令和時代の解決策!~ 現代社会の問題は伝統で解決できる?!

2100年の人々に向けて発信する暮らし・木の花ファミリー

2019年7月14日から19日まで、中国人のルイーザさんが企画したツアーにより、総勢12名の中国からのゲストが木の花ファミリーに滞在しました。ツアー中は木の花ファミリーメンバーと共に作業体験をしたり、ジイジによる食のプレゼンテーションが提供されたり、子育てについての座談会の場が持たれました。
18日の午後にはこのツアーのまとめの座談会が行われ、その中である中国人女性は、「木の花ファミリーには、血縁のある人もいますし、ない人もいます。これは、とても古い時代に村に一人の長老がいて、みんなが集まる形に似ていると思います。現代社会には問題があるので、私は昔の伝統的な文化にとても興味があります。古い時代には人と土のつながり、人と人とのつながりがありましたが、現代人にはそれがありません。たとえば、チベットの人たちは山や川に対して愛を持って接します。今後、中国を含めて世界中で木の花ファミリーのようなコミュニティが増えれば、地球の未来は良くなることでしょう。その場合、木の花ファミリーはそうしたコミュニティをサポートすることはできますか?」と質問しました。それを受け、ジイジは次のように語りました。


ジイジ:
今、山と川の話が出ましたが、山は意識の高さを表します。山は高いでしょう?意識の高い者はそこへ心が向きます。そして、川はいのちの源です。ですから、信仰の対象なのです。そして、信仰の対象として一番代表的なものが太陽です。ですから、世界には太陽信仰が一番多いのです。

まず、木の花ファミリーでは伝統的な人々の生き方を意識しているわけではありません。伝統的な人々の生き方は、生きることがとても厳しい時代の生き方なのです。

昨年の終わり頃、8年ぶりに「木の花ファミリー憲章」を改訂しました。25項目について、憲章を作成したのです。以前作成したものはそれほど細かくありませんでしたし、8年前は途中で作成が終わっていました。そこで、2020年から始まる地球規模での人々の意識の変革に向けて、憲章の改訂を行ったのです。憲章を作成するにあたっての意識は、これから人類が必要とするであろう生き方について書いてあります。それは、木の花ファミリーが実践している生き方でもあります。そのメッセージは1冊の本くらいのボリュームがあるのですが、それをどこに向けて発信するかというと、現代の人々に向けての意識はあまりなく、2100年の人々を意識して発信したものです。

あるときから私は、天のメッセージを受けるようになりました。それは明らかに、地球外からのメッセージでした。それ以降、私の意識は常に宇宙と地球の関係、地球と人間の関係に向いています。そうすると、地球の歴史や人類の過去の歩みは、私たちの今の段階を経て、未来へつながっていくプロセスだということがわかります。

昨日行われた座談会の中で、2008年より13年前に生まれた人から、2008年以降16年間に生まれた人たちの、この約30年間に生まれた人たちによって変革が行われるだろうとお伝えしました。それは、冥王星のサイクルによる変革ですから、宇宙的にはそれほど大きなものではありません。

現在は2019年であり、21世紀に入ったところです。1000年から2000年までの1000年間は、男尊女卑の封建時代、物質や権力優先の時代でした。その間、霊的な人間の要素はどんどん失われ、物質的な目覚めが進行する時代でもありました。それが21世紀に入り、2000年を越えたということは、いろいろな意味でいくつかの変革のポイントがあるのです。それは、2000年を境にして地球上の歴史の方向性が変わるということです。ですから、私たちは今、大変革の時代を生きているのです。これは人類の歴史上、最も変化の大きい時であるとも言えます。

もう一つ、普通の人々には見えない変革があるのです。太陽は螺旋を描きながら自転し、銀河を公転しています。太陽の1螺旋は25800年です。その螺旋を描いている太陽のまわりを、地球は自転しながら公転しているのです。そのときに、とても不思議なことが起こります。地球は自転をしながら公転をし、歳差運動をしているのです。そして、その歳差運動の1サイクルも25800年なのです。

地球の北極が向いている方向に北極星があり、私たちの今の北極星はポラリスです。北極星というのは、私たち現代人にとっては絶対に変わらない指針です。ところが、25800年をかけて地球が歳差運動をしている間に、北極星は9回変わるのです。さらに、私たちが絶対なる指針としている北極星に、地球の北極の方向がぴったり合うのは2102年です。ですから、現代の人類が自らの在り方に宇宙的に目覚めるには、あと83年かかるのです。

今、地球人類の歴史は、1000年から2000年まで1000間続いた封建時代・物質的発展の時代から、2000年を越えて、新しい時代に入りました。このビジョンは、3000年に向けてのビジョンです。たまたま私がそのような視点を常に思考として持っているために、そういった情報が入ってきます。ですから、先ほどあなたがおっしゃったような、過去の伝統的な人類の生き方については意識していません。それはあくまでも情報にしか過ぎません。私たちが指針としているのは、未来志向です。未来がどうなっていくのかについて、今ある情報を元にそれを組み立てると、流れが観えます。その流れに沿って未来を観ているということです。

昨年、木の花ファミリー憲章を改訂したのは、2100年の人々に向けてのメッセージとして改訂しました。なぜなら、現代の人々にはその生き方がまだ難しいからです。しかし、宇宙的指針や人類の現状を観ると、その方向に行かなければ未来がないこともわかります。そうすると、人類は2100年の目覚めに向けて、紆余曲折しながらそこへ到達することでしょう。その時に、木の花ファミリー憲章を改訂した2018年から84年後の人々がそれを見て、「今から84年前に、すでにこのように考えていた人たちがいたのだ!」と思うような古文書として、今回木の花ファミリー憲章を作成したのです。

私は、孤独です。物理的には豊かに生きていますし、素晴らしい人生です。しかし、霊的にはこの意識レベルに共鳴できる人はほとんどいません。実は、視点を広げて意識を多次元にし、天と対話するという意味では、全く孤独ではありません。残念ながら、現代人は、霊的にはとても幼稚な状態です。ですから今後も、私の役割として、現代人にはなかなかわからないメッセージを発信していきます。

木の花ファミリーに所属する人たちは、その真意をすべてわかるわけではありませんが、「わからなくても大切なことは行くべきだ」という木の花ファミリーの創立理念のもとに、彼らは共に歩んでいます。ですから、彼らは自我を超えていけるのです。昔の人たちもそうでした。自然の在り様や生きることの意味はよくわかりませんでしたが、生命として、それをつないでいくために、勘によって生きていたわけです。

25年前に木の花ファミリーをスタートしたとき、私は42歳でした。こうした暮らしを夢に描いてから10年が経っていました。その当時、富士山麓に行き、血縁を超えた人々がひとつの家族として暮らすというビジョンが生まれ、それをみんなに提案しました。そのときに、共に富士山麓に来るかもしれない候補者は50人くらいいました。結果として、新たな生活に参加できたのは6家族、大人15人、子ども5人の20人でした。この生活が始まる前に、私は彼らにこう伝えました。

