凛とした心で

木の花ファミリーでは、毎年節分前の一年でもっとも寒い時期に、「富士浅間木の花祭り」を開催します。奥三河の山村で700年間受け継がれてきた国の重要無形民俗文化財「花祭(はなまつり)」を富士の地で継承し、独自に発展させたこの祭りは、人々が丸一日舞い踊ることで心の穢れを祓い清め、調和の響きを世界に発信して新たな時代の幕開けを祝う地球のお祭りとして、毎年立冬を過ぎた頃から本格的に準備が始まります。
祭りは、祭事前日の「神寄せの神事」に始まり、様々な鬼や舞手と観客が混然一体となって踊り続ける祭事を経て、祭りに使った道具を燃やして天へ還す「火の御用」、水を川へ注いで地に還す「水の御用」を節分に行って一年の節目とし、新たな気持ちで翌日の立春正月を迎えます。

*詳しくはこちらのページをご覧ください。
 また、祭りの様子を以下の動画でもご紹介しています。

以下は、2016年2月4日の「立春正月祭」でのいさどんの挨拶です。
立冬を過ぎ、世界中を様々なニュースが駆け巡った2016年も最終章へと入った今、年初めのこの挨拶が、改めて私たちに大切なことを伝えてくれます。

 

凛とした心で

立春正月、明けましておめでとうございます。

1月30日に富士浅間木の花祭りが終わり、節分を迎えました。節分とは季節を分けると書きます。冬の時代が終わって、春を迎える。今はまだ、春はもう少し先です。しかし土の中では春を迎えるための準備が着々と整い、植物の根が動き出し、芽吹きの準備をしています。虫たちも、そろそろ冬眠から目を覚まし、春に向けて動き出そうとしています。
そんな季節の折り、私たち地上を生きる生命の代表である人間も、そろそろ大地を耕す準備を始めます。

冬眠から芽吹きの季節に切り替わる時を、節分といいます。木の花祭りという祭りは、そのための地ならしをし、新たな生命の息吹をよみがえらせる神事として行われました。これから一年、自然から命をいただきながら、その循環の中で生かされていくことのスタートを切るわけです。それは一度も止まることなく、くり返しくり返し、毎年訪れるものです。ですが、今年が終わって来年が始まるという単純なことではありません。それは積み重ねていくものですから、連綿とつながる長い時の中で、世界が変化を続けながら進化していく、宇宙の実相そのものです。

昨日は節分で、今日は立春正月です。12月31日に大晦日を迎えて1月1日に新年を迎えるように、それは一つのサイクルの節目ではありますが、宇宙的には、地球という星は他の星々と連携しながら、常に未知なるところへ進んでいます。未知なるところとは、まだ私たちが一度も行ったことのないところです。昨日から今日に向かって時が動き、今朝を迎えたということは、まったく新しい日を迎えたということです。だからこそ、毎日新しい心で今日を迎えるのです。一日が終わる時には、一日を終えてまた新たな日を迎えるのだという心構えで眠り、次の日の朝は新たな日を迎える。ですから、自分も新しい人のはずなのです。

そういう意識を、地球は無意識の中で繰り返し、時代を刻んでいます。人間も、もっと自然と近いところで生かされていた時には、そういったサイクルを意識していました。人間は地球とともに、自然のサイクルの中で生かされてきたのです。そういった時代には、人間は自然に害を与えることはありませんでした。自然を敬い、命をいただき、感謝し、また命をいただく中で、生死を繰り返してきました。時代が進み、現代になると、人々はたくさんの願望を持ち、それを叶えたいという欲望を持つようになりました。それは人間にそれだけの特殊な能力があるということですが、その高い能力を与えられたがために、自らの願いを叶えようとして自然を変え、自分たちの心地よい環境を創り出したのです。

しかし、それが人間だけの都合に偏って表現されると、世界に無秩序をもたらします。それもさらなる新たな時代へと進化するためのきっかけであると思いますが、特に2016年が明けてからの世相を観ると、いよいよ人間の社会は混乱の極みに至っています。今までのように、国と国、組織と組織が争い、競争してきた時代から、それを構成する細胞である一人ひとりの心にまでそれが染み渡り、人々が我先の心で自らのことだけを願い、競争する時代が極まってきたことが感じられます。本来ならば、自然の中で循環し、その調和の中で進化していくのが生命の実体です。しかし、その高い能力の結果、人間が増殖し、それぞれが豊かさを求めてきたことで、循環する自然の中に滞りが生じました。同時に人間社会の中にも、その豊かさが争いの種となり、混乱が生じてきたのです。

昨日節分という日があり、日本の国では、この日に邪気を祓うと言って豆まきをします。豆は五穀のひとつであり、人間が豆に生きていくためにとても大切なもので、人間に健康を与えてくれるものです。節分では、それをもって邪気を祓うと言うのです。

邪気とは本来、人間の汚れた心、曲がった心です。人々は健全に生きていくために、節分の豆まきを通して、そういった邪気を祓おうとしています。昔から人々の間では、この邪気祓いの意識が、鬼に向かって豆をまいてきました。そこでは鬼という存在が悪者となり、人々は自らの喜びや願いが叶うことを福と言います。この節分の儀式を長年やってきた結果、今の世の中に至ったのです。

「鬼は外、福は内」の掛け声のように、本当に邪気が祓われ、福が訪れたならば、この世界は素晴らしく調和的で豊かで、命が健全な世界が表現されているはずです。ところが実際の世相を観ると、それとは逆さまな、争いの極みに至っています。そして人々が欲望を叶えようと思えば思うほど、地球は汚染され、我々を生かしている自然のサイクルまでもがおかしくなってきています。

そのような現状の中、私たちはこれからの時代を生きていく上で、とても大きな試練を迎えようとしています。
新たな季節を迎える節目の節分では、邪気を祓うということで、聖なる穀物である豆によって鬼が打ち祓われてきました。それが、本当に世の中に福をもたらしたのかどうかを、今の世の中を通して観てみると、そこには福という欲望が蔓延し、欲のままにあり続けようとひしめき合っている人々の姿が観えてきます。
そこで鬼に向かって邪気祓いの豆をまく人間の心を観ると、幸せになりたい、豊かになりたい、というものでした。そういった幸せや豊かさを求める心も、最近では、他者のことや世の中を想うよりも、自らの願いだけが叶えられればいいというような、わがままな傾向になってきています。それがたくさんの人の心に広がったことが、この世界に不調和を生み、そこから対立が生まれ、現代の優れた技術によって生み出された本来豊かになるためのものであるテクノロジーも、大地を汚し、自然のサイクルを曲げ、人々の中に格差を生み、混乱をもたらすものとなったのです

ここで人間の立ち位置に立たず、この世界の現状を観るために、自らの視点から離れて観ることができたら、邪気とは、我先の心で自らの欲望を叶えることを求め、他者のことを想わない人の心の中にある、ということがわかるでしょう。それがわかれば、人間を健やかに育ててくれる豆は、人の中に巣食っているわがままな心にまかないといけないということが観えてきます。
それが、2016年を迎え、これからの1年を見通してみると、社会の中に顕著に感じられます。しかし世の中では、こういった切り替えの時を迎えても、まだまだ冬が続いているかのように、新たな息吹は感じられません。それは、社会を構成する人々の中に、我先の心が強すぎるからです。
富士浅間木の花祭りは、そういった世相の邪気を祓い、人々が生まれ清まり、新たな時代にふさわしい心となり、美しい社会を生み出すための願いを込めて行われているのです。

