ろうとしています。春分を起点とする地球暦で言うと、1年の半分が過ぎたところです。
四半分、半年、1年という区切りがありますが、毎日が区切りです。毎日その日にあったことを振り返り、次の日に生かすと、我々が生きている意味を毎日自覚することができます。

では区切りという意識のない人はどうやって生きているかというと、また同じ日が来たと思っているだけで、毎日起きている新鮮な出来事を振り返らないのです。それはどういう状態かと言うと、上がりもせず下がりもせず、ピーーーーッと一直線に進んでいる状態です。
そこに出来事が起きたとします。それがその人にとっていいことだったとしましょう。それで一時的に上に上がっても、必ずそれを帳消しにする何かが起きます。なぜかと言うと、宇宙は±0だからです。
それは、日ごろの意識がピーーーッと一直線で、昨日も今日も明日も、1年前も1年後も変わらないまま生きていて、生きている目的について何も考えていない状態です。
しかし、生きているといろいろなことに出会います。そこで何故だろうと考えます。ピーーーッと一直線の意識の人は、辛いことがあるとへこみます。そしてそれを忘れるために、何か別のことを考えたりします。そううやって帳尻を合わせて、へこんだことを忘れていくのです。するとまたへこむことが起き、また帳尻合わせを考えます。そしてトータルで見ると、ピーーーッと一直線になって何も進歩していない状態です。
そういった毎日を人間は送りがちになるので、区切りというものがあるのです。

春分と秋分は、1年の中で昼(光)と夜(闇)の長さが同じになる日ですね。その日に、人はなぜかお墓参りをします。
「彼岸(ひがん)」という意味を知っていますか?彼岸とは彼の岸と書き、あちらの世界を指します。それに対して「此岸(しがん)」という言葉があります。此岸とは此の岸と書きます。つまり、ここが此岸です。
川を渡って向こう側に渡ると、彼岸になります。人生は修行ですから、此岸でいろいろなことを経験し学び、そして川を渡って、彼岸という理想郷にたどり着くことになります。仏教では、此岸に生きると四苦八苦に出会うから、そういったことに囚われないようにこの世界のことを悟りなさいと説いています。ピーーーッと進むとポコンと落とし穴に出会います。そして、落ちたところから上がるために帳尻合わせをします。そしてまた上に上がる。それを繰り返しながら進んでいくと、何かに似ていませんか。

みんな:
心電図。

いさどん:
そう、心臓の鼓動ですね。それが帳尻が完全に合ってピーーーッと一直線になると、現象界からあちらの世界へ行く、つまり死ぬということです。生きているということは、へこむこともあれば、上がることもあり、それがどういうことなのかを悟っていくということです。

18538

苦楽という言葉があるでしょう。楽の前に苦がありますね。この世界は、発生し拡大していくことを陽だとしたら、収縮して消滅していくことを陰と言います。多くの人は、陽しか見ていません。しかし、この世界の仕組みは陰が元になって陽が発生しているのです。苦楽でも、苦しいことがあって楽があるのです。楽があって苦しいと示しているのではありません。苦しいことがあるからこそ、楽がわかるのです。私はなんて不幸なんだろう、と思うのは、不幸しか見ていないからです。苦しいをとことん感じたら、あとは楽があるばかりです。

もっとも、それはゲームのように考える話ではありません。幸せに生きるためには苦しいを最高に経験したらいいんだ、ということかというと、そうではない。この世界に生きていると、苦しいことに出会います。お釈迦様はそれを「四苦八苦」と言いました。この世界に生きる人間の性分のことです。人間の中にそういったことに出会う種があるということです。
この世界には仕組みがあります。苦しい経験は、それを起こす仕組みがあるということです。その仕組みを学習できたら、その奥には楽が現れる仕組みがあるのです。そうしたら、苦しいということは楽への旅であるというこの世界の道理がわかった時に、苦しいことは楽しいことを湧き立たせる元となるのです。

中には、苦しい修行こそありがたいのだと、滝に打たれたりするでしょう。嫌だと思うこと、辛いと思うことに向かいなさい、と言うけれど、そういったことも極端な話ですし、誰もが行うべきことなのかわからないですね。それはそれでその人の道として尊重しますが、大切なのは、誰もが当たり前に生きる中で、当たり前にいろいろと起きることを通して、その人にそってその現象が何であるかを知ることです。

僕が6月の終わりから大人ミーティングに出なくなって、3ヶ月が経ちました。今日ここに来たのは、喪が明けたからではありません。このままではいけないと思ったからです。このまま放っておくと、「全人幸福」という看板を掲げながら実際の生活の中ではそういった意識を全く持っていないヤマギシ会と同じ道を歩むことになります。
今日はヤマギシ会からゲストも来ています。今そこで笑っていますが、僕はよくあのようなところで生活ができると思うのです。ここはまだ入り口ですが、そういった日々の中に浸かってしまったら、自らの本当の姿は見えなくなるものです。そこまでいくと重症です。だからまだわかるうちに、このままいくと同じ状態になるということに気付くべきです。これは、たまたま先輩がいてその先の姿を見せてくれているから、そういったことはわかりやすいですね。このような状態に、人間は陥りやすいのです。楽ばかりを求めて、欲しいものが得られればそれで満足して、苦を大事にしない。

ですから、楽ばかりを求めていくと、ちょっとしたことでも苦になるのですよ。そうかといって、わざわざ苦ばかりを求めることも必要ないですね。苦が何であるかを知り、その苦を示しているこの世界の仕組みを知ると、楽がどういった仕組みで発生してくるのかがわかり、楽に溺れなくなります。これを知ることが生きることの目的です。
生きるとは、自主的なことですよ。ピーーーッと一直線の心電図では、ただ日にちが経って年を重ねただけで、生きている目的を果たさず、その人の価値は何も変わらないのです。ただ感情のままに思考が湧いて、その思考のままに行動し、そのまま年月が経ったら寿命が来て死を迎えることになります。
それは、生きていくものの本来の姿ではありません。この世界(宇宙)は変化・変容・変態を繰り返しています。別の言い方をすれば、進化・発展・成長をしているということです。ですから、変化しないということはその法則から外れているのです。それを意識せず、同じことを繰り返していくと、希望を失い、生命力のない存在として死を迎えることになります。

なぜこのような話を始めたのかというと、ここの人たちにもそういった兆しが観えてきたからです。このまま放っておくと、本当にヤマギシ化します。
これは、今日ヤマギシ会からゲストが来ているから言っているのではありません。僕は(ヤマギシ会の創始者である)山岸巳代蔵さんから「あとはよろしく」と託されたのです。しかし、現状のヤマギシ会の人々は「全人幸福」という理想を掲げながら、本来の目的を果たすことを忘れています。ヤマギシの人たちが木の花に出会った当初は「自分たちの目指していたものはこれだった!」と思い出し、刺激を受けて、この精神をもう一度取り戻そうと思っていたこともありました。しかし、本来の目的を何よりも優先することを怠っていたものだから、本来の目的を思い出し、こうやっていかなければならないと思ったとたんにそれを負担に感じて、そこから目を背けるようになりました。当初はとても熱心だった人たちも、今ではそんなことがあったことも忘れ、日常の生活に漬かり、ピーーーッと一直線の状態で生きています。
このまま放っておくと、ここもそうなりかねません。しかし、ここはそうはなりません。なぜだかわかりますか。

みんな:
いさどんがいるから。

いさどん:
そうです。僕がいるからです。だからこの3ヶ月間、僕がいない実験をしたのです。いないと言っても一緒に暮らしていて何か特別なことがあれば口を出すわけですから、実験と言ってもソフトなものです。みんな、本当に僕がいなくなったらどうしますか?

さちよ:
困る。

いさどん:
困るという話ではないでしょう。こまるのはカタカムナの八鏡文字の小丸だけです。(チーン♪)
カタカムナは、宇宙物理です。ものごとの表面しか見ていない近代科学や物理学が解き得ない世界の捉え方です。この広大な宇宙の実体もそうですが、カタカムナは、この世界に存在している我々の命や、細胞や、原子、素粒子、その元となる極小微細単位である「カ」までを解き明かします。その「カ」はどこから来るのかと言うと、潜象界という現代人が認識していない世界からやって来ます。
この世界は陰陽から成り立っています。我々は形を先に認識するので、形が先にあるものだと思っています。しかし実は、我々が現象界にいるから形を先に認識しているだけのことなのです。

ある人にとって、その人が満足の状態でいる位置があるとします。しかし世の中の人々がそれよりもさらに満たされている位置にいれば、これでは足りないと思うようになるでしょう。しかしそれよりもっと低い位置にいてその世界しか知らず満足していれば、そこで十分だと思うものです。
先ほどの心電図で表すと、問題ごとが起きた時に下がるとしますね。すると少し上がっただけでも、ああ楽になった、と思うものです。それが何かによって与えられたものだとしたら「ありがたい」ということにもなります。
しかし、その先にはもっと楽があるのです。それなのにそこで満足してしまう。人には自らの性分と価値があり、そこから湧いてくる感情のままに思いを巡らせ、行動していると、ピーーーッと一直線の変化のない人生を送ることになります。人生には必ず上がり下がりの刺激があるのに、それを無視しているのです。

しかし、学ぶとか、成長するとか、進化・発展するという視点に立つと、自らの物理的かつ精神的願望を叶えるための変化ではなく、意識を高め、視野が広がることに生きる目的が移行していきます。ピーーーッと進んでいって下がった時には「そうか、こういうことがあると下がるのか」と学習し、それがどうすれば上がっていくのかがわかるようになる。その客観的な視点に立てば、出来事や欲望に翻弄されることなく、冷静に物事に取り組めるようになり、その人の精神的価値が上がっていくことになります。そのことを意識しないで日々を送るということは、その人の価値はどんどん下がっていくことになります。しかし、価値が下がることは捉え方によってはありがたいことになりますね。どんどん苦しくなっていくわけですから。そこには「気付きなさい」というメッセージが隠されているのです。

何かあった時に「大事にならなかったからまぁいいや」と出さずにいると、それはピーーーッと一直線の人生を歩むことになります。いいことも、みんなと共有し、進化発展していく。悪いことならなおさら出して、みんなの知恵をもらい、学び、発展していく。そして周りの人たちはそのことを通して「ああ、自分もそうだ」と学びの輪が広がっていく。
みんながそういった意識を共有すると、これが新しい時代のモデルだと、微笑ましい場をイメージすることができます。それを観ているのは、私たちだけではありません。この世界を私たちに託している天も観ているのです。そのために、天は私たちに上がるも下がるも与えているのです。
ピーーーッと進んで、下がって、上がる。元に戻り、またピーーーッと進んで、下がって、上がる。これが生きるということですね。心電図もそうでしょう。それがピーーーッと一直線になったらご臨終ということですね。それは、誕生・発展・進化から、収縮し、消滅するプロセスが一区切りついたということです。さらに、死を迎え、魂が肉体から離れると、生きていた時の人生は何だったのかということを振り返ることができ、次の大きなサイクルの中にあることが観えてきます。人生とは、大きくも小さくもその繰り返しです。