「この生活の先に何があるかはわかりません。ただ、これから時代が進んでいくにあたり、この生き方はこれからの時代にとても重要な生き方です。皆さんは私を信じて行ってはいけません。人間を信じると宗教のようになり、私を頼ることになります。ですから、皆さん一人ひとりの心の中に、『これは大切なのだ』と思う心があったら、行ってください。この道は、決して誰かについていくものではありません。自分の意志で歩むものです。それから、私たちがこれから生きようとする生き方は、社会には理解されないと思ってください。それは全く未知なる新しい生き方ですから、一般の人々にはわかりません。一歩先の生き方であるならば、例えば環境を良くする生き方や正しい健康な食べ物を作るということであるならば、社会からは評価されるかもしれません。しかし、この生き方の必要性はまだ人々には観えません。ただ、本当に大切な生き方をする人たちは、観えないことでも信じて行くものです。」

私がそのときに描いていた未来は、みんなでお百姓をして地味に山の中で暮らすというイメージでした。ただ、私には、この生き方を世界に向けて発信しなさいという天からの命があったのです。それから5年経ち、10年経ち、25年経っていくと、創立当初にはまったく想像もできないようなことに出会う連続でした。そして、今の生活があるのです。25年前、富士山麓へ出発する前に、私はみんなにこのように伝えました。

「私を信じて、行ってはいけません。私は皆さんの将来を保証できません。ただ、大変なことがあったら一緒に苦しみます。決して逃げません。そして、私の言うことは変わっていきます。だから、今を信じるのではありません。約束できることは、私の言うことは変わっても、必ずこの延長線上にあることは確かです。約束できることは世の中のために生きることです。」

ですから、私が語ることは、常に私の中に新たなことが湧いてくることを新鮮に語るだけです。

現代人の極めて問題なところは、「自らが納得したら行動する」ところです。そうすると、その意志は常に自我の中にあり、自我を超えることはできないのです。私が今、お話ししたのは、何かをわかってお伝えしているのではなく、私に与えられた宇宙的情報を情報として伝えているだけです。

そして結論としては、あなたがおっしゃる通り、人類は今まで核家族化し、その生き方が小さく分かれてきました。それがもう一度、今度は群れになるということです。過去の人々もそうでしたし、自然界にいる動物たちも群れで生きています。それは、生きていく上でとてもいのちに優しい生き方です。ただ、今お話ししたように、過去に還ることは一切ありません。過去を取り入れてそれをまねして創るということもありません。こういった歩みはすべて、進化の延長にあることです。

 


ジイジにこの質問をした女性は、今回の木の花ファミリーでの滞在を振り返り、座談会の最後に次のようにコメントしました。

中国人女性:
まず、ルイーザさんに感謝します。それから、ここにいる全員に感謝します。
私は突然42歳の時にシュタイナー学校と出会い、そしてシュタイナー学校の教師を7年間勤めました。その間に、宇宙からの小さなメッセージが心に湧いてきました。最近、教師をやめた方が良いと考え、将来は土に近い生活をすることを考えています。今回、初めて木の花ファミリーに来たのですが、最初は家に帰ってきた感じがしました。

ジイジ:
「ふるさとに帰ってきた」「我が家に帰ってきた」というように、ここに訪れたことを懐かしく思う人はよくいます。

中国人女性:
それから理論的なものに触れたとき、涙がどんどんあふれてきました。コンサートでの歌やダンスから、とても高い意識を感じました。今は心から土に触れる生活が必要だと感じています。そしてそれを今、現実にやっている人たちがここにいるのです。私は必ずまたここへ来て勉強したいと思っています。

ジイジ:
あなたからはそのような宇宙的なものを感じます。シュタイナーの思想に出会ったのは、あなたの人生に必要なプロセスだったのでしょう。そして今、この機会を得て、あなたの人生の次の段階に行くのでしょう。あなたがここに来て懐かしく感じるのは、地球が私たちの住処であり故郷だからです。私たちがここで感じて生きていることと同じことをあなたは感じるから、懐かしく感じるのでしょう。

これは、誰か特定の人にではなく、地球上のすべての人々にお伝えしたいと思います。私たちは、本当に生きるべき生き方を取り戻さなければなりません。地球全体の人間からしたら、例えば中国人全体の人口からしたら、私たちの数は少ないかもしれませんが、どんな出来事も、一人の行動から始まるのです。私たちは地球という共通の家に住み、あるいは共通の宇宙船に乗って宇宙を旅しているのですから、これからも共に活動していきましょう。みんな家族なのですから。木の花ファミリーのファミリーはそういう意味なのです。ありがとうございました。

 

 


セントラルサン、そして地球に生きる全ての人へ 〜 富士山麓からのメッセージ

私たちの生きる現代社会をひも解いてみると、人類の営みは今や地球規模に広がり、この世界を支配しているかの如くに見えます。しかしながら、その人類の存在は、この地球世界に健全なる秩序をもたらしているとは、とても言い難いものであります。人々は個々の自我から湧き出す欲望を満たすために、互いに争い、奪い合い、格差を生み出す未熟で貧しい世界を創り上げている現状があるのです。
本来、地球生態系とは、多種多様な生命が調和し、共生する、豊かな世界を表現するものです。そのような世界において、現代の人間たちが求める豊かさは自我の願望を叶える方向へと進み、すべての生命が調和し美しくあるはずの世界へ、無秩序をもたらすこととなりました。それでもなお人間は、自らの自我の求める方向へと歩みを進めることに何ら矛盾を感じることなく、今なお進み続けています。
地球の歴史を振り返ってみても、さらには宇宙の成り立ちを感受しても、そのような一方的な歩みのもとに秩序がもたらされることはなく、また、世界の現状を観れば、このまま継続して社会が成り立つことはあり得ないことが、そろそろわかり始めています。そこで、そういった現状の人類のあり方に憂いを持つ者として、未来に対する懸念からメッセージを送るものであります。

私たちは、今から25年前に、富士山のふもとに木の花ファミリーを創立し、その志を実践する歩みをスタートさせました。それは、現代を生きる多くの人々の意識では、不可能とも言える暮らしです。当時、これから何を目的とし、どのような行動をしていくのか、そこに参加した者たちですら、誰も理解していませんでした。私たちをその行動に駆り立てたのは、思考を巡らせることではなく、直観と信頼だったのです。
この歩みの発起人である私は、それまでの霊的な出会いと直観から来る「これを自らの人生の大目的としてやらねばならない」という何の裏付けも根拠もない思いから、この暮らしをみんなに提案しました。それに対し、その私に出会った創立メンバーたちは、ただ信頼のもとに、何ら保証のない道を歩み始めたのでした。その原動力となったのは、心を正し、美しい心で生きるという、一貫した姿勢です。美しい心を持って人類の未来、そして地球の未来に対応しなければ、人間はいずれ、地球上に存在する意味を問われることになるでしょう。しかし現代を生きる人々の多くは、そのことに気付けない意識の状態になっています。だからこそ現状の社会の行き詰まりがあり、社会の実態を観れば観るほど、それは明快に観えてくるのです。