今、この富士の地で新たな時代の息吹が芽生えてきています。それを感じると、寒いながらも新たな息吹の芽が伸びようとしているのですから、気持ちがとてもシャキッとします。心が真実に目覚めると、本来世の中はこうあるべきで、人の生き様はこのようにあるべきだという心の柱が立つものです。
それは、凛としています。その凛とした心に基づいて、私たちは生きています。そうすると、世の中がまったく正反対の世界になっていることが観えてきます。その正反対の世界を立て直すためには、出来事の一つひとつを立て直す必要はありません。私たち一人ひとりが凛として立っていれば、それが軸になり、世の中が自然と立ち直っていくのです。

今の世の中は、そういった意味からすると正反対で、軸を見失ってしまった状態です。だから人々が正しいと思うことをやればやるほど、混乱していきます。それがさらに続くと、人々は不動の柱を何処かで求めるようになります。そして混乱が極みに至ると、いよいよ人々の中にも、浮ついた心が創る世界が本当ではないという想いが湧きだし、本物を求めだすものです。

その時のために、真実に目覚めた者たちは何をするべきか。
たったひとつ。凛とした心を、柱を立てて生き、社会がそれを必要とする時を待っていればよいのです。
そうしていれば、自ずと柱のない者たちが寄ってきて、柱を立てることを求めるものです。それが私たちにこういった道を与えたものの意志であり、私たちの役割です。

時代はそういった変革の時を迎えています。そしていよいよ社会の混乱の中に、それが反映されていることが観えてきました。まだ兆しで、これから芽が出るところですが、それでもその根はうずうずとうずきだしています。根は土の中にあるから見えません。そして今、芽吹くことの準備をしています。いずれその芽は大きく伸び、その実体を私たちに見せてくれることでしょう。私たちはそのことを感じ、凛とした柱を立てて生きる。それが私たち、大地と共に生きる者の姿勢です。

私たちは畑を耕し、自然から食べ物をいただいています。健全な食べ物を世の中にもたらすということも役割ですが、私たちの生き方はそのような小さなものではありません。
私たちは、世の中という畑を耕し、そこに正しい生命の息吹となる、種をまく。それは心の種です。そういった役割が、私たちの生きる道にはあるのです。
そういった大切な時代の流れを感じ、天の意志を受け、その役割をいただいているということに気付いた時に、私たちは生きていることの意味を実感し、充実した尊い人生を生きられるのです。

そういった人々の姿勢の先に、とびっきり美しい世界が待っています。その人々には、美しいを求め、豊かさを求め、幸せになろうとして行き着く先があるのです。人類は今、そこに向かう道を歩んでいます。それは自らの汚れを知ることから始まります。泥の中から美しい花を咲かせる蓮のように、人生の花を咲かせる。そういった芽を出すのが、その大事に気付いた者の、社会に対する責任なのです。

そういった時代が訪れたのです。これまでの長い時の中で、これだけの節目を迎える時はなかなかありませんでした。私たちは、そのような時代に生まれ、生き、その役割が果たせることの喜びを知り、凛とした心を持って、新たな年を迎えています。宇宙の法が働き、時代が動き、それを受けて私たちは行動するのですから、難しいことではありません。天体の動きと共に、地球の動きと共に、時代は巡ってくるのですから、私たちはその動きに合わせるだけでいいのです。それを感じ、その流れに委ねることが本来の私たち生命の姿に戻ることなのです。ですから、ただ素直に素直に、そこに流れる大いなる流れに合わせていただいていくだけです。

今日の立春を迎えて、とても新鮮な気持ちです。みんなでその心を束にして、この地球に柱を立て、新たな時代の人々の指針とならんがために、生きたいと思います。

今年もよろしくお願いします!!

 


2017年1月28日(土)

富士浅間木の花祭り 開催!

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新たな時代の幕開けを祝い、うれしうれし、たのしたのしと丸一日舞い踊り、調和の響きを世界に向けて発信しませんか。どなたさまもどうぞお越しください!

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時代の大局と共にある人々へ、エールを送ります

タイの代替教育学校から留学生として木の花ファミリーにやってきた、高校生のナッちゃんとマインちゃん、そして先生のワンちゃん。3ヶ月間の滞在を終えた最後の日、3人といさどんが話し合う時間がありました。

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いさどん:
いよいよ、最後の日になりましたね。この3ヶ月間は、短かったですか、長かったですか?

ナッちゃん:
短かったです。通常なら3ヶ月はとても長く感じますが、ここでの3ヶ月は本当に短かったです。

いさどん:
僕はこの出会いをとても大切なものだと思っています。だからと言って、この先に何か具体的なことを期待しているわけでもありません。大切なことは、皆さんが何か新しいものを取り入れて、変化することです。そして変化した姿でタイに戻ると、周りの人々もそれを感じて、反応が変わるでしょう?
とかく人は何かを得ると、それをもって何かを起こそうとします。そういった意欲を持つことは大切です。その時に、あなたが起こすことへの答えとして、周りの人たちの意識レベルにふさわしい反応が返ってきます。そしてその反応に応えていくということが、冷静な対応です。
3ヶ月間というサイクルの中で、今はひとつのポイントでもあります。皆さんが自分は変化したと思っている以上に、周りはそれを感じるはずです。ここに来てすぐの頃には、ごはんがおいしくて食べ過ぎて、体重が増えるという変化があったでしょう?(笑)でも、今はまた元に戻りましたね。3ヶ月というのは、ちょうどいいサイクルなのです。

ワンちゃん:
そうです。3人とも体重が元に戻りました。

いさどん:
体は元に戻ったけれど、心は大きくなりましたね。それがお土産です。次のサイクルに行ってみましょう。答えはその先にありますから。

マインちゃん:
責任と共にタイに戻るのだと感じています。

いさどん:
僕は、伝統的な優れた教えというものには、あまり興味がありません。新しい時代には価値観がガラリと変わります。僕は、21世紀をどう生きるかということについてはたくさんの情報を持っていますから、それをまた皆さんに共有できたらと思います。来年の2月から3月にかけて1ヶ月間の真学校が開催されますから、ナッちゃんもマインちゃんもそれまでに英語をしっかり勉強して、受講できるくらいになるといいですね。
皆さんからは、この3ヶ月間の感想は何かありますか?いいことはたくさんあったと思いますが、例えば何か大変だったことはありますか?