ピーーーッと一直線のまま1日が過ぎ、1年が過ぎ、そのまま80年経って死んだとしたら、何をしに地球に生まれて来たのでしょう。それでは、人間の持っている可能性を存分に使わず、脳の大部分は働かないままです。
感情が湧いてくるのは、心が欲に翻弄されているからです。愛情の情とは欲から生まれる執着のことです。自分の子どもに愛情を持つのは子どもに欲をかけるということで、親の情で汚れをつけることになるのです。
脳は、本来それをチェックする働きをするためにあるものです。私たちには日常的に、楽したい、得したい、これは嫌だ、あれがいいという感情が自然に出てきます。それをわかっているつもりになっていても、多くの人は無自覚に感情のまま生きているのです。なぜならカルマ(=垢)にまみれていることを自覚していないからです。
アカの思念をカタカムナの単音で読み解くと、「カ」は宇宙の極小微細単位です。

      ア
      ア
      カ
      カ

 

 

 

 

「カ」は「ヒ」と同じ始まりの位置に小丸がありながらトコロ軸(横軸)が突き抜けているので、現象界の奥にある潜象界を構成する最小単位です。「ア」は高次元の響き。ですから、アカとは、宇宙の極小微細単位が構成していたものから分離し、新たな可能性に向かうことです。垢が落ちるということは、その垢自体も新たなものを構成するし、元のものも、垢が落ちたことによってきれいになり、リニューアルする。その行為自体が高次の生命活動であり、生命の元になる現象(新陳代謝)を示しているのです。それが現象界を創り出しているのです。すごく大事なものでしょう。それは、私たちの心の垢の性質も同じことです。

私たちの太陽は、約27日をかけて自転します。そして25800年ごとに一つのらせんを描きながら、2億2600万年をかけて天の川銀河を一周しています。その太陽の周りを地球が周っています。周りながら、春分、夏至、秋分、冬至という時を刻んでいます。地球の動きは、単に同じ場所にいる太陽の周りを周っているのではなく、らせんを描く太陽の周りを周りながら進んでいるのです。
星という現象界の形に現れたもので捉えると、わかりやすいですね。それと同じ構造で、宇宙の創世がカタカムナの八鏡文字に表されているのです。私たちの体の設計図であるDNAも同じ構造をしています。この世界は相似形でできていますから、地球生態系も同じ仕組みで成り立っています。

5-6
カタカムナ第5首

カタカムナの八鏡文字の小丸は、ヒフミヨイムナヤコトと進むに従い移動していきます。それはこの世界が発生する物理性を表しています。「ヒ」は地球暦で言う春分の位置にあり、「イ」は秋分の位置にあります。私たちは、1年で見ると、今「イ」の位置にいます。

      イ
      イ
     匕
      匕
地球暦で見る春分点と秋分点
地球暦で見る春分点と秋分点

惑星の動きで見るとわかりやすいですね。それは現象界に現れていて、我々の目や想像力で確認できることだからです。しかし、カタカムナのヒフミヨイムナヤコトのプロセスは、目には見えません。「ヒ」は潜象界、つまり我々現象界の人間にとっては「ない世界」の段階でのすべての始まりを表しています。「イ」が現象界の入り口。それがムナヤと進んで準備ができて「コ」で転がり出て「ト」で統合し、次に「ア」となったら現象が始まるので、ヒフミヨイムナヤコトはすべて現象が始まる前の潜象過渡の状態です。そしてそれは平面ではなく、球体の中で、春分、夏至、秋分、冬至と立体的に巡ってくるものです。
ちょっと難しいですね。現代の人間の頭では、それが理解できないのです。13000年前のカタカムナ人は、それを直観で理解していました。それがだんだんモノ・カネを求める自らの欲望に支配され、その結果情に翻弄されて、天と共に生きることを忘れてしまったのです。

6

12900年前の光のピークから、闇のピークである2012年12月21日の銀河の冬至へ向かう中間点の6450年前と前後して、メソポタミア文明などの現代文明の始まりとなる文明が台頭してきました。その遺産として紙が発明され、文字が発達したのです。それから、みんなが紙に書くことで物事を伝えるようになり、脳が物事を二次元で捉えることに慣れてしまいました。
私たちの脳は本来、八鏡文字で示される宇宙の構造を立体的に捉えられる能力を持っています。しかし、近代において人類は、紙のような二次元で物事を捉える脳だけを発達させてきたのです。だから、損か得か、良いか悪いか、多いか少ないか、という二元論で物事を解釈するようになってしまいました。般若心経の色即是空、空即是色のような世界観が真理の主流になり、ただ境地を求める表面的な物事の捉え方になったのです。

今まで、私たちはそういった意識レベルにいたのです。僕もそうでした。そしてそれに翻弄され、表面的な結論を出してきました。もしも人生を勝ち負けで表現するとしたら、負けとは、自らに囚われた思考に翻弄されることです。それは、自分のクセのままに思考して、それが実現するようにと願い、行動している状態です。それは、我のままに生きているということです。

その精神状態では、宇宙の構造を理解することはできません。それは自分の頭で思考を回すのではなく、上から降りてくるものを受け取っていくことによって理解できるものだからです。ですから、自らに囚われた思考を回しているようでは、上から降りてくるもの受け取ることはできないのです。直観を研ぎ澄まし、この世界に遍満する法則(メッセージ)を感じ取ることで、瞬時に物事の道理を捉え、「そうか!」とか「なるほど!」とか「これだ!」と合点すると、それまで自分がやって来たことのずれが観えてきます。そういった思考が回り始めると、宇宙の法則と共に生きることになるのです。

先日、大町ビレッジへ行った時に、カトケンがネギの種を蒔いていました。レイキで畝に線を引いて、手で細かく蒔いている。家庭菜園ならそれでもいいけれど、うちは農業法人ですよ。権兵衛(播種機)を使えばもっと早くきれいに蒔くことができます。それは昔僕が畑をやっている時に始めたやり方です。玉ねぎの種でもきれいに蒔けます。
うちは除草剤を使わないので、玉ねぎの芽が出たら今度は除草が大変です。昔は手で草取りしていましたが、とても手間がかかるし腰も痛くなるので、何とかいい方法はないだろうかと考えて生まれたのが太陽熱消毒です。あれは、最初は失敗から生まれたんですよ。とびっきりいい苗をつくろうと思って、7月の暑い時期に畑にたくさんボカシを入れたんです。それからしばらくしてキャベツの苗を植えたら、全部しおれてしまった。なぜだろう、と思って畑に近付くと、ブワーッと熱気が来たんです。びっくりして土に触ったら、60℃以上ありました。ボカシの量が多くて、発酵したんですね。
これは大変なことをした、こんなところに苗を植えちゃいけない、と思い、しばらく置いておいて、9月になってから玉ねぎの種を蒔きました。その頃になるともう熱は収まっていましたから。その時に、あっと思いました。熱のおかげで、雑草の種がみんな枯れていたことがわかったのです。おかげで草取りはほとんどしなくて済みました。その上、土が完熟していたのでとびっきりいい苗ができました。だけどその苗で作った玉ねぎは、みんなトウ立ちになりましたね。そこでまた、玉ねぎは小さいころに肥料を吸い過ぎるとトウ立ちするということがわかりました。そんな試行錯誤の中で、太陽熱消毒の智恵が生まれたのです。
その後も、畝は東西に向かって立てるものだと思っていたら太陽熱消毒の場合は南北の方がまんべんなく光が当たっていいことがわかったり、まだ熱が落ち着かないうちに人参を蒔いて失敗したりということを繰り返しながら学んでいきました。
そういうことは、どこかで勉強したものではないのですよ。ものごとを単体で見ていると、つなげることはできません。何かをやる時にふっと湧き出したものが、こちらにも応用できるぞ、あちらにも応用できるぞ、とつながっていく。それは、ヒフミヨイ、マワリテメクル、ムナヤコトと潜象界から進んできて、次のアウノスヘシレの「ア」が発生したところから自動的にいろいろなことが起きて、教えてくれるのです。

その時に、その起きたできごとをよーく観ることです。それはメッセージですから、「いただきます」の精神でいただいていくと、物事はとんとん拍子につながって滞りなく進んでいくのです。
いいと思うことは、そのままやっていけばいいですね。失敗の場合は、失敗の可能性が10あるとしたら、その失敗によってまずは最初の1つが消えるということです。学習すれば、失敗の可能性を確実に1つ減らせます。2回失敗すれば、2つ消せますね。どんなにカンが悪くても、10回失敗すればあとは当たりがあるだけです。

ダメなことの奥には、必ず学びがあります。学ぶ意志のある人は、心電図の下がったところでも学びます。そして、それを次につなげていきます。それが、現象と対話をする人です。
そのコツは、直観で感じ取ることです。そうしたら、物事がつながり、スムーズに事が進みますから、毎日が楽しくなります。自らの考えに囚われ、同じところに引きこもっていたら、同じような毎日が過ぎるだけですね。引きこもっていたら、太陽が周っていることも意識できません。まこっちゃんなんて3年も引きこもっていたのですから、もったいない時間でしたね。それはその人のカルマです。そのカルマに相応しい学び方をしたということです。「マコト」をカタカムナの思念で読んでみましょう。

ちなつ:
まこっちゃんいないよ。

いさどん:
いいんです。それがその人の徳だということです。大事な場面にいないということが、今のその人の人柄を表しているのです。

みかこ:
だけど何でこんなに大事な日にいないの?

