宇宙から一人ひとりにオリジナルな人生が託されている

2015年マヤ新年の日、地球に祈りのウェーブを巻き起こす式典の中で、いさどんは次のように語りました。

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今日2015年7月26日、マヤの新年・11MENの祭典に立ち合わせていただきました。そしてその最中に、ひとつの文字が浮かんできました。それは、「時(トキ)」という文字です。マヤ暦はおよそ20000年前から始まりました。その歴史をたどれば、今わたしたちはカタカムナを学んでいますが、そのカタカムナ以前に太平洋という地球上で一番大きな海にムー大陸があったそうです。そのムー大陸が消滅したとき、時(トキ)の文明を東に移し、マヤの文明にしたのです。そして、言魂の文明を西に移し、ユーラシア大陸の端に存在していたヤマトの国に移したのです。それから13000年の時を経て、一昨年、わたしたちはそれをカタカムナの学びとして出会いました。そして昨年から、メキシコの太陽マヤ族最高司祭の尊母ナー・キン氏との出会いにより、このヤマトの地で、マヤの新年の祭典が行われるようになったのです。

歴史を振り返ってみますと、2012年12月21日に25800年ぶりの銀河の冬至を迎えました。わたしたちの地球にも冬至はありますが、冬至とは光がもっとも少ない闇のピークのことです。わたしたちは太陽の生命エネルギーをもとにして、地球上で生命活動を行っています。そして、全ての生命が自分という個性をいただいて、時代を紡いでいるのです。その太陽の一螺旋である25800年ぶりの銀河の冬至が2012年12月21日に訪れ、この日を持ってマヤ暦は終わっています。それは、時(トキ)の文明を継承したマヤの人たちが、太古の昔にそういった宇宙の仕組みや太陽の構造を理解していたということです。

これまで、わたしたちは新たな時代を迎えるための心の準備をしてきました。一人ひとりが自らの個性的な心の歴史を知って、カルマを読み解き、そして新たな心とともに新たな時代を迎える準備をしてきたのです。それが木の花ファミリーの21年の歴史です。

そしてくしくも、新たな時代の扉を開けることになった4年前の東北の震災3.11を持って、わたしたちは地球暦に出会ったのです。地球暦に出会って、わたしたちは自分個人を生きているのではなく、星々の対話を受けて、宇宙の意志を一人ひとりの人生に表現していることがわかってきました。

こうした様々な出会いのもとに、今日2015年7月26日、わたしたちはこの富士山麓の地で地球一周の始まりとしてマヤの新年の祭典を迎えています。この祭典はヤマトの国・日本で始まり、そして24時間かけて地球を一周していくのです。

イメージしてください。宇宙を意識した人々の心が羽ばたくようにウェーブとなって、地球を一周するのです。つまり、地球は丸く、時代は途切れることなく永遠に紡がれながら、わたしたちはひとつの世界を生きているのです。

地球上にはまだまだたくさんの争いや様々な困難がありますが、これは人間以外のものが創ったものではありません。それは、人間が自我を自らのためだけに活かそうとして生きてきた結果なのです。それも、それほど長い期間のことではありません。時をさかのぼれば、およそ250年前のヨーロッパ産業革命以降のことでしょう。さらにもう少しさかのぼれば、800年、1600年くらい前のことでしょう。それ以前、人間は自然とともに生かされ、生命ネットワークの中の役割のひとつとして他の生命とともに繁栄していました。

今、この時を迎え、人間の中で自我が沸騰しています。しかし、これは悪いことなのでしょうか。

それは決してそうではありません。人間の可能性と高い能力を知るためには、思い切りその能力を表現する必要があったのです。そして現実にそれを表現したときに、その問題点も噴き出してきました。それが今の時代です。今、それをコントロールする時(トキ)が訪れ、そして自らのカルマを表現する言魂によってコントロールしていく時代になったのです。今、トキとトコロ、マヤとヤマトが出会って、この祭典につながったのです。

そのように考えますと、わたしたちは自分でわかっている範囲で生きているわけではないのです。星の対話によって時代が刻まれているのであり、それは宇宙の仕組みで生きているのです。その仕組みの中で、わたしたちは常に変化・変容・変態を繰り返しながら進化しているのです。

そういったことをイメージしながら、調和の世界を地球上に表現していきましょう。わたしたち人類は、非常に優れた能力と大きな影響力を持っています。人類が目覚めたら、次の時代にはきっと、この地球生命、さらに宇宙に大きな貢献をするような魂となって育っていく姿がイメージできます。

時代は21世紀に入り、ようやくそのような時代になったのです。2012年の銀河の冬至を迎え、新たな扉が開き、2013年・2014年・2015年と3年間その変化の準備期間をいただいて、2015年はその最後の年です。この新年が明けると、いよいよ新たな時の流れを世界中の人々が感じるようになり、人類も地球自身も新たな宇宙時代を迎えるのです。

それぞれの歩みがあるとしたならば、木の花ファミリーは世界に先駆けてそのことに気付き、目覚めたものとしてこの生活を通して表現するものなのです。これは今後の木の花ファミリーの生き方にますます反映され、そして宇宙を通し、地球ネットワークを通して、全世界に広がっていくものだと確信しています。今日のこの快晴は、天がそのような意志を示されていると感じながら、皆さんとともにその自覚を持って歩んでいきたいと思っています。

木の花の歩みが始まったのが21年前だとしたら、やっと今、時が追いついたのです。人は土星の30年のサイクルで生きていますが、最初の30年で自らが何者かを知ります。そして自らが何者かがわかったら、次の30年でそれを人生に表現するのです。そして、60年でその結果をいただき、その後旅立つための仕上げの準備をするのです。木の花ファミリーの20年から30年に向けての今後の10年間は、きっと新たな時代を紡いでいく大きな役割を果たしていくのでしょう。

そういった意味で、わたしたちは宇宙を生き、時を生き、時代を刻んでいるのです。その中のトコロという場にわたしたちの存在があるのです。ですから、心をしっかりと観て、宇宙・トキ・トコロを意識しながら生きていくことが、生命として、そして大きな役割をいただいている人間としての目的なのだと感じています。

それは、宇宙から一人ひとりにオリジナルな人生を託されているのです。そして、人々は自我から解放され、この世界のために天の意志をいただいて生きていく時代に入ったのです。それは、価値ある素晴らしい人生です。自分のことは自らで責任を持ち、高い意識で歩んでいきましょう。そして、地球上にみろくの世を実現させましょう。皆さん、これからもよろしくお願いします。

一人ひとりにオリジナルな人生が託されている
一人ひとりにオリジナルな人生が託されている

 

 


究極の世界が そこにある

いさどん:
株価が上がったと言って喜んでいる人たちがいる。それが経済の大きさだと言って、ゲームに翻弄されている。
何か、バツンとやってやりたい気持ちにならない?

何かが狂っている。
世の中は、どこかが狂っている。だけど、それに「そうだね」と呼応する人は少ない。
先日、ある柔道選手のアスリート魂をテレビ番組で放映していた。実力不足で負けて落ち込んでいる彼女の記事に、462件の「いいね!」と30件以上のコメントが付いていた。それはとてもわかりやすい世界。一生懸命やっている人が、実力不足で負けて落ち込んでいるというわかりやすい物語に対して、それだけの反応がある。
だけど、人類にはもっと大事なことがあるよなあ、と僕は思う。そんなことで一喜一憂している場合じゃないと。

人間たちは今、水素自動車の時代を迎えようとしている。水素は宇宙の中で最も多い元素と言われていて、いろいろなものから取り出せる。100年以上前にSF作家のジュール・ヴェルヌが言っていた世界が実現されようとしている。
ただ、その水素を取り出すのにもエネルギーがいる。そこで化石燃料を使う。それではだめだからと風力発電を使うのだけど、その風力発電を作るためのエネルギーにまた化石燃料を使う。

僕が子どものころ、美濃には豊かな自然があった。日本中にあった。だけど、50年前の自然は、もう返らない。何かが狂ってきているのに、みんな気付いていないんだよ。

この世界に、悪意がある。

それは、例えば利益を上げるとか、人よりも豊かになろうとか、そういった悪意がある。今よりも良くなろうとする心が、人間のエゴの上にある。
それが人間に染みついている限り、どんなにテクノロジーが進化しても矛盾は発生し続ける。それを取ってしまえばいいのだけれど、今の段階の人間は、そのままであり続けることが人間らしいのだと思っている。
そこを越えていけば、人間はどんなに進化してもお互いを傷つけることはないし、人間の存在が他の生態系や地球環境にとって有害なものにはなることはない。

――― 何で悪意が湧いてくるの?