ナッちゃん:
タイの学校では週に2日休みがあるので、ここの人たちのように毎日働くのが少し大変でした。

いさどん:
「働く」というのはね、本来、生きることそのものなんですよ。ここではみんな、今の社会のようにお金を得るために義務的に労働するのではなく、生きるための毎日の行動として働いています。自然界に休日はないでしょう?人間でも、例えば食べることや排せつすることを休む人はいませんよね。

ワンちゃん:
ここの皆さんのエネルギーに感心します。日中は働いて、夜も遅くまで大人ミーティングをしているのに、皆さんの魂がとてもいい状態なのを感じていました。私は時々朝に「もっと寝ていたいな」と思うことがありましたが、「みんな働いているんだから、こんな風に怠けていちゃいけないわ!」と思って起きるようにしていました。

いさどん:
ハッハッハッ。働くことを義務的に考えると、そうなるんですよ。僕は、もしも休日を与えられたとしても、いつもと同じように生活しますよ。統計によると、現代の一般的なサラリーマンの暮らしは、月曜から金曜まで過酷な労働をし、土曜にストレス解消して、日曜に家族サービスをするのだと言います。そのサイクルが、実は生命本来のサイクルを壊しているのです。
それはいつから始まったのかというと、日曜日を安息日と定めて休息しなさい、というユダヤ教やキリスト教の発想から始まっています。それは本来の教えに基づいているのではなく、教会が勢力を持つ過程で、教団を維持するために信者をつなぎとめようとして、週に1回は教会に来るような仕組みを作ったのです。
日本でも、30年ほど前までは週休1日が一般的でした。僕の親の世代は、休みは月に1回でした。もっと昔の人たちは、休日なんて取らなかったでしょう。その頃の人々は、今のように毎日過剰に労働をするのではなく、リズムを刻んでいたのです。
ところが生活が西洋化するに従い週休2日制が取り入れられ、それが世界基準のようになりました。僕が子どもの頃は、みんな欧米に憧れていましたね。夏に1ヶ月も休暇を取るようなライフスタイルは、憧れの的でした。一方でウォールストリートには、寝ることも惜しむような、日本人よりも働いている人々もいます。
大切なのは、リズムを刻んでいくことです。そしてなぜそのリズムが必要なのかということを、理解していることが大事なのです。

今、僕は皆さんに「毎日働きなさい」ということを伝えようとしているわけではありません。僕が伝えたいのは、義務的に生きるのではなく、積極的に生きましょうということです。

ナッちゃん:
タイの学校での毎日の暮らしは、義務的なことがとても多いです。

ワンちゃん:
授業料がタダということもあって、何かをやりなさいと言われれば、義務としてそれをやらざるを得ないような環境です。学校や社会の仕組みがトップダウン式になっており、学校は形式的に生徒たちの意見を聞きはしますが、生徒たちは「私たちの意見を取り入れもしないのに何で意見を聞くの」と思っています。

いさどん:
それは学校に伝えてあげればいいのではないですか。その勇気が持てるかどうかですね。

ワンちゃん:
勇気を持って伝えても、どんな結果が得られるかはわかりません。

いさどん:
わからないのがいいんですよ♪でも今までの皆さんの姿勢からは、どうせうまくいかないだろう、という空気が感じられます。

ワンちゃん:
例え伝えたとしても、何で言われたことに従わないのかと頑固者扱いされるのがオチです。

いさどん:
そこで諦めるから、そういう結果になるのではないですか。
義務的に生きていると、ストレスが溜まりますね。そしてストレスが増えたから、休みが必要になりました。ストレスを解消するためにお酒が必要になったり、特別な食べ物が欲しくなったり、レジャーに出かけるようになりました。ストレスが多い社会では、性も乱れます。食べることでも何でもそうですが、人が欲求を持って何かを得ようとすることは、すべてストレスから来ているということに気付かなければいけません。
そして社会は、ストレスを発生させ、それをビジネスチャンスとしています。ビジネス優先の世界がストレスを生み、そこにそれを解消したいという欲求が生まれ、それがビジネスにつながって、経済が膨らんでいくのです。ストレスの延長線上に、最終的に到達するのは病気や争いです。そうすると、医師や弁護士が活躍する世の中になります。それが問題なのです。優れた能力を持つ人々が、医師や弁護士など、本来ない方がよい職業を選ぶようになりました。それも「お金になるから」という安易な発想で選ぶのです。

ナッちゃん:
医者や弁護士だけでなく、本来必要のない職業についてお金持ちになっている、頭のいい人たちがたくさんいます。

いさどん:
そうすると、人はお金に取り込まれ、お金のために生きていることになります。それを解消するには、自分と向き合う必要があるのです。自らの発している感情がどういったところから出てきているのかに向き合い、そこをチェックする力を持たなければ、感情のおもむくままに無自覚に行動して、ただ欲望を叶えようとする世界が広がっていくことになります。
そう聞くと、多くの人が「それは大切なことだ」と思いますよね。しかし、実際に行動する時には、自分の中にある感情に負けてしまうのです。

ナッちゃん:
本当にそう思います。インスタグラム(画像共有サイト)で、例えば誰かが「この映画を観に行ってすごく面白かった!」と言うと、私も「やるべきことのリストにこの映画を加えなくちゃ!」となって、実際に今、3つの映画がリストに入っています。そして映画を一つ観るのに200バーツ(約600円)のお金を使います。3つなら600バーツです。それで映画を観に行けば、ポップコーンを買ったり飲み物を買ったり、映画を待っている間にお店を見てかわいい服やカバンがあればそれも欲しくなって、結局映画以外にもたくさんお金を使っちゃいます。

いさどん:
それは誘惑ですね。そしてそういった精神状態が、今の巨大な経済を支えています。そこには何かを人と共有するのではなく、自分だけがそれを得たい、という感情が働いており、それがたくさんの無駄な消費を発生させて、経済を大きくしています。

ナッちゃん:
ポケモンGOのようなゲームもそうですね。自分はこれだけ獲得したぞ!ということを見せびらかして、人の気持ちをかき立てています。

いさどん:
それは完全にバーチャルな世界ですね。そういうものに乗っていくことが自分をどこにいざなうかということを、冷静に観る心が必要です。
過去に宗教は優れた生き方を表現しましたが、それは良い社会を創るばかりではなかったですね。結局、人々の欲望を誘惑するものには太刀打ちできなかったのです。いつの時代でも、優れた生き方をして社会に貢献するのは尊いことです。社会を豊かに導く、人としての本物の道を歩むならば、常に良い世の中とはどういうものなのかを意識していることが大事で、誘惑に翻弄されているようでは逆の道を歩んでいることになります。そこがわかる冷静な目を持つことが必要です。
皆さんの中では、学校をどうしていくのかということが大きなテーマになっていますね。今回、ここに来たことはよいきっかけになったと思います。新しい価値観に出会ってリニューアルし、新しい風を学校に吹かせるチャンスです。

ナッちゃん:
私にとって、今年度は今の学校の最後の年です。だけど来年2月からの「1ヶ月間の真学校」に、本当に本当に参加したいと思っています。そのためには学校に説明しないといけません。そして2月までに、タイ語の通訳なしで受講できるくらい、英語が上達するかどうかもわかりません。もし言葉がわからなければ、ここに来ても時間を無駄にすることになります。そう思うと、いったいどうやって進んだらいいのかがわからなくなります。

いさどん:
人はそうやって、人生を自分の力で生きていると思って、いろんなことを計算します。人生を計算するということは、自分の人生を、その計算の範囲内である限られた枠の中に限定することになります。でも生きるということは、もっと自由なことなのですよ。どういう風に自由なのかと言うと、可能性がたくさんあるということです。その可能性を自らに取り入れるためには、限定してはいけません。
ナッちゃんも、他の2人もその傾向がありますが、何かをする前に先に答えを決めているんですよね。それは、自分の未来を限定しているということです。

ナッちゃん:
そうですね。未来を決めつけることはできないですよね!

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いさどん:
それでね、あなた達の傾向として、悪い方に決めつけていますね。それでは自ら扉を閉じているようなものでしょう?
前にもお話ししたように、生きるということは、自分が生きているのではなく、この世界に生かされているということです。だから、生きることはいただくことなのです。そうでしょう?何か自分の力で生きていると言える要素はありますか?それは宇宙の法です。その法の中で生かされているのに、自分の考えで未来を決定するなんておかしいでしょう?

