大町道中記③ 〜 生きていければいい

翌朝、テレビをつけると、朝のニュースで障がい者の就労支援活動が紹介されていました。しばらく番組を観た後、いさどんが語り始めました。


 
やさしさと正直さ

いさどん:
障がい者を取り上げて「やさしい社会」をテーマにしているけれど、そこに関わる人々の人間性はここでは浮き彫りになっていない。この支援活動をしている人の中には、「障がい者は不当な扱いを受けている」という怒りがある。でもそれは怒ることではなく、ただそういう事実があるということを伝えていけばいいんだよ。
一つの解決策として、自我がなくなると、そういう怒りというのはなくなっていくよね。自我があるうちは、「自分の言うことが伝わらない」とか「自分は損をしている」とか「私のいうことが正しいんだから聞くべきだ」というように、怒りが出てくる。だけどそれは、たまたま自分がそこに縁があったから今の立場にいるだけのことで、みんなで立ち位置を共有すれば、そういったでこぼこはなくなっていく。

僕は今の番組を観ながら、うちにもAちゃんがいるなあ、と思った。Aちゃんは障がいを持っている。それで、家の周りに草が生えてきたので草取りお願いね、と言えば「あいよ!」と言って取ってくれるし、だからと言って毎日「あれやってね」「これやってね」と頼まれているわけでもない。AちゃんはちゃんとAちゃんのキャラで、全体の足りない部分の隙間を埋めてくれている。圧力がかかるわけでもなく、かと言って何もしないで保護されているわけでもない。そういうことだな、と思いながら番組を観ていた。
人にはそれぞれ、足りない部分と足りすぎる部分があるとしたら、足りない部分を補ってあげるやさしさと、足りすぎる部分を「それはやりすぎだよ」と伝えてあげる正直さをみんなが持ったら、障がい者を支援することはいらなくなる。それが全体性ということだよ。今の支援活動は、障がい者を特別扱いしているから、結局共に生きていることにならないんだよ。何より、障がい者支援がビジネスのネタになっている。

もう一つ、番組の中で、生まれた時から脳に障害を持つ子どもを育てているお母さんが紹介されていた。障がいを持つ人一人に対して、一人以上がつきっきりの状態になっている。それは、自然界では無いことが起きている。もしも自然界で、誰かが誰かにつきっきりでなくてはならないなんてことになったら、生きていけないよ。そう考えると、今の人間社会では、障がい者はとても手厚い保護をされているとも言えるんだよ。つまり、そんなことまでできている世の中というのは、熟してきているということだ。
それでもまだ、障がい者に対して足りない足りないと言っている。十分だよ。やりすぎだとは言わないが、十分ありがたく思って感謝して暮らしていけるはずだよ。自然界では淘汰されるのだから。こういうことを言うと、業界からクレームが来るかもしれないけどね。
タイのプミポン国王は、「足るを知る経済」といって、求めるだけの延長に豊かさを表現するのではなく、助け合い、共に暮らすことにより、ありがたくいただく心の上に成り立つ経済を国の豊かさの指針としていたんだよ。

ともこ:
障がい者に対して現状で十分だというと、さっきの番組みたいな怒りが生まれるかもしれないね。

いさどん:
そう。相模原事件の時には過剰なくらいの反応が起きて、「障がい者の生きていく権利を奪うのか!」って、そんなこと誰も言ってないでしょう。ただ一人の統合失調症の人間がそう思っただけだよ。
でも、もう一つの観方からすると、彼の言うような見解も確かにあるんだよ。今ケアできているUくんは、植松容疑者の主張していることは事実だと思うと言うんだよ。そのことについて、彼は2ちゃんねるで語り合っている。そこには両方の怒りがあって、方や障がい者に対してひどい仕打ちだとする怒りと、方や実際にそういう人が生きていていいのかという意見がネット上で飛び交っている。
本音をすべて出し合って、そして落ち着くべきところに落としていく正直さが、この世界にはまだない。こういうことはタブーで、言ってはいけないことになっている。

ともこ:
それってさっき話していた「全体性」とは反対の状態だね。

いさどん:
世の中全体がね。全体性というのは、すべてがあからさまになって、個人個人の個性や能力が全体のものになっていくこと。そうすると、「差」が消えるんだよ。例えばあるグループの能力が一般の80%だとしたら、その80%をグループ全体の個性として生きていけばいいのだし、そのグループがさらに大きな全体の一部となれば、その足りない部分も全体によって埋められていく。僕の言っていることは、難しいことかな?

