これは宇宙プロジェクトです

5月27日から約3ヶ月間木の花ファミリーに滞在している、タイの代替教育学校に通う高校生のナッちゃん・マインちゃんと、先生のワンちゃん。その滞在も残り10日間となった8月8日、3人といさどんが話す時間が持たれました。その2日前の8月6日の子どもミーティングで韓国人のソミンちゃんたちといさどんとの会話がシェアされたことを受けて、この時間は第二次世界大戦についての質問から始まりました。

■    ■    ■

ワンちゃん:
タイの学校では、大学に入るまで第二次世界大戦について詳しく勉強しません。ですから、マインちゃんとナッちゃんもそういう戦争があったことは知っていますが、なぜそれが起きたのかは知らないのです。

マインちゃん:
なぜ第二次世界大戦が起きたのですか?

いさどん:
それは一言で言えば、人間が自分のことしか考えず、他人のものを奪ってでも豊かになろうとした結果です。

第二次世界大戦の流れを簡単に説明すると、まずその始まりは15世紀から17世紀にかけて、「大航海時代」と呼ばれる、ヨーロッパ人たちが世界中を植民地にしていった時代がありました。そういった中で、アフリカの人々を奴隷とし、アメリカという国が台頭してきました。そして1914年第一次世界大戦が始まり、当時有力な国のひとつであったドイツが1918年に第一次世界大戦で負けたのです。戦争で勝った国々は世界中にさらに利権を広げ、豊かになっていったのですが、ドイツだけが貧しくなりました。そのような中でドイツではヒトラーが現れ、ゲルマン民族の優秀さを謳い、ユダヤ人の排斥を訴え、もう一度ドイツ民族を再興させようとしました。そして1939年ドイツはポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まったのです。

かたや極東の日本を取り巻く環境としては、日本は明治以降日清戦争、日露戦争で勝利し、第一次世界大戦に参戦して中国に対する利権を獲得し、世界の強国の仲間入りをしようと企んでいました。その後、日本はアジアの国々をアメリカやイギリスの植民地から解放するという名目で、ドイツと組んで戦争を始めました。当時、インドはイギリスの植民地であり、ベトナムはフランスの植民地であり、インドネシアはオランダの植民地でした。中国に至っては、世界の強国がこぞって利権を奪い合おうと群がっていました。そのような状況の中、日本は大国の仲間入りをしようとして、韓国と台湾を併合しました。その後、日本は中国に対して戦争を仕掛けたのですが、その名目はアジアをひとつにするというものでした。ところが実際は、日本の利益を求めることが目的だったのです。それで、アメリカやイギリスなど、当時世界を植民地化していた強国は、自分たちの利益を奪われるということで日本と対立することになりました。そして、日本を経済封鎖したのです。このようにして石油資源を断たれることにより日本は行き詰まり、第二次世界大戦に入っていきました。

それでも、日本一国だけで戦争を起こすことはなかったのでしょう。当時、世界最大の工業国であったドイツはヨーロッパでナチズムによって発展しましたが、国際的には孤立していました。それから、イタリアにもファシズムというムッソリーニ率いる独裁国家ができていましたが、ドイツ同様、国際的には孤立していました。そこで、ドイツ・イタリア・日本が三国軍事同盟を結ぶことになったのです。

日本の中でも冷静な人たちは、国力から言えば日本はアメリカと戦って勝てるわけがないと考えていました。しかし、ドイツやイタリアとの三国軍事同盟があったがために、日本は軍が勢力を持ち、政府を抑えてしまうという軍事国家になってしまったのです。実際にドイツは東ヨーロッパ・フランスを占領し、アフリカにまで戦場を拡大しました。しかし、戦場を広げすぎると、軍の補給をするのがさらに難しくなるでしょう?結果、三国軍事同盟が敗北するのですが、最初にイタリアが降伏し、次にドイツが降伏して、最後に日本が降伏しました。この第二次世界大戦で日本人の死者数は310万人、ドイツ人の死者数は700~900万人、中国人の死者数は1000~2000万人、ロシア人の死者数は2100~2800万人と言われており、死者数の合計は6000万~8500万人に至りました。これは当時の世界の人口の2.5%以上が犠牲になったということです。

このようにして、日本・ドイツ・イタリアが敗れ、正義の連合国が第二次世界大戦に勝ったのです。そろそろ日本が負けそうだというときにヤルタ会談が開かれました。そのときにイギリスのチャーチル、アメリカのルーズベルト、ロシアのスターリンが会談しました。結局そこで話し合われたことは、この戦争が終わったときに自分たちがどこの国を自分のものにするか、ということでした。しかし元々、アメリカやポルトガル・スペイン・オランダといったヨーロッパの国々が世界中を植民地にしていたのです。それが結果として第二次世界大戦が起きることによって、彼らの国力が落ち、そして植民地が解放されたという意味では、第二次世界大戦は悪いことばかりではありませんでした。

そして第二次世界大戦を最終的に終結するきっかけとなったのが、広島と長崎への原爆投下でした。しかしそれは、ソビエトの共産主義とアメリカの資本主義という巨大な強国による二極化へとつながり、そこから冷戦時代が始まったのです。その影響下ですぐに、朝鮮半島では朝鮮戦争が始まり、現在の北朝鮮と韓国に分かれることになりました。結局、それはソビエトや中国という共産国に対するアメリカの代理戦争だったのです。次に、ベトナム戦争でも同じことが起きました。タイの隣国であるカンボジアではポル・ポト派が大虐殺をしましたが、彼らも共産主義勢力でした。それから、ヨーロッパにいたユダヤ人たちがドイツの迫害によってアメリカに渡り、彼らの科学技術の優秀さでアメリカにそういった技術をもたらすと同時に、ユダヤ資本はイスラエルを建国するために使われていきました。アラビアのロレンスという物語があるのですが、第一次世界大戦中にイギリスはユダヤ人に対して、中東にユダヤ人国家を創るという約束をしました。ところが、アラビアのロレンスは、正確に言うとイギリスのスパイだったのです。

ワンちゃん:
でも、彼はヒーローとして描かれていますよね。

いさどん:
それは西側諸国によって描かれているからです。それで、もともとアラブ人が住んでいたところにイスラエルというユダヤ人国家を創ってしまったのです。そして、入植したユダヤ人の多くは、ソビエトにいたユダヤ人でした。ですから、ソフホーズやコルホーズといった集団農場の考え方が、今のイスラエルのキブツ(集団農業共同体)の元になっているのです。

ワンちゃん:
まあ!知らなかったわ!

いさどん:
このように第二次世界大戦に至った出来事を簡単に説明しましたが、実際にはもっとたくさんの悲惨な出来事があり、たくさんの人々が死ぬことになったのです。そしてそういった国家の体質は終わることなく、今につながっているのです。

ですから、第二次世界大戦が終わっても、世界にはたくさんの利権の物語があり、中東戦争やイラク戦争、今のISにまですべてつながっているのです。このように、近代の国家は常に国益ばかりを追い求め、強国が世界を支配し、そして戦勝国という立場に立った側は、常に正義の旗印のもとに世界をリードしてきたのです。その背後には、どの国家も自らの欲望を満たそうとする弱肉強食の性質が隠されていたのが今、明らかにされてきています。

ワンちゃん:
それは、アメリカが戦争を終わらせたくないからですね。

いさどん:
そうです。今までアメリカは正義の側にいましたが、アメリカは利権によって動いています。イラン・イラク戦争でも、最近の世界のほとんどの戦争はアメリカが絡んでいるのです。

ワンちゃん:
アメリカの権力は、銃や武器を売ることから来ているのですよね。

いさどん:
オバマ大統領は、今年の5月に日本で開催された伊勢志摩サミットに参加する前、ベトナムへ行き、武器を売る商談をしてきたのです。そして広島を訪れ、「核のない世界を創りましょう」というスピーチをしたのですよ!

マインちゃん:
なぜオバマ大統領は武器を売るためにベトナムへ行き、それから日本へ来て平和について語ったのですか??