ナッちゃん:
そうですね(笑)。今までそうやって自分で勝手にネガティブな結論を出して、枠を狭めてきたと思います。これからはそういう事をしないようにしていきます。

いさどん:
そのためには、姿勢を上に向けないといけませんよ。そして自分の最善を尽くしなさい。そして答えは、いただくのです。そうすると希望が生まれます。
皆さんから何か質問はありますか?

マインちゃん:
今の段階ではありません。でもタイに帰ったら、たくさん湧いてくると思います。

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ワンちゃん:
タイではポケモンGOを利用して大人が子どもを騙すという問題が起きており、保護者への警告が出ています。

いさどん:
人を依存症にさせるものというのは、それを利用する人々にとっては魅力的なものです。皆さんには食養生のプレゼンテーションを行いましたが、それは悪い食べ物への依存から目を覚まさせて、健康を取り戻すためのものです。何を食べたらいいのか悪いのかという話ではなく、正しいものを選んでいく心をつくることの大切さを伝えました。心ができれば、依存症を生み出すようなものに対して常に冷静でいられますから、そこに取り込まれなくなります。
皆さんはタイの学校に戻ってから、ここで学んだことを伝えるプレゼンテーションを行うことを企画していますね。それは個人的なものではなく、学校のためにも、タイの社会のためにも、地球の未来のためにも重要なことです。

ナッちゃん:
学校が私たちの提案を受け入れてくれるかどうかはわかりません。ようこちゃんはこの間、大事な話し合いにみんなが早く帰って来られるように、天と共同作業をして雨を降らせたと言っていましたよね。どうか学校の責任者がここに来られるように、念を送ってください!(笑)ここに来ればきっとわかるだろうから。

いさどん:
それは大いにやりましょう(笑)。それは天に心を向けるということですが、同時に、あなたたちがここでの滞在を通して、しっかり変化した姿を見せることが大事ですよ。

(ここで、その場にいたようこちゃんはいったん部屋を出ていき、しばらくして戻って来ました。)

ようこ:
では、皆さんに小さなプレゼントがあります。私は今の話を聞いて、何かを3人に渡したいなと思い、何があるかわからないけど自分の部屋に戻りました。そして、これを見つけました。

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これは長野県にある、皆神山というところのお守りです。皆神山とは「皆が神さまの山」という意味です。今年の3月8日に私たちが皆神山を訪れた時に、宮司さんからこのお守りをいただきました。
これを皆さんにあげるのは、皆さんがこれを持って「神さま、私の願いを叶えてください!」とお願いするためではありません。これは、皆さんが「私が神さまなんだ。私が神さまと共同作業をしてこの世界を創っていくんだ」ということを覚えていられるように、お渡しします。そうしたら、皆さんにようこは必要ありませんよね。そして皆さんがその意味を本当に理解できたら、このお守り自体も必要なくなります。だけど今は皆さんにこれが必要ですから、神さまからのプレゼントとして差し上げます。

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ワンちゃん:
3ヶ月間をここで過ごし、私たちは一人ではないということに気付きました。学校ではこういった生き方に共鳴する人がなかなかいなくて、自分たちだけでやるしかないのだと思っていました。これから先、困難に出会った時には、私たちは一人ではなく、皆さんと一緒に同じ目的に向かって歩んでいるのだということを思い出します。先駆者は自分で道を創っていかなければなりませんから、それは大変な仕事です。

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ナッちゃん:
でも、諦めません!

いさどん:
これからは、みんなでひとつの目的を成し遂げていくのですよ。人間だけではなく、天も、時代も、仲間です。先駆者がくじけないのは、天とつながっているからなのですよ。

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いさどん:
ここに、ひとつの文章があります。これは誰か特定の人に向けられたものではなく、目覚めようとする人すべてに向けられたメッセージです。
皆さんへのはなむけとして、この言葉を贈ります。

 

──── そして以下のメッセージが3人に贈られました。──── 

 

ある価値観が広まるということは、その時代を生きる多くの人々が、その意識にならなければいけません。たとえその価値観が、大局から捉えれば重要なものであったとしても、それが世の中の主流になるかどうかはまた別の話なのです。
世界を大局で捉えず人智で捉えている人々にとっては、その人智で進めようとしていることが主流になるためには、革命や社会変革運動のように努力して勝ち取らなければならないかのように思えることでしょう。しかし大局で捉えている者にとっては、社会変革は時代の変遷であり、流れなのです。ですから、ただただ今行き着いた精神を日々の中で実践しながら、時が来るのを待つのが、大局で世界を捉えている者の姿勢なのです。

そういった大局的な視点で世界を捉える者たちが現れたということは、次の時代が訪れる予告でもあります。なぜなら社会の動きは時代によって生み出されているからです。ですからあなたの存在が時代の流れと共にあるならば、自らの存在に自信を持ち、信念に基づいた行動をやり続けていけば、息が切れるほど長い時を待たなくとも、現実化することでしょう。それが天意であるならば、何も焦る必要はないのです。

そして天と共にあるかどうかは、行動の結果もたらされる現象が教えてくれます。だからこそ、日常の中で出会う出来事を通して、自らの立ち位置を認識することが求められます。
時の流れを感じ、時代の大局と共にある人々の勇気を讃え、エールを送ります。

 

〈 タイに向かって旅立つ3人を、みんなでお見送り 〉
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いってらっしゃい!再会を楽しみにしています。

 


 

囚われを外したら

そこは宇宙だった

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2017年2月19日~3月18日
「1ヶ月間の真学校」開催!

何か問題が起きた時「自分は悪くないのになぜこんな事が起きるのだろう」と思ったことはありませんか。
人は問題を見つけると、とかく自分の外に原因を探し、周りを変えようとします。ところが周りはどうにも変わることなく、問題だけが積み重なり、今や家庭の中から地球規模に至るまで、どこもかしこも問題だらけの、行き先の見えない世の中となりました。
しかしそれは視点を変えれば、大転換のチャンスでもあるのです。

1ヶ月間の真学校は、人生の問題のあるなしに関わらず、生きることの突破口を開く場です。そこに特定の正解はありません。一人ひとりが客観的に自己を捉える冷静な目を養い、視野を広げ、その人らしい人生を自ら切り開いていく力を身に付けます。

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【日程】
2017年2月19日(日)~3月18日(土)
【会場】
木の花ファミリー
【定員】
15名 定員に達し次第受け付けを締め切ります。
【参加費】
18~22万円 収入に応じたスライド制です。受講料や食費など1ヶ月間の滞在費全てを含みます。
【内容】
「農」「食」「医」「経済」「環境」「教育」「社会」「芸術」と多彩な切り口の講座を通して、受講生一人ひとりの心の性質や人生の使命、そして時代の流れを読み解きながら、この世界の真実を観抜く心の目が開かれるよう、いざないます。
講座例:人格を学ぶ講座(カルマ読みと地球暦)/コミュニティ創設講座/天然循環法の畑作・稲作/ファシリテーション/世界観を広げる/菩薩の里の経済/自然療法プログラム/食養生/有用微生物群の培養/天然醸造味噌作り/創造性と芸術/カタカムナ/性と宇宙/自然災害と防災/持続可能な心の持ち方

講座詳細やこれまでの受講生の体験記はこちら!