いさどん:
そうやって「それじゃダメでしょう」と言うのが、人の欲というものです。この人はこうやって大事なことを逃すんだということを理解したら、だからこそ逃がしてはいけない、ということを自らに対して思えばいい。それは頭を回して段取りを組むのではなく、今を「いただく」ということです。
ここは、自分と人を区別しない場です。人に対して「ここが問題だよ」と伝えることは、本当に愛のある場として、相手のことも自分のこととして伝えるということで、それはとても大事なことです。自分の能力には限界があります。しかしすべてをいただきますという心になったら、人の力も自分のものとして備わるということです。

八鏡文字も同じです。一人の人間の名前を読むと、小丸の位置に偏りがあります。一人では、この世界を受け取るには限界があるということです。そしてその性質によってもたらされる縁を「カルマ」と言います。しかし、様々な偏った者が集まり、群れる(調和する)と、全体ではバランスが取れていくのです。
この世界に命が発生する時、完全な潜象界に不完全が生まれ、ものとものの差ができるからこそ、現象界に転がり出てくるのです。その不完全な者たちが集まり調和し、内も外もない世界ができたら、そこは完成された美しい世界になります。

ここは完成された世界ですか?まだまだ、そうではないですね。それは、みんなの心が一つになっていないからです。そしてこの道を歩むことの本当の目的が、まだ十分にわかっていないからです。それで自らの心に囚われ、不完全なままの自分を大事にしているのです。
自分に足りないところを人からいただき、また、自らの能力をみんなに与え、ありがとうございますという心になったら、すぐに美しい場所ができますよ。

(ここで「マコト」、続いて「リュウシロウ」がカタカムナで読み解かれ、それぞれの特徴が明快になる。)

いさどん:
自らを所有していると、自分の性質を客観的に伝えられても、自らの思い描いていたイメージと違うことから、それを受け取ることができません。そしてカタカムナや地球暦の捉え方に疑問を持ちます。しかし真実は、宇宙の法則に従い、今のあなたがその性質で存在しているということを示しているだけなのです。
それを理解すれば、今あなたがいる位置が客観的に観え、そこからどのように歩んでいけばいいのかということがわかり、自らの意志によって未来を創造していくことも可能となるのです。

私たちは、日本という国に暮らしています。「クニ」とは自由が定着したところ、という意味です。それがわかると、クニに生きるということは、自由自在に生きるということになるのです。
そういったことを自らの人生に表していくためには、どんな時でも自らを緻密に観て、その性質がどのように周りに反映されているかを観ていくことが大切です。それは畑で作物を育てる時でも、ご飯を作る時でも、日常の中のどこででも必要な、大切な姿勢なのです。

のんちゃんが毎日酵素玄米をとぐ時に、カタカムナのウタヒをあげていますね。あの姿には欲がないのです。その心がいいですね。
でもね、欲はあってもいいんですよ。カタカムナの48音の思念には、実は大変なパワーがあります。その48音がこの宇宙を創っているのですから。正しい、美しい、濁りのない欲を持ったら、この世界を美しくすることができます。欲の奥にどのような意志を持っているかによって、世の中を良くもすれば悪くもできるのです。だから自分を磨かなければいけないのです。
だけど人は我欲にまみれたまま、良くなりたいと言います。それでは良くはなりません。当たり前のことです。
そのことが理解できたら、そこにはたちどころに気持ちの良い風が流れ、物事はスムーズに進み、誰かがそこを訪れた時に「なんて気持ちの良い場所だろう」と思うことでしょう。長年病気だった人も、そこに行くだけで治るでしょう。

そんなふうに美しくなるための根源は、どこにありますか?
そう。一人ひとり、自分の中にありますね。

一人ひとりが自らと向き合い、自らをきれいにして、いつも自らを観察して正しくコントロールできたら、どんな場所に行っても物事はすべてスムーズに進むでしょう。それどころか、地震も火山の噴火も起こる必要がなくなるでしょう。なぜなら、私たち一人ひとりの心に地球が連動しているからです。

これから、七日七夜をかけて、心の質的転換をします。
なぜ心を磨く必要があるのか。先日の3日間の「宇宙おじさんの人生講座」でも、冒頭にその話をしました。もしもその意味が理解できたら、もう講座は必要ないのです。けれどもなかなか理解ができないから、繰り返し繰り返しその心に触れる必要があるのです。一時変わったからといって喜んでいてはいけません。一生自分と向き合っていくのです。なぜなら、この世界(宇宙)は、永遠に変化・変容・変態を繰り返しているからです。

誰もが心の中に、宇宙の情報の源(宇宙図書館)を持っています。誰かの考えをもらおうとか、新しい知識を仕入れようという意識の人は、みんなメモを取ります。そうではなく、もともと自分の中にあるものにアクセスし、「ああそうだった」と、その情報を思い出すということです。誰の中にも、そのメモがあるのです。それが生命の姿であり、そして、人間の本当の姿なのです。

 

 

 


いさどんの七夜物語 – 序章 「秋分前夜」

木の花ファミリーは、現代社会の行き詰まりに突破口を開く次世代の生き方を探求する場として、創立以来、時代と共に変化しながら、メンバー一人ひとりが心を磨くことをもっとも大切にして歩んできました。その結果、皆が心から安心して暮らせる豊かな場を築いてきましたが、いつしかその豊かさに甘んじ、一人ひとりが真剣に自分と向き合い変化し続ける意識が薄らいでいく、ということが起こりました。このことを感じたいさどんは、今年6月、1年でもっとも光の多い夏至のころから、毎晩の大人ミーティングに参加しなくなりました。
そして3ヶ月後、光と闇がちょうど半々となる秋分の前夜に、いさどんは久しぶりに大人ミーティングに姿を現しました。

1年で闇のピークとなる冬至を越え、今年も残すところあと3日。2015年「船出の年」最後のいさどんブログは、大人ミーティングに出ない間もずっと皆の成長を見守り続けていたいさどんが、秋分前夜を皮切りにあふれるように語り続けた七日七夜の物語をお届けします。無限にあふれ出す宇宙の叡智を浴びながら、この世界の真理を探求する7日間の旅へようこそ!
(写真は、秋分の日の朝日です。)

 

9月22日 秋分前夜

いさどん:
皆さん、遠くに座っていても、下を向いて何か作業をしていてもいいですが、意識はこちらへ向けていてください。

今朝、すごく大事な話をしました。どんな話だったのかというと、今は全くそれが出てきません。ただ、大事な話であったことは間違いありません。
では今日僕が何でこの場に来たのかというと、語り出せば出てくるからです。語り出せば出てくるということは、僕の中に確固たるものとしてそれがあるということです。しかし今何だったのかと考えても出てこないということは、考えて出てくるものではないということです。それは、時が来れば湧き出してくるものです。

僕は40歳でそれまでの仕事をやめました。今は64歳ですから、あれから24年経ったということです。
僕の人生は、とてもおかしな人生です。僕は30歳でこの道をいただきましたが、始めの頃は上からのメッセージを疑っていました。それこそ悪魔か何かが僕を騙そうとしているのではないかとも思いました。しかしそのメッセージはその都度、道理が通っているのです。だから疑いながらも、道理の通る方を選んできました。

始めの頃は、その道理は僕の意志とは別のところにありました。ですから、どちらかというと、それは僕にとっては自らを否定する方にありました。それでもそちらの方が道理が通っているから、常にそちらを選んできました。
だけど、みんなは違いますね。そちらの方が道理が通っているとわかっていても、自分の意志の方を選ぶ。そうすると、結果的にバカを見ます。
自らの意志とは違うけれども道理の通る方を選んできたのが僕の人生です。その結果、今こういった暮らしが出来上がりました。

一昨年、ある女性と22年ぶりに再会することがありました。
彼女は、僕ととても深い縁があった人です。しかし僕がここに来てから22年間はまったく縁がありませんでした。ところが一昨年再会しました。縁が深いと、22年も経ってからでも復活するのです。

彼女は僕と再会する前に、こんな夢を見たそうです。宇宙人がやって来て、彼女をさらっていこうとしました。彼女は、自分は地球から離れるんだ、それもいいか、と思い、仰向けになったまま、体がどんどん宙に浮いていくのに任せていましたが、最後に街が見たいと思って、体をひっくり返して下を見ました。その時、地球から離れる前にもう1度いさみくんに会いたい、と思ったそうです。そうしたら体がくくっと下に降りて、元に戻った。彼女は結婚して子どももいるけれど、その時、夫や子どものことはまったく頭に浮かばなかったそうです。そしてその後、偶然インターネットで僕を見つけて、再会することになりました。
普通、20年も経ったら互いの気持ちは変わっているものでしょう。ところが彼女は22年ぶりに再会してここに来ても全く違和感がありませんでした。そして彼女の心は、ここにどんどん定着しています。家に帰れば普段の生活があるわけですから、ギャップを感じて苦しくなるものですが、彼女は苦しい感じがまったくしないのです。それは、「道」があるのだということに気付いたからです。

それを聞いた時に、僕という人は一体どういう存在なのだろうと考えました。すると、カタカムナの単音の思念が浮かんできたのです。
「イサミ」をカタカムナで表すとこうなります。

      イェ
      イェ
      サ
      サ
      ミ
      ミ

 

 

 

 

「偉佐美」のイは、「ヰ(イェ)」の方です。まっちゃん、これを単音の思念で読み解いてください。

まっちゃん:
3文字の場合は、普通、真ん中の文字から読みます。まず「サ」にはいろいろな思念があるけれど、「心の隙間」「狭い隙間」「動きの始まり」という思念があります。

いさどん:

なぜ始まりかと言うと、「サ(差)」ができることによって現象化するから。もしもまったく差がなかったら、それは「サトリ」の状態だから、始まらないのです。
「ミ」は「満つる」。満つっているけれど、これはまだ現象界に現れる前の、潜象過渡の状態です。

59

みかこ:
「ミ」は「観る」。心で感じるもの、ということでもある。

いさどん:

「観る」とは、奥にあるものを観るということ。この目では見えないのです。

みかこ:
「ミ」には「みつご」という意味もあって、電気、磁気、力が満ちていること。でもそれは目には見えないでしょう。

いさどん:
電気、磁気、力というのは、この現象世界の物理的原理。何かの現象が起きるのは、その3つの働きがあるから起きている。だけど、現象は目に見えても、その奥にある3つの働きは目に見えない。だから、浅く見ている人にはわからないのです。

まっちゃん:
「ヰ」は、「サ」と「キ」の重合した状態。重合とは、七重、八重、九重を超えて十重に至ると、八鏡文字で表されている大円が溶けて一体化する、つまり悟りの状態になるということ。

みかこ:
八つの小円も、この次元まで来ると小円も溶融し、境界面に密集していた高密度の小円の密度差が取れる。それが悟り。

いさどん:
カタカムナで言う精神位置の、一番高い、仕上がったところだということ。

みかこ:
この形は鳥居の形を表し、悟りを意味する思念を持つ符号であるとも言っている。

いさどん:
そうすると、この「イサミ」という名前は、まだ隙間にあって、そろそろ動きだそうとしている状態で仕上がったもの、奥にいて満つっているものを表している。現象界にはまだ現れていない。
どこにいるかというと、ここに現象界と潜象界の間の壁があって、現象界に現れる少し手前のところで、準備ができている状態。その位置にいて、現象界の人からは見えない。見えないところで、完成された心を持ってそこにいるということです。