ワンちゃん:
それは彼が政治家だからよ!!

いさどん:
政治家というのは国益が元にあるのです。そして利権によって選ばれるのです。ですから、社会的に地位の高い人が優れた社会を創る人とは限らないのですよ。それは、今の人々が常に自分の利益ばかりを追い求めていることが原因です。そこでいさどんは、そのような利権を求める人々の代表が創る国ではなく、一人ひとりが目覚め、優れた人となり、地球というクニをひとつと考え、共に創っていく世界を目指しているのです。

いさどんを世界の独裁者にしても良い世の中ができるのは、いさどんは自分のことを先に考えないからです。それは、神様の姿勢と同じです。神様はこの世界を独裁して創っていますが、自分が創ったものたちにこの世界を任せているのです。ですから、後は人間が神様の意志を感じてそれに従えば、理想の世界はいつでもできるのです。

ナッちゃん:
なぜ腐敗している政治家が世の中で権力を持つことができるのですか?

いさどん:
それは、人間が自分が得することを優先して考え、自分に有利な政治家ばかりを選ぼうとするからです。たとえば、お金儲けの世界は人々が欲深でないと、成立しないのです。今、日本やタイは平和なように見えるかもしれませんが、人々の心はお金儲けや競争の中で、毎日戦争をしているようなものなのです。さらに、マクドナルドやケンタッキー、セブンイレブンなどのアメリカ資本の会社が世界にはびこり、金融システムもすべて、今はアメリカに支配されているのです。

このように、第二次世界大戦からの話をしていったら、物語はそこで終わらないのです。その前には第一次世界大戦があり、そのもっと前からの物語が続いていて、そして第二次世界大戦が終わった今も、この人類の欲深物語は続いているのです。

マインちゃん:
もし第三次世界大戦が起きたら、わたしたちは暮らすところがなくなることでしょう・・・

いさどん:
第三次世界大戦が起きる心配をするよりも、今、地球は地震や火山活動などによって人類にメッセージを投げかけています。2012年12月21日に銀河の冬至という25800年ぶりのターニングポイントを迎え、今、時代は大きく変わることを示しているのです。

今日、日本の天皇陛下がお気持ちを表明され、生前退位の意向を示されましたね。日本の天皇制は2600年続いており、そういった意味で日本は同一の王の元に形成されている国では世界最古の国家と言われています。しかし、それもたった2600年ですから、太陽の一螺旋である25800年からすると10分の1にしかすぎません。歴代天皇125代のうち59人が上皇(天皇が位を退いてからの尊称)になっていますから、日本の歴史からすると生前退位は珍しいことではありませんが、前回の生前退位が200年前だということからすると、このタイミングで天皇陛下がお気持ちを表明されたことに僕はピッと来ました。

2012年12月21日闇のピークを過ぎ、2016年6月21日の夏至をもって銀河の夜が明けました。そして、これから光の時代へ向かうのですから、今回天皇陛下は時代の切り替わりを感じて、このようなお気持ちになられたのでしょう。これは宇宙的に観ても大きな出来事なのです。冥王星の248年の周期から観ても、日本に起きている天皇制の移り変わりと太陽と冥王星から観る時代の移り変わりが非常に連動していることが観て取れます。

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ですから今、宇宙的に大きなターニングポイントを迎えたことから、日本には大きな災難が来ることが予測されますね。もちろん、それは世界中に来るのですが、その先駆けとして日本に来るのです。

ワンちゃん:
それは、自然災害ということですか?

いさどん:
いろいろな意味においてです。日本人が本来のヤマトの心を取り戻すために、それが起きているのです。今、日本人の心はアメリカに汚染されてしまっていますから、ヤマトの心に目覚めるためにはそれが必要なのです。それで、高齢になられた天皇陛下は、これまでのように重い務めを果たすことが困難になってきたと直観で感じ、若い皇太子に皇位を継承しようと想っていたのでしょう。「天」皇陛下ですから、「天」の意志を直観で感じたのだろうと僕は観ています。そういった意味で、宇宙的な新たな時代の訪れを感じさせる今回の天皇陛下のお気持ち表明だったのでしょう。

25800年ぶりのターニングポイントを迎えた今、王や聖人が支配する時代から、一人ひとりが目覚める時代へと突入しました。これまで天皇は国家を司るために天との儀式を行ってきたのですが、これからはわたしたち一人ひとりが天とつながり、地球をどう運営していくのかを考えていく時代になったのです。それは、一人ひとりが「天人」としての意識に目覚める時代の訪れです。

エゴが膨らみ、自らの欲望を叶えることを優先させてきた人間の心を目覚めさせるために、これからも宇宙や地球は天変地異という形で、人間に厳しい環境を与えていくことでしょう。なぜなら、環境が厳しくなればなるほど、人々は助け合うことを思い出すことになるからです。

ワンちゃん:
2年前にタイで起きた大洪水も良い例ですね。自然災害が起きたことによって、人々は集い、お互いに助け合いました。

いさどん:
世界の中でも特に日本人は、そういった地震や災害があると助け合い、秩序のある民族として知られています。タイでもそういった傾向があるとしたら、それは仏教精神から来ているのかもしれませんね。

ここで僕が一番伝えたいことは、そのような厳しいメッセージをもらわなくても、自らの心を磨き、エゴを超え、優れた精神になれば、わたしたちは地上天国を創ることができるということです。そういった意味でも、木の花ファミリーの生活は新たな時代の見本になると思いませんか?あなたたちがタイへ帰っていったら、タイにもぜひそのような場所を創ってほしいと思っています。

マインちゃん:
それはとても難しいことです!

いさどん:
あきらめてはいけませんよ(笑)!

そのことを難しいと言って低い意識で生きるのか、それともあきらめないで少しでも高い意識を目指して生きるのか、あなたはどちらを選びますか?そのときに自らの自我が優先されると、低い意識で生きていくことになります。天を向いて、天を頼れば、高い意識で生きていけるのです。それが成し遂げられるかどうかは、ひとえにあなたの姿勢次第なのです。

マインちゃん:
いさどんが言っていることは真実です。わたしたちが高い意識で生きていくのか、それともあきらめるのかは、まさにわたしたちにかかっています。木の花ファミリーの人たちを観ていると、皆さんは見本となるために日々を生きようとしていますね。もしわたしがあきらめそうになったときには、ここにいる皆のことを思い出します。この生き方がどれほど難しくても、皆さんは高い意識で生きようとしています。ですから、わたしたちは簡単にあきらめるべきではありませんね!

時々、わたしは複雑な気持ちになります。人々を助けたいと思うときもあるのですが、わたしの友達たちはとても頑固なので、「彼女たちにとってこのことはふさわしいだろう」と思うこともあります。

いさどん:
それを成し遂げようと思う必要はないのです。最も大切なことは、高い意識で生きることです。今日、第二次世界大戦の話をしましたね。本当は、あのような戦争は誰もしたくなかったのです。しかし、誰もそれを止めることができず、人類はあのような悲惨なことを経験することになりました。それはある意味、時代がそういう時代だったということでもあるのです。

そして今、時代は対立の時代から統合の時代に切り替わりました。そのことに気付いた者たちには、誰よりも天や時代が味方してくれるのです。先を行く者たちのことを今の多くの人々は理解できませんが、天が味方してくれるのです。それでこそ、この世界で大事なことを成し遂げる人になれるのです。そういった人のことを「天人」と言います。ですから、自分がどのような心をしているのかが大切です。あとは、時代の流れがそのような時代に運んでいってくれます。

あなたたちは、わたしたちととても深い縁があってここへ来たのです。そして、この縁はこれで終わりではありません。これは、これからわたしたちが成し遂げていくためのスタートです。

ワンちゃん:
今、わたしが泣いているのは、自分が頑固な生徒で、大いなる先生によって叩かれたように感じているからです!だから、わたしはもっと一生懸命取り組むべきなのです。

いさどん:
まずは柔軟になることが大切です。

ワンちゃん:
それは非常に難しいことだと感じています

いさどん:
それは、自分を一番優先しているからですよ(笑)。他人のために生きられるようになったらいいですね。

ワンちゃん:
いさどんの言っていることはすべて正しいので、議論する余地がありません。ですから、それがどんなに難しくても、わたしはやるしかないのです。ある意味、わたしは野生の動物で、いさどんはハンターでわたしを捕まえ、わたしはもう逃げられない状態にあるようです(笑)!