そこで、私たち人間は、次の時代をどのように生きるべきなのでしょうか。
近代の人間社会を観ると、人々は法律や制度のような人間都合の仕組みを創り、その場を構成する人々の思惑のもとに築き上げた縛りの中で、秩序を保とうとしてきました。しかしその仕組みは、人間よがりであると言えます。即ち、もう一回りも二回りも大きく広い視点で観ると、この世界の実体は、太陽系、さらには銀河のような、巨大な宇宙の法のもとに地球が存在し、その地球の法のもとに生命生態系が存在しているのであり、私たち人間もその法に倣い、同じ法のもとにあるすべての存在と共生することによって初めて、人間社会の秩序が持続可能なものとなるのです。
残念ながら、これまで人間たちをリードしてきた、人間の欲と思惑によって選ばれたリーダーたちは、そういった世界の根本的な仕組みに気付けない精神状態となっています。だからこそ、彼らは今の時代のリーダーとして相応しいのでしょう。それは、地球の現状をこのような切り口から分析していけば明快に理解できることですが、そのような思考回路がない状態に、現代のリーダーたちは陥っていると言えます。そして今の社会の状態は、決して一部のリーダーたちの意識によって現象化しているのではなく、現代を生きるすべての人々の集合意識によって創られているのです。

そのような中、ささやかではありますが、25年前に、先行きがまったく見えずどこへ向かうのかもわからない人々が、ただこれからの時代にその生き方が大切になるということを感じ、血縁を超えた人々が共同する暮らしを始めました。この歩みに対するかすかな勘だけを頼りに、そしてその勘すらも持ち合わせていない者は、ただ互いの信頼だけを持って歩み出し、今日までやって来たのです。その暮らしの最も大切な柱となった理念が、心を美しくすることでした。人間であるが故に自我が優先し、その自我から生まれる汚れが出るたびに、メンバーたちはそれを問い、吟味し、磨き合ってきたのです。それは、現代社会を生きる多くの人々にとっては、当然ながら苦痛とも思えることでした。ですから、理想は高くとも自らの現実に向きあえない人々は、このような暮らしへ参加することに限界があり、脱落することになりました。そういった人々に限らず、現代を生きる多くの人々にとって、自我を超越し、自らの内に存在する真我を呼び覚ますことは、容易なことではありません。しかし、人間の存在の起源は神聖なる生命であり、生命としてそれが最も重要であることは、何人も自らの内にある本質として知っているのです。
人間は、他の生命にはない、多彩で個性的な自我を与えられています。自我は、世界に多様性をもたらすのです。人間が自我を与えられた真の目的は、その多様性をもって世界を豊かに表現することにあります。一人ひとりのオリジナルな個性は、そのための役割として与えられているのです。しかし、人間はその独自の進化の歴史の中で、自我がもたらす多様性によって豊かさを表現するのではなく、自我から湧き出す個々の願望を叶えようとする方向へ進み、それぞれが求める幸せを追求した結果、多様であるがゆえに世界に不調和をもたらすこととなりました。そういった人々の欲の延長に選ばれたリーダーたちがどんなに国を豊かにしようと思っても、人間のあり方を根本から見直さない限り、幸せを求める心のボタンの掛け違いが現状の社会の混乱を起こしていることに気付くことができず、生命としての正しい秩序を世界にもたらすことはできないのです。
木の花ファミリーの暮らしが今日まで続いてくることができたのは、一人ひとりが自らの心を美しくするという目的の柱があったからであり、その背景にあるのは、高い意識の精神性 ─── 即ち、愛と信頼です。この世界の大本は、愛による美しい調和から成り立っており、これからの時代においては、その成り立ちに沿ったクニツクリをするべきなのです。

そのために、高い意識の優れた道理を語れる者とならなくとも、ただ正直であり、素直であり、自らの損得を元に思考を巡らせるのではなく直観にゆだねて生きていけば、この世界の実体である美しい世界へと至らしめることができるのです。なぜならこの世界はもともと美しく、ただ人間が自らの欲によって、それを汚してきただけであるからです。今、いよいよ人間が自らの優れた能力を、大本より求められている目的に向けて発揮するために、野心を捨て、真に美しい世界を創る時が来ているのです。
真実は、私たちは自らの力によってこの世界を生きているのではなく、宇宙の大いなる仕組みの中で命を与えられ、生かされているのです。ですから本来、私たち人間は、自らを生かしている世界の側の意思に沿って生きる存在であり、自らの側から湧き出す願望を叶える立場にはいないのです。その精妙なるメッセージを受け取るためには、自らの思考回路のもとにある精神を美しく磨き上げなければなりません。そのような状態に至れば、天体が私たちに、どう生きるべきかを伝えてくれるのです。その天の命(めい)を受け取り、自らの生き方に反映していく。それが地上を生きる本来の人の姿勢であり、生きるとは、天命の表現なのです。
現代の人間社会にも、共同体の形を取る場は数多くありますが、個々の自我を満たすことがその場の目的になっている限り、自我は増幅し、いずれ矛盾を発生させます。その状態になると、場を継続させることは不可能となります。過去の宗教のように、ある特定の囲われたエリア内で継続していくことは可能であったかもしれませんが、それは特殊な世界であり、一般の人々は受け入れないものでした。だからこそ今、開かれた目覚めが求められています。視野を広げてみれば、地球も宇宙の中では特別なエリアであり、ひとつの共同体です。地球上に生命として生きる私たち人間はそのことを悟り、天の命を受け、それを物理性として地上に表現した時、地上に美しい世界がもたらされることでしょう。それが地上天国です。それが宇宙が私たち人間を地上に降ろし、託した目的なのです。

私は今、湧き出す想いを天に向かって「肉体人間の立場を取るものが、やっとその意思を気付きとして語れるようになりました」と発信しています。それは、宇宙から託されたものを人間の真の目的として成し遂げるという宣言であり、その宣言は、銀河運営センターであるセントラルサンに向かって発信しているのです。それが、もともと天から降りてきた人が地上に生きる上での本来の姿勢です。
人がそういった意識レベルに到達すると、霊的な気付きは物理性となって自動的に表現されます。そうすると、天地の間には多少の誤差が発生する時を迎えます。そのことが理解できない人々には、宇宙は混乱、無秩序、対立、破壊といった現象をもって伝えられることになるでしょう。これから確実に、私たち人間にも、そして他の生命にとっても、厳しい時代が地球上に訪れます。これまでの人類の数々の行いの結果、今や地球上には様々な矛盾の現象化として物理的及び霊的なゴミがあふれ、本来美しく豊かであるはずのこの星は、宇宙のごみ溜めと化しているのです。本来、宇宙にゴミは存在しません。なぜならば、すべてが留まることなく循環し、常にプラスとマイナスの対向発生により、繰り返し矛盾を解き放つのが宇宙の仕組みであるからです。もしもその矛盾の発生源が私たち人間であるならば、その矛盾の解放と共に、発生源である私たち人間も淘汰される対象となるのです。ゴミとは、本来の自然の循環から外れた状態だということであり、人間もその矛盾の発生源であるならば、自ずと不要なものとなるのです。木の花ファミリーでは、心を磨き、古の叡智であるカタカムナの物理性を生活の中で実践することにより、世界観(物理性及び霊性)を広げ、自らが媒体となって宇宙の法を現象世界へと引き出し、プラス過剰となった現在の地球の状態をリセットする作業を意識的に行っています。そのような現象世界の矛盾を解放する行為を物理的に行うことができる能力は、唯一人間だけに与えられたものです。その能力は、その意識レベルに到達した精神性を有する者に自ずと現れます。そしてその精神性の大本は、宇宙の霊性にあるのです。