かつて、僕はこういう道をいただいて、いったいどんな役割があるのでしょうかとお釈迦様に聞いたことがあります。なぜかと言うと、いろんな人に心の道を語ってきましたが、いつも手応えがあるようなないような状態だったからです。
表面的にその人が楽になるという意味では、手応えがありました。だけど僕は、楽になってもらうためにやっているわけではないのです。あなたが、楽になる前に苦しかったことの意味を理解しなさい。苦しいとは尊いことであり、苦しさがあったからこそ、楽になった時にこの世界の有り難さに気付くことができた。そのことをわかるために伝えているのに、みんなは楽になることだけを求めて、それで終わりにするのです。
だから多くの人は、自分が苦しみから解放されると「ありがとうございました」と言ってそれ以上学びに来ませんでした。それで僕は、孤独になっていました。

大事なことは、どこからでも理解できます。四方八方どこでも自分の鏡ですから、どんなにありがたいことからも愚かしいことからも学べるのです。全てはそのためにあるのに、人は自分に都合のいいことだけを受け取って、苦しみが取れたらそれで良しにして、その苦しみの本当の意味を理解しないで終わっていきます。それではいけないでしょう。中には、「ありがとうございました」と言ってお礼を置いていこうとする人もいました。だけど僕は、そんなことが目的で語っているわけじゃない。だから、お礼は受け取りませんでした。

そんなふうに矛盾を感じていた時に、お釈迦様に聞きました。「私はどういう者なのでしょうか」と。その質問の奥にどんな心があったかというと、「私は理解されたい」という想いがありました。それは、僕を理解してほしいということではなく、僕が語っていることを理解されたい、ということです。それは、本当に人が楽になる道だからです。
だけど人々は、浅く受け取って「ありがとうございました」と言って帰って行きました。だから、ものごとの奥をずっと観続けて、生きるとは何であるかを知っていくということを忘れるのです。清涼飲料水を飲んだように一時的にはスカッとして爽やかになっても、その後が続かないから、また清涼飲料水が必要になるのです。
僕はそれが不可思議で仕方ありませんでした。それで「私がやっていることはいったい何なのですか」とお釈迦様に聞きました。僕が理解されたいとか、評価されたいとかいうことではなく、かけたエネルギーが無駄にならずに相手の中で生きるように。そしてその人が自分の愚かしさに気付いて大切な生き方をするようになるように。簡単に言えば、幸せになるように。もっと言えば、本当の価値が上がるように。そういう想いがありました。でもなかなかそうはなりませんでした。

本当ならば、同じことをグダグダと続けなくても「やめた!」と言ってサッと切り替えれば、別の人生があるのです。それなのに同じことを繰り返すのが、その人の癖、性分、つまりカルマです。
そのカルマからの解放を表すのが、「ヰ」の文字。僕は今、肉体を持ってこうやって生きているのだから、それを人々に伝えることで本当に成っていくのだろうと思っても、いっこうに動きが進まない。
それでお釈迦様に質問をしたら、こう返事が返ってきました。
「おまえが生きているうちは、おまえが伝えたいことは世の中に理解されない。」
それは、おまえのやっていることは効果がないという意味ではありません。おまえはそれだけの覚悟を持って、それをやる気があるか?ということを問われたのです。

一昨年、不二阿祖山太神宮へ参拝した時に、天から「難しいことを与えておるゆえ心していけ」というメッセージがありました。わかっております、とその時は思いましたが、その後にいろいろと起きたことを考えると、改めて、本当に難しいことを与えられたと思います。僕が伝えようとしていることと、相手に伝わることがまったく真逆になることもあるのですから。面倒くさいったらありゃしないし、いい加減わかりなさいよという気にもなります。
それでも、何度も同じことを繰り返す人に対しても、もう知らないとは言わずに付き合ってきました。わかってほしいのにわからない者たちだな、と思いながら。

その時に僕はどこにいるのかというと、潜象界と現象界の間に壁があって、その壁の手前にいる。潜象界から現象界に語りかけても、それは現象界の人間にとっては「ない世界」からのメッセージだからわからないのです。
「イサミ」という名はすべて潜象過渡であり、「サ」は現象界に入っていく始まりを表しています。「ヰ」は、現象界ですべてのことが起きた後の最終到達地点。僕は潜象界の側にいて、満つっている状態です。ムラムラムラというのか、モコモコモコというのか。だけど、人間の体を持っているから、それを語ります。「サ」から「ヰ」まで、つまり始まりから仕上げまでを語ります。だけどみんなは、僕がいくら高い視点のことを語っても、自分の足元しか見ていない。いくら僕がこっちだよと言っても、足元の低いところにしか興味がないのです。

それで僕は、お釈迦様にさらに質問をしました。私の道はどのような道なのでしょうか、と。そうしたらお釈迦様は、こう言われました。

「おまえは今、一にいる。あるいは二にいる。しかし、道は十への道である。そのおまえが、私の道はどこにあるのでしょうかと十を聞いている。
私は、その問いには答えない。なぜなら、肉の体を持って生きる人間は、答えをすぐに求めたがるから。形をすぐに求めたがるから。もしも私が十を答えたら、おまえは一にいれば三に行きたがり、三にいれば五に行きたがり、七に行きたがり、十を求めるだろう。もしくは、いきなり十に行きたがる者もいるだろう。
しかし、一は必ず二に通じ、二は必ず三に通じ、三は必ず四に通じる。そして九まで行けば、自ずと十になる。
今、おまえは私に問うている。それは、私に通ずる道にいて、私の道はどこにあるのでしょうかと問うているとのである。ならばおまえのすることは、今一にいるとしたら、二に進みなさい。二に行ったら、三に進みなさい。三に行ったら、四に進みなさい。次の場所は必ず観える。しかし一にいては、三は見えない。
一つずつ進んで九まで行けば、自ずと十は観える。それが道だ。」

そしてお釈迦様は、「おまえは八十にして滅する」と言われました。なるほどと思いました。僕は四十で仕事を辞めると決意していましたが、それは折り返し地点だったのです。
そしてこう言われました。
「おまえが生きている間は、おまえの言うことは世の中に理解されない。つまり、世の中に道は開かれない。しかし、おまえが滅したら、世の中にそれが広がり始める。」

僕が八十歳ということは、2031年です。2031年に、世の中がそういう時代の扉を開けるということです。
2012年の12月21日に銀河の冬至があり、宇宙の扉は開きましたね。そこから2031年までは、19年間のギャップがあります。その間は理解されないということは、世の中が本当には動き出さないということです。お釈迦様は、それを覚悟して行けということを言われたのです。
僕は、世の中の扉が開く前の土台をつくる人間です。そういう役割なのです。そう思っていたら、ちゃんと扉を開ける役割の魂が生まれてきましたね。銀河の冬至を越えて、世の中に質的転換を起こして成す役割の魂たちが生まれて来ています。

6月の終わりから、ずっと僕は大人ミーティングに出ていませんでした。このわからない話をみんなにどうやって伝えたらいいだろうと考えていました。わからないはずです。理解されないという役割で生まれてきているのだから。
本当は、安倍総理でもパン国連事務総長でもアメリカ議会でも、この話を聞かなければいけないのです。今度アメリカで、日本とアメリカと韓国が話し合いをしますね。今年、日中韓で話し合いをする前に、アメリカの意向を聞かなければいけないということで集っています。名目上は北朝鮮対策ですが、本当の目的は中国対策です。そんなことをやっている限り、いつまでもこの状態は続くでしょう。だからこそ、彼らは僕の話を聞かなければいけないのです。それは、僕の話ではなく、僕を通して湧き出てくる天の意志を聴くということです。

だけど、まだそういう時は来ていません。でも少なくとも、ここの人たちは僕の話を聞かなければいけない。この不可思議な生き方は、「なるほど!そういうことか!」というとびっきりの合点がないと生きていけないでしょう。では世の中はなぜ合点がなくても生きていけるのかというと、欲と我にまみれているからです。汚れているからです。
だけどここではこんなにも汚れを取ることを大切にしているのだから、それを取らずにいて、何を目標にして生きるのですか。目標を見失ったまま、どうして前へ進めるのですか。

僕の役割は潜象過渡ですから、まだ世の中からは観えません。しかし宇宙は既にそうなっています。宇宙はそうなっているけれど、現象化されるにはまだ時間がかかりますから、その間に新しい時代を迎え入れる心の準備をみんなができるように、僕はこれをやっています。ものの奥を観ようという意志を持った人にだけ、初めて通じるのです。
潜象過渡から伝えられることは、汚れが取れないと観えません。だけど僕は肉体を持って、現実に現象界に現れています。だからみんなは、僕を利用しようと思ったらいくらでも利用できるのです。だけど、利用する意志を示さなければ、利用できないですよ。観ようとする心、引き出そうとする心、学ぶ心がなければ、利用できません。それではもったいないでしょう。
利用しようという意志があれば、僕はどこまでも出ていきますよ。それは、みんなが僕に対してどうするということではなく、あなたはなぜ今ここにいるのか、自分は何者なのか、どうしてこの道を選んでいるのか、ということを明快にするということです。

昔僕がお釈迦様に、私の人生は何なのですか、どこへ行くのですかということを聞いた時に、答えをいただきました。どこへ行くのかという答えはなかったけれど、そこへ行く姿勢を教えられました。それが答えです。そして歩んでいけば、ちゃんと形は観えてくるのです。

明日は秋分。いよいよ今年も第四コーナーです。来年の指針も出ました。着々と天は用意されています。
700年の伝統を持つ奥三河の花祭が、ここに「富士浅間木の花祭り」として継承されました。花祭は国の重要無形民俗文化財ですが、今やここには世界各国から祭りのための聖水が集まって来ています。いったいどこまで進化していくのでしょう。
カタカムナ勉強会は、今年からカタカムナ研究会になりました。そうしたら、それに参加したモンゴルの青年が、ここを人類の歩むべき新たな道を探る研究所にしましょうと言いました。
僕はかつてお釈迦様から、名前から人のカルマを読み解く「カルマ読み」をいただきました。さらに3.11と共に、惑星配置からその人を読み解く「地球暦」がやって来ました。それでより深く人を読み解けるようになり、自然療法プログラムが進化しました。そして一昨年カタカムナと出会い、カタカムナの思念から読み解けるものがカルマ読みや地球暦とぴったり一致するのです。地球暦の太陽から冥王星までの九つの惑星は、カタカムナのヒフミヨイムナヤコトで十で悟りに至る道とぴったり符合します。そんなことを、いったい誰が考えたのでしょうか。

ヒフミヨイムナヤコト

地球暦は、ここで進化、発展しています。カタカムナも、いよいよこれまでの熟成期間を経て、これまで潜象界にあったものが現象化していくのです。これから独自のカタカムナ理論ができあがっていきます。まっちゃんをどうやって活かしたらいいだろうと考えていましたが、活かしどころが見つかりました。少し前まではずっとグダグダしていて、もう好きにしろと言いましたが、これからは好きにしろではなく、ちゃんと役に立ってもらいます。

まっちゃん:
そうします!