それもプロセスなんだろうかね。

――― 人は神様からできているでしょう。悪意はどこから湧いてくるの?

同じところから湧いてくる。だから人間は、人間を超えて人を観ないといけない。

――― いさどんは、悪意ってあった?

それは、当たり前に自分の希望はあったよ。あったけれど、お釈迦様に出会ってから、それを調整するようになった。明らかに自分の中から湧いてくる感情に対して、それにストッパーをかける心が生まれて、今まで生きてきた。

――― お釈迦様と出会って最初の2年間は、泣きながら歩んでいた。

その時が一番ピークだった。その後は、衝動が出てくると、それをそうでない方へと向けるようになった。

僕はこれまで生きてきた中で、人に対しても、自分に対しても、「他者のために生きる」ということを基準にしてきた。だから、他者のために生きない者に対しては当然それを伝えるし、それができずにいる者には厳しい。逆に、そういったことの申し子のような人にはやさしいけれど、申し子のような人というのはなかなかいなかったね・・・。

他者のためだと思い込んで、自分のエゴを満たそうとしている人もいる。世の中のためにといって産業を起こして、自分の利益を追求している。それはものごとを緻密に観ておらず、客観性がない状態。では客観的な視点を持つにはどうしたらいいのかというと、自分自身を磨くということだよ。
だけど、こういった話も、その波動が響いている現場ではその気になるけれど、一たび自分の家へ戻るとまた元に返ってしまう。人間のエゴの響きが、地球に蔓延しているから。

今、僕の心の中にあることを言葉に表現するのは難しすぎる。
だけど、何かが足りない。

今、ここに3人いる。ここに壁がある。どういう壁かと言うと、個人という壁がある。
その個人という壁を全て取っ払った世界がいい、と思うのだけど、それは僕が、欲が深すぎるのだろうね。

生きるということは、性別だとか、人格だとか、個性だとか、そういうものの違いがあるものなのに、極端なことを言うと、あなたたちの個性を全部無視して、全て自分のもののように扱える世界。逆に言うと、そのことに対して矛盾や負荷がまったくかからない世界。そういう世界がある。究極のわがままだけどね。

昔から、僕はわがままというか、ぜいたくを言う。とびっきりの世界を求めようとする。その壁を壊そうとする。それをもって、他者と自分の境界を超えることをずっと伝え続けてきた。

――― いさどんの心には、壁がない?

壁を越えようとする時に、そこを越えたら、いつでも取っ払う心の準備はある。しかし、そういう望みを持っていたとしても、相手に壁がある限り、その相手の壁が自分の壁になる。それが相手との境界線になる。その相手の壁がなくなれば、その境界線がなくなれば、こちらには、ない。その時に、お互いの壁がなくなったということになる。

――― 壁があると苦しいね。

だけど、壁があることによってみんな自分を守っているんだよ。通じていない者同士は、壁によって守られていると考えている。
だから、守る必要のない自分をつくらなければいけない。守る必要がなくなることが大事なんだ。

壁の質は、人によって違う。たとえば、まりこと僕の壁。ようこと僕の壁。それは、一人ひとり違う。本当は、それを取っ払った世界を創りたい。

僕に壁があるかないかは、厳密には言えない。なぜかと言うと、そういう世界をまだ味わっていないから。けれども、常にそれを望んできたからこそ、今こういう生き方をしている。人に接することも、全てがその証としてある。
だけどみんなは、条件付きの壁を持っているんだよ。

――― 私、自分で条件があるなと思う。そうなることを、100%望んでいない。

人間には、悪意と恐れがある。そういうものが全てなくなると秩序が乱れてしまうから、自分を守らなければいけないと思うようになる。別の価値観に出会った時に、自分を守る心が働く。だから壁が取れない。

だけどね、自然界を見てごらん。大根があるとするでしょう。大根が大根であるということは、大根である限り絶対に自分であるわけだよ。それが他のものと交配してしまうと、自分ではなくなるわけだ。
ところが、自然界の中では、交配は可能なところとしか起こらない。そしてまた、変化していくことが許されるものとしか、交配しない。交配をするということは、そこに進化の種があるということ。必要な進化がその先にあるから、交配する。その道筋から外れたものとは交配しないし、そういった衝動も起きないようになっている。

だから、自分を守ろうとする恐怖や恐れを手放せば、実は、究極の秩序がそこにあるんだよ。ところが、その究極の秩序が現れる前に、自我が自ら壁を創る。だから、観えるものが観えない。次の世界がそこにあるのに、観えない。

そこまで行きたい心が僕にはある。僕はこれまで、他の人ができないことをやってきた。だからそれでいいのだろうと思いながら、どこかにいつも壁を感じていて、そこを越えられない、そこを越えたい、という貪欲さがある。
その貪欲さというのは、エゴ的な貪欲さではなく、壁を突破するための貪欲さ。その世界がどうなるのか、という好奇心。それを常に持っている。

だから、ことが進んでいって壁が取れてきて、例えば勉強会でもやって「ああ伝わったな」と思っても、そう思うと同時にその伝わった位置が観えて、まだまだ先があるのが観える。そうすると、まだこんなところか、という心が湧いてくる。前の状態からその状態になってきた喜びが消えて、次の「まだだな」という心が湧いて、壁が観えてくる。

それは、僕個人の衝動とは違うもの。水素エネルギーの時代が来る。これは無尽蔵で無公害と言われているけれど、そういうものがいくらできようと、人間の中にあるエゴ的な心を超越しない限り、結局それはまた矛盾を生むことになる。人間はそこでまた人との壁を見て、矛盾の発生源にする。人間の中にある壁を越えない限り、それは本当の理想にはならないんだよ。

壁がない状態というのは、人と接する時に、人に対して自分に接するようにするということ。そこに一切の区別がない状態。
それを可能にするのが、自分という存在の世界観を広げること。だから僕は、世界観や宇宙観の話をする。そして、いろんな角度から共通性を探求している。
だけどいくらそれをやったところで、人間の根本が自我が基本になっていたら、それはサビの上にペンキを塗るようなものだよ。いくら塗っても、サビが浮いてきてはがれていく。

自然界のものというのは、個性があって、絶対なるルールの中にあり、それを超えないようにできている。それを超えることは、神の意志の領域になり、新たな種が生まれたり、種の再編成が生まれる。しかし、そこでは個性を尊重するようにできているから、自我も守られているんだよ。そこには、意図が働いている。

逆に、人間は個が強くなりすぎて、それを超えていくということができない。自我を優先するがために、この世界を共有することができない。
それがまた矛盾の大きな発生源にもなり、人間が進化するきっかけになるわけだけど、大量の矛盾を発生させて、この世界に負荷をかける原因にもなっている。そのバランスをどうとっていくのか。

今、究極の選択を迫られる時が、来ている。
こんな話は、これまで哲学者や宗教家が頭の中で回しているだけで、世の中の人々の日常生活からは隔離された世界だった。
しかし今、人間のあり方そのものが問われる時代が来ている。そんなふうに切り離して置いていけない時代が来ている。