これまでの人類は、霊的見地からの物理的探究が不十分であるがゆえに宇宙の実体を理解できず、物理性のみをベースとして宇宙をひも解いてきました。その結果、今、物理的探査が進み、科学を通してより正確に宇宙を観察できるようになりました。生命についてもまた、科学を通して探求し、その科学的視点に霊性を照らし合わせて観ることによって、人間の存在の意味が垣間見えるようになってきたのです。
しかし、どれほど科学が進歩したとしても、最終的には、この巨大な宇宙を我々物理的人間が科学によって解明することは不可能です。宇宙の実体は物理的宇宙の奥にある、霊性にあるのです。私たち人間の本質も霊性にあり、その霊性をもってこそ、宇宙を解明することが可能となるのです。そういった意識レベルで宇宙の総意を感受し、そこからこの世界の実体を自らに降ろすことにより、宇宙が何ものであるかが明快になってきます。そのような状態に人の意識が至れば、私たちは宇宙の意思と共に生きることができるようになるのです。つまり、私たち肉体人間は、物理的にはこれほど小さな存在であっても、宇宙そのものとして生きることが可能となるのです。そしてその意識レベルに到達した魂は、いずれ肉体という小さな物理的枠から解き放たれた時に、この世界に遍満するものとして宇宙と合一することになるのです。

地球に生きる私たちは、日々の中で様々な物理的現象に出会います。それは、その現象からきめ細やかな学習の機会を与えられ、生きているということです。そこで自らの思惑から外れたことに出会えば、その未熟さゆえに、人間は悲しみ、怒りもするものです。しかし、宇宙の法とは因果応報であり、輪廻転生であり、常に新陳代謝を繰り返す永遠なる循環の世界です。その中で特定の状態に執着する思考を持っていれば、循環の中に滞りを生み、宇宙の意思から外れていくのです。その囚われから、人間はどれだけ自らを解放することができるでしょうか。
何人も、世界の現状を自らと切り離して捉えるのではなく、自らのあり方が世界の現状を創っていることに責任を持ち、謙虚な姿勢で生きることの表現に取り組んでいかなければなりません。これまでの人々は、問題ごとに出会えば自らを差し置いてその問題ごとに怒りを向け、批判をする立場に立ってきました。けれども今私たちに必要なことは、怒りや批判ではなく、宇宙の中で私たち人間がどのような存在であるかに気付き、自らが謙虚に生きることなのです。
そのような意識レベルに到達した時、私たちは、この世界がすべて愛でできていることを、知ることとなるでしょう。私たち木の花ファミリーは小さな存在ではありますが、これは地球の未来に向けた、宇宙秩序に基づく生き方の実践です。宇宙の成り立ちがそうであるように、地球の生態系に表現されたその尊い宇宙の奇跡を、そこに生きる私たちは、ふさわしく表現していかなければならないのです。

 

目覚めよ。
その目覚めが、宇宙の奇跡である地球と共に、人類が尊き存在として歩むことにつながることを願って ──────

 

 

 


「大正直」から「大調和」へ ~ 新時代「令和」を読み解く 2

時代が「令和」になって数週間が過ぎたある日、ある若いご夫婦が木の花ファミリーを訪れました。奥さんはかねてよりファミリーをよく知っており、お坊さんであるご主人にも紹介しようと一緒に訪問したとのことで、見学ツアーやウェルカムコンサートを体験してご主人も感銘されていた様子でした。そしてその日の夜の大人ミーティングで、ジイジはこんな話を始めました。


ジイジ:
お坊さんは、長年の慣習の上に乗り、今の地位を保っています。それは本人の実績ではありません。ですから、その姿勢で生きていると、どこかに矛盾が発生します。これまでは職業としてそれで食べていければよかったのですが、時代が変わり、一人ひとりの生き方が問われるようになると、これまでのような在り方では、自らの内に疑問が発生します。
現代のお寺の在り方では、これからの時代を生きる人々に、生き方を提案することはできません。人々の心の問題も解決できません。今日ここを訪れたお坊さんは、お寺は今や葬儀のためにあるようなものですと話していました。精神的な活動もするものの、基軸が伝統の上に腰かけているわけですから、斬新さがないのです。そのお坊さんも、どこかでそれをわかっています。わかっているからこそ、「これが正しいのだ」と思い込まないとやっていけないのです。そうでなければ、挫折するかのどちらかです。
お寺では、人間はどのように生きたらよいのかということに対し、その教団の過去の実績という限定された世界から答えを出そうとするので、無理が発生します。それでは画一的な解決策になってしまいます。これからは、宗教が示すような解決策は通用しなくなるということを、僕はずっと語ってきました。一人ひとりの人間が出会う出来事は、それぞれにオリジナルなものです。宗教は、そういったものにも対応してきたかのように思われていますが、一人ひとりそれぞれに違う問題ごとに対し、マニュアルを設けて解答を出しているようなものなのです。マニュアルを出しているようなものでは、解決策は見出せません。では何が解決するのかというと、開眼です。目が開くということは、一人ひとりがそれぞれの中に眠っているものを目覚めさせるということです。一人ひとりの実体は、それぞれにオリジナルな目覚めを促すために用意されているのです。

生きていると、外からたくさんの刺激が来ます。明治、大正、昭和、平成、そして令和と時代は移り進んできましたが、いつの時代も同じ刺激が来ているわけではありません。昭和の初めのころは、まだ日本は世界の大国に追いついていませんでした。しかし見栄を張るように無理をして軍事力を強化し、その盲目な判断が大東亜戦争につながりました。
その後、戦争に負けて自分たちの愚かさを知ったと同時に、日本人の高い能力、即ち精神性を完全に失いました。それは大和魂の喪失です。そして西洋物質至上主義にかぶれていきました。中国でも、共産主義によって東洋の叡智が失われました。共産主義は中国の人々の伝統的な誇りを奪い、日本人は戦争に負けたことによって大和魂を失ったのです。戦争でゼロ戦に乗ってアメリカの軍艦に飛び込んでいくのは、大和魂とは言いません。本来の大和魂とは、そのように命を粗末にするものではなく、争うことを避け、真実の探求のもとに大調和の精神を養うものなのです。それを日本人は失ったのです。

何かを失えば、何か代わりのものを見つけなければなりません。それが西洋物質文明でした。精神的支柱を失ったところへ、欲望をくすぐられ、人々は柱のないまま、与えられるままに「これが正しい」と向かっていきました。共産主義によって本来の精神を奪われた中国も、日本と同じように代わりのアメをもらったようなものです。改革開放によって欲望をくすぐられ、今も強大な国になろうとしていますが、その精神は西洋的な覇権主義です。
日本も、中国も、他の東アジアの国々も、西洋的覇権主義の汚染から未だ抜け出せずにいます。しかし時代は、800年間の隆盛期を終えた西洋文明が停滞期へ入り、東洋精神文明が花開く時代に入りました。ですから、そういった借り物精神の上に国を築き上げてきた日本や中国では、より多くの矛盾が起きています。アメリカやヨーロッパでも矛盾は起きていますが、それは元々の西洋文明が熟した上で発生しているものですから、ある意味当然のこととして定着しているのです。しかし、日本や中国のような東アジアの国々の西洋的発展は、人々の精神的成り立ちに馴染まないために、西洋に現れている矛盾よりも、より過激なものとなって現れるのです。