いさどん:

地球暦に出会ってから、僕とみかちゃんで力を合わせて読み解きを進化させてきました。これからは、まっちゃんと力を合わせてカタカムナを深めていきます。そうやって、ことが成っていく時に一人ひとりに役割があるのですよ。今、新プロジェクトの計画がありますが、全てそこにふさわしい人がはまっていくのです。現世的には仕事としてですが、霊的には、自分の魂のはまりどころにパズルのピースのようにはまるということです。
そうやってみんなが活かされて、それが社会にメッセージとして発信されていく。これから、今の社会にはまることのできない人材がたくさん集まってくるでしょう。そういうことを、我々は真剣に考えなければいけません。それは、損得勘定で考えることではないのです。宇宙はフリーエネルギーであり、潜象界から無尽蔵にエネルギーが供給されています。道理に沿ったものには、必要なエネルギーが与えられます。その心になったら、何でも可能になるのです。

僕は今日、大事なことをみんなに伝えました。みんなはそれを聞いて、この現象界でどうしたらいいと思いますか。

ヒロッチ:
ありきたりなことだけど、ここの役割を世の中に対して果たしていく高い自覚を持つことが一番だと思います。

なかのん:
ものごとの奥を観ていく。

いさどん:
その結果何を求めるのですか。

なかのん:
宇宙の意志を感じる。それでどうなっていくかはわからないけれど。

あや:
世界を清浄の地に導くということをする。

いさどん:
そういう目的のために我々はこの道を歩んでいるわけですから、それはこの先にある結果のことでしょう。それがいつ来るのか、どういう形になるのかはわかりません。けれども、揺るがない目標です。この道を知ってこの道を歩み出した者は、本来そこから外れるということはないはずなのです。

えいこばあ:
意識していく。

みちよ:
天意を感じて生きていく。

いさどん:
その目的は?

みちよ:
天の意志を現象化して、調和的な社会を創ること。

いさどん:
あなたが創るの?

みちよ:
天のプロジェクトのもとにみんながやっていく。

いさどん:
そのプロジェクトを感じるためには、何が必要なの?

あや:
我を捨てる。

まっちゃん:
我を超えるじゃない?

あわ:
自らの役割を果たす。

あつこ:
人のために生きる。

やじー:
道具になり切って使っていただく。

いさどん:
みんな正解ですね。外れている人はいない。それをまとめて言うと、大切な道を生きているという自覚を持つということです。それができたら、今みんなが言ったことは自動的に成っていきます。簡単でしょう。大事を生きている。だから大切に生きなければいけない。忘れちゃいけないんだ、ということです。

それだけ大事だということは、いい道を生きてありがたいな、得したな、ということではないのですよ。僕がみんなに伝えたいのは、責任があるということです。ここがやり切らなければ誰が扉を開けるのか。

そういったことを想って生きれば、具体的なことは自動的に成っていきます。大事だということがわかったなら、すべてのことの一番にこれを置いて考えることです。そうしたら、良い世界ができるでしょう。

 

 

いさどんの七夜物語 – 第一夜「思い出す」へ続く

 

 


一人ひとりの囚れからの解放が世直しに♪

9月19日(土)〜21日(月/祝)、
木の花塾
「宇宙おじさんの人生講座3:宇宙意識で生きる」が開催されます。

この講座は、知らず知らず身に付けてきた固定概念から解き放たれて、新たな時代を生きていくためのヒントとして、「宇宙おじさん」こといさどんが提供する全3回シリーズの講座です。
7月18日~20日に開催された「宇宙おじさんの人生講座2:人生地図を読む」の最終日、いさどんはこう語りました。

「宇宙おじさんの人生講座2:人生地図を読む」参加者の皆さん
「宇宙おじさんの人生講座2:人生地図を読む」参加者の皆さん

■     ■     ■     ■

人間は、
「囚れ」という字に象徴されるように、
狭い枠の中で生きていると
広い世界観を持つことができません。

その狭い枠とは、
自我のことです。

自らの人生に起きた過去の出来事や
過去生があるとしたら
その魂の歴史の中で
個をいただいた結果、
それに囚れて、
その中に自分自身を閉じ込めているのです。

その心の姿勢はさまざまです。

ですから、
人は一人ひとりオリジナルな考え方を持ち
人生を生きるのです。

僕は今まで
うつ病などの精神疾患や人間関係の悩みなど
様々な問題を抱えている人たちに出会ってきましたが、
その問題から解放されるには、
その囚れから外れることが
問題解決のカギになるのです!

ところが、
人間は囚れの中にこもって、
その枠をしっかりと保っていることが
自らを守ることだと思っています。

そして、
囚れの中から湧き出たものを叶えることが
自由だと勘違いしているのです。

それは、
自分から湧き出る感情や思考を
そのまま行動に移すことが良いことだ、という
安易な発想から生まれてきます。

多くの人は他人の姿勢はよく見えるものと捉え、
「あの人はあんな行いをして!」と
思うものです。

ところが、
自らのこととなると、
感情から生まれる囚れから客観的視点を失い、
道を見誤るものです。

世界観が狭ければ、
人はそのようになってしまうものなのです。

今回の講座の中で、
宇宙観についてみなさんに伝えてきましたが、
事実みなさんが今いるここも宇宙なのです!

そして
わたしたちも宇宙人なのです!!

ですから、
広くこの世界を捉え、
その中で自らが何者なのかを知っていくと、
その枠が取れるのです。

これからわたしたちが迎える新たな時代は、
人間が人間という枠を超えて、
この宇宙全体を生命のネットワークとして捉え、
人間本来の存在の意味に目覚め、
この世界を創っていく時代です。

これだけの高い能力と大きな影響力を持つ人間が、
囚れの考えのもとに束になって国を創っていくと、
自然生態系や人間関係に大きな矛盾をもたらし、
その結果国家の対立から戦争まで生み出すことになり、
地球や他の生命に多大な影響をもたらすことになるのです。

本来、
生命は互いに害をもたらすために
地球上に存在しているのではありません。

生命の本質である
変化・変容・変態という
新陳代謝を繰り返しながら、
進化・成長するために存在し、
世界を保ち、
時代を紡いでいるのです。

人間には、
生命の中で特別に与えられた
「学ぶ」という能力があります。

しかし、
今の人間からは
自我の囚れの中で学ぶことをせず、
自らの都合だけを生き混乱する姿が観えてくるのです。

ですから、
一人ひとりが囚れから外れることは、
世の中全体を囚れから外して正しくする
「世直し(クニツクリ)」になるのです。

ですから、
あなたの存在は
決して小さいものではないのです。

宇宙から観たら
あなたの存在は「奇跡」です!!!

今、地球上に72億人の人間がいます。

人間の存在は
宇宙から観たらバクテリアよりはるかに小さい存在ですが、
とても貴重で尊い存在なのです。

その価値を知ると、
あなたがあなたであるということは、
奇跡なのです。

誰もが、
奇跡の存在なのです。

そして、
さらに奇跡的驚異は、
この無限に広大な宇宙の中で、
あなたという存在は
たった一人しかいないのです。

今のあなたは
過去・現在・未来において
たった一人しかいないのです。

ですから、
常に変化・変容・変態を繰り返しながら、
進化することが宇宙の仕組みなのだとしたら、
今を生きることはとても大切なことです。

そしてその変遷の中で、
あなたがどのように生き、
自分に対しても社会に対しても何をもたらしていくのかを考えることは、
特にこれからの時代に求められることなのです。

そのときに
あなたに微妙に問題があることは
あなたをあなたとして特徴付ける
個性でもあるのです。

なぜ人間に欠点が与えられているのかというと、
それは善意と愛と調和を表現するためなのです。

もし、
あなたが完璧なものとして創られたら、
あなたはあなただけで存在してしまうので
他者を必要としません。

ですから、
不完全であるからこそ、
他者を必要とし、
全てに生かされ、
そして他者とつながって
常に新たなものを創造していく
この世界のネットワークの元となるのです。

それが調和です。

その始まりには、
善意があって他者とつながり始めます。

悪意からは
他者とのつながりのネットワークは生まれません。

そして、
他者とつながり
ネットワークが生まれ、
互いを認め合い必要とする
愛が生まれるのです。

わたしたち一人ひとりは
不完全な存在です。

しかし、
不完全であるからこそ、
他者と出会い、
助け合っていくことが
宿命付けられているのです。

そして、
それがこの世界の本当の目的なのです。

ところが、
今、人間は囚れの中に陥ってしまい、
生きることの本当の意味を理解できず、
不完全なままの自らを守ろうとしているのです。

ですから、
現代(末法)を生きる人々は、
本末転倒な状態にいるわけです。

通常、
僕は問題を抱えている人たちに対して
その人が健康になっていくきっかけとして
みなさんにこの智慧を提供しているのですが、
その行為の本当の目的は「世直し」なのです。

ですから、
その人個人の健康を願うことは、
世の中が良くなっていくことを願って行っているのです。

2000年を超え
21世紀を迎えた今は、
いくつものターニングポイントが集中している
宇宙的転換期に入っているのですから、
この宇宙的大いなる智慧を使いながら
不必要な痛みをいただかずに
時代を乗り越えていきたいものです。

みなさんも
世界に目を向け、
世界観を広げ、
世の為人の為に生きたら、
それが自らの位置を上げ、
本当の自らの為になるのです。

自分を優先させて生きているうちは、
どんなに能力が高くても、
お金持ちであっても
地位がどれほど高くても、
それでは人としての価値を積んでいることにはならないのです。

他者のことを考え、
他者の為に生きられるようになったときに初めて、
人としての価値を積み上げることになるのです。

それが
菩薩として生きる道です。

この講座の中で提供するツールは
一生自らを磨くためのツールとして
活かしていくためのものです。

そのことにより、
今問題を抱えている人たちの状態も
その現象が現れていることの意味が理解されると、
問題自体が自ずと改善されていくのです。

物理的な症状が出ている人の場合
それなりの時間がかかりますが、
その症状の元になっている
こころは
一瞬で正せるのです!