いさどん:
その先は、家族として迎え入れて、一緒に楽しく暮らすのですよ♪

ワンちゃん:
ありがとうございます!!

いさどん:
これはあなたたちのためのプロジェクトではありません。日本とタイのプロジェクトでもありません。これは地球物語であり、宇宙プロジェクトなのです。

ですから、ここに来て、「木の花ファミリーは良いところだ!」と思って、タイへ戻り、「タイではできない!」と思ってはいけませんよ♪今、天のプロジェクトがスタートしたのですから。これからはあなたのような頑固な人たちがあっという間に目覚めていく時代になります。時代はもう、ターニングポイントを超えたのですからね。

わたしたちには天が味方しています。そして、時代はそのように流れていきますから。大切なことは、高い意識で生きるということです。

 

宇宙プロジェクトは、これからが本番です!
 宇宙プロジェクトは、これからが本番です!

 


ポケモンGOに熱狂する人々がロシアのドーピングを批判できるのか

今、ロシアのドーピング問題が世界中で批判されている。そもそも、ロシアのドーピング問題というのは旧ソ連の時代からあった。その極めて極端な事例が旧東ドイツの事例だ。
東ドイツという人口も少なければ国力も弱い国が東欧の中にあり、優秀でプライドの高いドイツ人は国威発揚のために、ソ連の方針に沿い、スポーツを利用して国をまとめようとした。プロパガンダのひとつの手法としてスポーツ振興を図ったのだ。しかし今、東ドイツという国はなくなり、その実態が暴き出されて、いかにひどいドーピングが行われてきたのかが明らかになってきた。それは国威発揚のため、国策として行われていた。
その根本には、共産主義国の人々が自らのイデオロギーこそが優れているということを訴えたい、もしくは国家を存続させるために国民の結束を図るという国家的な意図があった。
90年代に陸上女子で一世を風靡した中国の馬軍団も、組織的なドーピングがあったことが告発された。女性が異常なまでの筋肉を持ち、大会に出れば出るほどメダルを獲得していくという時代が一時あったが、ある時にふっと消えてしまった。本当に純粋な指導力によって成績を残していたのであれば、そのような現象はあり得ないはずだ。
スポーツの世界であっても、国家的欲望の延長線上にルール違反を犯す。そこは問われなければならない。しかし、それは一種のトカゲのしっぽ切りのようなものだ。人々は表面的にものごとを捉え、誰かを悪者に仕立て上げて、批判している。ではなぜそれが起きたのかというと、その根本的な原因はもっと奥の深いところにある。今、西側諸国を中心に世界がロシアの行為を批判し、裁定を下しているが、検証すべきはその行為の奥にある、根本的な原因なのだ。

もともとオリンピックとは、アマチュア精神に基づくものだった。お金とは無関係のものであったはずだが、それがいつしか商業主義になってしまった。
例えばかつての東側諸国や北朝鮮のような国では、国威発揚のために良い成績を残した選手には、一生食うに困らないよう特別な配慮がなされる。では西側諸国はどうなのかと言うと、アメリカがその最たる事例だが、スポーツ選手がタレントになってしまった。そして異様なまでのお金を稼ぐようになった。そういった人々を周囲は持ち上げ、芸能界と同じように人気商売になってしまったのだ。
日本の相撲界でもそうだが、結局はお金が目的になっている。欲をくすぐり、お金を獲得しようとする欲望を満たすためのエネルギーが、スポーツの記録を上げている。お金に釣られているのだ。
相撲はもともと日本の国技として、神事であったが、今の力士の精神からは、そんなものは消えてしまった。相撲は厳しい稽古を究めなければ地位も上がらず、大きな怪我をすることもあり、その真剣さの中に神が降りることもあっただろう。しかし、今現在横綱に日本人がいないことも、今の相撲界の状態を表している一つの現象と言える。モンゴルの力士は出稼ぎに来ているようなもので、懸賞金が目的になっており、本来の国技としての、神事であることが忘れられたように見受けられる。

かつてヒトラーは、国威発揚のためにスポーツを利用した。スポーツで自国を応援するということは、そこに敵と味方を創るということだ。それを競わせて、自分の側が勝つことを国民の共通の喜びとしてきた。それはある意味、プロパガンダとして利用できる手法でもあった。
日本でも、日ごろから大して日の丸を大事にしていない人でもオリンピックの表彰台に日の丸が上がるととても喜ぶ。スポーツを通して競争心をくすぐり、それが高ずることによって対立を生み出してきたのだ。
国を率いるリーダーたちは、人が共通の目的の元に群がることによって、自分たちを正義とし、対象を悪とすることで国をまとめてきた。人は、自らに近いものを支持する。しかし本来、近いものも遠いものも一緒になって考えることによって、健全な世界を求めていかなければならないのだ。

スポーツをプロパガンダとして利用する要素は今も残ってもいるが、多くの人々にとっては、最終的にはお金を求める手段となってきている。スポーツ自体が、人々や地球社会に良いものをもたらすとは限らなくなってきているのだ。
現代は、優れた能力を与えられた人が、その能力を自らのためだけに使って異常なまでのお金を稼げるようになっているのだが、本来、そういった能力は天から与えられたものとして、世の中に貢献するためにあるものである。そういった精神を忘れてしまった今の世の中の仕組みは、物事の本質を忘れ、狂っている。スポーツの世界で言えば、勝ち上がることができるのは、たくさんいる中のほんの一握りどころか、ほんの一粒の人たちだ。それを子どもたちの夢だ何だと言って世の中が称賛し、そのほんの一粒をみんなが目指そうとする世界を創っている。その構造自体が、不正をしてまでも獲得したくなるようなものになっているのだ。
本来、優れた能力とは、自らの利益のために使うのではなく、社会に還元するためにある。しかし現代は、人間が個人の欲望を満たしていく時にそれを独占しようとする醜い心を持っており、その心によって生み出される現象が極みを迎えている。お金が目的の世界で起きることと、お金が目的ではない世界で起きることは、エネルギーの使い方が違う。しかし今では芸術すらも、絵がいくらで売れたかとか、曲がどれだけの人に買われたかというように、お金が目的になってしまった。本来、音楽を創るとは、ただ世の中にその曲を提供するということだけでいいはずなのだ。その結果、それにふさわしい生きる手段が得られれば、それ以上を求める必要はない。ところがそれが人気商売となり、異常なまでのお金が集まるようになった。与えられた能力を自らのために使い、自分だけが富を得ることが当たり前になり過ぎてしまったのだ。
そして多くのお金を得た人は有頂天となり、醜い姿になっていく。しかしマスコミはそういった人々を人格者のように捉え讃え、そのような社会現象を先導しているのが現状である。世の中の基準が根本的に狂っているのだ。世の中全体がそうなっていることに対して、その中に生きる人々はその矛盾に気付くことができないだろうが、そのような風潮がある限り、世の中が本当に平和で差のない、豊かな世界へと歩き出すことはできない。

みんなで豊かになろうと言っていた共産主義が崩壊し、資本主義が勝ったかのように思われていたが、資本主義とは、欲望を勝ち取った者が支配する世界だ。これはある意味下剋上であり、弱肉強食の世界だと言える。共産主義が衰退し、資本主義一辺倒の世の中になった今、その矛盾がピークに来ている。これがひっくり返らなければ、次の時代は訪れない。
今の社会は、いくら獲得しても、満たされないようにできている。ところが世の中は、獲得することを奨励している。そしてその矛盾から、格差が際限なく広がっていくことを先導していることにもなる。それは、何かを批判している人々が、実は自分たち自身がその批判しているものを創り出しているというカラクリを、まったく知らないからだ。自分たちで創り出しておきながら、その創り出したものを悪者にして、自らは正義の側に立ってごまかしているような、極めて複雑で歪んだ構造になってしまった。それは、自己中心的なものの観方をしていては、見抜くことはできない。