ともこ:
こうやって話を聞いていてなるほどと思うのと、実際に自分がそれを生きるのとはまた別だもんね。

みほさん:
どこまでわかっているのかも怪しいね。

いさどん:
だから大事なのは、自分はわかっていないんだということを原点に置いておくこと。そうすると、わかろうとする、受け取ろうとする下地ができる。ところが、自分流にわかってわかった気になっていると、常にわかった人のつもりでいるから、新しいものを取り入れる気にならないんだよ。そうすると発見がないから、そのまま変わらない自分でい続けることになる。
進化するということは、今の視点からでは未来はわからないということ。だから常に謙虚でなければいけない。どんなにわかったとしても、未来に対してはわからないということだ。

 
無駄が世界をダイナミックにする

いさどん:
自分を改める気のある人は、本当は深刻にならなきゃいけない。「自分は本当にものが観えていない、これではいけない」と心から思った時に、物事に対して「これでいいのか」「これでいいのか」といろんな角度から考えるようになる。そうすると幅ができて、その中心が観えてくるんだよ。本当にこれでいいのかと真剣になった時に、初めて自分のずれを修正できる。それをできるのは、自分だけだ。
人から言われて直すのもいいけれど、それでは言う側も豊かじゃないし、言われる側はなおのこと豊かじゃない。やっぱり本人が、自分のことなのだから「これはいかん」と思って真剣にならなきゃ。日常の細かいことをノーチェックにしてるから、ツケが溜まって大きな現象をもらうことになる。それで「また同じことをやってる」と言うけれど、本当は毎日瞬間瞬間それをやっていて、チェックできてないだけなんだよ。これは誰にでも言えることだ。
(うんうんと頷いているみほさんに向かって)今、人の話として聞いてるでしょ。自分事になってない。それで「今日はいい話聞いた」と言って終わっていくんだよ。真剣さがあったら、違う明日がある。

僕はこの話をしながら、いったい自分は何を言いたいんだろうと思う。何のためにこの細かいチェックが必要なのか。
人間の未熟さが今の世の中をつくっている。そうしたら、一つひとつの部品の精度を上げる必要がある。人間一人ひとりは、世の中を構成する部品だから。それをやっていく時代が来たんだよ。
どんなに科学技術が発達してテクノロジーに支えられていても、それを必要とする人間が不完全である限り、その不完全を補足するための作業が必要だ。病気になる人間がいたら、病気を治すための作業があって、それがビジネスチャンスになって、経済は膨らんでいる。これはバブル状態だよ。本来不要なもののために、経済が大きくなっているのだから。
ストレスを溜める人間がいる限り、ストレスを埋めるための行動が必要になり、それが商売になっていく。それは不要なものによって成り立っている経済でしょう?無駄な思考をして不満をたくさん生んで、それを解消するためにたくさんのエネルギーを使っている。不要なもので支えられているんだよ。

そこで、不要なものはなぜあるのか。
不要なものがあるから、この世界に不必要なことが起きて、その無駄なことが世界にダイナミズムを生んでいく。それがこの世界のエネルギー源となっている。もしも不要なものを全てなくしたら、そこに生き生きさはなくなるよ。生きることに幅がなくなるから。それは、悟った人ばかりの世界だよ。