今、こうやってこの部屋で話をしていると、窓から隣りの建物が見える。その中にいる人たちは、そんなことは何も考えていない。窓の外に見える世間の99.999999999999%の、いくつ9がつくかわからないパーセントの人たちは、まだそのことを考えていない。
僕はそれを、限りなく少ないとみるのか、逆に、ほんの少しでも兆しが始まったぞと観るのかということだと思う。どんなことでも、始まりはほんの少しの兆しから始まったんだよ。いずれその兆しが、世界にいきわたる時が来ることを想って、この想いを巡らせている。

そしてその先を想像していくと、全てのものに壁がなくなることは、この世界がひとつに還るということ。つまり、始まりの、神様お一人の状態に還るということ。それは、この世界が終わるということ。それは究極の喜びであり、究極の破壊であるわけだよ。

これを哲学のように、発想の次元で終わらせてはいけない。みんなは、発想の次元でしか受け取れていない。
僕の中には、どこかに、強烈な欲深がいて、そのイメージを探求するあくなき自分がいる。だから、伝わっても伝わっても、もっともっとという気持ちになる。
僕は、そういう自分が好きだけどね。呼吸しながら、負荷がかかって、納得して、喜びになって、またそれが負荷を生んで、納得して、そして喜びに変わる、という呼吸するような状態が好きなんだよ。それが生きることだから。

――― この話をもっと深めたい。

あのね、これは、これ以上深められないんだよ。
僕の中では、今自分のイメージしている納得の限界のところまできている。そこで、他者、例えばあなたがこの話をもっと深めたいということは、あなたの受け取った次元の質問に対して答えるということを深めるのであって、究極の世界にいくには、結局、自我を超えなければいけない。そうすれば、全ては解決するんだよ。

この話は、壁を超えたい、壁をとりたいという衝動から始まっているでしょう。それを超えるためには、自我を超えること。自我を無しにすれば、こういった衝動は起きなくなる。つまり、自我があるから壁があるのであって、自我を無しにすればそれで終わるんだよ。

――― そうだね。私は今、ものすごく衝動がある。

それは自我があるという証拠だよ。その、ものすごく難しくて、不可能と思えることが、実は自我の壁を取れば終わることなんだよ。そして、そこには秩序があるのだから、何も心配することはない。今の自分の姿も秩序なんだよ。

例えば、人間と植物は壁を超えられないようにできている。人間と空気は壁を超えられないようにできている。人間と鉱物は壁を超えられないようにできている。
ところが、もう一つの捉え方からすると、それは全て同じものでしょう。地球という同じもの。だから超えられる。というよりも、すでに超えている世界で存在している。

だから、なぜこういったことが起こるのだろうかというと、自我がある状態があるからなんだよ。
どう言ったらいいのだろうね・・・目覚めれば、それに気付けば、答えは既に出ているし、完成されている。自我の頭で回しているだけでは、いつまで経っても、その答えは出ない。

はあ・・・・落とせないな。行こう。バイバイ。

 

(そう言って、いさどんは作業へと出発しました。)

 

 


新たな時代を迎えるために〜GENタイ代表といさどんとの対話

昨年より、木の花ファミリーは事実を歪めた情報によって国内の一部のエコビレッジ関係者からバッシングを受けてきました。
以下は、このことに心をいためたGEN(グローバル・エコビレッジ・ネットワーク)のタイ代表であるナルモン・パイブーンシッティクンさん(以下、モン)といさどんとの対話です。
 
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いさどん:
これまで、エコビレッジという概念に価値を置く人々がいました。こうした人々はこの概念に執着する傾向があります。本来、エコビレッジとは自然と調和し地球に優しい生き方をする人々の集いなのです。ですから、特定の人々が示す生き方のためにエコビレッジはあるのではなく、すべての人類が目覚め、目指すべき方向がエコビレッジのあり方なのでしょう。

今までエコビレッジは一部の人々の特別な暮らしということで認識されてきましたが、これからの時代は人類の歩みとしてこの概念を捉えていく必要があります。そういった意味で、エコビレッジ活動に関わる皆さんは門戸を広げる必要があるのです。自然界に豊かな生態系が存在するように、人々も多様な国家・文化・歴史を持ち、そうした違いを超えて共有していくことが求められています。今、時代は、イデオロギーの違いによる対立に終止符を打とうとしているのです。しかしながら、宗教の違いや貧富の差により、世界中の人々はまだ地球共同体という認識を持っていません。

例えば、ノーベル平和賞を受賞した少女がいますが、わたしは彼女の存在が世界に平和をもたらすとは思いません。彼女は対立構造の一方の側の人々に利用されているように観えます。それと同様に、ISの存在を悪とみなし、彼らを倒すだけで問題が解決するとは思えないのです。ですから、エコビレッジ活動に関わってきた人々は自らの視点を広げ、社会運動としてこの価値をつなげていくことが必要なのです。

モン:
日本においてエコビレッジのネットワークが切れた状況を考えますと、あなたがおっしゃることに全く共感します。しかし、そこからわたしたちは学ぶ必要があるのです。「わたしたち」というのは、日本だけではなく、タイや他国のネットワークも含めたわたしたち自身のことです。それと同時に、木の花ファミリーのようなコミュニティが批判によってエコビレッジのネットワークから外れたことに対し、わたしは戸惑いを感じ、何かしなければと考えています。

大きな視点から捉えると、タイや他の東南アジアの国々は物質的に貧しいだけでなく、精神性も貧しいという見解について話し合いたいと思っています。また、こうした国々の姿勢は良いものではないのです。あなたは姿勢の転換を重要視しています。そこで、どのような提案をわたしにしていただけますか?

いさどん:
物理的な貧しさから脱却するために、近年、ほとんどの人々はアメリカ主導型の豊かさの探求に追随してきました。しかし、本来人間は精神的な生きものであり、精神的に不安定な状態で物だけを与えられたら、色々な矛盾が発生するのは至極当然のことです。人々が物質的な豊かさを求めれば求めるほど、今の人間社会の構造では一部のところに物理的豊かさが集中するのです。

ですから、ひとりひとりが一方通行の価値観へ向かうのではなく、それぞれの個性を生かして、個性を尊重し合い、そしてネットワークの中で豊かさを追求する自立した状態が必要です。わたしたちは地球という一つの生命体に存在しているのですから、現時点での目的はワンネスを意識することであり、その目的を果たすためには皆が互いにつながり合うことが大切です。そのためにはわたしたちの世界観を広げる必要があります。それは、特定の価値観に囚われていては、可能ではありません。なぜなら、わたしたちが存在しているこの世界は、常に変化・変容を繰り返している世界だからです。さらに、平和や幸せ、豊かさについてどの意識レベルで捉えているかを見直す必要があります。そういった意味では、最初にお伝えしましたように、これまでエコビレッジを推進してきた人たちは、エコビレッジに対する自らの視点によって限定されているように観えるのです。

木の花ファミリー創立当初、わたしたちは「エコビレッジ」という言葉を全く知りませんでした。このコミュニティはわたしの霊的な体験とともに始まったのです。また、木の花ファミリーの歩みは地球に優しい生き方を追求していった結果でもあります。そして、エコビレッジを広げようとする人たちが木の花ファミリーのメンバーになって、わたしたちはエコビレッジとして知られるようになりました。今現在、木の花ファミリーはエコビレッジという枠から意図的に外れていますが、事実として、ここはエコビレッジとしてもっともふさわしいモデルであり、その最たるものが精神性なのです。

今なお一般社会は、富を追求することを優先しています。この流れは、地球上で最後の物理的進化のフロンティアであるアフリカ以外は、すべて行き詰まりを迎えることでしょう。そしてアフリカではこれから物質的な価値観が繁栄し、それがピークに達したときに、地球上での矛盾もピークに達するでしょう。その予感を感じられる今、時代の流れは明らかに切り替え時に来ているのです。