確かに共産主義国は、国威発揚という国策のもとにドーピングを行ったかもしれない。しかしそれは、お金を稼ぐためには何でもするという西側諸国の風潮が、同じように共産主義国の間にも広まり、ただ少し国の体制が違うために、国家レベルでそれを行ったのだとも言える。
それを西側諸国は、国レベルでやったからひどい問題だと批判しているが、では個人レベルならひどくないのかと言ったら、ドーピングはもともとアメリカが発祥のようなものであり、欲望を満たしたいがために隠れてルール違反をすることは、アメリカのスポーツの世界にもいくらでもあったのだ。それがオリンピックのようなアマチュア精神の場ではなく、お金を稼ぐためのプロの世界では、昔は問われなかった。今は問われるようになったかもしれないが、オリンピックのような場でない限り、そこまで厳しく問われることはない。

そもそも、異様なまでに体を鍛え、記録をどんどん伸ばしていく現代のスポーツのような世界は、本当に求められるべきことなのだろうか。それを追い求めることが果たして美しいことなのかということを、問わなければいけない時が来ている。
2012年12月21日の銀河の冬至というターニングポイントを越え、世の中の価値観がひっくり返る時代が始まった今、これまでのように特殊な物理的能力を持つ人々がもてはやされる社会の、奥に潜んでいた問題が、明らかになり始めている。
特別な能力を評価されることはいいだろう。しかしそれによって、異常なまでのお金を得るスポーツの世界ができあがった。東側諸国の人々は、そこまで物理的に豊かではなかった分だけ、個人の欲望に目覚めてくると、より顕著にそれが現れるようになった。国家のためというよりも、個人の欲望をくすぐることを国策として行ったのだ。それは西側諸国のモノカネ優先の価値観の延長線上にあったことであり、そこには、国策として個人の欲望をくすぐったのか、個人の欲望を野放しにしていたのかの違いがあるだけで、西側も東側も、人間の業の深さが国レベルで現れている。そして今や国家のリーダーたちでさえ、欲望にまみれて国の代表をやっている。
そのような世の中の傾向を観ると、やはりトカゲのしっぽ切りのように、ドーピングをやった人、或いはドーピングを国策として行った国だけが批判されているようでは、問題は根本的に解決しないことがわかる。スポーツ仲裁裁判所はロシアのリオデジャネイロ五輪出場を認めない裁定を下したが、それは病気の症状だけを押さえて根本的な原因を解決しようとしない現代医療の対処療法と同じだ。

現代の人々、特に芸能界や政治の世界では、人気取りが目的になっている。人気取りとは、真実を伝えるよりも大衆の支持を得るのが目的だということであり、真理の柱を世の中に立てていくということがない。自らが批判されるような言動は避け、常に差しさわりのない立ち位置で、他者を批判し、そしてそれを飯の種としている。つまりこれも、体制の側にいて、世間に媚びを売り、お金を得られる立場にいたいという心がベースになっているのだ。
世も末とは、こういった世界を言うのだろう。それに対し、ある意味天誅だとも思えるような出来事が、今世界中で起きている。解決しようにもできないテロの問題は、モノカネが目的ではないと訴える人々による命をかけた反発が、世界中に蔓延しているとも捉えられる。彼らを支持はしないが、こういった出来事を奥深くから検証しない限り、人類全体が進むべき方向をまったく見出せずにいることは確かだ。

現代社会には山ほどの矛盾があり、事例を挙げるのに何の苦労もいらない社会になってしまったが、その延長線上に、さらに滑稽なことに、ポケモンGOの大流行がある。
アメリカという国はもともと、ゲームのようなものが日本ほど熱狂的には流行らない国だった。それは個人主義で独創的な生き方を良しとする国民性があったからだが、その国で、ポケモンGOのようなゲームに没頭する人々が現れ始めた。それはアメリカの良い意味でのプライドが失われてきているということだが、金満主義が蔓延している社会はそれを経済効果として歓迎し、まったく批判しない。あのバーチャルなゲームの中で人々が揺れ動いている姿を、マスコミは微笑ましいものであるかのように報道し、日本人は日本の企業の製品がこんなに受けたのだと喜んでいる。
そして日本では、異常なまでに任天堂の株価が上がった。先日LINEが上場した時に異常な金額が投資されたのと同じように、ゲームが発売されただけで、莫大な額の欲のお金がそこに集まる。それがあたかも成功者を讃えるかのように報道され、それに没頭する者たちに対して何も危機感を感じていない。危機感があるとしたら、歩きスマホによる事故が懸念されるという程度のものだ。
これらのゲームは、スマホという既に世の中に浸透したものを利用しており、ゲームの権利を買うだけで使うことができる。既にあるものに寄生して、何も生産しなくても、何千億、時には何兆円というお金を稼ぐことができる。そういったものを微笑ましく報道し、その根本に何があるのかをチェックする目は、社会から完全に失われてしまっている。世も末というが、ここまで来るとあきれるより他はない。

それに対して、どこかでおかしいと思っている人々もいるはずだ。しかしマスコミも、社会全体も、国のトップの政治家すらもこの現象を歓迎するようなコメントをしている。世の中はいよいよ、逆さまの極みを迎えている。この現象がどこまで行くのかはわからないが、このような愚かなことにエネルギーを費やし、その結果地球環境に負荷をかけ、人間社会に歪みを発生させ、人々は苛立ち、最終的には対立を生み出している。テロが止まないことも、そういった社会の表れだろう。現代の対立とは、戦争のようなわかりやすい形だけではなく、社会の金満主義の中から生まれる格差や差別が、極みを迎えているということだ。
これは物理的に言えば、マイクロプラスチックが海に放たれて、一切回収できない状態になっているのと同じようなものと言える。それが今後どれほどの環境破壊や生命への危機をもたらすのかという深刻なものでありながら、取り返しのつかないほど蔓延してしまっているのと同じ現象だ。
人間の心の中にゲームがあのような形で広まっていくのも、ある意味、覚せい剤の依存症が広まっているのと同じことだと言える。それを経済効果だと言って、国のトップたちが微笑ましく眺め、マスコミも歓迎すべきこととして報道している。

僕が今こうして語っているのは、一つの視点から分析し、批判をしているのではなく、人類はここまでものが観えないところに陥ってしまったのかという、嘆きだ。
本来人間は、生命感というものを感じて生き、現実の世界の中にそれがあり続けることによって充実し、希望のある状態でなければならない。生命感を感じるとは、生きることが生命活動に直結し、常に意識が自然や社会の成り立ちとコミュニケーションを取りながら、生命が身近な生命を司るものと連携していることを実感して、充実している状態のことを言う。しかしポケモンGOは、バーチャルの極めつけの世界だ。そしてそれに取り込まれていることを、歓迎している社会がある。
そんな資本主義社会のバーチャルな金満世界に憧れて、共産主義的体質から生まれた国民性を持ちながら、資本主義的欲望の蔓延する社会の中で、人の生きるべき道を見失っている人々が、今、地球上に存在している。そのような中に生きる人々が、必死に豊かになろうと思い、そしてまた国をまとめようとしてドーピングまでやってしまったことを、そういった種をまき散らした側の人々が批判する資格があるのだろうか。
ロシアの愚かしさよりも、ポケモンGOにとりつかれている人々や、それでお金を儲けようと株式市場に群がる人々の方が、今の地球上に混乱をもたらしている罪は、はるかに大きい。覚せい剤を使用したり、野球賭博をやって追放された選手たちを責めている場合ではないということだ。そういった選手たちも、混乱する今の社会の犠牲者とも言えるのだ。