みほさん:
おもしろくないね(笑)。

いさどん:
いや、おもしろいかどうかは別なんだよ。それがその時代なんだから。今は人口も産業もピークのある意味異常な世界だけど、後から振り返ったら、活気があったよなぁ、でも無駄なものがいっぱいあったなぁ、と思うだろうね。
僕が35年前にインドに行った時、当時は1日1食も食べられない人がたくさんいて、バングラディシュから100万人の難民がカルカッタに押し寄せていた。夕方になると、人々が牛の糞を燃やして火を焚いて食事の支度を始めるので、そこら中から煙が上がる。町の中は埃だらけ。そんな時代だった。
そんな中を旅していて、僕が一番印象に残ったものは、目。インドをバスで旅していて、夜になると街灯がないから真っ暗になる。時々バスが止まって休憩になると、真っ暗な中に屋台があって、そこに裸電球がぶら下がっている。そうすると、暗闇の中でそこだけがパーッと明るく見えるんだよ。そこでバスを降りてお茶をしていると、僕が日本人だから、周りにどんどん人が集まってくる。そして裸電球に照らされた目がピカーッと、好奇心いっぱいでこちらを見ているんだよ。屋台で出されたチャイを飲んでいる間も、周りには目、目、目、目、目。それはものすごい生命力に満ちていた。好奇心と、おなかがすいている不足感で、野生のエネルギーにあふれてるんだよ。

今は、野生では生きていけないようなものであっても、やさしい社会だと言って、障がい者は保護しなければいけないと言う。すでに保護されているのに、それでももっと保護しろと訴える。障がい者年金と特別雇用で買いたいものが買えるようになって、ものにあふれている。あの生命力に満ちたインドの目と、どちらがいいのかはわからないね。方や豊かで方や貧しくて、だけど生命力はあの時代のインドの人々の方がはるかにあった。そしてその一方通行な豊かさを追求したところで、社会は良くなってはいかないんだよ。

ともこ:
さっきいさどんが、そこら中無駄だらけだという話をした時に、私の思考の中は「そうか、無駄なんだ」とすぐに二元的な発想になるんだけど ────

いさどん:
僕は無駄があることをダメだと言っているわけではないよ。事実として語っているだけ。その無駄は、「無駄」という段階では不要なものだ。ところが、無駄があるということは、遊びがあって、幅があって、ダイナミックだとも言えるんだよ。そして、その不要なものをどう生かしていくか、それをどう考えたら無駄でなくなっていくのか、無駄が全部なくなったらどうなるか、と先へつないでいく。必要なものだけしかなかったら、いったいどういう世界ができるだろうか。きっと仙人のようなものばかりの世界になるよ。

僕はそれを思うと、もう思考が次へ行く。そういえば、かつて僕が金星にいた時はそうだったなぁ、と。金星ではどこを見ても調和と愛の世界で、誰もがお釈迦様やイエスのような存在だった。そんな世界、楽しい?だって、お釈迦様がお釈迦様の悟りを伝える場がないんだよ。イエスがイエスの愛を語るところがないんだよ。みんな当たり前だから。そこで生きてるんだよ。
そこで僕は、何のために生きてるんだろう、と思ったんだよ。調和と愛だけの世界で、生きている意味は何かと考えたら、「まあ、そういうところですな」というだけ(笑)。少しは語り合って、わからずやもいて「わからんのかー」とか何とか言いながらやっていった方がおもしろいじゃん。だけどみんな悟っちゃってるから、気付きも何もそこにはない。気付く必要がない。