→ 1ヶ月間の真学校ブログ

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瞬間瞬間がオリジナル ~ 群れが個人を目覚めさせる

いさどん:
個々の存在は、それぞれが独立した生命だ。その独立しているものをひとつにする時に、物理的に結ばれる行為がある。結ばれることによって、共通の目的が生まれ、心がひとつになる。

ただ、物理的に結ばれる行為の奥に思惑があると、それは結ばれる行為の本来の目的から外れる原因となる。そして思惑と思惑がぶつかり合い、複雑な現象がそこに生まれる。
無垢の状態でひとつになれれば、溶け合って、そこに新たなひとつが生まれる。それは美しい世界だ。そこでは、言葉はいらない。

──── 合体することは、大切なことだよ。

ともこ:
どうして男女でしか合体できないんだろう。誰とでもひとつになれるわけじゃなく、男と女でしか合体できない。

いさどん:
そんなことはない。男と女の対向発生が元となり、それが全体に広がっていくのだから。昔なら群れの中のヲサが神事として交わりを行い、女性にそれを伝えることで群れが安定した。
ただ、昔の一人は個人というよりも、単なる群れの中の細胞にしか過ぎなかった。しかしこれからは、個人がクローズアップされていく。個々が目覚めていくために、群れの中にいることが重要になっていく。一人ひとりが群れを形成するための全体性を持った個人として、目覚めるということだ。

昔は、生きていくために群れの形態をとることは必須だった。そうしなければ存続することができないから、やむを得ずそうしていた。しかし今の社会は、生きることはそれほど難しくなくなった。だからこれからの時代は、個人が群れの中に暮らすのは生きるためではなく、目覚めるためだ。
群れの生活形態が個人を目覚めさせる。全体性を学び、エゴを洗い流し、世界の構造を理解するために、群れの暮らしが必要になる。群れて生きた結果、個人はそれぞれの歩みや個性にふさわしく目覚めていく。そしてそれぞれの事情を生かしながら、全体を創っていく。

これまでの時代は、人々は自由で個性的に生きているかのようで、実際は一律な欲求に翻弄され、惑わされて、極めて個性のない人生を生きてきた。しかしこれからの時代は、群れの中で生きる者は個人としての意識がより確立されるようになる。それは、本来別々の個性を持つ人々が一律な価値観のもとに既製品化されてきたこれまでの世の中の流れとは、逆の方向に進むということだ。

僕は群れの中の一人ひとりに、個性的であることを求めている。しかし与えられることに慣れてしまった人々は、自らそれを目指し、獲得して、輝いていくということを怠る。もっとギラギラしたらいい。そのギラギラとは、宇宙の実相である活性であり、我々が生きる上での生活の表現でもある。そしてそれは、エネルギッシュで魅力的だ。その延長線上に、それぞれの役割や個性的な表現が充実していく。
そこでは、個人プレーは大いに歓迎される。それは全体性のための個人プレーだから。

ともこ:
2012年12月21日の闇のピークに向かって、時代は既製品化の方向へと進んできた。私たちはその極みに生まれた、まさに既製品化を体現している存在だと言えるね。そして時代が闇のピークを越えて新たな方向へと進み出した中で、今なお既製品になろうとしている。

いさどん:
そうだね。しかしそこに違和感を感じ、抵抗する人々も現れ始めた。

ともこ:
これまでは、既製品化しながらどんどん分離していく時代だった。

いさどん:
同じようなものでありながら、プライドが「自分だけは違う」と自分と他者と区別しているんだよ。

ともこ:
今、自分の心が分離の極みの状態になっているのがわかるよ。自我が強くて自分にばかり意識が向いて、周りとのつながりを忘れている。そういう自分たちが今、再び群れの中で暮らし、共に生きることを始めたというのは、すごくおもしろいね。

いさどん:
それを人間がやりきれない分、地球や宇宙が、群れで生きることの後押しをしてくれている。
世界は常に我々に、つながっていることや、生かされていることを教えてくれている。例えば呼吸を止めても、眠らなくても、トイレを我慢しても、食べることをやめても、食べ過ぎても、生きることの原則から外れるとすぐに苦しくなるでしょう。そうやって世界はいっぱい教えてくれている。しかし人々はそういったことを忘れているから、それが今の世の中に生き辛さとなって現れている。これまでのようにわがまま放題で好き勝手に生きることは、これからはやれなくなるということだよ。それが地球の意志であり、宇宙の意志だ。

そもそも我々は、地球というコミュニティに暮らしている。それは、災難が起きたからといって一夜漬けのように群れでつながることとは違う。日ごろから二つのものが完全に一つになるというくらい、つながって生きる。それは阿吽の関係で生きるということだ。

ともこ:
今はまだ、ひとつになることを勘違いしていると思う。既製品化することで「みんなと同じなんだ」と自分を安心させて、それでひとつになろうとしている。

いさどん:
ひとつになることは、個が自立し、目覚めるためにある。ひとつになることによって、自らのキャパを広げ、自由自在に行動し変化していくことが可能になる。そういった余裕を身に付けるということだ。
これはやはり体感を伴わないと難しいだろうか。言葉だけで語っても、結局は聞くだけになり、現実が伴わないものになってしまう。

ひとつになることは、極めて重要だ。それぞれの事情があるから組み合わせによって意味が変わってくるが、それにしても交わることはとても大切なことだ。低俗な交わりをしていては、その有用性に全く気付けないどころか、本来の意味とはかけ離れたものになってしまう。それはただやればいいというものではなく、高次の交わりをできるだけの精神状態を有していなければ、害をもたらすことにもなる。
高次の精神状態があり、それにふさわしい交わりをすることによって、その場に出会うそれぞれの者たちの事情に相応しい有効な働きが生まれる。それは、交わることにはこういう効能があるのだと言って、マニュアルのように行うものではない。この世界は瞬間瞬間がオリジナル。常に今と向き合い、新鮮に生きるということだ。

ようこ:
だからいさどんはいつも、自らの価値を高めなさいという話をする。価値を高めると、自動的に既製品の世界から脱却してオリジナルな存在になるから。

いさどん:
そうだよ。しかし人は既製品でいたがる。自分らしくオリジナルに生きることに慣れていないし、自分が自分らしく生きると、風当たりも強くなり責任も生じるから、既製品の中に逃げ込んで楽をしていたいんだよ。
中には既製品として安穏としていながら、自分の自我は表現したいというたちの悪い者もいる。

 

────── 僕はこれから、地上の肉体を考えずに生きていく。

明日は早いから早く寝なければとか、今日は作業が忙しいからその前に休んでおこうなどと想定して自らに配慮するのは、現象を先取りしているということだ。それではいけない。僕の中には、そういったことを無視している自分がいる。

そんなことを考えながら、僕はこう思った。「突然死するのはいいな」と。

僕は今、自分の体がとても不自由だ。しかしどことなく、この状態だな、これでいくんだな、という感覚がある。突然死、いいと思わない?「来た来た来たー!!」という感じで、リセット。そして僕が死んだら膨大な情報が残してあるから、それを研究する者がきっと現れる。僕が生きている限り次がどんどん出てくるから研究はしないが、もう出てこないとなったら「あれはいったい何だったのだろう」と研究する者が現れる。その時に、びっくりすることになるだろう。「こんなものが出ていたのか!」と。
僕は早く突然死するために、これからも大量の情報を残さなければいけない。それを残せば残すほど突然死が待っているのだから、よし、残してやろう。そして、目指せ突然死!!

ともこ:
毎日を真剣に生きていれば、いつ死んでもいい覚悟が自然と生まれる。それは自分に対してもそうだし、人に対してもそうだね。真剣だったら誰かが突然死しても、そこに後悔はない。

いさどん:
依存していると、後悔するよ。

 


 

地球はそもそもコミュニティ

その中で生きるとは、どういうこと?