社会には金満主義が蔓延し、それを主導する人々が優秀で賢いとされている。大学の勉強でも何でも、いかに金を稼ぐかということに能力を使い、それを成し遂げた人間が優秀だということになる。こんなにおかしな世の中はない。本来の生命感を有する目で観れば、今の世の中は本当に異常だということが観えてくるはずである。
覚せい剤をこれだけ厳しく取り締まり、それを使用した人をバッシングしながら、自分たちはお金の麻薬漬けになっている。世の中が混乱の極みに来ているということだ。

 

Source of photo: @WSJJapan

 


2016参院選とイギリスEU離脱から時代を読む

今回の参院選では、投票者数を上げるために、18歳以上の若者たちにも選挙権が与えられた。投票前はそれが希望ある話のように捉えられていたが、結果として、まだそこまでの社会的意識が育っていない者たちに何を持って投票意欲を起こさせたのかと言ったら、損得勘定だ。

人間は損得勘定を持つと、意欲が生まれる。本来、意欲というのは、生命力から生まれてこなければならない。それは損得勘定とは違い、自らがこの世界に生まれてきて役割を果たすことの意味が見つかった時に湧き出してくるものだ。
最終的には、自らの生命を完全燃焼させ魂の成長が成された時に、本来の生命としての目的が達成されたかどうかという意味での損得勘定はあるが、生きている間の学びの材料である一つひとつの出来事に囚われて損得勘定をしているようなことでは、人間の創る社会が本来の目的を現せないのは当たり前のことだ。
しかし、欲望の漬物のようになってしまっている今の社会では、損得勘定ですべてが進んでいくのも仕方がない。そうすると、損得勘定が人々の意識の元にあり、その上に社会ができるという非常に貧しい世界ができる。

これは極めて重要なところを突いているのだが、さて、損得勘定が巨大に膨らんでしまった今の世の中で、人々はどこまでその損得勘定の魔の手から離れて目覚めることができるだろうか。現代の人々は、ものの本質を観ようとするのではなく、損得勘定だけで結論を出そうとしている。国民は経済成長を支持したと言うが、そもそも経済とは何であるのかという実態がわかっていない。支持をされる側も、これを言ったら支持されるだろうということが当たっただけのことで、やはり実態がわかっていない。

イギリスがEU離脱を宣言した理由の一つに、雇用の問題がある。豊かな国イギリスにEUという国の垣根を外した制度が入ったことで、イギリスに雇用を求めて貧しい国々の人々が流入し、それによって移民と仕事の内容がバッティングする一部の人たちが職業を奪われたと訴えている。それに対して、EUを離脱すれば5億人の市場を失うことになり、世界の金融センターとしてのイギリスの立場を失うことになると訴えている人たちがいる。
そこで多数決を取った結果、移民によって職を奪われていると主張する労働者階級が人数として勝り、そちらの意見が採択された。どちらの側も、自らの利益のための主張の延長線上にある。そうやって主張していることが自らの心の貧しさを表していることに気付き、振り上げた拳を下ろすということがない。
それでも形だけは民主主義だと言って、多数決の理論で自らの主張に支持を集めようとする。では民主主義が、民衆に正しい世の中をもたらすかというと、そうではないことはこれまでの結果を観れば明らかだ。それは今回の日本の参議院選挙でも、イギリスのEU離脱を問う国民投票でも、同じことが言える。損得勘定がベースの民主主義によって得たものが、後にしこりを生み、損得勘定の議論の上にまた議論が積み重なっていくということを延々と繰り返している。

EUの前身であるECは、第二次世界大戦のトラウマから始まったのだが、それも一種の損得勘定だ。本来トラウマではなく、学びから始めるべきだった。なぜあのようなことが起きたのかということを冷静に分析する学びから始めて、新しい時代の見本となるべきだったのに、「もうあんな体験は嫌だ」というトラウマ的反応からある意味パニックのようになって始まっているため、発展的ではない。人間は常に冷静な判断ができる意識状態にいなければならないが、損得勘定がひどくなるとパニック状態になり、正常な思考ができなくなる。その上に正義だの悪だのをいくら語っても、秩序ある世界を築くことはできないだろう。
そこをもう一度立ち返り、発展的にEUの在り方を考え直さない限り、イギリスのようにエゴの延長線上に自国の利益を主張してEUを離れる国が出る。国どころか、イギリス国民一人ひとりもそれぞれの立場から自らの損得を主張し、てんでバラバラの状態になっている。イギリス国内もバラバラ、EUもバラバラ、世界もバラバラの状態だ。
そこで日本は、深い洞察のもとに日本人はどうしていくかを考えるべきところに賢さがあると思うのだが、日本の国民もまた、世界の混乱が株や為替に影響していかに個人が損をするか得をするかということばかりに興味があり、日本全体のことすら考えていない。マスコミも、そういったことのみを国民に意識させるような情報ばかりを取り上げている。
中には、国民投票などをして国民に結論をゆだねたら、感情的な国民がよく考えないで決断してしまうのだから、大事なことは知識人に任せて国民はそれについていけばいいのだと言う人もいた。それでは民主主義の後退だろう。そうではない。一人ひとりが愚かだからこそ、一人ひとりが目覚めて国のことも地球全体のことも考えていく。その大調和への気付きこそが、次の時代を生む。そう捉えれば、この世界の混乱は次の地球をどうしていくかということのメッセージと取れる。

今、およそ250年前のイギリス産業革命から始まった物質至上主義の価値観に賞味期限が来て、いよいよ解体が始まった。冥王星が太陽を1周する248年のサイクルを経て、再びイギリスから、その変革の波が始まった。時代を宇宙視点で観れば、実に興味深い、有意義な時代を我々は生きている。
だからこそ我々は、この非常に面白い有意義な立場にいることを、自覚して生きていくべきなのだ。自覚とは、自らが目覚めると書く。目覚めるとは、新しいものに目覚めるのではなく、絶対に存在し揺るぎないものを、常に忘れずに生きていくということである。

 

Source of photo: www.youtube.com/watch?v=QsS4PDAgn9w

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7月16(土)〜18日(月/祝)
第10回大人サミット
「地球会議 in 木の花ファミリー」開催!

時代が大きな転換期を迎えている今、年齢、職業、国籍、宗教、ありとあらゆる枠を超えて、地球の未来を真剣に想う真の「大人」たちが集い、語らい、新たな時代の幕開けを発信する「第10回大人サミット」が木の花ファミリーにて開催されます。より良い未来を築こうとする意欲さえあれば、どなたでも参加OK!ブログで語られていることを現実の世界で実践し、人類史上に新たな1ページを刻むかけがえのない3日間を、ぜひ共に過ごしてみませんか。

第9回大人サミットより
第9回大人サミットより

*詳しくはこちら!
 → 第10回大人サミット開催のご案内

日帰り参加や部分参加も受け付けています。
ご関心をお持ちの方は、どうぞお気軽にご連絡ください!