くわっち:
昨日言っていた、神の世界だね。

いさどん:
つまらん世界だよ。

 
神様のジレンマ

カタカムナの八鏡文字

いさどん:
カタカムナの八鏡文字は、円を八等分して表される。それは地球が太陽の周りを1周するのと相似形になっていて、日本ならその1周の間に四季を迎える。人間は生まれてくると「四苦八苦」すると言うね。「八方ふさがり」という言葉もある。方位は東西南北で4つだけど、それをさらに割ると四苦八苦になり、それは行くところがたくさんあって迷っている状態。それが全部収まると、八方が飽和安定する(ヒフミヨイムナヤコトのヤには飽和安定の意味がある)。だけどその飽和安定状態でずっとやっていくと、一体全体何のためにこの世界はあるのだろうかと意味がわからなくなる。そこには何の波紋もないんだから。
湖の水がシーンと波風ひとつ立てずに凪いでいたら、実物と湖面に映っているものとの区別がつかずに、どちらが本当かわからない。ところがそこにポーンと石を投げると、波紋が起きて、「上が本物だ」とわかる。だから波紋が起きるのはいいことだよ。そして、波紋が起きるということはそこが真実なのではなく、上に真実があるということだ。

神様は自分一人で、退屈だったんだよ。だから飽和安定の「八つ」の次に「九つ」を創り、あえて余りものを創ることによって、「十=統合」という完成の世界を創ったんだよ。何の波紋もない完璧の世界というのは、それ自体が不完全なんだよ。それ自体を認識できないんだから。そこに不完全を入れることによって、この世界の存在や仕組みを理解することができて、統合する。かつて僕が神さまに聞いた通りの話が、カタカムナで立証されているんだよ。

時々僕はカタカムナを語りながら、これを人間に与えて何になるんだろう、と考えるんだよ。つまりそれは「悟り」ということでしょう?まず始めに、「ワ」ができる。これは「アマ」と言うんだよ。つまり、高次(ア)の間(マ)であり、これが宇宙ができるための器であり、アマとは即ち宇宙のことなんだよ。
それだけの状態だったら、何も起きない飽和安定の状態だ。「ヒフミヨイマワリテメクルムナヤコト」という一から十までを経てもまだ何もできてはいない。「アウノスヘシレ」という「ア」から始まって自動的に現象ができていく段階で、初めて現象化が起きるんだけど、現象化が起きることによって何が生まれるのかというと、矛盾が発生するんだよ。飽和安定(ヤ)から転がり出て(コ)きて、そのエネルギーが溜まっていくと現象化になる。カタカムナは、悟りのプロセスを完璧に表現している。
それで、これを人間に語ってどうするのかというと、人間を悟らせるんだという。ではどうして悟らせる必要があるのかというと、悟ってないからだよ。今の人間は悟っていないから、悟らせるということが必要になる。だからお釈迦様やキリストが必要になるんだよ。
ところが、金星へ行ってごらん。全員が悟っているから、「悟らせる」ということが不要になるんだよ。悟りを求めることがないから、実態が悟りそのものの世界を求めることもない。つまり今あるものが不要になるんだよ。そこにあるのに不要なんだから、辛いだろうね。あ、違った。辛いということもないんだよ。私はいるよなぁ。それがどうした、という世界。これが神様のジレンマだったんだよ。

ともこ:
永遠の世界で、ジレンマが発生する?

いさどん:
完成された世界では、その状態自体が不完全につながるということなんだよ。そこで、その完全に不完全を散りばめると、そこから矛盾が発生し出し、元の完全に戻ろうとする道が生まれてくる。それで完全を目指していって完全になると、今度はまたシーンとして何もないから「なんじゃこりゃ~!!」ということになって(笑)、また不完全を創って矛盾を発生させて「なんじゃこりゃ~!!!」ということをくり返してあっち行ったりこっち行ったりしながら無限にそれが続いていくと、それはこういうことになる(と言って、手で「∞」の形を描く)。これって「8」でしょ。

みんな:
ほんとだ~!!