宇宙的視点からすると、250年前に起きた産業革命以降、冥王星は一周しました。ですから、戦略的に社会を変えていこうと志を持つことは時代の流れに乗っていることですし、それとコラボしていくことは大切なことです。しかし一方で、時代が変化していくときに戦略的になる必要はないのです。これからは物質的な豊かさを探求すればするほど、地球はすでに過剰な負担をかけられていますから、その行為に対して常に矛盾という形でわたしたちにその意志を伝えてくるでしょう。今、物質的な豊かさと霊的な豊かさのバランスが崩れていますので、物質的探求を続けてきたわたしたちが切り替わるしか選択肢はないのです。そこで、わたしたちがすべきことは、遺産として次の世代へつなぐビジョンを明確にすることです。

先程あなたから、木の花ファミリーに対する批判についての話がありました。今回の批判を受けるずっと以前から、わたしたちはエコビレッジ関連の組織に入り続けるべきなのかどうかについて考え、皆で話し合ってきました。なぜなら、国内でエコビレッジを推進する学びの場は多くもたれてきましたが、その多くはコミュニティを立ち上げることすら叶わなかったのです。そこではビジョンに現実味がなかったり、コミュニティを持続させるにふさわしい精神性に乏しかったり、またエコビレッジに対するイメージだけで関わってきたことが原因になっているのです。彼らの中には、ヨーロッパやアメリカのエコビレッジを訪問した際の体験やどこかで得た情報のみで、エコビレッジのイメージを創り上げる傾向があります。それに対して、わたしたちはエコビレッジという概念に倣ったわけではありませんが、地球に優しい生き方を模索してきた中で、コミュニティの変遷の現場を歩んできたのです。

すべてのものに過渡期があるように、ある段階でわたしたちは社会に適応できない人々の受け皿になっていました。そうした人たちは一般社会で自らを健全に保つことが出来ず、その多くは人間関係において不安定であり、希望を失って、新たな社会的価値観を求める傾向があり、このコミュニティに集ってきました。わたしたちにとってそれはまるで、リハビリプロジェクトのようなものでした。そのようなプロセスの中で、コミュニティを運営するために取られた学びと措置の善意を逆恨みする人たちがいました。しかし、その当時も今も、その人たちに対する愛と、社会を健全にしようとする情熱はわたしたちの中で不変なのです。

また、わたしたちの世界観と、彼らが求めている幸せや世界観にギャップがあることが発覚してきました。そういった過程で様々な人々が集いながらも、木の花ファミリーは一つのコミュニティとして運営され、維持していくことが求められたのです。そのような模索の中で、木の花ファミリーは精神性の高いコミュニティとして確立されましたが、その道が進むほど、その方向性から自然に外れていく人たちが出てきました。

古橋道代がGENやGENOA、Gaia Educationの役員をしているときに、そこでなされた議論の内容を聞き、エコビレッジ活動に関わる人々の世界観に失望するところがありました。そのような見解からすると、木の花ファミリーを離れた人たちとも、同じテーブルに着いて語り合えば、今回のような出来事が自分たちの未熟さから発生したことを彼らは真に理解するでしょう。

なぜそのように言えるのかというと、彼らがここを離れ、木の花ファミリーが批判を受けた後でも、事実、ここはたいへん安定した状態にあるからです。 あなたもここに滞在することにより、それを感じていることでしょう。しかし、ここを離れて行った人たちは自分たちを正当化したいがために、事実の多くを捻じ曲げ、架空の物語を創り上げ、わたしたちを批判し始めました。日本において木の花ファミリー以外に、エコビレッジらしいコミュニティは他にありません。さらに、ここは世界的にもたいへん貴重な場所だと思っています。

ところが、共同生活を一度も実践したことがないにも関わらず、エコビレッジのイメージを創っている人たちがいます。ある意味、そういった人たちにとって、木の花ファミリーが日本におけるエコビレッジの代表事例としてみなされていることは好ましいことではありませんでした。そうした人たちの釈然としない想いとここを離れた人たちの不満が合わさり、わたしたちをたいへん激しく批判するに至りました。しかし、今回の一連の出来事を通じ、木の花ファミリーメンバー間の絆は深まり、わたしたちの世界観はさらに広がりました。

事実、彼らが一生懸命取り組んでいることは、エコビレッジの事例としての木の花ファミリーをなくし、忌まわしい団体として貶めることなのです。エコビレッジの定義を広げ、その基準を超えようと考えているわたしたちからすると、このことは問題ではありません。ですから、エコビレッジを推進する人たちの言葉を借りれば、エコビレッジのネットワークとは多様な形で個性を尊重するということなのですから、「エコビレッジ」の定義や意図を考えると、木の花ファミリーのような確立されたコミュニティがそのネットワークから外れることは不自然なことです。

何よりも、21世紀に人類がどのように進んでいくべきかの回答がここにあります。産業革命以降250年間続いた物質至上主義の価値観が転換する時代が訪れているのです。右肩上がりの成長と引き換えに、人々は地球に負荷をかけ、豊かさを追求してきました。しかし、真実として、宇宙は拡大と収縮を繰り返しています。そして今まさに拡大が終わり、その真実を求めるためにそぎ落とし収縮する段階に入ってきています。必要なものと不必要なものを仕分けし、不必要なものをそぎ落としていく時代なのです。そうすると、これ以上物理的にも精神的にも不必要な負荷がかからなくなり、本当に必要なものだけが残るのです。これからは、物質的な発展はわたしたちの積極的な意志により縮小していくべきなのです。その代わりにわたしたちが拡大させる必要があるものは、精神性に基づく世界観です。世界観を広げていくことによって、人間としての新たな可能性を開花させ、愛や調和にあふれた世界を創ることが出来るのです。

木の花ファミリーのメンバーは精神性を最も大切にしながら、不要なものをそぎ落とし、日常生活の中で真実に目覚めようと努めています。もしあなたがただ自分自身の願いを叶えたいと想うなら、コミュニティで生活することは不可能でしょう。実際、特定の人々が共同体で暮らしているのではなく、わたしたち人類は皆、「地球共同体」に暮らしているのです。それは、人類の地球共同体どころか、地球生態系の共同体でもあります。さらにわたしたちの意識が広がっていけば、それは太陽系共同体であり、銀河共同体であり、大宇宙共同体でもあるのです。

ですから今、地球共同体を運営していくためには、人類は自らのエゴと直面することが不可欠です。そしていつか、わたしたちが宇宙的視点に立ったときに、どのように太陽系、銀河、宇宙を運営していくのかを考える時代が訪れるのです。人類が地球を一つの生命体だと気付き、そうした認識とともに生きていくことの歴史的転換点を今、わたしたちは迎えているのです。

批判によると、木の花ファミリーには問題のある性的行為や暴力があるとされています。それは、彼らの意識レベルで物事を見て、その人たちの感情が反応すると、それを事実として捉えることができます。しかし、すべての出来事には長い物語があり、それは継続しているプロセスの一部なのです。わたしたちを批判する人たちは、物事を部分的に切り取って、自らのフィルターを通して事実を歪めている傾向があります。しかも、そのような批判は、自らのエゴと向き合いきれず、精神性を高めることを断念した元メンバーが自分たちを正当化したいがために訴えたことのみを情報源としています。ですから、この状況を改善するためにわたしたちが次に何をすべきなのかという提案を一切しないのです。なぜなら、ただ批判することが彼らの目的だからです。それとは対照的に、木の花ファミリーにはこうした出来事すべてを経験した結果、より高いビジョンがあります。その現実化のために、今も粛々と日々の中でその探求が進められています。ですから、自分自身のエゴに向き合うことができなかった不調和なメンバーがここを離れていった結果、メンバー間の絆はより強くなり、ここはより精度が高くさらに開かれた場になりました。

あなたは今回それほど長い期間ではありませんが、ここに滞在するために訪れました。もしあなたがこのコミュニティのエネルギーを感じるならば、わたしたちが一切の秘密を持っていないことに気付くでしょう。もしあなたが1ヶ月でも1年でもここに暮らしたら、それはとても明解にわかることです。鋭い人であれば、ここを一目見ただけで今回のような批判が真実ではないことを瞬時に感じ取ることでしょう。