 


イスラム教徒は何を伝えようとしている?~ダッカ人質テロ事件から時代を読む

バングラデシュで、日本人7人を含む28人が死亡するテロが起きた。マスコミでは多くの報道がなされていたが、この出来事の背景を観ようとする視点がどこにもない。ただ「テロは悪い」ということばかりがニュースから流れてくる。

バングラデシュの高学歴で裕福な若者たちが、なぜテロを起こすに至ったのか。
バングラデシュは新興国として今、著しく産業が発展していく過程にあり、これから中国に代わる発展途上国の代表的な国として、希望に燃えているはずだ。そこでこのようなテロが起きているということは、今のモノカネ重視の価値観に矛盾を感じ、キリスト教国に代表されるような現代社会の価値観に異議を唱えるイスラム教徒の存在があるとも捉えられる。
実行犯は、わざわざシリアやイラクへ行ってISに参加したのではなく、バングラデシュ国内の組織からの支援で犯行に及んだと言う。若者たちが自国にいながらインターネットで刺激を受けてテロリストになっていく事例は、アメリカやフランスでも起きている。それはなぜかと言うと、彼らはISに共鳴しているというよりも、自国の体制に不満があるのだ。

バングラデシュは今、目覚ましい経済発展を遂げているが、その中には必ず近代化していく社会にひずみがあり、貧富の格差も生まれている。若い世代の中には、そういったことを許さない純粋さがある。「黙って働いて金を稼ぎ、豊かに生きればいいのだ」という発想に対し、命をかけて金ではないのだということを訴えているとしたら、この金ばかりの世の中がおかしいのだという反感を持っている人間が今の世の中にはいるということだ。
ところが日本人は、なぜ日本がこんなに貢献しているのにテロリストの犠牲になって死ななければいけないのかという視点一辺倒になっている。ではその貢献とは何かというと、JICAの支援の下に企業に携わる人々がプロジェクトを組み、ダッカの交通網を整備して、経済を発展させることが目的だった。その背景にあるのは、個人は個人の、企業は企業の、国家は国家の利益を求める心だ。中には途上国を支援したいという純粋な想いもあるが、そうやって途上国を支援した結果どうなるのかと言ったら、今のアメリカやヨーロッパや日本のような国がもう一つ増えるということだ。
新しい世代の人たちは、もうそれでは駄目なのだということを理屈ではなく感じている。そういう人間があのような行動を起こしているということを、考えていかなければいけない。それは時代を感じるということだ。

彼らも、ISも、これまでの世界の矛盾を表現している。もしくはこれまでの時代の終焉を示していると捉えられる。そのように、時代の流れを感じ取りながら、ものごとをバランス良く平等に観ていくことが必要だ。
昔は、今よりもまだ双方を見るということをしていたはずだが、今は極端にテロだけが悪になっている。確かにテロを引き起こしている人々は問題だ。しかし逆に言えば、この社会という器の中でテロが起きているのだから、自分たちが構成している社会がそれを創り出しているのであり、誰もが自分のせいであるとして振り返らなければならない。そういった世界観が、現代社会に欠けている。テロを起こす側を一方的に悪として、自分たちを正義の側に置いている多くの人間たちの体質が問題なのであり、それが現代社会の様々な歪みを生み出しているのだが、そのことに気付いている人はほとんどいない。
だからこそ、バランスよく内外を観て、特に自らの内を先に観るということをしなければならない。すべてを一度リセットし、内外をなくして、人間とは何ぞやということを探求する必要がある。そこにこそ、次の時代への希望がある。

イスラム教徒の正義や真剣さは、どこから来るのだろうか。

現代のイスラム教徒は、キリスト教徒などに比べ、どちらかというと虐げられる立場にある。しかし、最初から差別があったわけではない。差別を受けているということは、結果としてそうなっているということであり、そこに至るようなそもそもの彼らの在り方があったからそうなっている。彼らが命までかけてやろうとしている、他と相いれない部分があるということだ。

何かを正しいとして固定してしまうと、それと相いれないものとの間で対立が起きる。もしも地球上に一つの価値観しかなく、すべての人が人間はこうあるべきだという共通認識の元に生きていたら、そこにはそれしか価値観がないのだから、正しいも正しくないもなくなる。ところが、現実には価値観はいくつもある。
しかし一方でまた、人間は実に単細胞であるとも言える。グローバル化だと言って、お金でほとんどのことが解決されるような一辺倒の価値観に世界中が染まってしまった。例えばライオンはアフリカだけに生息しているが、その中でも土地によってたてがみが多いものもいれば、少ないものもいる。雄が協力して狩りをするものもいれば、しないものもいる。その土地ごとの自然に合わせてそうなっている。それは天と共に生きているということだ。それに対して人間は、世界中がモノやカネを優先する価値観で単一化され、自然の中で大らかに暮らしていた遊牧民や先住民族たちもお金を欲しがるようになった。
その中で、イスラムの人々が命をかけてまで訴えようとしていることの原動力は何なのか。イスラム教にはジハードという概念がある。そもそも、生きるということの意味が違うのではないか。

彼らは信仰を一番にして生きている。物理的なものを最優先にするのではなく、生きる上での信条や意味を大切にしようとする。だから死をも覚悟している。彼らはそういったことに共鳴する魂たちであり、それが基準でスタートした者たちにとっては、それが当たり前なのだろう。
例えば、グチグチと被害妄想ばかり言っている人がいるとしよう。一般的な健康を基準にして見たら、そんなに愚痴ばかり言うのは間違っているよ、ということになる。しかし、グチグチ星や被害妄想星に住んでいる人にとってはそれが基準であり、それをベースにして生きているのだから、その通りに生きるのがその人らしいということになり、当たり前のことである。それを別の価値基準から見て「あなたは間違っている」とは言えないものだ。

今の社会に対して、イスラム教徒たちが、彼ら流の価値観で何かを訴えている。一口にイスラム教と言ってもいろいろあり、さほど過激ではない人々は、過激とされる人々と同じような思想は持ってはいても、それでは世界全体とうまくやっていけないからほどほどのところで妥協をしているところがある。妥協しない人たちは過激思想と言われ、彼らは自らの信条に則ってとことん社会をイスラム化しようとした。そこで、彼らの思想と相いれない、自分たちの価値観こそが絶対だと考えている者たちがいて、互いに相手が間違っているとして対立が生まれた。
そこには、どちらが社会的にメジャーなのかという違いがあるだけだ。イスラム教が世界の主流になったら、今のモノやカネや酒などに溺れている人々は、間違っていることになる。基準がどこにあるかによって、排除される側と排除する側が変わるだけだ。
例えば、キム・ジョンウンを世界の基準にし、外からの情報がなくなれば、それが当たり前の世界になる。違う秩序があるからあれが異質なものとされるだけで、それしかなくなればそれが秩序になる。

そういったことをすべて超えて、もう一度価値基準を組み換えられないだろうかと考えた時に、何を基準として取り入れるかと言ったら、自然の成り立ちだが、今の自然はずい分人間に汚染されておかしくなってしまったので、やはり宇宙の法則に沿うということだ。星と星との関係やその成り立ちを、もう一度地上に降ろす。
その昔、この世界には地球という意識はなかった。我が星という意識はなく、宇宙そのものだった。ところが、人類の歴史の中で「所有」という意識が発達してくると、「自分の星だ」という見方をするようになり、天動説のような世界観が生まれた。そのうちに、人間は世界を自らの都合のいいように捉えるようになり、自然も何も、すべて人間の都合のいいようになることが便利で豊かであるとされるようになっていった。それをもう一度本来のところへ立ち還らせなければ、今の人類は生きることの意味すら見失ったままになる。

今の日本では、介護殺人が社会現象化している。見えないところでは昔からあったのかもしれないが、今ほどではなかっただろう。少し前まではうつ病や自殺者やニート、引きこもりがいて当たり前の社会だったが、今度は介護殺人が社会現象化するという異常な状態になっている。
日常生活の中で、他者と円滑なコミュニケーションが取れて自己責任で生きている状態を正常とするならば、他者とのコミュニケーションが円滑ではない、もしくは円滑でないことを認識できていない状態というのがある。それは精神的に異常をきたしている場合もあれば、肉体的に異常をきたして他者に委ねなければいけない場合もあり、そういった状態の人を補助するのが介護だ。
本来、そのような状態では自然界では生きていけない。しかし人間は情が強く、補助をするようになった。ところが最初は愛情を持ってやっていても、コミュニケーションを取る意味がだんだん感じられなくなってくると、ただ義務的にやっているだけになり、そのうちに強制的にやらなければならない状態になって、苦痛になっていく。そして思考が極端に狭くなり、苦痛を排除しようとして突発的な行動に出たのが介護殺人だ。
社会には、対処療法的ではあるが、介護施設などの社会福祉が昔よりは遥かに充実している。そういった何も生産しない産業が発展し、それが経済効果となって社会がまわっている。しかし、社会の義務や豊かさの表れとしての福祉制度も、結局はそういったものを必要とする人々の面倒を見切れていないのが現状だ。