いさどん:
ひどいわからずやがいるでしょう?そのわからずやをわからせて、その結果どうなるかというと、みんながわかってしまったら、とてもつまらない世界になる。
この間ヒロッチがみんなに配ったアンケートに、「あなたはどのような心境で死を迎えたいか」という質問があって、僕はこう書いた。「やっと来たか。」やっとこの世界から離れられる、よかったなー、と。
それでもあちらの世界に行くとそこは飽和安定してるから、その世界を旅立つ時には同じように「やっと来たか」と思うのだろうね(笑)。だから、いつも、「やっと来たか」の姿勢だね。それは常に前向きに進むということ。その繰り返しだ。これが宇宙の実相であり、神様の実体だよ。
だから神様って、とても滑稽なんだよ。僕は神様に、「あなたも気の毒な方だねぇ」と言うんだよ。だってこれではマスターベーションだもの。すべてが自らの内にあり、その中であっちに行ったりこっちに来たりしながら存在している。これを永遠に繰り返すんだよ。法華経ではこれを「三千塵点劫(さんぜんじんでんごう)」と言って、宇宙が始まって崩壊することを三千回繰り返しているということだけど、三千回というのは2999+1ではなく、無限という意味だよ。「八百万(やおよろず)の神々」の八百万も、「百姓」の百も、すべて無限を表している。同じことを永遠に繰り返しているのだけど、それがわかったところで「だからどうした」という話だね。

くわっち:
でも同じことをくり返しながら変化していってるということだよね。

いさどん:
そりゃあそうだよ。同じことをくり返しながららせんを描いて進んでいるのだから、同じ場所には行かない。AからA’に、さらにA”にと進んでいくんだよ。そうすると、語れば語るほどもうどうでもよくなってくる。現状をひどい状態だと嘆いたとしても、別に核爆弾が爆発したって、その先には必ず次の道がある。かつて広島と長崎に原爆が落とされた第二次世界大戦では、日本人が600万人も死んだ。世界では、6000万人が死んだ。この悲惨な世界から立ち直ることはないだろうと言われたが、それがあったからその後の復興につながり、今につながっている。だから安定するとまたそれが壊れて、先へと進んでいくだけなんだよ。
地球では過去6億年の間に6回も生命が大量絶滅している。そしてその絶滅の後にも、DNAは次なる生命に受け継がれる。そしてDNAは進化していく。だから人類が大量絶滅しても、またどれだけか先に進むとそれを受け継いで進化した次の生命が現れてくるんだよ。AからA’へ、さらにA”へと確実に受け継がれていく。
そうすると、別に大量絶滅をしてもいいわけだよ。それを短く区切って見ると「北朝鮮が水爆を作った!?あんなものを爆発させたらえらいことが起きるよ」という発想になるけれど、大きく捉えたら、その出来事はすべてを消滅させ、DNAに託された情報が次の生命に受け継がれて、進化していく。広いスタンスに立てば、その段階が来ただけということだよ。

ともこ:
その進化はある意味無自覚な状態でしょ。だけど人間は ────

いさどん:
なぜ無自覚なのか。「自覚」という字を見てごらん。「自」という文字が入っている。つまり自分がいるから、自分がどうなるかというハラハラドキドキの中で自覚がある。ところが宇宙の時代の変遷という視点から観ると、自覚なんて必要なくなる。たくさんの自我がまとまって、それが流れとなっていくのだから。そこに自分があると自覚ができて、「私はどうなるんだろう」「今まで積み上げてきたものはどうなるんだろう」「今水爆が爆発したら(家のすぐ脇にある)あの花豆はどうなるんだろう」と不安になるんだよ。せめてあの豆を収穫してから死にたいわ、とかね(笑)。そういうセコい話が出てくるんだよ。
すべてを手放すことだよ。手放すと、飽和安定に戻る。つまり、平和になる。執着すると、自分のものだ何だと言って格差が生まれ、ダイナミックになり、問題ごとがあふれ出す。その極め付けが今の時代だ。