道代:
彼女はここに来てすぐに、木の花ファミリーは批判されているような出来事が起こる場ではないと気付いた、と今朝わたしが彼女と話していたときに言っていました。

モン:
ひとつ質問があります。わたしたちは何をすべきなのでしょうか。この状況をただ放っておけばいいのでしょうか。それとも改善するために、GENのような国際レベルで、またはGENOAのような地域レベルで、もしくはわたし個人のレベルなど異なるレベルで、何かわたしにできることはあるのでしょうか。

いさどん:
わたしたちの見解からすると、批判する人たちには明らかに事実を捻じ曲げフィクションを創り上げることによって、わたしたちの存在を否定しようとする意図があります。彼らはとても賢く、多大なるエネルギーを注ぎ、批判することに情熱的になっているので、そこに惑わされる人もいると思います。それは時代が新たな方向へ移行しようとするときに、抵抗する力のようなものだと捉えています。しかし、時代は確実に前にしか進みません。ですから、彼らがしてきたことは時代に逆行しているのですから、霊的には罪を犯していることになるのです。わたしはそのことに対して彼らを非難するつもりはありません。彼らの意識レベルからすると、批判することを大事だと思っており、そのことによって自分たちの価値を下げていることがわからないのです。

大切なことは、時代は新たな方向へ時を紡いでいく役割をわたしたちに与えていることに気付くことです。それは、天体の動き、人類の歴史、文明の周期といった様々な視点から、新たな時代に劇的な変化をもたらす大いなるターニングポイントを今、わたしたちが迎えていることが立証されてきているのです。変化を求める動きは、それに対する抵抗に常に出会うものです。もしわたしたちがその抵抗に対して何もしなければ、こうした変化を拒否していることにもなります。ですから、時代が変わることを感じ、その真意を理解できる者は、これを何とかしようとするのです。批判を支持するどころか、それを超えて新たに木の花ファミリーを支援する人たちが今、多く現れてきています。あなたの中にもそのような感受性があるから、それを感じられたのでしょう。不調和が批判する人たちの特徴なので、共通した敵がいれば団結し、一見調和しているように見えます。しかし、彼ら自身の中に人を批判して自らを正当化する種があるのですから、その調和を保ち続けることは不可能なのです。ですから、そうした自分自身の価値を下げていくような活動がいずれ消滅することは確かです。そして、それは時代が示してくれるのでしょう。

それでは、わたしたちが新たな時代に移行していくことを感じる人たちは、何をしたらいいのでしょうか。それは常に真実を語ることであり、わたしたちと同じ立場なのです。わたしたちは木の花ファミリーという存在を所有していません。新たな時代に向けての一つの雛形として、わたしたちはこのようなライフスタイルを実践してきました。ですから、人々が地球共同体に暮らしていることに目覚め、時代が新たなステージに移行すれば、わたしたちの目的は達成されるのです。そのような共通した目的を持っている人たちは、エコビレッジ活動に関わっている人も、そうでない人も、あなた自身も皆いずれ、その立場に立つべきだと思うのです。エコビレッジという枠が壊れ、広がる時が訪れています。わたしたちを批判する人たちはたいへん熱心なので、日本語だけではなく英語でも発信をしています。それは、わたしが伝えていることの問題提起をするチャンスでもあります。そのことにより、真実は何であるのか、そしてこれからの時代に何が求められるべきなのかが立証されるのだと考えています。

もしあなたがタイのことだけではなく、人類の未来をわたしたちと同じように考えているのだとしたら、それはあなたのための活動として、真実を伝えていくことが大切です。それは、この世界の仕組みに気付き、時代の流れを感じた人たちの使命なのです。

時代は、とてもダイナミックで、魅力的な時を刻んできました。そして、そういった価値観を支えるわたしたちの思考も、その確信のもとに歩んできたのです。しかし、全てのものは満つれば欠ける世の習いのごとく、過ぎたればそれを修正する段階に入るのです。ですから、わたしたちが今取るべき行動は、自らの根本的な振り返りと新たな時代を迎えるための自我のコントロールです。それは、今までの価値観とは全く逆さまのようなものにも捉えられますが、時代に心を向けて感じられれば、そのことの大切さは明解にわかるものです。そして、新たな時代を迎えようとするために出来事が矛盾を持ってそれを示し、人々は今、そのことに気付き始めているのです。わたしたちに出来ることは、そのネットワークの中に自らがいることを常に意識して生きることなのではないでしょうか。
 
 


今なぜ「1ヶ月間の真学校」をやるのか

2月15日から3月14日にかけて開催中の木の花塾「1ヶ月間の真学校」では、日々受講生たちの中に変化が生まれています。今、なぜ、「1ヶ月間の真学校」をやるのか。その意味について、いさどんが語りました。

*「1ヶ月間の真学校」の様子は下記ブログにて公開しています。ぜひご覧ください!
  ↓

 「1ヶ月間の真学校@木の花ファミリー」
 
■    ■    ■    ■
 
グローバル・エコビレッジ・ネットワーク(GEN)が、創立20周年を記念する本を出版するにあたり、その中で世界の20のエコビレッジを紹介するので木の花のことも取り上げたいという話がありました。
そこで依頼された記事をこちらから送ったのですが、みちよちゃん(前GEN理事)によると、その内容がスピリチュアルで哲学的なものであり、他にもスピリチュアルな内容の記事があったため、あまりそういった内容に偏りすぎてエコビレッジがスピリチュアルに偏った場所だと思われては困るというあちらの編集方針によって、今回は掲載を見送られることになったそうです。

今、1ヶ月間の真学校に14名の受講生が学びに来ています。彼らは、何かしら今の西欧的な物質至上主義の社会に疑問を持ち、新しい生き方を求めている人たちです。そういった人たちが、歴史的にも時代の変遷を担ってきました。
今、いろいろな意味で地球が行き詰まっている中で、そういった人々が増えてきたということは、地球上に暮らす人間の生き方を変えなければいけない時が来ていることの証ではないでしょうか。

今の地球の行き詰まりの一番の原因は、人間が自分という自我に囚われて、もっと大きな世界観の視点から外れていることです。
地球は、ひとつの命です。そして、宇宙の星と星との関係も、実は生命的なつながりの調和の中にあります。しかし、人々はそういった捉え方をせずに、人間の考えだけで暴走している状態です。今の産業界や世界を推進している人々の考え方では、人類は地球に問題をもたらす生命となってしまう時が来ています。

一方、これまでのエコビレッジも、その存在の意義を見失い始めています。それはどういうことかと言うと、活動を広げてメジャーになろうとする動きの中で、西洋的発想の人々の作った組織は、スピリチュアル性を抑えようとするのです。
けれども、西洋的な情報に偏ったエコビレッジ・デザイン・エデュケーション(EDE)のような教育プログラムをやってそこで知識を得ても、特に日本の場合は、そこから実際にエコビレッジを立ち上げる人がなかなか生まれません。生まれないどころか、エコビレッジらしいエコビレッジが消えていってしまうのです。

本当に地球のことや生命のことを考えて生きていく人を育てるには、僕はある意味イスラム教の神学校を意識して、真実に目覚めるためのプログラムとして「1ヶ月間の真学校」を立ち上げました。それはイスラム教の神学校というわけではなく、世界観を広げ、真実に目覚める場です。
受講生があらかじめ求めているような情報ではなく、彼らの思考が及ばないような情報を提供することで、一人ひとりの意識を引き上げていきます。それが本来の情報提供です。彼らにとってはそれまでに考えたこともなかった世界ですが、聞いていくと道理の通った当然の話であることがわかってきます。

人類が地球上で調和的に暮らしていくためには、どうしたらいいのか。多種多様な生命が地球上で持続可能に生きていくことを、今もっとも阻害しているのは人類であるというところに、私たちは至っています。ならば、私たち自身がそのことに気付くことです。人類は生命の長として、自分たちだけを特別視せずに、新しい世界観のもとにこれまでの生き方を変えていくという役割を担っているのです。