「1ヶ月間の真学校2017」

「医」「農」「食」「経済」「環境」「教育」「社会」「芸術」─── 多彩な切り口の講座を通して、私たちはなぜこの世界に生きているのか、あなた自身の中にある真実の目を開く、ダイナミックなプログラム
1ヶ月間木の花ファミリーに滞在し、宇宙視点で日常を生きるとはどういうことかを実体験として学びます。

【日程】2017年2月19日(日)~3月18日(土)
【会場】木の花ファミリー
【定員】15名 定員に達し次第受け付けを締め切ります。
【参加費】18~22万円 収入に応じたスライド制です。受講料や食費など1ヶ月間の滞在費全てを含みます。

講座詳細やこれまでの受講生の体験記はこちら!

→ 1ヶ月間の真学校ブログ

 


ポケモンGOに熱狂する人々がロシアのドーピングを批判できるのか

今、ロシアのドーピング問題が世界中で批判されている。そもそも、ロシアのドーピング問題というのは旧ソ連の時代からあった。その極めて極端な事例が旧東ドイツの事例だ。
東ドイツという人口も少なければ国力も弱い国が東欧の中にあり、優秀でプライドの高いドイツ人は国威発揚のために、ソ連の方針に沿い、スポーツを利用して国をまとめようとした。プロパガンダのひとつの手法としてスポーツ振興を図ったのだ。しかし今、東ドイツという国はなくなり、その実態が暴き出されて、いかにひどいドーピングが行われてきたのかが明らかになってきた。それは国威発揚のため、国策として行われていた。
その根本には、共産主義国の人々が自らのイデオロギーこそが優れているということを訴えたい、もしくは国家を存続させるために国民の結束を図るという国家的な意図があった。
90年代に陸上女子で一世を風靡した中国の馬軍団も、組織的なドーピングがあったことが告発された。女性が異常なまでの筋肉を持ち、大会に出れば出るほどメダルを獲得していくという時代が一時あったが、ある時にふっと消えてしまった。本当に純粋な指導力によって成績を残していたのであれば、そのような現象はあり得ないはずだ。
スポーツの世界であっても、国家的欲望の延長線上にルール違反を犯す。そこは問われなければならない。しかし、それは一種のトカゲのしっぽ切りのようなものだ。人々は表面的にものごとを捉え、誰かを悪者に仕立て上げて、批判している。ではなぜそれが起きたのかというと、その根本的な原因はもっと奥の深いところにある。今、西側諸国を中心に世界がロシアの行為を批判し、裁定を下しているが、検証すべきはその行為の奥にある、根本的な原因なのだ。

もともとオリンピックとは、アマチュア精神に基づくものだった。お金とは無関係のものであったはずだが、それがいつしか商業主義になってしまった。
例えばかつての東側諸国や北朝鮮のような国では、国威発揚のために良い成績を残した選手には、一生食うに困らないよう特別な配慮がなされる。では西側諸国はどうなのかと言うと、アメリカがその最たる事例だが、スポーツ選手がタレントになってしまった。そして異様なまでのお金を稼ぐようになった。そういった人々を周囲は持ち上げ、芸能界と同じように人気商売になってしまったのだ。
日本の相撲界でもそうだが、結局はお金が目的になっている。欲をくすぐり、お金を獲得しようとする欲望を満たすためのエネルギーが、スポーツの記録を上げている。お金に釣られているのだ。
相撲はもともと日本の国技として、神事であったが、今の力士の精神からは、そんなものは消えてしまった。相撲は厳しい稽古を究めなければ地位も上がらず、大きな怪我をすることもあり、その真剣さの中に神が降りることもあっただろう。しかし、今現在横綱に日本人がいないことも、今の相撲界の状態を表している一つの現象と言える。モンゴルの力士は出稼ぎに来ているようなもので、懸賞金が目的になっており、本来の国技としての、神事であることが忘れられたように見受けられる。

かつてヒトラーは、国威発揚のためにスポーツを利用した。スポーツで自国を応援するということは、そこに敵と味方を創るということだ。それを競わせて、自分の側が勝つことを国民の共通の喜びとしてきた。それはある意味、プロパガンダとして利用できる手法でもあった。
日本でも、日ごろから大して日の丸を大事にしていない人でもオリンピックの表彰台に日の丸が上がるととても喜ぶ。スポーツを通して競争心をくすぐり、それが高ずることによって対立を生み出してきたのだ。
国を率いるリーダーたちは、人が共通の目的の元に群がることによって、自分たちを正義とし、対象を悪とすることで国をまとめてきた。人は、自らに近いものを支持する。しかし本来、近いものも遠いものも一緒になって考えることによって、健全な世界を求めていかなければならないのだ。

スポーツをプロパガンダとして利用する要素は今も残ってもいるが、多くの人々にとっては、最終的にはお金を求める手段となってきている。スポーツ自体が、人々や地球社会に良いものをもたらすとは限らなくなってきているのだ。
現代は、優れた能力を与えられた人が、その能力を自らのためだけに使って異常なまでのお金を稼げるようになっているのだが、本来、そういった能力は天から与えられたものとして、世の中に貢献するためにあるものである。そういった精神を忘れてしまった今の世の中の仕組みは、物事の本質を忘れ、狂っている。スポーツの世界で言えば、勝ち上がることができるのは、たくさんいる中のほんの一握りどころか、ほんの一粒の人たちだ。それを子どもたちの夢だ何だと言って世の中が称賛し、そのほんの一粒をみんなが目指そうとする世界を創っている。その構造自体が、不正をしてまでも獲得したくなるようなものになっているのだ。
本来、優れた能力とは、自らの利益のために使うのではなく、社会に還元するためにある。しかし現代は、人間が個人の欲望を満たしていく時にそれを独占しようとする醜い心を持っており、その心によって生み出される現象が極みを迎えている。お金が目的の世界で起きることと、お金が目的ではない世界で起きることは、エネルギーの使い方が違う。しかし今では芸術すらも、絵がいくらで売れたかとか、曲がどれだけの人に買われたかというように、お金が目的になってしまった。本来、音楽を創るとは、ただ世の中にその曲を提供するということだけでいいはずなのだ。その結果、それにふさわしい生きる手段が得られれば、それ以上を求める必要はない。ところがそれが人気商売となり、異常なまでのお金が集まるようになった。与えられた能力を自らのために使い、自分だけが富を得ることが当たり前になり過ぎてしまったのだ。
そして多くのお金を得た人は有頂天となり、醜い姿になっていく。しかしマスコミはそういった人々を人格者のように捉え讃え、そのような社会現象を先導しているのが現状である。世の中の基準が根本的に狂っているのだ。世の中全体がそうなっていることに対して、その中に生きる人々はその矛盾に気付くことができないだろうが、そのような風潮がある限り、世の中が本当に平和で差のない、豊かな世界へと歩き出すことはできない。

みんなで豊かになろうと言っていた共産主義が崩壊し、資本主義が勝ったかのように思われていたが、資本主義とは、欲望を勝ち取った者が支配する世界だ。これはある意味下剋上であり、弱肉強食の世界だと言える。共産主義が衰退し、資本主義一辺倒の世の中になった今、その矛盾がピークに来ている。これがひっくり返らなければ、次の時代は訪れない。
今の社会は、いくら獲得しても、満たされないようにできている。ところが世の中は、獲得することを奨励している。そしてその矛盾から、格差が際限なく広がっていくことを先導していることにもなる。それは、何かを批判している人々が、実は自分たち自身がその批判しているものを創り出しているというカラクリを、まったく知らないからだ。自分たちで創り出しておきながら、その創り出したものを悪者にして、自らは正義の側に立ってごまかしているような、極めて複雑で歪んだ構造になってしまった。それは、自己中心的なものの観方をしていては、見抜くことはできない。