ともこ:
矛盾はそこから学ぶために起きる。だから人間がそこから学べばいいんだけど、学ばずに嫌だ嫌だと言ってるんだよね。

いさどん:
嫌だ嫌だと言うのも矛盾なんだよ。嫌だと言う必要のないことに言ってるんだから。なぜ嫌だと思うのかというと、ある特定のところに意識が限定されているからさ。だから「ここは嫌だ」と言ってるんだよ。ところがそこからずーっと引いて全体を俯瞰してごらん。それは広い全体の中のほんの一部に過ぎないから。
この世界は、「カタチサキ」の世界だよ。まず現象化として、今の世界の状態がある。そしてその奥に、現象界を支える潜象界の存在があり、それによってこの世界の実体が支えられ、動いている。時代の流れの中で今、カタカムナ理論がそれを立証し、この世界の全容が観える時がやってきた。13000年前のカタカムナの時代には、そんな理論なんてなかったんだよ。紙が発達して学習できるようになったから理論が生まれたのであって、カタカムナ人の時代はその理論をただ自らの能力として生きていただけだから、「こっちに行けば食べ物があるぞ」「危険が迫ってくるぞ」と直感で感じ取っていた。そこではコミュニケーションは、極めて単純で、言わばそれこそが「阿吽」の世界だったんだよ。

 
生きていければいい

いさどん:
おもしろいねぇ、こうして観ていくとすべてがどうでもいいということになる。そう言うとみんな頷くけれど、本当はわかっていない。
我々はどうするべきか。この間こうちゃんが富士宮に帰ってきた時に、僕のところへ相談に来た。大町ビレッジを運営していくのにどうしたらいいか、と。「どうしたらいいか」というと、一つひとつの不具合を調整していくことになる。だけど、一つひとつの不具合をモグラ叩きのように調整していっても、一つ叩けばまた別のところでポコッと不具合が発生する。そこで、逆の方法もあるんだよ。何かと言ったら、ポコッと出たものをそのままにしておく。それはそういうものだ、としておくんだよ。それが個性であると。
きたじゅんがはっきりしないのも個性だとしてそのままにしておいたらいい。くわっちがグダグダ言うのも個性だとしてそのままにしておいたらいい。みほさんが見当違いなのも個性だとしてそのままにしておいたらいい。こうちゃんが欲求不満で悶々とするのも、そのままにしておけばいいじゃない。そうすると何が起きるかというと、その結果定着する場所に至る。そこで何を恐れる必要がある?

考えてごらん。この道は、飽和安定する理想郷を創ることを目指している。理想郷とは何かというと、今の社会とは違う世界だ。今は理想郷から極めて外れた世界になっている。それは人々の欲がピークになっている状態で、ああなりたいこうなりたいという欲が渦巻いているとしたら、こうちゃんが大町をもっと安定した場所にしたいと思うのも同じことでしょう?そういう願望をすべて捨てると、アホはアホのように、迷いは迷いのように、欲求不満は欲求不満のように、それらがすべて表現された状態で、「それが個性だよ」と観ることができる。そういう人なんだ、と観れるようになった時に、落ち着くべきところへ落ち着くから。

その後にどうやってそれを納得するか。僕はこうちゃんに言ったんだよ。我々の道は、大金をつかむためのものでもなければ、社会的成功者になるためのものでもない。この道を行くということは、「生きていければいい」ということなんだよ。生きていって、つないでいって、そしてその中で出会う情報を受けて学んでいけばいい。冷静に考えてごらんよ。我々は借金があるわけでもない。雨が降っても食うものに困るわけでもない。雨が降らないからといって食うものに困るわけでもない。子どもを育てられないわけでもない。どこかに不足があるだろうか。ないでしょう。そうすると、何を怯える必要がある?世間には不安を駆り立てるような要因があふれていて、みんな不安だらけの中で右往左往している。だけど我々は、一切不安のない場を創ってるじゃない。だからこうちゃん、これでいいのよ、ってね。

目的は、生きていくのにまったく不安のない世界を築くことだとしたら、我々はもうすでに生きていけている。この中でこそ、心が悟っていく場ができるんだよ。どこかの山の中に入って特別な修行なんてしなくても、今現在環境は整っている。毎日ミーティングをやって、これじゃあいけない、これじゃあいけない、とやっているけれど、そんな何も生産しない時間を毎日持って、日々の暮らしは十分に食えてるでしょう?どこかの会社が毎日そんなことをやっていたら、倒産するよ。ところがうちはそれでも継続できている。だからこうちゃん、できているんだよ、と話したんだよ。