GENの編集局は、本の内容がスピリチュアリティに偏り過ぎないようにということで今回掲載を見送ったとのことですが、世界の主だったエコビレッジはみんなスピリチュアリティから始まっています。そのスピリチュアリティを失っていくということは、生命力を失っていくということです。もともとの精神性を忘れて、世界の主流になっている地球環境問題の方にエコビレッジを位置付けていますが、今エコビレッジの活動自体が広がらなくなってきています。
今回の編集をしている人々には、世界のエコビレッジがスピリチュアリティに偏っている団体だと思われたくないという意向が働いています。そういった世界の風潮とは逆に、精神性を重視しているものが健全であり、だからこそこういった生き方をやり続けていけるということを示す時が来ていて、それはまさにこれからというところなのですが、今までの世界の傾向に合わせてその部分をカットするのです。

今、真学校を始めてみて、受講生のマインドコントロールが進んできたなと思います。そのマインドコントロールとは、一般的にイメージされるような人間の思惑によってなされる洗脳ではありません。
その人の枠の外にある情報を提供することによって世界観を広げ、視点を高くすることで、今の社会がどういう状態なのか、その社会に疑問を感じているとはどういうことなのかということに目覚めさせて、自分がこれからどう生きることが、自分にとっても地球にとってもいいことなのかということを考える力を身に付けていくのです。
それは、自らの心の性質を客観的に捉えて自分でコントロールしていくこと、つまりマインドコントロールであると言えます。そのコントロールによって、自分にも他の生命にも、地球全体にとって健全な世界を創っていくのです。それが尊い生き方です。

人々はまだ、エコビレッジ業界の人達も含めて、20世紀型の豊かさの延長線上に幸せを求めています。ところがそれでは、この宇宙の中で地球だけに生命があり、人間はその中でも特別な存在として宇宙や地球生命への責任があるということが、いつまでたっても理解できないのです。大切なのは、エコビレッジを創るよりも、そういった広い世界観に目覚めることなのです。

今回の真学校の受講生たちは、今の世界の在り方に疑問を持っています。それは、時代が移り変わっていく時になくてはならない目覚めです。
事実として、今、若い世代が生きることに希望を失っています。産業をどんどん推し進め、それが自分自身を破壊しているのだと気付かずに欲望を広げていくようなおかしな社会に希望を見出せずにいるのです。生命力という意味で、新しい形で人々に希望を持たせる必要があります。

今はイスラム国の台頭が話題になっています。イスラム教の神学校という教育の中からイスラム原理主義が生まれてイスラム国の台頭につながっていますが、地球上の在り方として、今も、未来も、ああいったことがずっと栄えていくということはあり得ないでしょう。
けれども、それを脅威に感じている人たちはそれをつぶそうとしています。そのつぶすことも一つの自然の働きとして捉えられますが、ではなぜ今の時代にイスラム国が台頭してきたのかということを本当には振り返っていません。

イスラム国は、今の世界の主流であるモノカネ主義の結果、人間が地球環境をこのような状態に追いやってきたことの歪みとして生み出されたものです。その歪みが生んだものを単なる悪者としてつぶしたら、なぜそれが発生したのかという本当の意味を理解しないまま、社会が進化しないことになります。そうやって自らを振り返ることのない自分主導の善悪二元論的な発想が、まだまだ世界にはびこっているのです。
イスラム国が現れた意味を理解したら、人類は今の地球上での在り方を変える時が来ていることが観えるし、時代も変わるように進んでいっています。エコビレッジ業界は、自分たちが持続可能な暮らしを提供できる代表だと考えているかもしれませんが、そうやって何かを所有していると、世界全体の潮流に乗り遅れる可能性もあります。また、自らの思惑によって表現に制限をかけていては、多様性からも外れてしまうのです。

戦争の影響で日本は本当のスピリチュアリティを失ったために、なかなかそういったことが浸透していきませんが、世界的にもまだ今のような風潮が人類社会を支配しています。
だからこそ、この真学校をやっていかなければならない。そして、一人ひとりの目覚めが本当に必要になってきていると思います。

人はいずれ、必ず死にます。
そして死を境に、全ての人が、スピリチュアルな世界へと迎えられていくのです。
  
 


イスラム国が私たちに教えてくれていること

日本人人質殺害事件により、日本でも大きく報道されるようになったイスラム国。今、アメリカを中心とする連合軍の他、自国のパイロットを殺害されたヨルダン軍が「イスラム国を地上から一掃する」と空爆を続けています。
しかし、イスラム国が地上からなくなったら、世界に平和が訪れるのでしょうか。

イスラム国の存在が私たちに教えてくれていることは何か。
マスコミでは報道されないこの世界のカラクリを、宇宙視点で見てみよう!

■    ■    ■    ■
 
いさどん:
今、世界中が感情的になっている。9.11後のアメリカと同じような状態が、日本でも起きている。みんなイスラム国を悪だと非難して正義をかざしているけれど、その正義をかざしている人たちが、今自分が悪と呼んでいるものの種をかつて蒔いていたことに気付いていないんだよ。

今この時代に、イスラム国はなぜ生まれたのか。
いろいろな意見がテレビで放映されているけれど、どの意見もイスラム国は悪だという一方通行な認識を助長するためにあるようなもの。そういった一辺倒な視点なものだから、マスコミもわざわざヨルダンまで行ってお悔やみのコメントを拾ってくるような、日本人がそうだそうだと盛り上がりそうな話を流す。国民がそういう目で見れば見るほど、政治家もそれに応えて支持される側にまわり、感情的な発言をしていく。まったく、9.11後のアメリカ社会とよく似てきている。

近年の歴史を見てみると、アメリカを始めとする欧米諸国が、過去に自らの利益のために中東で行ってきたことの結果、9.11があり、それがアメリカの大義名分となってアフガニスタンでの大量殺戮やイラク戦争が起きた。イラク戦争では、軍隊だけでなく、大変な数のイラク人が死んでいる。(8万~120万人とも言われるが、アメリカ軍は公表しておらず正確な数は不明。)
イラク戦争は新兵器の実験場となって軍事産業が太り、アメリカは景気がよくなった。日本は中東に石油で頼りながら経済的に西側についており、イラク戦争にも支援をしていたのだから、何らかの形で戦争を進めるのに加担してきたんだよ。今いくら日本が人道支援だと言っても、ニュースに出てくるような表面的な情報ではなく、歴史的にも、客観的な実態をしっかり精査して見たら、日本がやって来たことは十字軍に参加したのと同じである、とイスラム国が言うことの意味もわかるだろうね。

イラク戦争は、アメリカによって作られた戦争だった。そしてそれによってシーア派とスンニ派の立場が逆転し、スンニ派が虐げられるようになった結果、イスラム国が生まれた。だから、いきなりそこにイスラム国が現れたわけではなく、過去にそこに至るまでの物語があるのだから、今いきなり出来事が起きたかのような情報だけを受け取って悪だの正義だのと言っているようでは、真実はつかめないよ。

まりこ:
イスラム国が人を斬ったりヨルダンのパイロットを焼き殺す映像を見て、みんな「ひどい」って言うでしょう。でも映像に撮られていないところで、他の国もどれだけひどいことをしてきたことか。

あき:
それはそうだよ。

ともこ:
でもそこには全く話がいかない。ある意味、イスラム国は自分たちの行為を自ら公開してるとも言えるね。
昔アメリカがパナマ運河支配のためにエル・チョリージョという街で民間人数千人を殺した時には、まずテレビやラジオ局を占拠して、ジャーナリストも逮捕して、事実が報道されないようにしたんだと言われてる。結局事実はわからないけど、第2次世界大戦から9.11までの間にアメリカが攻撃した国は20カ国もある。