そこで今、僕は何を伝えようとしているのでしょう。
多くの人々には、新しいものが信用できない背景に、古いものに固執している習性があるものです。これまでの時代は、技術革新でも社会改革でも、新しいものに飛びついて物事を進めてきました。しかしそういったものに確信が持てなくなると、今度は単純に古いものに解決策を求め、また宗教回帰のような動きが起きているのです。ですから今、日本だけでなく西洋でも、お寺で瞑想するなどの修行的な行が流行っています。しかし、それでは根本的な解決策を見出すことはできません。それは過去のある時点でのレベルで通用するものでしたが、時代が未来へ向かって進化していく中で、そういったものはもはや通用しなくなり、結果を生み出すことはできません。ところが現代人は、未来への見通しが立たないために、過去へしがみついているのです。
視野を広げて時代の変遷を正しく捉えれば、宗教の歴史は3000年余りの歴史にしかすぎません。太陽の1らせんは25800年です。人間の歴史は400万年です。地球の歴史は46億年です。そういった尺度からすれば、宗教の歴史は一瞬のことなのです。過去に戻り、それで安心しようとしてはいけません。それは単に、自分の心が納得できる理解の範疇で、落としどころを探し求めているにすぎません。

僕は難しい話をしていますか?それは、今朝、重要なことがあったからです。それをすべてみんなに伝えようと思っても、みんなはまだ受け取る心の準備ができていませんから、みんなにも理解できるように話します。

2012年12月21日に銀河の冬至を越え、太陽の1らせんである25800年のサイクルがひとつの区切りを迎え、次の段階に入りました。有史と呼ばれる地球上に表現された人類の文明の歴史は、その1サイクルの1/4の6450年です。それ以前には、人々は自然と共に生き、文明と称されるような記述はありません。そして、25800年の1/4を経た現代文明の物質的発展はピークを迎え、人類の精神性が闇のピークを迎えた今、私たちはその歩みの軌道修正に入ったのです。
軌道修正をするとは、生きることへのエネルギーの使い方が変わることです。25800年のサイクルを終えて次のサイクルに入るということは、元へ戻ることが始まったのではなく、次の段階のサイクルへ進むことなのです。そしてその軌道はらせんを描いているのですから、直線のように進んで急に方向転換するのではなく、常に軌道修正をしながら進んでいるのです。ですから、伝統を重んじ、語ることは大切なことですが、それを真実として固定し、直線的に進み続けることは、時代の流れや変化に基づく進化とはずれていくものです。今日ここへ来たお坊さんはまだ若いですが、既に限界が来ていることをどこかで感じているのでしょう。だからこそ、「自分の道はこれでいいのだ」と自らに思い込ませるために、かえって言葉が強くなるのです。その響きを、一緒に来た奥さんは日々の生活の中で感じているから、「お寺にいると気持ちがもやもやしてくる」と言うのです。簡単に言うと、お坊さんは頑固者になってしまっているということです。

これは仏教だけの話ではなく、現代に存在する様々な宗教にも共通する話です。宇宙的には、宗教の時代は、それが必要とされた時代の余韻は未だに残ってはいるものの、既に終わりを迎えています。そこで私たちは、どのように次の時代を迎えるのかが大切なのです。縁あって出会った聖人の教えに則り、何百年も何千年も同じことをやっていては、古くなるに決まっているのです。
これからの時代は、一人ひとりが天と直結した信仰のもとに、自らの進む方向を見出していく、そのために一人ひとりが自らの存在する意義に目を覚ます時代です。宗教が果たしてくれた役割は終わりを迎えますが、私たちに信仰は永遠にあり続けます。それは、信じることの対象が変わるだけなのです。しかし現代の人々には、そのことがなかなかわかりません。なぜなら、自ら考えて判断をしないことに慣れてしまっているからです。考えなくてもいいように法律で縛られ、宗教で縛られ、教育で縛られ、マスコミの情報に操られ、いかに考えなくてもいいように現代人は仕向けられてきたことでしょう。考えなければ、自然界の動物や植物のように、無の境地において、世界に害をもたらすようなものではなくなるのかと言ったら、人間についてはそれも違います。では、考えないように仕向けられると何が起こるのでしょうか。それは、与えられる情報のままに、与えられるもののままに、何も考えず、欲に囚われ闇雲に生きていくのです。
その欲は自我を増幅させ、目覚めることから人々をより遠ざけます。こういった現象をもたらすものとして、宗教も例外ではないのです。これが、現代社会の奥に仕掛けられている、何者かによる罠です。その罠に、現代の人々ははまってしまっています。そしてその罠は、誰か一人がいい思いをするために仕掛けられているのではありません。人間であることの限界を超えるための定めなのです。地球人間であることも超え、宇宙人間である意識レベルに到達した時に、人々はその罠から抜け出せるのです。

僕は現状の人々の姿を観ていると、嫌になることがあります。しかし、人であることの重要な目覚めの時は、熟しているのです。今のあなたにとって「これが絶対だ」と思うものを、捨てなさい。これをやったら救われる、などというものを、捨てなさい。そしてどうするのかは、自らの目を開けることです。
みんなは、頭を使うことを損だと思っていませんか?そして、物事を集中して観ていない。集中して観ないから、いい加減な状態でもそのまま進んで行けるのです。だから僕はみんなに、「脱いだ履物をそろえなさい」と言うのです。
外国の人は、履物をそろえません。それは振り返る気がないからです。(この時、メンバーの一人がテーブルの上の水筒を倒して大きな音を立てました。)ああやって話の最中に大きな音を立てることも、本当は振り返らなければなりません。そのように流れを壊す自らの人間性を観る必要があるのです。何だか細かいことをいろいろと言われて嫌だな、と思うでしょうか。しかしそのくらい丁寧に互いを観合うことで、自分自身の本当の姿が観えてくるのです。

この世界は、運命共同体です。地球上に起きることはすべて、自分自身に対してのメッセージです。こんなにも地球を汚しておきながら、それを他人事にしておけるわけがない。それは環境問題で議論するようなこととは違う話です。
人間のスケールが大きくなり、個人から地球人、さらに宇宙人という意識になれば、地球がいかに奇跡的な存在であるかということがわかり、それを汚すような愚かなことはしなくなります。それは当たり前の話です。しかし環境活動家は、その当たり前のことを言って、自分たちは偉いと思っています。そのくらい現代人は意識レベルが低いのです。さらに、環境意識のない人々は、その当たり前のこともまったくできずに地球を汚しながら、それでいいと思っています。
そういったことが理解できると、何がやっていいことで、何がやってはいけないことなのか、ここではどうすればいいのか、ということが観えてくるはずです。