だけどヒロッチは、それでは納得しないかもしれないね。だって実際にわからずやばかりじゃないか、と。いいのよ、わからずやはほっとけばいいのよ。欲求不満もほっとけばいいのよ。トンチンカンもほっとけばいいのよ。囚われてるのもほっとけばいいのよ。そういう状態にしておいても、生きていけるんだから、すごい仕組みを構築したもんだよ。

これって、ヘン?

くわっち:
いやぁ、でもそれだけだったらもったいないなぁ。

いさどん:
それはあなたに何か目的があって、それを達成したいという欲求があるからだよ。だけどその目的を達成するには、「今現在すべてを与えられていて、問題は何もない」という位置に行った時に、その目的は達成されるんだよ。

くわっち:
・・・ちょっとよくわからなかった。

いさどん:
そりゃあわからんよ。現状の問題ある状態があって、問題があるのに、よくよく違う視点から観たら何も問題はないということだから。明らかに問題があって「これではダメだ」という状態が、明らかに問題がないわけだ。もっと引いて観たらね。ということは、問題ない世界に行くためには、それに気付くだけだよ。「問題ない」ということにね。

 
世界を理解することで、世界と一体になっていく

いさどん:
すごくいい話だった!というところに落とせるかな~と期待していたら、ちんぷんかんぷんで終わることになったね。最終的にはどうでもいいんだよ。
「これじゃあいけない」というのは、(テーブルの上にある硬い茹で落花生を指して)この落花生はこれじゃあいけない。これで茹で上がったことにしちゃいけない。これでは足りないねということにしないとダメだね、これは。

みほさん:
はい。

いさどん:
あ、その「はい」は違ってるよ。僕は落花生の茹で方に特定した話をしたわけじゃないのに、あなたは落花生のことだと思って聞いている。何が言いたいかと言うと、ものには活かしどころというものがあり、これは活かしどころに行っていないよ、ということ。活かしていくという話をしてるんだよ。

ともこ:
だから、「これじゃあいけない、なんとかしよう」の延長線上に突破口はないんだね。

いさどん:
ない。それはない。

くわっち:
「活かす」という視点だということ?

いさどん:
違うよ。「気付く」という視点だよ。

宇宙は、八つで飽和安定だね。八鏡文字で言えば、円(球体・アマ)が発生し、そこに宇宙最極小微粒子の「カ」が集まっていって、そして「ヒフミヨイムナヤ」と現象化への道が進み、この世界ができる。「コ」で転がり出て「ト」で統合する。その現象化の前の「ヤ」、つまり八の状態は、とても安定した状態だよね。そうすると、そこでは現象化は起きないんだよ。だからそれをわざわざ九まで進めた。八の飽和安定はそのまま止まっている状態だけど、九まで行くと、常に変化変容を繰り返すということ。それは地球の実体であり、宇宙の実体でしょう。飽和安定した世界も、そこを超えると現象化が起きる。それが宇宙の実体なんだよ。
宇宙というのは、本来はないもの。飽和安定の先に、「ある」という世界を創造するために、飽和安定からこぼれ落ちる九を創ったのだから、その前の飽和安定の状態では、まだこの世界は「ない」んだよ。だから「ない世界」なんだよ。
だけど、「アマ」というのは「ある世界」の元でもある。その「ある世界」ができたことによって、この世界はもともと「ない世界」だったけれど今は「ある」んだな、ということが理解できる。そこでトキとトコロが統合して、悟りになるんだよ。統合とは、理解なんだよ。だからさっきの話でも、「そうか、こういうふうになっているんだ」と理解したところで、それが悟りだ。生きるということは、その連続だよ。「なるほどこういうことか」「なるほどこういうことか」を繰り返していくことで、世界と一体になっていく。