現代は、生きるということの意味がとても表面的になっており、生きることがすべてお金のためになっている。その結果、生きることの本質である生命の基軸が狂っているのだが、まだ誰もそれに気付いていない。人々はもっぱらお金があれば余裕ができて心が楽になるという幻想に囚われているが、今の世の中はどうしても豊かな人と貧しい人の差ができるようになっており、その矛盾のしわ寄せが必ず人間の性質のひずみとなって、社会に還元される。人間が心を病むと体の弱い部分に症状が現れるように、社会が病んでいることの症状が、弱いところに現れてくる。それは社会全体が病にかかっているということだ。
死とは、人生の終末のもっとも肝心なところだ。そこに介護殺人のような混乱が起きているということは、生きることそのものに混乱が起きている。

そこで、木の花で生きる年よりたちのことを考える。生きることに対する充実感という意味では、木の花で生きる年寄りたちは毎日やることがあって、それぞれにふさわしい役割を与えられその人らしく生き生きと過ごしており、年寄りという意識がない。そして個人的な欲に執着していない。先日ここを訪れたゲストが、「なぜここの人たちはこんなに穏やかな空気で生きているのか」と聞いてきた。彼は会社の経営者であり、毎日社員と仕事で顔を合わせているが、そこに見るチームワークや人々の人間関係には、そういった木の花のような空気は異質なものに感じられたようだ。そこで僕は「それはそうですよ。給料のために働いていませんから。だから、あなたの会社の社員にも、給料を払わなければいいんですよ」と答えた。
木の花の年寄りも、将来具合が悪くなったら若い人たちのサポートを受けるかもしれない。しかし、役割を与えられて生き甲斐を持って生きている人が、介護が必要な状態になるだろうかと考えると、それは先へ行って確認することだが、少なくともボケるような兆候は木の花のシルバーたちには一切見られない。そういった姿勢で毎日が過ごせる人々の人生に、介護の必要が極めて少ないことが当たり前に感じられる。そう考えた時に、僕は改めてこの生活の重要性を確信した。この生活にこそ、その隅々にまで新たな時代を迎えるための解決策がちりばめられていると再確認した。

現代の人々が平和だと認識し、守ろうとしているものは、歪んでいる。今の世の中を見て、それでは平和とは言えないだろう。ではいつ平和だったのかと考えると、人類の歴史上、平和な時などあっただろうか。
もしもあったとしたら、今の文明が始まる以前の、もっと原始的で自然のままに生きていた頃にはあったかもしれない。かもしれないと言うのは、価値基準があまりにも違い過ぎて想像できないのと、資料が十分ではないので、あくまでも仮定の話だということだ。そしてそれから時が進み、時代は対立と混乱の方向へと向かった。それはまさしく闇の時代へまっしぐらだったのだ。

イスラム教徒がいかに熱心に信仰をしていても、ある特定の境地を絶対としてしまうと、結局は対立の原因になる。何かを特定すれば、それとは別の何かを特定したものと相いれることができず、対立するのだ。
そこで、木の花ファミリーはイスラム教徒と同じように過激思想を持っているかというと、そうではない。ここでやっていることは、そういった特定のものから離れて、囚われの位置から自らを解放する宇宙視点を持ちましょうということだ。それはその境地に到達した者にとっては奇抜でも何でもなく、当たり前のことになる。それは、遥か昔はみんなそうだったということであり、気付けば今現在この瞬間がそうなのだから。

そこにいつ人類は気付くのだろうか。時代はすでに、社会の行き詰まりをもって次の時代へといざなっている。今の世の中、政治も経済も宗教も医療も教育も、矛盾のないところはない。
戦時中、マスコミはプロパガンダに利用されていた。今は、例えば日本のマスコミ関係者は、何ら罪の意識を感じることなく、自分たちは自由に報道をしていると思っているかもしれない。ところが実は極めて偏った、世界観の狭い報道をしている。そういったマスコミの報道姿勢の背景に、お金がすべての価値観がある。視聴率という数字の元に、お金に翻弄されている人々が支持する情報だけを報道することを繰り返すマスコミによって、世界が動いている。それはある意味、悪魔的現代社会の主役だ。マスコミに登場する人々は知識人であり、優れた人々であるという印象の上に、そういった社会的マインドコントロールが密かに進められているのが現状である。

今の過激思想として捉えられているイスラム教徒たちの訴えている世界は、お金ではない世界だ。彼らは命をかけている。しかし、お金ではない価値観であることすら、結局は対立の原因となっている。お金が基準となって混乱している世の中を間違っていると言って、お金よりももっと大事なものがあるということを命をかけてまでも訴えながら、さらに世の中を混乱させている。
それはある意味天のメッセージではあるが、ではあのやり方でこの世界に秩序をもたらし、新たな時代が来るだろうかと考えると、仮にそうなったとして、それが正しいと世界の価値観が統一されれば、それはそれでそのような世界が現れてくるのだろう。しかし現実には、これほど地球全体がモノカネ優先の価値観に汚染され、そういったマインドコントロールにはまっている人々が膨大に存在する現代の社会を、すべてイスラムの価値観に染めようとすれば、そこには大変な破壊や混乱、痛みが発生することになる。だから、そうはならないだろう。

やはり、そういった特定の価値基準を超えた、新しい秩序が必要だ。それが自然の姿であり、宇宙視点だ。我々は宇宙人であるという認識を持ち、外側の視点から、自らの立ち位置を捉え直す必要がある。それは、自らの外にある大きな価値基準と、日常の自分の中にある個人の意識とが一致しているということだ。
これは僕の考えではなく、時代が人類をそのようにいざなっている。いつの時代にも、時代の転換期には新たな価値観のメッセンジャーが現れる。それは古い価値観を破壊するためのメッセンジャーであったり、新たな秩序を示すためのメッセンジャーであったり様々だが、今はまさにその転換期に来ていることの証として、そういった役割を果たすためのメッセージを持った人々が現れてきている。

木の花ファミリーは22年前に、この生き方の目的が何であるのかわからないまま、スタートした。世の中のコミュニティの多くは、こういう場所を創りたいという自らの理想が先にあり、その願望を叶えるために立ち上がった。しかし、我々には願望も何もなかった。ただその現場を生き、未熟なら失敗をして、その時々に出会うことに対処しながら変化してきた。それは確実に体験を活かし、確信に変換する歩みだった。
自らの願望を叶えようとして進めば、それが叶った分だけさらに自らの願望に囚われていくことになる。そして自分のやっていることが正しいと思うようになり、他者と共に世界を築いていくことができず、結果的にそういった人々は、調和的な世界を創ることができない。
他者と共に築いていくということを実際にやったことのない人間は、自らの姿勢が具体的にどんな現実をもたらすかということを体験していないため、頭の中だけでそれを考え、それこそ単なる創作のようなバーチャルな世界で理想を追い求め、実体の伴わないことを語っていくことになる。しかし、現代社会のように言っていることとやっていることのギャップが多くても成り立つ社会構造の中では、バーチャルなことを語っていても評価される。そうして評価されることによって自らが正しいと思い込んでいることが多いのだが、そういった人々こそ、多くの人と共に生きる現場に実際に立ち、他者との関わりの中で自らの性質がどんなことを引き起こし、結果、どのようなことと対面するのかを体験し、自身の人間性の実態を思い知る必要がある。そうでなければ、何も現実にはやらないまま、表面的な支持を得て自らが正しいと思い続けることになり、そのような人々の姿勢こそが、今の行き詰った社会を創ってきたのだ。