ありがたいことに、日本では、家に上がる時に靴を脱ぐ習慣があります。外で土を踏み、帰ってきて玄関から家の中へ上がる時に、靴を脱ぐでしょう?土を踏む場と生活の場が分かれているのです。そして家に上がった時に振り返ると、自分の脱いだ靴がどうなっているのかが見えます。そこに観えるのがあなたの人間性です。それは過去を観ているということです。自らが脱いだ靴の状態を観て、自らの過去を振り返り、自分の姿勢がどうであったかを判断していくのです。
では過去を振り返らなくても靴をそろえれば過去が正されるのかというような、愚かな考えをする人がいますが、そういうことではありません。靴をそろえるのは、自らの過去を振り返る姿勢があることの証でなければなりません。その行為を通して、今日一日の自分がどうであったかを振り返り、姿勢を美しく整える。それをいつも忘れない。令和には、そういったことが示されています。揺るぎがなく、筋が通り、美しい。そして次のステージへと進むのです。家から下りて靴を履く時も同じです。きちんとそろえられた履物に向かう時、これから進む未来に対する姿勢を整えるのです。それをいい加減にやっているとしたら、それがその人の人間性です。
子どもたちはまだそのことがわかりませんし、逆に言えば、子どもたちがだらしなく靴を脱いでいたら、そこにいる大人の人間性が反映されている結果ですから、子どもたちはその行為を持って大人に教えてくれているのです。そのいい加減な子どもの姿勢に対し、何も言わない大人がいる。子どもは鏡ですから、大人がだらしなければ、子どももだらしなくなります。その状態を問題だと思う意識が大人になければ、子どもはさらにひどくなって、さらに大人たちに教えることになるでしょう。

現代は、生の情報を肌で感じ、自らの頭で思考して未来に向けてのプログラムを組み、自信を持って確実に歩んでいくということができなくなりました。情報はすべてパソコンやスマホから仕入れ、便利で豊かになったようですが、人々の生きるための生命力センサーはどんどん退化しています。
今は5月ですが、これから夏に向かうにつれて、また世界中に災害が起きてくることでしょう。それは自然の問題で、自分に問題があるわけではないと多くの人々は思っています。しかし、それはすべて、履物の話と同じなのです。履物が散乱しているのはその人の人間性の現われであるように、病気になるのも、その人の人間性です。災害が起きるのも、今の人類の人間性の結果なのです。そういったことを緻密に観て、しっかりと振り返り、改めて、先へ進むことが大切なのです。

そこで大切なことは、常に新鮮な出来事に新鮮な心で向き合い、自らの枠に囚われず、物事の実態を冷静に捉え、進化につなげていくことです。これまでは、過去のものを実績として積み重ねていくことが大切な時代でもありました。過去から学ぶことは大切なことです。しかし、そこで過去に執着したり、特定のものに正しさを求めると、古びたものに真実を固定してしまうことにもなります。正しさとは、未来に行って与えられるものなのです。
その時に、まだ来てもいない未来のことで結論を出してはいけません。わかるはずがないのですから。まずは今、自らが行うべきことをする。そうすれば、それにふさわしい答えが未来に結果として与えられます。宇宙や地球の仕組みは、常にその答えを返してくれるのです。自分で結論を出すのではなく、今やれることに最善を尽くし、その結果を未来に受け取っていく。それがこれから求められる地球上での人間の立ち位置です。

今、地球上に聖者はいません。しかし、人間は本来誰しもが、優れたものとして地球上に生きることができるのです。本来、そのために人間は地上に降ろされたのです。これまで、過去にどんなに優れた人が降ろされていたとしても、結果として人間たちは今、地球のガン細胞のような存在となりました。ですからその証として、現代に優れた人はいません。本当に優れている人ほど、自らの実力のなさが今の地球の現状を招いたのだと、謙虚に振り返っているはずなのです。
お坊さんたちは、もっと自由な生き方をしたらいいのです。僕の田舎のあるお坊さんは、僕が田舎へ帰ると会いに来て「偉佐美さんは自由でいいですね。私は職業としてこの道を生きていますから、道が限られているのです」と言うのです。しかし、僧侶であるからこそ、娑婆のしがらみから離れて仏の道を自由に歩める存在であるべきなのです。むしろ私たちこそ、娑婆にいて、しがらみに縛られているのに、何を娑婆の人間を羨んでいるのでしょう。
「家がお寺だから僧侶にならざるを得なかった」というのは、ならざるを得なかったのではなく、そういう決断をした自分がいるということです。それだけ親や家に囚われているのです。過去のしきたりを守ろうとするのは囚われであり、自らの魂を濁らせます。
仏教の中でも禅宗では、座禅を組み、自らを無にしろと言いますが、思考を無にしようと思えば思うほど現実逃避になります。だから迷いはさらに増すのです。そして求める一方になります。それは今の宗教の信者たちと同じです。何かいいことはないだろうかと、自ら考えずに求めるばかりになるのです。

この暮らしは、僕が言い出したことから始まりました。そこに集った皆さんは、それに便乗するために来たのでしょうか?僕が最も問いたいのはそこです。便乗するためにここに来たのであれば、それはこの暮らしの求める在り方とは違うのです。過去の経典や誰かの教えにすがるのでは、学校の勉強と同じです。一人ひとりが自らの足で立ち、オリジナルの道を歩むのが、ここの生き方なのです。
では、それが未だ不十分なここに暮らす人たちは、レベルが低いのでしょうか。一般社会で暮らす人々は、現代社会の価値観に汚染されている状態です。しかし、そういった中に紛れて暮らしていると、汚染されていることがわからないのです。こういった一般社会とは違う価値観の場所を訪れると、どのくらい自分自身が汚染されていたのかが観えてきます。今、ここに暮らす人たちは、僕に便乗はしていても、自分自身には汚染されていません。お金も時間もプライバシーも、ここの人たちはすべて共有しています。その状態に生きるには、相当意識レベルが高くなければできないことです。
もともとは、お坊さんたちもコミュニティで暮らしていました。しかし、やがていくつもの宗派に分かれてそれぞれの理屈をつくり、今ではお坊さんであることが飯のタネになってしまいました。それでは一般社会の人々と同じです。ですから、現代のお坊さんの魂は優れているとは言えません。
本来僧侶とは、一般人にはできない生き方をする人々だったのですが、今は一般人からも求められる存在になってしまいました。昔は「乞食坊主」などと言われて何も持たずに托鉢で生きていたように、普通の人々にはできない生き方をしていたからこそ、優れた存在だったのです。今は、お坊さんは優れていると讃えられ、良いことの教えを伝える立場に立っています。それは、一般人にとってわかりやすい話です。わかりやすいということは、それだけレベルが下がったのです。

真理は、常にわからないものです。では、そこへ向かうためにはどうしたらいいのかというと、自らを保つことを手放し、わからないところへ進むのです。僕の言っていることは、わからないでしょう?でも、わからなくてもいいのです。僕には観える景色があるのですから。