確かに共産主義国は、国威発揚という国策のもとにドーピングを行ったかもしれない。しかしそれは、お金を稼ぐためには何でもするという西側諸国の風潮が、同じように共産主義国の間にも広まり、ただ少し国の体制が違うために、国家レベルでそれを行ったのだとも言える。
それを西側諸国は、国レベルでやったからひどい問題だと批判しているが、では個人レベルならひどくないのかと言ったら、ドーピングはもともとアメリカが発祥のようなものであり、欲望を満たしたいがために隠れてルール違反をすることは、アメリカのスポーツの世界にもいくらでもあったのだ。それがオリンピックのようなアマチュア精神の場ではなく、お金を稼ぐためのプロの世界では、昔は問われなかった。今は問われるようになったかもしれないが、オリンピックのような場でない限り、そこまで厳しく問われることはない。

そもそも、異様なまでに体を鍛え、記録をどんどん伸ばしていく現代のスポーツのような世界は、本当に求められるべきことなのだろうか。それを追い求めることが果たして美しいことなのかということを、問わなければいけない時が来ている。
2012年12月21日の銀河の冬至というターニングポイントを越え、世の中の価値観がひっくり返る時代が始まった今、これまでのように特殊な物理的能力を持つ人々がもてはやされる社会の、奥に潜んでいた問題が、明らかになり始めている。
特別な能力を評価されることはいいだろう。しかしそれによって、異常なまでのお金を得るスポーツの世界ができあがった。東側諸国の人々は、そこまで物理的に豊かではなかった分だけ、個人の欲望に目覚めてくると、より顕著にそれが現れるようになった。国家のためというよりも、個人の欲望をくすぐることを国策として行ったのだ。それは西側諸国のモノカネ優先の価値観の延長線上にあったことであり、そこには、国策として個人の欲望をくすぐったのか、個人の欲望を野放しにしていたのかの違いがあるだけで、西側も東側も、人間の業の深さが国レベルで現れている。そして今や国家のリーダーたちでさえ、欲望にまみれて国の代表をやっている。
そのような世の中の傾向を観ると、やはりトカゲのしっぽ切りのように、ドーピングをやった人、或いはドーピングを国策として行った国だけが批判されているようでは、問題は根本的に解決しないことがわかる。スポーツ仲裁裁判所はロシアのリオデジャネイロ五輪出場を認めない裁定を下したが、それは病気の症状だけを押さえて根本的な原因を解決しようとしない現代医療の対処療法と同じだ。

現代の人々、特に芸能界や政治の世界では、人気取りが目的になっている。人気取りとは、真実を伝えるよりも大衆の支持を得るのが目的だということであり、真理の柱を世の中に立てていくということがない。自らが批判されるような言動は避け、常に差しさわりのない立ち位置で、他者を批判し、そしてそれを飯の種としている。つまりこれも、体制の側にいて、世間に媚びを売り、お金を得られる立場にいたいという心がベースになっているのだ。
世も末とは、こういった世界を言うのだろう。それに対し、ある意味天誅だとも思えるような出来事が、今世界中で起きている。解決しようにもできないテロの問題は、モノカネが目的ではないと訴える人々による命をかけた反発が、世界中に蔓延しているとも捉えられる。彼らを支持はしないが、こういった出来事を奥深くから検証しない限り、人類全体が進むべき方向をまったく見出せずにいることは確かだ。

現代社会には山ほどの矛盾があり、事例を挙げるのに何の苦労もいらない社会になってしまったが、その延長線上に、さらに滑稽なことに、ポケモンGOの大流行がある。
アメリカという国はもともと、ゲームのようなものが日本ほど熱狂的には流行らない国だった。それは個人主義で独創的な生き方を良しとする国民性があったからだが、その国で、ポケモンGOのようなゲームに没頭する人々が現れ始めた。それはアメリカの良い意味でのプライドが失われてきているということだが、金満主義が蔓延している社会はそれを経済効果として歓迎し、まったく批判しない。あのバーチャルなゲームの中で人々が揺れ動いている姿を、マスコミは微笑ましいものであるかのように報道し、日本人は日本の企業の製品がこんなに受けたのだと喜んでいる。
そして日本では、異常なまでに任天堂の株価が上がった。先日LINEが上場した時に異常な金額が投資されたのと同じように、ゲームが発売されただけで、莫大な額の欲のお金がそこに集まる。それがあたかも成功者を讃えるかのように報道され、それに没頭する者たちに対して何も危機感を感じていない。危機感があるとしたら、歩きスマホによる事故が懸念されるという程度のものだ。
これらのゲームは、スマホという既に世の中に浸透したものを利用しており、ゲームの権利を買うだけで使うことができる。既にあるものに寄生して、何も生産しなくても、何千億、時には何兆円というお金を稼ぐことができる。そういったものを微笑ましく報道し、その根本に何があるのかをチェックする目は、社会から完全に失われてしまっている。世も末というが、ここまで来るとあきれるより他はない。

それに対して、どこかでおかしいと思っている人々もいるはずだ。しかしマスコミも、社会全体も、国のトップの政治家すらもこの現象を歓迎するようなコメントをしている。世の中はいよいよ、逆さまの極みを迎えている。この現象がどこまで行くのかはわからないが、このような愚かなことにエネルギーを費やし、その結果地球環境に負荷をかけ、人間社会に歪みを発生させ、人々は苛立ち、最終的には対立を生み出している。テロが止まないことも、そういった社会の表れだろう。現代の対立とは、戦争のようなわかりやすい形だけではなく、社会の金満主義の中から生まれる格差や差別が、極みを迎えているということだ。
これは物理的に言えば、マイクロプラスチックが海に放たれて、一切回収できない状態になっているのと同じようなものと言える。それが今後どれほどの環境破壊や生命への危機をもたらすのかという深刻なものでありながら、取り返しのつかないほど蔓延してしまっているのと同じ現象だ。
人間の心の中にゲームがあのような形で広まっていくのも、ある意味、覚せい剤の依存症が広まっているのと同じことだと言える。それを経済効果だと言って、国のトップたちが微笑ましく眺め、マスコミも歓迎すべきこととして報道している。

僕が今こうして語っているのは、一つの視点から分析し、批判をしているのではなく、人類はここまでものが観えないところに陥ってしまったのかという、嘆きだ。
本来人間は、生命感というものを感じて生き、現実の世界の中にそれがあり続けることによって充実し、希望のある状態でなければならない。生命感を感じるとは、生きることが生命活動に直結し、常に意識が自然や社会の成り立ちとコミュニケーションを取りながら、生命が身近な生命を司るものと連携していることを実感して、充実している状態のことを言う。しかしポケモンGOは、バーチャルの極めつけの世界だ。そしてそれに取り込まれていることを、歓迎している社会がある。
そんな資本主義社会のバーチャルな金満世界に憧れて、共産主義的体質から生まれた国民性を持ちながら、資本主義的欲望の蔓延する社会の中で、人の生きるべき道を見失っている人々が、今、地球上に存在している。そのような中に生きる人々が、必死に豊かになろうと思い、そしてまた国をまとめようとしてドーピングまでやってしまったことを、そういった種をまき散らした側の人々が批判する資格があるのだろうか。
ロシアの愚かしさよりも、ポケモンGOにとりつかれている人々や、それでお金を儲けようと株式市場に群がる人々の方が、今の地球上に混乱をもたらしている罪は、はるかに大きい。覚せい剤を使用したり、野球賭博をやって追放された選手たちを責めている場合ではないということだ。そういった選手たちも、混乱する今の社会の犠牲者とも言えるのだ。