「あなたのここが間違っていたから、
今の状態になっているのですよ」と伝えられたときに、
「わかりました!それでは、やめます!!」となったら、
その人はたちどころに
新たな人格のステージに立つことになります。

それこそ、
瞬間芸ですよ♪

囚れがなければ、
そして素直であれば、
それで人生は変わるのです。

そうすれば、
常に変化・変容・進化し、
希望が生まれ続けるのです。

「自分の人生は上手いこといかないなあ」
「なぜ私はこうなのだろう?」と考える人たちは、
過去をよく振り返ってみると、
自分のことばかりを考え、
常に狭い枠に囚れてきたことに気付くはずです。

いずれ
誰もが死を迎えます。

生きることは、
常に死に向かって旅をしているのです。

死を迎えたときに、
「良い人生だった!」と胸を張って旅立つことができれば、
次にまた現れてくるときには
大きな使命を持って生まれてくるのです。

そして、
そのような学びの繰り返しが、
これからの新たな時代を創っていくのでしょう。

次回9月の講座では、
あなたのルーツがどうなっているのか、
そして世の中を観て、
これからどのような世の中をわたしたちが創っていったらいいのか、
そしてわたしたちそれぞれがどのように生きていったらいいのかを
共に考えていく場にできたらと思っています。

みなさん、
次回またお会いしましょう♪
■     ■     ■     ■
以下、「宇宙おじさんの人生講座3:宇宙意識で生きる」のご案内です!

【日時】
集合:2015年9月19日(土)

11:05 JR身延線「西富士宮」駅 又は 10:51 富士急行「大石寺」バス停(送迎あり)
お車の方は11:30までに木の花ファミリーおひさまハウスひまわりへ直接お越し下さい
解散:2015年9月21日(月/祝) 16:30頃(駅までの送迎あり)
 
【会場】
木の花ファミリー
〒419-0302 静岡県富士宮市猫沢238-1
(交通のご案内はこちら!)
 
【定員】
15名
*先着順です。お申し込みはお早めにどうぞ!
 
【参加費】
16,200円
*参加費には2泊3日の宿泊やお食事、保険代、消費税を含みます
 
【参加の心がまえ】
■ まずは頭の中をからっぽにしてご参加ください。固定概念の枠にとらわれないフリーな心で参加したとき、これまでの自分を大きく超える新しい世界に出会えることをお約束いたします。
■ 木の花塾では、そこから生まれる智恵や経験を広く世の中に共有することを大切にしています。受講のようすを、写真を含めインターネットなどで発信していきますのでご了承ください。
 
【お申し込み】
下記リンク先の専用フォームよりお申し込みください。
  木の花塾お申し込みフォーム

★ 本講座は、占いや一過性の自己開発セミナーではなく、自分を客観的に捉える視点を身に付けてそれを日常の中で活かしていくことで、その人自身が生き生きと変化し、その響きが広まってやがては世界全体が豊かで調和的な世界へとなっていくことを目的としています。

★ 講座は全3回シリーズですが、第1回、第2回に参加されなかった方でも十分に学べるよう配慮した内容になっています。初めての方もどうぞお気軽にご参加ください!

 


究極の世界が そこにある

いさどん:
株価が上がったと言って喜んでいる人たちがいる。それが経済の大きさだと言って、ゲームに翻弄されている。
何か、バツンとやってやりたい気持ちにならない?

何かが狂っている。
世の中は、どこかが狂っている。だけど、それに「そうだね」と呼応する人は少ない。
先日、ある柔道選手のアスリート魂をテレビ番組で放映していた。実力不足で負けて落ち込んでいる彼女の記事に、462件の「いいね!」と30件以上のコメントが付いていた。それはとてもわかりやすい世界。一生懸命やっている人が、実力不足で負けて落ち込んでいるというわかりやすい物語に対して、それだけの反応がある。
だけど、人類にはもっと大事なことがあるよなあ、と僕は思う。そんなことで一喜一憂している場合じゃないと。

人間たちは今、水素自動車の時代を迎えようとしている。水素は宇宙の中で最も多い元素と言われていて、いろいろなものから取り出せる。100年以上前にSF作家のジュール・ヴェルヌが言っていた世界が実現されようとしている。
ただ、その水素を取り出すのにもエネルギーがいる。そこで化石燃料を使う。それではだめだからと風力発電を使うのだけど、その風力発電を作るためのエネルギーにまた化石燃料を使う。

僕が子どものころ、美濃には豊かな自然があった。日本中にあった。だけど、50年前の自然は、もう返らない。何かが狂ってきているのに、みんな気付いていないんだよ。

この世界に、悪意がある。

それは、例えば利益を上げるとか、人よりも豊かになろうとか、そういった悪意がある。今よりも良くなろうとする心が、人間のエゴの上にある。
それが人間に染みついている限り、どんなにテクノロジーが進化しても矛盾は発生し続ける。それを取ってしまえばいいのだけれど、今の段階の人間は、そのままであり続けることが人間らしいのだと思っている。
そこを越えていけば、人間はどんなに進化してもお互いを傷つけることはないし、人間の存在が他の生態系や地球環境にとって有害なものにはなることはない。

――― 何で悪意が湧いてくるの?

それもプロセスなんだろうかね。

――― 人は神様からできているでしょう。悪意はどこから湧いてくるの?

同じところから湧いてくる。だから人間は、人間を超えて人を観ないといけない。

――― いさどんは、悪意ってあった?

それは、当たり前に自分の希望はあったよ。あったけれど、お釈迦様に出会ってから、それを調整するようになった。明らかに自分の中から湧いてくる感情に対して、それにストッパーをかける心が生まれて、今まで生きてきた。

――― お釈迦様と出会って最初の2年間は、泣きながら歩んでいた。

その時が一番ピークだった。その後は、衝動が出てくると、それをそうでない方へと向けるようになった。

僕はこれまで生きてきた中で、人に対しても、自分に対しても、「他者のために生きる」ということを基準にしてきた。だから、他者のために生きない者に対しては当然それを伝えるし、それができずにいる者には厳しい。逆に、そういったことの申し子のような人にはやさしいけれど、申し子のような人というのはなかなかいなかったね・・・。

他者のためだと思い込んで、自分のエゴを満たそうとしている人もいる。世の中のためにといって産業を起こして、自分の利益を追求している。それはものごとを緻密に観ておらず、客観性がない状態。では客観的な視点を持つにはどうしたらいいのかというと、自分自身を磨くということだよ。
だけど、こういった話も、その波動が響いている現場ではその気になるけれど、一たび自分の家へ戻るとまた元に返ってしまう。人間のエゴの響きが、地球に蔓延しているから。

今、僕の心の中にあることを言葉に表現するのは難しすぎる。
だけど、何かが足りない。

今、ここに3人いる。ここに壁がある。どういう壁かと言うと、個人という壁がある。
その個人という壁を全て取っ払った世界がいい、と思うのだけど、それは僕が、欲が深すぎるのだろうね。

生きるということは、性別だとか、人格だとか、個性だとか、そういうものの違いがあるものなのに、極端なことを言うと、あなたたちの個性を全部無視して、全て自分のもののように扱える世界。逆に言うと、そのことに対して矛盾や負荷がまったくかからない世界。そういう世界がある。究極のわがままだけどね。

昔から、僕はわがままというか、ぜいたくを言う。とびっきりの世界を求めようとする。その壁を壊そうとする。それをもって、他者と自分の境界を超えることをずっと伝え続けてきた。

――― いさどんの心には、壁がない?

壁を越えようとする時に、そこを越えたら、いつでも取っ払う心の準備はある。しかし、そういう望みを持っていたとしても、相手に壁がある限り、その相手の壁が自分の壁になる。それが相手との境界線になる。その相手の壁がなくなれば、その境界線がなくなれば、こちらには、ない。その時に、お互いの壁がなくなったということになる。

――― 壁があると苦しいね。

だけど、壁があることによってみんな自分を守っているんだよ。通じていない者同士は、壁によって守られていると考えている。
だから、守る必要のない自分をつくらなければいけない。守る必要がなくなることが大事なんだ。

壁の質は、人によって違う。たとえば、まりこと僕の壁。ようこと僕の壁。それは、一人ひとり違う。本当は、それを取っ払った世界を創りたい。

僕に壁があるかないかは、厳密には言えない。なぜかと言うと、そういう世界をまだ味わっていないから。けれども、常にそれを望んできたからこそ、今こういう生き方をしている。人に接することも、全てがその証としてある。
だけどみんなは、条件付きの壁を持っているんだよ。

――― 私、自分で条件があるなと思う。そうなることを、100%望んでいない。

人間には、悪意と恐れがある。そういうものが全てなくなると秩序が乱れてしまうから、自分を守らなければいけないと思うようになる。別の価値観に出会った時に、自分を守る心が働く。だから壁が取れない。

だけどね、自然界を見てごらん。大根があるとするでしょう。大根が大根であるということは、大根である限り絶対に自分であるわけだよ。それが他のものと交配してしまうと、自分ではなくなるわけだ。
ところが、自然界の中では、交配は可能なところとしか起こらない。そしてまた、変化していくことが許されるものとしか、交配しない。交配をするということは、そこに進化の種があるということ。必要な進化がその先にあるから、交配する。その道筋から外れたものとは交配しないし、そういった衝動も起きないようになっている。

だから、自分を守ろうとする恐怖や恐れを手放せば、実は、究極の秩序がそこにあるんだよ。ところが、その究極の秩序が現れる前に、自我が自ら壁を創る。だから、観えるものが観えない。次の世界がそこにあるのに、観えない。

そこまで行きたい心が僕にはある。僕はこれまで、他の人ができないことをやってきた。だからそれでいいのだろうと思いながら、どこかにいつも壁を感じていて、そこを越えられない、そこを越えたい、という貪欲さがある。
その貪欲さというのは、エゴ的な貪欲さではなく、壁を突破するための貪欲さ。その世界がどうなるのか、という好奇心。それを常に持っている。

だから、ことが進んでいって壁が取れてきて、例えば勉強会でもやって「ああ伝わったな」と思っても、そう思うと同時にその伝わった位置が観えて、まだまだ先があるのが観える。そうすると、まだこんなところか、という心が湧いてくる。前の状態からその状態になってきた喜びが消えて、次の「まだだな」という心が湧いて、壁が観えてくる。

それは、僕個人の衝動とは違うもの。水素エネルギーの時代が来る。これは無尽蔵で無公害と言われているけれど、そういうものがいくらできようと、人間の中にあるエゴ的な心を超越しない限り、結局それはまた矛盾を生むことになる。人間はそこでまた人との壁を見て、矛盾の発生源にする。人間の中にある壁を越えない限り、それは本当の理想にはならないんだよ。

壁がない状態というのは、人と接する時に、人に対して自分に接するようにするということ。そこに一切の区別がない状態。
それを可能にするのが、自分という存在の世界観を広げること。だから僕は、世界観や宇宙観の話をする。そして、いろんな角度から共通性を探求している。
だけどいくらそれをやったところで、人間の根本が自我が基本になっていたら、それはサビの上にペンキを塗るようなものだよ。いくら塗っても、サビが浮いてきてはがれていく。