生きるということを、人間の側からのご都合主義で実現していくと、それは人工の世界のオンパレードになる。生きるとは、宇宙の法のもとに生かされているという現実を理解することが、本来の順序だ。
実は人間には、宇宙の構造や、宇宙そのものとしての自分自身の在り方がすべて、自らの内に情報として眠っている。我々がエゴという囚われを手放し、大いなる宇宙の法のもとに自らの意識を解き放った時、これまでの物理的発展を支えてきた二次元的発想の時代から、いよいよ三次元的時代への進化が始まる。
それは、これまでのような善悪や損得、我良しの発想で捉えていては、とても解釈できない世界だ。我々はすでに三次元的脳を持っているが、発想が二次元的であり、二元的損得勘定に囚われているため、脳の三次元的解析能力を活かすことができていない。もしくは、そこの部分が退化している。そこで、その二元的損得勘定を離れ、自我を超えた発想ができるようになると、極めて奇抜な発想が生まれてくるようになり、地球上にいながらにして宇宙の実体が瞬時に理解できるようになる。
その進化を前にして、人類のこれまでの二元的発想が、すべての面において行き詰まりを見せていることは、現代社会に起きている様々なことを冷静に分析すれば明快なのである。従って、人類の内面の精神構造にメスを入れ、その発想の転換をすることが、現代の行き詰まりの突破口を開くことになるのだ。

どの切り口からも全てひっくり返らなければいけない時が来ている。現代社会につながる文明的価値観がすべてひっくり返る時が来ている。そのためには、まず一番に、自分自身を例外としてはいけない。誰もが、自分自身を例外としないで取り組んでいく必要がある。
これは明らかに時代の転換点だ。今までの価値観が終末を迎えている。実は宇宙的には完全にそれを超えて、次の時代に入っているのだが、地上はまだ闇のピークを越えたばかりで、徐々にそれが明らかになって来ている。
イスラムの問題からも、イギリスのEU離脱からも、アメリカ大統領選からも、世界中で暴き出されている政治的社会的不正からも、そして介護殺人からも、現代社会の人類の営みのすべてから、時代が我々を新たなステージへといざなおうとしていることが観える。

 

Source of photo: jp.sputniknews.com/

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7月16(土)〜18日(月/祝)
第10回大人サミット
「地球会議 in 木の花ファミリー」開催!

時代が大きな転換期を迎えている今、年齢、職業、国籍、宗教、ありとあらゆる枠を超えて、地球の未来を真剣に想う真の「大人」たちが集い、語らい、新たな時代の幕開けを発信する「第10回大人サミット」が木の花ファミリーにて開催されます。より良い未来を築こうとする意欲さえあれば、どなたでも参加OK!ブログで語られていることを現実の世界で実践し、人類史上に新たな1ページを刻むかけがえのない3日間を、ぜひ共に過ごしてみませんか。

第9回大人サミットより
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本質を分析できる時代 〜 大和くん発見のニュースより

人の名前には、多くの情報が秘められています。木の花ファミリーでは、カタカムナの単音の思念やカルマ読みといった宇宙の法則を紐解く手法を通し、名前から、表面的にはわからないその人の心の本質を読み解くことを行います。この分析を元に、いさどんが今話題のニュースについて語りました。

*カタカムナやカルマ読みについて学びを深めたい方は、毎年2月〜3月に開催される木の花塾「1ヶ月間の真学校」へお越しください。

 

最近、テレビで大きな話題となっているのが、5月28日から行方不明になっていた北海道北斗市の小学2年生、田野岡大和君(7歳)が6月3日の朝、陸上自衛隊駒ケ岳演習場の宿泊施設にいるのが発見されたニュースだ。

考えてみれば、彼は6日間水だけで生き延びていた。彼はドクターヘリで函館市の市立函館病院に運ばれたが、診察の結果、両手足に擦り傷があり、軽度の脱水、低体温の状態が確認されただけで、大きなけがはなく、衰弱していた様子はなかったそうだ。ある意味、これは達人の成せる業だ。

なぜ、それが可能だったのか。それは、「大和」君だから、できたのだ。「大和」という心の性質が猪突猛進型であり、深く物事を考えず、ただ生命力のままに動いたから可能だったのだ。それは、人間が難しいことを考えずに本能のままに生きれば、このような生命力が内在しているという証でもある。

これが、「大和」という心の性質ではなく、難しく複雑な心の性質の人であれば、自分で自分を追い詰めていくから、精神状態がおかしくなっていく。彼のような精神構造でなければ、恐怖心が強くなったり、余分な動きを取ることもある。「大和」という、ある意味単純で能天気な心の性質が、ただ単純に今ある状況に合わせ生き延びることを可能にした。だから、その人の精神構造が成せる業なのだ。

現代人の多くは頭の中でああでもない、こうでもないと考えてしまい、考えるだけでエネルギーは衰退していく。さらに、恐怖心や不安からむやみやたらと動き、体力を消耗し、その結果生き延びる可能性が低くなっていく。しかし、彼のようなタイプの人間は、脳のエネルギーをそれほど使わないので、車から置き去りにされたその日のうちに歩いて演習場にたどり着き、夜は宿泊施設の中でマットレスに挟まって寝ながら、施設の外にあった蛇口から水を飲むという生命力があるのだ。

それは、子どもだからそういう生命力があるとも言えるが、人間の中にある本来の生命力は、余分な自我や迷いの心がなければ発揮されるという証でもある。「大和」という子はそういう子なのだ。

「大和」は古代日本国・「ヤマト」に通じる。古代宇宙物理学のカタカムナで「ヤマト」という思念を紐解くと、「飽和安定(ヤ)した間(マ)が、統合(ト)している」という状態を意味する。つまり、可能性を秘めた空間が安定した状態で継続しているということになる。だから、先が観えなくても、不安なく進んでいくことができるのだ。

彼の父親の心の性質からすると、大和君をコントロールすることはできない。あの父親が「大和」という子をしつけすること自体が、親子の因縁のカラクリなのだ。だから、コントロールできないものをコントロールしようとした結果、起こった今回の出来事は、霊的に言えばしっぺ返しを受けたようなものでもある。

この出来事は、そのような霊的な背景を理解せず、父親が息子をしつけしようとしたことから起きている。そういったことが理解できていれば、現世的には父親であるのだから、彼の性質に寄り添いながら、しつけという行為を適切に行うことができたと考えられる。ところが、とりあえず自分の子どもだから、自分の思うようにしつけようと思ったところから今回の出来事が起きたのだ。

大和君が行方不明になった当初は、「山菜採りの最中に行方不明になった」と両親は通報していたが、その後、彼が小石を人や車に投げたため、「しつけのため」として山中に置き去りにしたと説明を変えた。しつけのためと言うならば、なぜ、父親は信念を持って行動しないのか。大和君はよく考えないがために、石を人や車に投げるような行動を取ったのだろう。しかし、彼にはものをよく考えない性質があるからこそ、よく考える人になるよう子どもに接していくのが、親の立場であり、本当のしつけというものだ。彼のそのような行動から、彼は発達障害もしくはADHD(注意欠陥多動性障害)なのでは?とインターネットで書き込みをしている人もいるが、そこでは表面的な出来事を通して安易に診断を下しているように思われる。

今、そういったことを分析して語れる人が、世の中にどれほどいるのだろうか。今の社会では心理学者や小児科医などが、今回のニュースについていろいろと解説しているが、あの出来事は今の時代に欠乏している生命力を伝えているのだ。また、海外メディアも含め、奇跡の結末に多くの感動の声が寄せられ、彼がヒーロー扱いされている反面、「彼がかわいそうだ」という声も多く寄せられている。しかし、それだけでは物事を表面的にしか捉えられていない。

ようやく、出来事の全容を解説できる時代が訪れた。出来事の背景に流れる一人ひとりの人間の性質を把握し、さらに時代の流れを読んでいかなければ、出来事の本質を理解することはできない。そういった物事の本質を掴み取る時代が訪れたことの証として、どこにでもあるしつけ事件の顛末が、時代の流れを示唆しているのだろう。

今、本質を分析できる時代がようやく訪れたのだ。

 

Source of photo: newsnya.com/tanooka-yamato-missing