さて、ここからが本題です。
今朝、夢を見ました。そして目が覚めてすぐ、その夢を振り返りました。
夢の中で僕は、何かを語っている人を見ていました。その場は、コミュニティの中です。コミュニティの中の人々が、一生懸命何かを語っているのです。その空気感は、僕が記憶している限り、初めて出会うものでした。僕には現世以外の記憶も、そして地球規模を越えたスケールの記憶もありますが、それも含めたすべての記憶の中で初めての空気感に触れたのです。
その空気感が、我々の日常であるコミュニティの生活の中に表現されていました。その時僕は、人間社会にもこのような境地が表現できるのだ、と思いました。「突破できる!」その確信を持ちました。

これまでどれだけ、現状を突破できないことに試行錯誤してきたことでしょう。それを突破できる道筋が観えたのです。それで「よし!」と思い、目が覚め、その場にいた人たちに今見た夢の空気感を伝えようと、言葉にし始めたら・・・・・その響きが表現できないのです。目覚める瞬間まで感じていた空気が、その空気感を言葉にしようとすると、表現できないのです。その空気とは、おそらくこれから私たちが到達し、体験するものです。そうなるかどうかは約束はできませんが、それを私たちは目指しているのです。
その空気を、感じられたのに、言葉に表せない。しかし今でも、僕には確かにその響きを感じた記憶があります。ですからこの事実は、伝わらなくても、語るべきなのです。

皆さん、時代は既に、次のサイクルに入っています。いつまでボケているのですか。そのことがわからないという人に「わからないからダメだ」とは言いませんが、わかろうとする意志を持つことは、誰もができることです。わかろうとしない自らの姿勢に向き合うことはできるのです。

「簡単なこと」です。大調和という大和の心を呼び覚ますために私たちがするべきことは、「大正直」です。

私たちの創るこの場は、正直がモットーの場です。コミュニティ外の人々がいる場でも、お金のことでもプライバシーのことでも、どんなことでも正直に話し合います。しかし、さらにその先があるのです。
私たちは、ものと対話する時に正直でないことはあまりありませんが、人と対話する時には、自らの心の中で思ったことを出さないことが多くあります。中にはほとんど出さない人もいます。それでは心は濁ります。
どんなに言い辛いと思っても、すべて正直に出す。それを笑って積極的に取り組める。こういった人と人の距離が近い暮らしの中で「本当はこうなんだよ」「本当はこうなんだよ」とみんなが出し合い、やがて「本当は」と言う必要がなくなって「こうなんだよ」「こうなんだよ」と出すようになり、そのうちに「こうなんだよ」とも言う必要がなくなって、言葉にしなくとも顔を見ただけでわかり合うようになる。やがて人々は、心の中で思うことを、その人の姿勢ですべて表現できるようになるのです。
そこで僕は自分自身を振り返りました。僕は何か心の中にあって出していないものはあるだろうか。そう思って自分自身の心の中を観てみると・・・・ありません。気付いていないこともあるかもしれませんからゼロとは言えませんが、95%は出しているでしょう。しかし多くの人は、95%出していないのではないでしょうか。それでは通りの良い世界はできません。

厳しい修行などいらないのです。ただ正直に生きることで、心が解放されれば、ことは自ずと整い、ものを言わずとも通じていくようになります。
今朝、この話をその場にいた二人の人たちにした時には、通りが悪いと感じました。なぜなら、人数が少なかったからです。しかしこの大人ミーティングの場で語ると、もう少し理解が進む感覚があります。しかしそう言うと、みんなはいつものように話を聞いて「なるほど」と満足し、この場が終わればもう忘れて、その大事を実践しないでしょう。
それを実践するには、真剣な努力が要ります。つまり、自らの中に出していない、相手から隠している心があるということに気付かなければなりません。みんなクセのようにそれを持ち続けているのです。
正直を出して失礼なことはありません。それは自分の目から見た真実だからです。そして自分の目が歪んでいたら、相手や現象が正してくれます。それが人生で与えられた修行の意味です。何も座禅を組んだり経典を学ぶ特別な修行をする必要はありません。誰でも、人生という場で、完璧な修行を与えられているのです。脱いだ履物は、私たちにそのことを教えてくれているのです。

今朝僕が夢で感じたものは、20世紀から30世紀にかけての千年紀を生きる人類にとってとても重要なものだと、僕は感じました。その場をあえて例え話で表現するとしたら、ロータスランドでスタッフがお客さんから注文を受けて、出来上がった料理を持っていくでしょう?そしてお客さんの前に料理を置いて、「これはうちで無農薬で育てたものです」「これはうちで育てられなかったので、どこどこのお店で何円で仕入れました。利益率はこれだけです」と説明し、お客さんはそれを全部わかって食事する。顔色の悪い人がいれば「お客さん、今日は顔色が悪いですね。何か心に問題がありませんか。自然療法プログラムを受けて自分の心を見直したらどうですか。」大食いをする人には「そんなに大食いしたら体に悪いし、地球も喜びませんよ。みんなが健康に生きるのにちょうどいい量を地球は与えてくれているんですから、そんな食べ方はやめましょう。」無駄遣いをする人には「いくらうちが安くていいものがそろっているからといって、そんなに無駄遣いをしないで、家のローンの返済にあてた方がいいんじゃないですか。」そんなふうに、スタッフが正直に話しかけている。(みんな:笑)そんな店があったらいいでしょう?

みかこ:
今の話を聞いていたら、『むかしむかし』の歌の歌詞を思い出しました。

こころですべての いのちたちと 自由に話していた
かつての日々へ わたしたちは またかえってゆく

ジイジ:
いつの頃だったでしょう。まだこういったことを語っていなかった頃、もしかすると、命であることはとても重要なことなのかもしれない、と思ったことがあります。
その頃の僕は、宇宙の実体を想像したり、UFOの存在を考えたりしながら、この広大な宇宙の中にある地球というものに対して、あまり特別なものだという認識がありませんでした。日常を生きていても、たとえば学校に行って勉強の出来がどうだとか、将来どんな職業に就くかとか、年頃になったら相手を見つけて、というのもそれが尊いことだという意識もないものだから、当たり前のように欲望のおもむくまま世間並みを生きていました。そうすると、自分というものはどこにでもある、いくらでも代わりがあるものという感覚で、とてもそれが特別なものという認識はないのです。例えば、日本の天皇家の歴史であっても、昔なら権力争いの渦に巻き込まれていたように、もっと言えば神話の世界であっても嫉妬や妬みが織り込まれた世界が描かれているように、天上界すらもそのような状態なのです。それが当たり前のように地上に降りてきて、私たち人間は気楽に自己表現をしながら生きており、その一人ひとりはたいして重要なものではないと思っていた時期がありました。しかしそう思いながら、どこかで、もしかすると命であるということは特別なものであり、奇跡の存在かもしれない、と思うところもあったのです。
子どもの頃、日本人一人当たりの所得が世界で26番目くらいで、アルゼンチンのようにあまり馴染のない国よりも低かったデータを見たことがあります。その時に僕は、世界には上がたくさんいるのだと思いました。大人の給料の平均が月給2~3万円で、5万円の給料をもらっている人がいたら理想の結婚相手だと言われていた時代に、アメリカ人の平均給与は15万円と聞いて、別世界の人々の暮らしのように感じたことを覚えています。その後、日本は高度経済成長を遂げてどんどんアメリカに追いつき、僕が20代の頃には『Japan as No.1』という本が出版されました。日本の土地の平均単価が世界で一番高くなり、所得もむしろ日本の方が高くなるほどでした。ところが、まったく豊かさを感じないのです。なぜなら物価も同時に上がるものですから、豊かになった実感がなく、そのうちにバブルが崩壊して、現在に至っています。
自分たちは世界の下の方だと思っていたらいつの間にか経済大国になり、世界No.1になるかと思ったらガタガタと崩れ、日本は豊かな国だと言われていても、実際に国民に意識調査をするとその実感がない。そのように、日本人であることの尺度は、いくらでも変化するのです。