いさどん:
大戦以降、世界でもっともたくさん人を殺した国はアメリカだからね。

まりこ:
日本だってどこだって、いろんなことをしてきた。『リダクテッド』(イラク戦争でのアメリカ兵の姿を描いた、実話をもとにした映画)ではアメリカ兵が15歳の少女をレイプして焼き殺していたけど、そんなこと、ニュースにもならないところで過去にどれだけあったことか。

いさどん:
イスラム国の行いを見て「人間のすることじゃない」って言うけど、とんでもない。これが人間の姿なんだよ。動物はこんなことはしない。人間だからやるんだよ。

ヨルダン軍による空爆
ヨルダン軍による空爆

ヨルダンのパイロットのカサスベ中尉が焼き殺されたことで、今ヨルダンはイスラム国に仕返しの空爆をしている。そこでどれだけの人が死んでいることか。どれだけの人が焼き殺されていることか。
かつてヨーロッパでも魔女狩りと言ってたくさんの女性が焼き殺された。その後も、ヨーロッパ人はアフリカで、キリスト教の布教の名のもとにどれだけの人を殺したのか。奴隷船の船倉にアフリカ人を詰め込んで、詰め込みすぎて死んでしまったら海に捨てる。ベトナム戦争でアメリカはどれだけの枯葉剤を撒いたのか。カンボジアでも、ルワンダでも、そんなことは世界中で起きている。
カサスベ中尉が焼き殺される映像を見たけど、原爆はもっとひどい。広島では熱風で皮膚が焼けてべろべろになって、でも中は生きているから人々は水を求めて歩いて行った。死ねないんだよ。そして川で溺れ死んだ。
それらは全て、人間の仕業。だとしたら、自分がそんなことをする人間であるということを考えなければいけない。

中尉は映像の中で、殺される前に自分たちが爆撃した場に連れて行かれて、その現場を見ている。おまえたちの爆撃でこうなったんだ、とイスラム国は訴えているわけだ。映像には、焼け焦げた子どもの姿も出てくる。
オバマ大統領やヨルダン国王は彼が焼き殺されたことを受けて、これは人間のすることじゃない、イスラム国はイスラム教徒ではないと言うけれど、自分たちも同じようにたくさんの人を焼き殺してきている。今回のことは、その怨念が生み出した仕返しなんだよ。そんな単純なことがどうしてわからないのか。

あき:
お互いに相手を非難するだけで、自分のやったことを振り返ることがない。

ともこ:
誰が考えても当たり前にわかることなのにね。本当はわかってるのかな?でも、安倍さんでもそうだけど、国民の手前そういうふうに言わざるを得ない、ということもあるのかな。

いさどん:
それはそうだよ。そういった立場に立つ者ほど自分の立場を守ろうとするからね。オバマ大統領だって、これはブッシュ政権がやって来たことの結果だということを、きっと言いたいんじゃないかな。だけどああいう立場に立ってしまうと、これはアメリカのせいだなんてことは言えなくなる。それで今のような姿勢を取ってるんだよ。

映像に出てくるイスラム国の兵士の目を見ると、正常な精神をしてない。ああいった状況の中で、よく集団として持続できているものだと思うけれど、それだけの強い恨みの裏付けがあるということだろう。

ともこ:
ちょっと前に日本で、失うものが何もない「無敵の人」が話題になったけど、イスラム国も無敵の人の集団と言えるかもしれないね。

いさどん:
中東で石油が発掘されて、文明のエネルギー源が吹き出したでしょう。僕は、それと一緒に20世紀の毒のエネルギーが噴出したんだろうと思うんだよ。それがイスラム国を生み出した。
あれだけの怨念を吹き出させたのはいったい誰なのかと言ったら、欧米だよね。では欧米が悪いのかと言ったら、それが人間だということさ。
ニュースの表面的な話にそうだそうだと言っている場合ではなく、自分も同じ人間なんだよ。人間はそういう生き物なんだ、ということがわかったら、ではその人間としてこれからどう生きるべきなのか、というところにつなげていくべきだ。同じ種として、みんなに責任がある。

ともこ:
あの映像を観るとやっぱりウッとするし、その分ネガティブな波動が自分から発せられる。それが世界中に配信されてるんだよね。自分が発するその波動がまた次の世界をつくっていくとしたら、そのネガティブな波動を自分で浄化する必要がある。
みんなと一緒に暮らしててよかった、と思うよ。だって、あんな動画を一人で観たらすごい暗い気持ちになって、浄化する術もわからないまま悶々として生きていかなきゃいけない。

あき:
おなかの底に残るよね。
牛や豚が屠殺される時に、わっと逆上して、一気に血液が酸化するっていうでしょ。いくら今は痛みを感じないように工夫されてるって言っても、動物はカンで、自分が殺されるのがわかる。その瞬間はすごい恐怖。そうやってできたお肉を、人間が食べるんだよね。
あのパイロットの人も、目の前に火が上がって来た時にどれほどの恐怖だったか。その恐怖の想いや怨念が、地球上に残っていくんだよ。

まりこ:
あの映像を観てひどいって言うのは、動物が殺されるのを見て「かわいそう」って言うのと同じだね。かわいそうって言いながら肉を食べる。何が違うの、って思う。

ともこ:
ひろっちが、昔矢ガモがニュースで話題になってた時に、みんなが「ひどいことするわね」って言いながら唐揚げ食べてるのを見て、なんじゃそりゃ、と思ったって言ってたね。

まりこ:
動物が殺されるのを見て「きゃー」って言った後に、マクドナルドに入るんだよ。

ともこ:
それに、ああやって焼き殺されることだけが残酷とは限らないよ。例えば経済制裁とかでじりじりと貧困に追いやっていって、苦しみがずっと長く続くことだってある。湾岸戦争後にアメリカや先進諸国がイラクに行った経済制裁では100万人以上が亡くなって、そのうち50万人は子どもだったって言われてる。だけど、後藤さん一人が殺されたことはあれだけ大々的に報道されるのに、イラクの100万人のことはほとんどの人が知らないよね。
焼き殺される瞬間の場面だけを切り取って、それが残酷だって言ってる場合なんだろうか。もっと残酷なことなんて、暴力使わなくたっていくらでもあると思う。

あき:
ほんの些細な、自分のことしか考えないような心が、すごく大きなことにつながっていく。

ともこ:
だからやっぱり、イスラム国の人たちは私たちにそれを見せてくれているんだと思う。ものすごくわかりやすい形で。自分の心の中にも彼らと同じ種があって、それを野放しにしておくとこういう結果につながるんだよ、って。

いさどん:
ある意味、彼らは神のメッセージを実行してるよ。彼らはなぜ地球上に、今の時を持って現れたのか。人が生まれてくる時に役割を背負ってくるとしたら、彼らは神の手先とも言える。

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ともこ:
今回日本人が人質になったことで、日本の国民も、それまでニュースには流れていても他人事にしていたイスラム国の存在を、少なくとも自分に関係のあるものとして捉えるきっかけになったんじゃないかな。
まだまだ自分たちの身の安全とかにばっかり関心が向いてる視野の狭い状態ではあるけど。

いさどん:
人質になる人は、それなりにそこにいる理由がある。2人とも、そこでそういう立場に立つだけの行動をしてきたわけだから、それを一般の市民が人質に取られたのと同じように扱うのもおかしな話だ。そういうことが、どこかでごまかされてしまっている。
人類の歴史上沢山の不幸があったけれど、そこに登場する全ての出来事は、そこに登場するのにふさわしい因縁を持って生まれて来て、因縁を持ってそこに存在している。でも今の人間にはその解釈がわからず、一方的に相手が悪いと非難し合っている。問題の原因を相手に突き付けて、自らの姿勢を振り返らないようでは、根本的な解決はできない。