自然界のものというのは、個性があって、絶対なるルールの中にあり、それを超えないようにできている。それを超えることは、神の意志の領域になり、新たな種が生まれたり、種の再編成が生まれる。しかし、そこでは個性を尊重するようにできているから、自我も守られているんだよ。そこには、意図が働いている。

逆に、人間は個が強くなりすぎて、それを超えていくということができない。自我を優先するがために、この世界を共有することができない。
それがまた矛盾の大きな発生源にもなり、人間が進化するきっかけになるわけだけど、大量の矛盾を発生させて、この世界に負荷をかける原因にもなっている。そのバランスをどうとっていくのか。

今、究極の選択を迫られる時が、来ている。
こんな話は、これまで哲学者や宗教家が頭の中で回しているだけで、世の中の人々の日常生活からは隔離された世界だった。
しかし今、人間のあり方そのものが問われる時代が来ている。そんなふうに切り離して置いていけない時代が来ている。

今、こうやってこの部屋で話をしていると、窓から隣りの建物が見える。その中にいる人たちは、そんなことは何も考えていない。窓の外に見える世間の99.999999999999%の、いくつ9がつくかわからないパーセントの人たちは、まだそのことを考えていない。
僕はそれを、限りなく少ないとみるのか、逆に、ほんの少しでも兆しが始まったぞと観るのかということだと思う。どんなことでも、始まりはほんの少しの兆しから始まったんだよ。いずれその兆しが、世界にいきわたる時が来ることを想って、この想いを巡らせている。

そしてその先を想像していくと、全てのものに壁がなくなることは、この世界がひとつに還るということ。つまり、始まりの、神様お一人の状態に還るということ。それは、この世界が終わるということ。それは究極の喜びであり、究極の破壊であるわけだよ。

これを哲学のように、発想の次元で終わらせてはいけない。みんなは、発想の次元でしか受け取れていない。
僕の中には、どこかに、強烈な欲深がいて、そのイメージを探求するあくなき自分がいる。だから、伝わっても伝わっても、もっともっとという気持ちになる。
僕は、そういう自分が好きだけどね。呼吸しながら、負荷がかかって、納得して、喜びになって、またそれが負荷を生んで、納得して、そして喜びに変わる、という呼吸するような状態が好きなんだよ。それが生きることだから。

――― この話をもっと深めたい。

あのね、これは、これ以上深められないんだよ。
僕の中では、今自分のイメージしている納得の限界のところまできている。そこで、他者、例えばあなたがこの話をもっと深めたいということは、あなたの受け取った次元の質問に対して答えるということを深めるのであって、究極の世界にいくには、結局、自我を超えなければいけない。そうすれば、全ては解決するんだよ。

この話は、壁を超えたい、壁をとりたいという衝動から始まっているでしょう。それを超えるためには、自我を超えること。自我を無しにすれば、こういった衝動は起きなくなる。つまり、自我があるから壁があるのであって、自我を無しにすればそれで終わるんだよ。

――― そうだね。私は今、ものすごく衝動がある。

それは自我があるという証拠だよ。その、ものすごく難しくて、不可能と思えることが、実は自我の壁を取れば終わることなんだよ。そして、そこには秩序があるのだから、何も心配することはない。今の自分の姿も秩序なんだよ。

例えば、人間と植物は壁を超えられないようにできている。人間と空気は壁を超えられないようにできている。人間と鉱物は壁を超えられないようにできている。
ところが、もう一つの捉え方からすると、それは全て同じものでしょう。地球という同じもの。だから超えられる。というよりも、すでに超えている世界で存在している。

だから、なぜこういったことが起こるのだろうかというと、自我がある状態があるからなんだよ。
どう言ったらいいのだろうね・・・目覚めれば、それに気付けば、答えは既に出ているし、完成されている。自我の頭で回しているだけでは、いつまで経っても、その答えは出ない。

はあ・・・・落とせないな。行こう。バイバイ。

 

(そう言って、いさどんは作業へと出発しました。)

 

 


新たな時代を迎えるために〜GENタイ代表といさどんとの対話

昨年より、木の花ファミリーは事実を歪めた情報によって国内の一部のエコビレッジ関係者からバッシングを受けてきました。
以下は、このことに心をいためたGEN(グローバル・エコビレッジ・ネットワーク)のタイ代表であるナルモン・パイブーンシッティクンさん(以下、モン)といさどんとの対話です。
 
■     ■     ■     ■
 
いさどん:
これまで、エコビレッジという概念に価値を置く人々がいました。こうした人々はこの概念に執着する傾向があります。本来、エコビレッジとは自然と調和し地球に優しい生き方をする人々の集いなのです。ですから、特定の人々が示す生き方のためにエコビレッジはあるのではなく、すべての人類が目覚め、目指すべき方向がエコビレッジのあり方なのでしょう。

今までエコビレッジは一部の人々の特別な暮らしということで認識されてきましたが、これからの時代は人類の歩みとしてこの概念を捉えていく必要があります。そういった意味で、エコビレッジ活動に関わる皆さんは門戸を広げる必要があるのです。自然界に豊かな生態系が存在するように、人々も多様な国家・文化・歴史を持ち、そうした違いを超えて共有していくことが求められています。今、時代は、イデオロギーの違いによる対立に終止符を打とうとしているのです。しかしながら、宗教の違いや貧富の差により、世界中の人々はまだ地球共同体という認識を持っていません。

例えば、ノーベル平和賞を受賞した少女がいますが、わたしは彼女の存在が世界に平和をもたらすとは思いません。彼女は対立構造の一方の側の人々に利用されているように観えます。それと同様に、ISの存在を悪とみなし、彼らを倒すだけで問題が解決するとは思えないのです。ですから、エコビレッジ活動に関わってきた人々は自らの視点を広げ、社会運動としてこの価値をつなげていくことが必要なのです。

モン:
日本においてエコビレッジのネットワークが切れた状況を考えますと、あなたがおっしゃることに全く共感します。しかし、そこからわたしたちは学ぶ必要があるのです。「わたしたち」というのは、日本だけではなく、タイや他国のネットワークも含めたわたしたち自身のことです。それと同時に、木の花ファミリーのようなコミュニティが批判によってエコビレッジのネットワークから外れたことに対し、わたしは戸惑いを感じ、何かしなければと考えています。

大きな視点から捉えると、タイや他の東南アジアの国々は物質的に貧しいだけでなく、精神性も貧しいという見解について話し合いたいと思っています。また、こうした国々の姿勢は良いものではないのです。あなたは姿勢の転換を重要視しています。そこで、どのような提案をわたしにしていただけますか?

いさどん:
物理的な貧しさから脱却するために、近年、ほとんどの人々はアメリカ主導型の豊かさの探求に追随してきました。しかし、本来人間は精神的な生きものであり、精神的に不安定な状態で物だけを与えられたら、色々な矛盾が発生するのは至極当然のことです。人々が物質的な豊かさを求めれば求めるほど、今の人間社会の構造では一部のところに物理的豊かさが集中するのです。

ですから、ひとりひとりが一方通行の価値観へ向かうのではなく、それぞれの個性を生かして、個性を尊重し合い、そしてネットワークの中で豊かさを追求する自立した状態が必要です。わたしたちは地球という一つの生命体に存在しているのですから、現時点での目的はワンネスを意識することであり、その目的を果たすためには皆が互いにつながり合うことが大切です。そのためにはわたしたちの世界観を広げる必要があります。それは、特定の価値観に囚われていては、可能ではありません。なぜなら、わたしたちが存在しているこの世界は、常に変化・変容を繰り返している世界だからです。さらに、平和や幸せ、豊かさについてどの意識レベルで捉えているかを見直す必要があります。そういった意味では、最初にお伝えしましたように、これまでエコビレッジを推進してきた人たちは、エコビレッジに対する自らの視点によって限定されているように観えるのです。

木の花ファミリー創立当初、わたしたちは「エコビレッジ」という言葉を全く知りませんでした。このコミュニティはわたしの霊的な体験とともに始まったのです。また、木の花ファミリーの歩みは地球に優しい生き方を追求していった結果でもあります。そして、エコビレッジを広げようとする人たちが木の花ファミリーのメンバーになって、わたしたちはエコビレッジとして知られるようになりました。今現在、木の花ファミリーはエコビレッジという枠から意図的に外れていますが、事実として、ここはエコビレッジとしてもっともふさわしいモデルであり、その最たるものが精神性なのです。

今なお一般社会は、富を追求することを優先しています。この流れは、地球上で最後の物理的進化のフロンティアであるアフリカ以外は、すべて行き詰まりを迎えることでしょう。そしてアフリカではこれから物質的な価値観が繁栄し、それがピークに達したときに、地球上での矛盾もピークに達するでしょう。その予感を感じられる今、時代の流れは明らかに切り替え時に来ているのです。

宇宙的視点からすると、250年前に起きた産業革命以降、冥王星は一周しました。ですから、戦略的に社会を変えていこうと志を持つことは時代の流れに乗っていることですし、それとコラボしていくことは大切なことです。しかし一方で、時代が変化していくときに戦略的になる必要はないのです。これからは物質的な豊かさを探求すればするほど、地球はすでに過剰な負担をかけられていますから、その行為に対して常に矛盾という形でわたしたちにその意志を伝えてくるでしょう。今、物質的な豊かさと霊的な豊かさのバランスが崩れていますので、物質的探求を続けてきたわたしたちが切り替わるしか選択肢はないのです。そこで、わたしたちがすべきことは、遺産として次の世代へつなぐビジョンを明確にすることです。

先程あなたから、木の花ファミリーに対する批判についての話がありました。今回の批判を受けるずっと以前から、わたしたちはエコビレッジ関連の組織に入り続けるべきなのかどうかについて考え、皆で話し合ってきました。なぜなら、国内でエコビレッジを推進する学びの場は多くもたれてきましたが、その多くはコミュニティを立ち上げることすら叶わなかったのです。そこではビジョンに現実味がなかったり、コミュニティを持続させるにふさわしい精神性に乏しかったり、またエコビレッジに対するイメージだけで関わってきたことが原因になっているのです。彼らの中には、ヨーロッパやアメリカのエコビレッジを訪問した際の体験やどこかで得た情報のみで、エコビレッジのイメージを創り上げる傾向があります。それに対して、わたしたちはエコビレッジという概念に倣ったわけではありませんが、地球に優しい生き方を模索してきた中で、コミュニティの変遷の現場を歩んできたのです。