そんな中で、命であるということは、比べる対象がありません。これは、地球生命が共通して持っているものです。日本人であるということは上がったり下がったりしますが、宇宙にあって命であることの価値は、変わらないのです。そこで、命に対する捉え方の違いがあるとすれば、命に対して自分がどのような見解を持っているか。その一人ひとりの視点に違いがあるからです。
この世界では、命であるということがものすごく貴重なことなのではないか。地球に生命として生きることは、とても重要なことなのではないか。そんなことを僕は思うようになりました。愚かな命も尊い命も、命であるということは特別なことなのだ、と。命とは、多様性を表現しているのです。
例えばミミズのように小さな生き物であっても、それはただその生き物がそこにいるというだけでなく、その存在を通して、その奥にある、もっと大きなスケールでこの世界を動かしているものの実体が感じられるのです。命とは、私たちが認識している現象界にある命というものを越えて、もっと巨大な、宇宙を包括する存在である。そのとてつもない存在を、どこにでもたくさんいる、何気ない生命の息吹から感じるのです。そのように命と向き合った時に、自らの欲で何かを支配しようとするような心は、湧いてこなくなります。ただ、自らがその大いなるものの中に漂っているような、それこそ母親の子宮の中で羊水に漂っている赤子のような、安心感を感じるのです。
そのようなことを考えながら生きてきて、68年が経ちました。今は、自分が生命であり、思考し、宇宙を解釈できることが、どれほど優れたことなのかを思います。死んだ先の世界や、この世界を運営する側の存在があるのかというと、それは我々生きている人間にとっては関係があるのか。実はこの生きている人間が、生命としての自らに目覚め、自我を捨て、宇宙を解釈していくと、その我々とは関係ないと思っていた世界の延長に自らが存在しているのであり、それを探求していくと、最終的には宇宙と一体となり、すべての存在と合一することになるのです。

「命」という字の成り立ち

「命」という字は、人が儀礼用の帽子をかぶり、祭壇に膝間づいて、天の命(めい)を受ける姿を表しています。
生きること、即ち命であるということは、天の命に従って生きることです。それは、生命の側が自らの思うように生きるのではなく、すべて天の法則に則り生きるということです。地上にいれば、天が命を下しますから、地上のものは「どのように生きれば良いでしょうか」とお伺いを立て、命を頂き、それに従って地上を生きるのです。その時に、地上の概念は天の命となり、地を生きるものが天の国を地上に降ろしてくるのです。そして天の意思に基づいて地上を生きる。それが「地上天国」の表現となるのです。
命とは、天(宇宙)から地(地球)に降ろされた、神の響きです。即ち、現象界に生み出された神であり、それを命(みこと)と言います。そして私たち地上を生きるものの最終目標は、この現象界にあるのではありません。しかし、現象界にあるのです。人間とは、現象界を通り、神の存在する境地まで到達できる存在なのです。

日蓮さんの教えの中で僕に響いた言葉があります。それは「宇宙とは生命である」という言葉です。それを聞いた時、自分は宇宙の実体である、と思いました。普通に欲があり、これといったとりえもないごく普通の人間である自分が、宇宙根源と同じなのです。それが生命としての悟りの位置なのです。
小さな虫も、道端の草や木も、皆、宇宙を運営する側の存在として、この世界を生きています。しかし人間だけが、自我に染まり、こちら側に生きているのです。人間の能力を生かしながら、もしもその、自我で生きるのではない境地に至ったならば、人間とは何と尊いものであることか。その時に、私たちは初めて、自らの価値を知ることになるでしょう。
地球には、溢れるほどの命が存在し、それらがすべてつながり、循環し、ネットワークしています。それは大調和です。それが私たちの国のもうひとつの呼び名である「大和」の精神です。一つひとつの細胞が健全に配列されることで私たちの体が健康となるように、一つひとつの命が健全に配列されることで、地球が健康になります。
時代は令和となり、これから命の本質が問われる時代がやって来ます。どこかで私たちは、一人ひとりが自らと対話し、生きることの決意のスイッチを入れる必要があります。それが、命ということの意味だと思うのです。意志がはっきりして、決意が明快であれば、行動も明快になります。ところが意志が曖昧で、決意がはっきりしていないと、行動も曖昧になるのです。それを無駄と言います。しっかりとした決意のもとに生きれば、無駄は起こらず、物事はとても効率よく進み、たくらみのない思考が湧いてくるようになります。それを「閃き」と言うのです。

これからの時代がどれほど困難であるのかは、行ってみなければわかりません。平成は、その困難な時代の予告編だったのかもしれません。令和になり、いよいよ本番です。ではなぜその本番を与えられたのかというと、その先があるからです。
過去6億年の間に6回大量絶滅を繰り返してきた地球の生命の歴史に照らし合わせてみれば、現代を生きる人類は、次の生命大量絶滅の引き金となるかもしれません。人々は、何かが壊れる前はそれを守ろうとします。そして壊れれば、それを惜しみます。しかし、壊れるからこそ新しいものをそこに表現できるのです。それは、大量絶滅をするたびに進化してきた生命の歴史と同じです。
ですからやはり、壊れなければなりません。そこで、積極的に壊れていくことを喜べる生き方とは、どのようなものでしょうか。それは、使えるものを壊していくということではなく、価値観を変えていくということです。出会ったことをポジティブに捉え、変化することを喜ぶ。その時の変化は、進化になります。
変化は積極的に喜びを持って受け入れるものですが、現状の自分を守ろうとすると、出会ったものを拒絶したくなります。さらに、その自分に執着すると、変化は苦痛になります。それは、地上にいて地獄を生きることとなるです。しかし、それが喜びとなった時、尊いものへと向かう目覚めが始まるのです。

火山が噴火する、地震が起きる、台風もたくさん来る。そういう日本にいて、それが喜びになる。大変なことがあるから、大調和になるのです。それが大和という国であり、その証として、令和という時代がいよいよ始まったのです。
令和は、平成よりも物理的にはさらに厳しい時代となるでしょう。それを、大調和を持って乗り越えなさいということです。その厳しさは、ただ乗り越えるためではなく、大調和することを呼び覚ますためにあるのです。これから、今までに人類が積み上げてきたものがどんどん壊れていく時代が始まります。それを乗り越えるために必要なことは、力を合わせること。そして、壊れた先には、これまでに出会ったことのない新しい世界が待っているのです。そのことを、令和という時代は、私たちに示してくれているのです。