社会には金満主義が蔓延し、それを主導する人々が優秀で賢いとされている。大学の勉強でも何でも、いかに金を稼ぐかということに能力を使い、それを成し遂げた人間が優秀だということになる。こんなにおかしな世の中はない。本来の生命感を有する目で観れば、今の世の中は本当に異常だということが観えてくるはずである。
覚せい剤をこれだけ厳しく取り締まり、それを使用した人をバッシングしながら、自分たちはお金の麻薬漬けになっている。世の中が混乱の極みに来ているということだ。

 

Source of photo: @WSJJapan

 


2016参院選とイギリスEU離脱から時代を読む

今回の参院選では、投票者数を上げるために、18歳以上の若者たちにも選挙権が与えられた。投票前はそれが希望ある話のように捉えられていたが、結果として、まだそこまでの社会的意識が育っていない者たちに何を持って投票意欲を起こさせたのかと言ったら、損得勘定だ。

人間は損得勘定を持つと、意欲が生まれる。本来、意欲というのは、生命力から生まれてこなければならない。それは損得勘定とは違い、自らがこの世界に生まれてきて役割を果たすことの意味が見つかった時に湧き出してくるものだ。
最終的には、自らの生命を完全燃焼させ魂の成長が成された時に、本来の生命としての目的が達成されたかどうかという意味での損得勘定はあるが、生きている間の学びの材料である一つひとつの出来事に囚われて損得勘定をしているようなことでは、人間の創る社会が本来の目的を現せないのは当たり前のことだ。
しかし、欲望の漬物のようになってしまっている今の社会では、損得勘定ですべてが進んでいくのも仕方がない。そうすると、損得勘定が人々の意識の元にあり、その上に社会ができるという非常に貧しい世界ができる。

これは極めて重要なところを突いているのだが、さて、損得勘定が巨大に膨らんでしまった今の世の中で、人々はどこまでその損得勘定の魔の手から離れて目覚めることができるだろうか。現代の人々は、ものの本質を観ようとするのではなく、損得勘定だけで結論を出そうとしている。国民は経済成長を支持したと言うが、そもそも経済とは何であるのかという実態がわかっていない。支持をされる側も、これを言ったら支持されるだろうということが当たっただけのことで、やはり実態がわかっていない。

イギリスがEU離脱を宣言した理由の一つに、雇用の問題がある。豊かな国イギリスにEUという国の垣根を外した制度が入ったことで、イギリスに雇用を求めて貧しい国々の人々が流入し、それによって移民と仕事の内容がバッティングする一部の人たちが職業を奪われたと訴えている。それに対して、EUを離脱すれば5億人の市場を失うことになり、世界の金融センターとしてのイギリスの立場を失うことになると訴えている人たちがいる。
そこで多数決を取った結果、移民によって職を奪われていると主張する労働者階級が人数として勝り、そちらの意見が採択された。どちらの側も、自らの利益のための主張の延長線上にある。そうやって主張していることが自らの心の貧しさを表していることに気付き、振り上げた拳を下ろすということがない。
それでも形だけは民主主義だと言って、多数決の理論で自らの主張に支持を集めようとする。では民主主義が、民衆に正しい世の中をもたらすかというと、そうではないことはこれまでの結果を観れば明らかだ。それは今回の日本の参議院選挙でも、イギリスのEU離脱を問う国民投票でも、同じことが言える。損得勘定がベースの民主主義によって得たものが、後にしこりを生み、損得勘定の議論の上にまた議論が積み重なっていくということを延々と繰り返している。

EUの前身であるECは、第二次世界大戦のトラウマから始まったのだが、それも一種の損得勘定だ。本来トラウマではなく、学びから始めるべきだった。なぜあのようなことが起きたのかということを冷静に分析する学びから始めて、新しい時代の見本となるべきだったのに、「もうあんな体験は嫌だ」というトラウマ的反応からある意味パニックのようになって始まっているため、発展的ではない。人間は常に冷静な判断ができる意識状態にいなければならないが、損得勘定がひどくなるとパニック状態になり、正常な思考ができなくなる。その上に正義だの悪だのをいくら語っても、秩序ある世界を築くことはできないだろう。
そこをもう一度立ち返り、発展的にEUの在り方を考え直さない限り、イギリスのようにエゴの延長線上に自国の利益を主張してEUを離れる国が出る。国どころか、イギリス国民一人ひとりもそれぞれの立場から自らの損得を主張し、てんでバラバラの状態になっている。イギリス国内もバラバラ、EUもバラバラ、世界もバラバラの状態だ。
そこで日本は、深い洞察のもとに日本人はどうしていくかを考えるべきところに賢さがあると思うのだが、日本の国民もまた、世界の混乱が株や為替に影響していかに個人が損をするか得をするかということばかりに興味があり、日本全体のことすら考えていない。マスコミも、そういったことのみを国民に意識させるような情報ばかりを取り上げている。
中には、国民投票などをして国民に結論をゆだねたら、感情的な国民がよく考えないで決断してしまうのだから、大事なことは知識人に任せて国民はそれについていけばいいのだと言う人もいた。それでは民主主義の後退だろう。そうではない。一人ひとりが愚かだからこそ、一人ひとりが目覚めて国のことも地球全体のことも考えていく。その大調和への気付きこそが、次の時代を生む。そう捉えれば、この世界の混乱は次の地球をどうしていくかということのメッセージと取れる。

今、およそ250年前のイギリス産業革命から始まった物質至上主義の価値観に賞味期限が来て、いよいよ解体が始まった。冥王星が太陽を1周する248年のサイクルを経て、再びイギリスから、その変革の波が始まった。時代を宇宙視点で観れば、実に興味深い、有意義な時代を我々は生きている。
だからこそ我々は、この非常に面白い有意義な立場にいることを、自覚して生きていくべきなのだ。自覚とは、自らが目覚めると書く。目覚めるとは、新しいものに目覚めるのではなく、絶対に存在し揺るぎないものを、常に忘れずに生きていくということである。

 

Source of photo: www.youtube.com/watch?v=QsS4PDAgn9w

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7月16(土)〜18日(月/祝)
第10回大人サミット
「地球会議 in 木の花ファミリー」開催!

時代が大きな転換期を迎えている今、年齢、職業、国籍、宗教、ありとあらゆる枠を超えて、地球の未来を真剣に想う真の「大人」たちが集い、語らい、新たな時代の幕開けを発信する「第10回大人サミット」が木の花ファミリーにて開催されます。より良い未来を築こうとする意欲さえあれば、どなたでも参加OK!ブログで語られていることを現実の世界で実践し、人類史上に新たな1ページを刻むかけがえのない3日間を、ぜひ共に過ごしてみませんか。

第9回大人サミットより
第9回大人サミットより

*詳しくはこちら!
 → 第10回大人サミット開催のご案内

日帰り参加や部分参加も受け付けています。
ご関心をお持ちの方は、どうぞお気軽にご連絡ください!