すべてのものに過渡期があるように、ある段階でわたしたちは社会に適応できない人々の受け皿になっていました。そうした人たちは一般社会で自らを健全に保つことが出来ず、その多くは人間関係において不安定であり、希望を失って、新たな社会的価値観を求める傾向があり、このコミュニティに集ってきました。わたしたちにとってそれはまるで、リハビリプロジェクトのようなものでした。そのようなプロセスの中で、コミュニティを運営するために取られた学びと措置の善意を逆恨みする人たちがいました。しかし、その当時も今も、その人たちに対する愛と、社会を健全にしようとする情熱はわたしたちの中で不変なのです。

また、わたしたちの世界観と、彼らが求めている幸せや世界観にギャップがあることが発覚してきました。そういった過程で様々な人々が集いながらも、木の花ファミリーは一つのコミュニティとして運営され、維持していくことが求められたのです。そのような模索の中で、木の花ファミリーは精神性の高いコミュニティとして確立されましたが、その道が進むほど、その方向性から自然に外れていく人たちが出てきました。

古橋道代がGENやGENOA、Gaia Educationの役員をしているときに、そこでなされた議論の内容を聞き、エコビレッジ活動に関わる人々の世界観に失望するところがありました。そのような見解からすると、木の花ファミリーを離れた人たちとも、同じテーブルに着いて語り合えば、今回のような出来事が自分たちの未熟さから発生したことを彼らは真に理解するでしょう。

なぜそのように言えるのかというと、彼らがここを離れ、木の花ファミリーが批判を受けた後でも、事実、ここはたいへん安定した状態にあるからです。 あなたもここに滞在することにより、それを感じていることでしょう。しかし、ここを離れて行った人たちは自分たちを正当化したいがために、事実の多くを捻じ曲げ、架空の物語を創り上げ、わたしたちを批判し始めました。日本において木の花ファミリー以外に、エコビレッジらしいコミュニティは他にありません。さらに、ここは世界的にもたいへん貴重な場所だと思っています。

ところが、共同生活を一度も実践したことがないにも関わらず、エコビレッジのイメージを創っている人たちがいます。ある意味、そういった人たちにとって、木の花ファミリーが日本におけるエコビレッジの代表事例としてみなされていることは好ましいことではありませんでした。そうした人たちの釈然としない想いとここを離れた人たちの不満が合わさり、わたしたちをたいへん激しく批判するに至りました。しかし、今回の一連の出来事を通じ、木の花ファミリーメンバー間の絆は深まり、わたしたちの世界観はさらに広がりました。

事実、彼らが一生懸命取り組んでいることは、エコビレッジの事例としての木の花ファミリーをなくし、忌まわしい団体として貶めることなのです。エコビレッジの定義を広げ、その基準を超えようと考えているわたしたちからすると、このことは問題ではありません。ですから、エコビレッジを推進する人たちの言葉を借りれば、エコビレッジのネットワークとは多様な形で個性を尊重するということなのですから、「エコビレッジ」の定義や意図を考えると、木の花ファミリーのような確立されたコミュニティがそのネットワークから外れることは不自然なことです。

何よりも、21世紀に人類がどのように進んでいくべきかの回答がここにあります。産業革命以降250年間続いた物質至上主義の価値観が転換する時代が訪れているのです。右肩上がりの成長と引き換えに、人々は地球に負荷をかけ、豊かさを追求してきました。しかし、真実として、宇宙は拡大と収縮を繰り返しています。そして今まさに拡大が終わり、その真実を求めるためにそぎ落とし収縮する段階に入ってきています。必要なものと不必要なものを仕分けし、不必要なものをそぎ落としていく時代なのです。そうすると、これ以上物理的にも精神的にも不必要な負荷がかからなくなり、本当に必要なものだけが残るのです。これからは、物質的な発展はわたしたちの積極的な意志により縮小していくべきなのです。その代わりにわたしたちが拡大させる必要があるものは、精神性に基づく世界観です。世界観を広げていくことによって、人間としての新たな可能性を開花させ、愛や調和にあふれた世界を創ることが出来るのです。

木の花ファミリーのメンバーは精神性を最も大切にしながら、不要なものをそぎ落とし、日常生活の中で真実に目覚めようと努めています。もしあなたがただ自分自身の願いを叶えたいと想うなら、コミュニティで生活することは不可能でしょう。実際、特定の人々が共同体で暮らしているのではなく、わたしたち人類は皆、「地球共同体」に暮らしているのです。それは、人類の地球共同体どころか、地球生態系の共同体でもあります。さらにわたしたちの意識が広がっていけば、それは太陽系共同体であり、銀河共同体であり、大宇宙共同体でもあるのです。

ですから今、地球共同体を運営していくためには、人類は自らのエゴと直面することが不可欠です。そしていつか、わたしたちが宇宙的視点に立ったときに、どのように太陽系、銀河、宇宙を運営していくのかを考える時代が訪れるのです。人類が地球を一つの生命体だと気付き、そうした認識とともに生きていくことの歴史的転換点を今、わたしたちは迎えているのです。

批判によると、木の花ファミリーには問題のある性的行為や暴力があるとされています。それは、彼らの意識レベルで物事を見て、その人たちの感情が反応すると、それを事実として捉えることができます。しかし、すべての出来事には長い物語があり、それは継続しているプロセスの一部なのです。わたしたちを批判する人たちは、物事を部分的に切り取って、自らのフィルターを通して事実を歪めている傾向があります。しかも、そのような批判は、自らのエゴと向き合いきれず、精神性を高めることを断念した元メンバーが自分たちを正当化したいがために訴えたことのみを情報源としています。ですから、この状況を改善するためにわたしたちが次に何をすべきなのかという提案を一切しないのです。なぜなら、ただ批判することが彼らの目的だからです。それとは対照的に、木の花ファミリーにはこうした出来事すべてを経験した結果、より高いビジョンがあります。その現実化のために、今も粛々と日々の中でその探求が進められています。ですから、自分自身のエゴに向き合うことができなかった不調和なメンバーがここを離れていった結果、メンバー間の絆はより強くなり、ここはより精度が高くさらに開かれた場になりました。

あなたは今回それほど長い期間ではありませんが、ここに滞在するために訪れました。もしあなたがこのコミュニティのエネルギーを感じるならば、わたしたちが一切の秘密を持っていないことに気付くでしょう。もしあなたが1ヶ月でも1年でもここに暮らしたら、それはとても明解にわかることです。鋭い人であれば、ここを一目見ただけで今回のような批判が真実ではないことを瞬時に感じ取ることでしょう。

道代:
彼女はここに来てすぐに、木の花ファミリーは批判されているような出来事が起こる場ではないと気付いた、と今朝わたしが彼女と話していたときに言っていました。

モン:
ひとつ質問があります。わたしたちは何をすべきなのでしょうか。この状況をただ放っておけばいいのでしょうか。それとも改善するために、GENのような国際レベルで、またはGENOAのような地域レベルで、もしくはわたし個人のレベルなど異なるレベルで、何かわたしにできることはあるのでしょうか。

いさどん:
わたしたちの見解からすると、批判する人たちには明らかに事実を捻じ曲げフィクションを創り上げることによって、わたしたちの存在を否定しようとする意図があります。彼らはとても賢く、多大なるエネルギーを注ぎ、批判することに情熱的になっているので、そこに惑わされる人もいると思います。それは時代が新たな方向へ移行しようとするときに、抵抗する力のようなものだと捉えています。しかし、時代は確実に前にしか進みません。ですから、彼らがしてきたことは時代に逆行しているのですから、霊的には罪を犯していることになるのです。わたしはそのことに対して彼らを非難するつもりはありません。彼らの意識レベルからすると、批判することを大事だと思っており、そのことによって自分たちの価値を下げていることがわからないのです。

大切なことは、時代は新たな方向へ時を紡いでいく役割をわたしたちに与えていることに気付くことです。それは、天体の動き、人類の歴史、文明の周期といった様々な視点から、新たな時代に劇的な変化をもたらす大いなるターニングポイントを今、わたしたちが迎えていることが立証されてきているのです。変化を求める動きは、それに対する抵抗に常に出会うものです。もしわたしたちがその抵抗に対して何もしなければ、こうした変化を拒否していることにもなります。ですから、時代が変わることを感じ、その真意を理解できる者は、これを何とかしようとするのです。批判を支持するどころか、それを超えて新たに木の花ファミリーを支援する人たちが今、多く現れてきています。あなたの中にもそのような感受性があるから、それを感じられたのでしょう。不調和が批判する人たちの特徴なので、共通した敵がいれば団結し、一見調和しているように見えます。しかし、彼ら自身の中に人を批判して自らを正当化する種があるのですから、その調和を保ち続けることは不可能なのです。ですから、そうした自分自身の価値を下げていくような活動がいずれ消滅することは確かです。そして、それは時代が示してくれるのでしょう。

それでは、わたしたちが新たな時代に移行していくことを感じる人たちは、何をしたらいいのでしょうか。それは常に真実を語ることであり、わたしたちと同じ立場なのです。わたしたちは木の花ファミリーという存在を所有していません。新たな時代に向けての一つの雛形として、わたしたちはこのようなライフスタイルを実践してきました。ですから、人々が地球共同体に暮らしていることに目覚め、時代が新たなステージに移行すれば、わたしたちの目的は達成されるのです。そのような共通した目的を持っている人たちは、エコビレッジ活動に関わっている人も、そうでない人も、あなた自身も皆いずれ、その立場に立つべきだと思うのです。エコビレッジという枠が壊れ、広がる時が訪れています。わたしたちを批判する人たちはたいへん熱心なので、日本語だけではなく英語でも発信をしています。それは、わたしが伝えていることの問題提起をするチャンスでもあります。そのことにより、真実は何であるのか、そしてこれからの時代に何が求められるべきなのかが立証されるのだと考えています。

もしあなたがタイのことだけではなく、人類の未来をわたしたちと同じように考えているのだとしたら、それはあなたのための活動として、真実を伝えていくことが大切です。それは、この世界の仕組みに気付き、時代の流れを感じた人たちの使命なのです。

時代は、とてもダイナミックで、魅力的な時を刻んできました。そして、そういった価値観を支えるわたしたちの思考も、その確信のもとに歩んできたのです。しかし、全てのものは満つれば欠ける世の習いのごとく、過ぎたればそれを修正する段階に入るのです。ですから、わたしたちが今取るべき行動は、自らの根本的な振り返りと新たな時代を迎えるための自我のコントロールです。それは、今までの価値観とは全く逆さまのようなものにも捉えられますが、時代に心を向けて感じられれば、そのことの大切さは明解にわかるものです。そして、新たな時代を迎えようとするために出来事が矛盾を持ってそれを示し、人々は今、そのことに気付き始めているのです。わたしたちに出来ることは、そのネットワークの中に自らがいることを常に意識して生きることなのではないでしょうか。