一人の人間が人生に行き詰まっていることを、自らを客観的に捉えることで解決できるとしたら、一つの国家のあり方も同じように解決できるはずであるし、人類の行く末も、同じ手法で未来が見えてくるはずなんだよ。どれほどの人がこの意識レベルでものを観ているかはわからないけれど、今のこの時代に、こういった視点を持って生きていくことは大切なことだから、これからもこれを持ち続けて、一人でも多くの人に、この世界観の目覚めを伝えていく必要がある。
だけどそれは、「自分がそれをやる」という心ではなく、時代がその方向に進んでいるのだから、その時代の要請に応えて、時代の意志の表れとしてやり続けることが大事だね。

ともこ:
そこが根本的に今の一般的な考え方と違うんだよね。今の人たちは「自分が何とかしなきゃ」と、自分の力で世の中を変えようとする。

いさどん:
本当は、時代が歴史を刻んでいくのであって、人間はその中に出てくる役者のようなものなんだよ。
役者は観客から見えるけれど、その役者が演じるシナリオは見えないもの。見えないシナリオに基づいて、役者は演じないといけない。それを感じ取る意志が役者にないと、役は果たせない。役者が自分の意志で物語を創ろうとすることではないんだよ。
我々は時代の役者であり、観客だ。物語を見ていけば、シナリオに秘められた意図を感じ取ることはできるけれど、物語の目的をつくることはできない。それはこの劇場の奥に隠されているもので、ストーリーを大きく全体で捉えれば、その意志を感じ取ることができる。けれども一つひとつの場面だけを見ていては、それに翻弄されるものになる。ある程度の長さで付き合ってものごとを捉えた時に、その意向は観えてくるものだよ。

ともこ:
今回の件について、教会の牧師さんが「とても残念です」というようなコメントをしているのをテレビで見て、宗教家でもこの程度のコメントなのか、と思った。この視点で教会で神を語るのか、って。

いさどん:
神が、狭いレベルでの見識になってしまっている。

ともこ:
その方がわかりやすくて受けるのかな?

いさどん:
政治家でも宗教家でも、こんなことがあるとテレビに華々しく登場する評論家でも、一般の人々にいかに受けて自らが支持されるかが目的になっていて、そこに真実を見出していくということがどこかに行ってしまった。それは仕方がないね。今の時代の人々だから。
真実と言うものは、人々に支持されるとは限らない。間違いは間違いとして指摘していかなければならない時に、自我があると、人に支持されようと思って媚を売ってしまう。そんな意識では真実の側には立てない。支持されようがされまいが、常に真実の側に立つという覚悟が必要だけれど、少なくとも、今のリーダーと言われる立場に立っている人たちには殆どそれがないね。

ともこ:
面白いね。真実を言うと批判される。

いさどん:
世間の大多数の人にとっては、批判されるものは間違いで、みんなが賛成することが真実になっている。中身を観ていないんだよ。

ともこ:
今もそういう状態だよね。

いさどん:
何でもそうだよ。わかりにくくて結論が出しにくいことは、原発の話でも、集団的自衛権でも、憲法解釈でも、同じような解釈がいくつか出るとそれで対立して、みんなが自分を正義の側に置き、正しさを主張して相手を悪にして、善悪の世界をつくっていく。
だけどもしもみんなが自らに囚われていなければ、共通した進むべき道が観えてくるはずだ。みんなが自分の立場に捉われているから、いつまでたってもそれぞれの立場で正しいと間違いを主張して、それが対立の原因となっている。つまり、自我が強くて世界観が狭いんだよ。

なぜ、共通の元に次の道を見つけていこうと努力しないのか。自分たちの主張のところでは対立するけど、その枠を超えたところでの共通点は何なのか、と考え始めたら、対立は消える。例えば、ジャパンカップでは対立しているチーム同士でも、ワールドカップでは1つのチームになって日本を応援するでしょう。そういう単純な話なんだよ。

結局はね、なるようになるんだよ。何かの出来事のまっただ中にいるということは、それが変化していく時にあるということでしょう。その変化のために、自分はどこにポジションを置いてどんな役割を果たすか。そこで「自我」という囚われの立場に立つものだから、喧々囂々とした意見が生まれて社会にも争いが起こるけれど、それも100年単位で見ていったら、これまでも収まるところに収まってきてるでしょう?
アメリカが世界の中心になったのはせいぜいこの100年の話で、100年後に同じように中心でいるかどうかはわからない。宇宙から観たら、そんなのは一息にもならない、ほんのちょっとの時間だよ。そういうスケールでものを考えればいい。

ともこ:
もしも今、いさどんがイスラム国の人と話す場が与えられたら、何と言う?

いさどん:
それはあり得ない。彼らは自分たちの解釈が正義だと考えて、他を全て否定する意識レベルにいる。ということは、立っている土俵が全く違うのだから、出会ったところでこの話をすることはあり得ない。だから、出会わないんだよ。あり得ないことを語るのは無意味だよね。

彼らはヒットラーと同じで、残虐性を表して時代を変える役割をしているのだろうね。だからあんな損なことをやっている。今の時代に、アメリカや連合軍を敵に回して国家ができるわけがない。ちょっと冷静に考えればわかることだよ。いくら土地を占領しても、国連が認めてくれるわけがないし、今の世界の仕組みでは貿易も難しい。いったいどういった国家を作ろうとしているのか。
今の時代なら今の時代のように、相応しい進め方がある。それはしっかり時代を読んで、国際的なルールの中でやっていかないと続いていかない。あんなふうに過激に人を殺してやっていること自体が古い。でも逆に、人を殺すと言うことはアメリカが一番やっているのだから、この時代の正義とは、なんともまぁ・・・言葉にならない。そんな時代は終わりにしないとね。

ともこ:
面白いね。時代に合っていないやり方なんだけど、そうやって時代を動かしているんだね。

いさどん:
そうだね。矛盾とか馬鹿をやることが時代を動かしていくんだよ。ナチスだって日本軍だって同じだったでしょう?アメリカだって時代に合わない時が来るんだよ。

ともこ:
もう既に合ってないよ。

いさどん:
合ってないね。あんな肥満と争いの国がいつまでも続くわけがない。
アメリカという国を一人の人間に例えたら、自己主張が強く横暴で、生活習慣病が進行して末期状態の肥満の偽善者、といったところかな。アメリカにも意識の高い人はいるけれど、現代のアメリカの姿を観ると、そんな人格が思い浮かんでくる。

今アメリカは、次世代の戦争の準備ということで、戦場のロボット化を進めている。その技術はアメリカが世界でもっとも進んでいて、すごいマシンを作ってる。次世代の殺人ロボット、サイボーグだよ。

ともこ:
人間てすごいね。ものすごく頭のいい人たちが、その頭脳とものすごい資金とエネルギーをかけて、真剣に殺人の道具を作ってる。それで幸せを求めてる。

いさどん:
そこから宇宙開発や介護などに技術が応用されていくのだけれど、始まりは軍事なんだよ。

なぜ地球上で一つの種である人間が、違いによって戦う必要があるのか。みんな、一つの体の一部なんだよ。今の人類は、これだけテクノロジーが進化していても、目先のところにしか意識が向いていない。
宇宙的時間軸で言ったら、人類の存在なんて本当に一瞬のこと。秒単位の話だ。我々は、そういったとても変化の激しいダイナミックな時に生きていて、そのダイナミックさを楽しめる貴重な時にいるんだよ。

そして、やがてみんな死んでいく。その時々で、あれがあった、これがあったと時代は紡がれていくけれど、一つひとつの出来事は単なる情報にしか過ぎない。
その情報を受けて、自分がどのレベルの意識に立ち、どれだけ真実に目覚めたかということが、答えなだけなんだ。

我々は、二度の来ない今を永遠に旅する宇宙船 ――― 惑星に乗っている。そのことに、人類がそろそろ気付く時が来ている。永遠なる旅とは、常に新しい世界を迎えること。過去の出来事に囚われて、真実を見失うようなことではいけない。この世界の奥(客観背後)にある存在の意志に目覚めること。全ては永遠なる、善へと向かう旅なんだよ。

もっと世界を冷静に観ていきたいね。