くわっち:
じゃあ普段のことでも、気付くことで ―――

いさどん:
進んでいくんだよ。だけど自分の言っていることがどういうことなのかにも気付いていないでしょう?それは宇宙から外れているということだよ。でも気付かないのも、そういう人だということで、僕はこうちゃんに「いいじゃん、放っておきな」と言ったんだよ。そうして気付かない状態を積み重ねていくと、10が限界であるとしたら、1で気付くのか2で気付くのか、はたまた気付かないまま10まで行って、そこで気付くための現象に出会って気付くのか。それを、10にならなければわからない者に1の段階で気付けと言ってもわからないのだから、放っておきなと言ったんだよ。
それはなぜかというと、こうちゃんがきたじゅんをどういうふうにサポートしたらいいのか、みほさんの見当違いをどう伝えたら直るんだろうかと自分の悩みにしてるんだよ。だから、違うよ、それはきたじゅんの人生であり、きたじゅんの悩みなんだから、その悩みはあなたが持っちゃいけないんだよと伝えた。みほさんの見当違いはみほさんの見当違いなんだから、みほさんに任せておけばいいんだよ。じゃあそれを見ながらどうしていったらいいのかとこうちゃんが聞くので、僕はこう言った。「いいじゃない。生きていけてるんだから」。
生きている限り、その変遷を見ることができる。変遷を見るということは、客観的視点でそれを観ていくということであり、それが悟りだ。

 
現代物理学を超える世紀の学会

いさどん:
もともと宇宙は、ものすごく昔の宇宙も、遠い未来の宇宙も、同じ世界なんだよ。地球がAからA’へ、A”へと進んでいくでしょう。そうすると変化しているように見えるけれど、実はそのすべてを包み込む器は同じなんだよ。湖にポーンと石を投げ入れたら波紋が起きて、それまで何の動きもなかった湖面に動きが生まれることでそこに「ある」ということが認識されるだけのことだよ。

みほさん:
器は変化しないんだ。

いさどん:
しないよ。この世界そのものだから。でもその中にいる者が、そんなことを考える必要はないよ。
僕は昔、神様にそういう質問をした。この世界はあなたがすべてであるのでしょう?と聞くと、神様は「そうだ」と答えた。ではあなたがこの世界のすべてであるならば、あなたがすべてではない、別のものがすべての世界が隣りにあるのでしょうか?と聞いたんだよ。すると神様は、「お前はそこまで考えたのか、仕方がない、私の実体がわかったものはそこまで思考するのだ、それが人間というものだ」と言い、質問に対しては「あるぞ」と言った。
当たり前だよね。宇宙は必ず対で成り立っている。「ある」というものが存在しているのであれば、それを成立させるもう一方の存在がないと成立しないのだから。バランスなんだよ。だから「ある」というものを特定したら、それを成立させる「ない」か何かが必ずあるんだよ。
そこで僕は、馬鹿な質問をした。「そのもう一つの世界とは、どんな世界ですか」と。それは質問をしたというよりも、瞬間的にそう思ったんだよ。そうしたら即座に答えが返ってきた。「そんなことを考えてどうする」と。つまり、ここの中にすべてがあって、ここの中に存在していて思考も何もすべてここの中にあるおまえが、もう一方の世界を理解できるわけがないだろう、それは無駄なことだからやめなさい、と言われた。そう言われて僕は、ああなるほどと納得した。

くわっち:
まったく違うから?

いさどん:
まったく違う世界を想像できる?

くわっち:
できない。

いさどん:
ではその思考は無駄だろう。それで神様に「やめなさい」と言われ、僕は「ハイ、わかりました」と納得した。だけど、今のこの世界に対して、対になる世界があるのは確かだ。物理学は今、それで行き詰まっているんだよ。
この世界は陰陽の対向発生によって成り立っている。例えば男と女のように、必ず対になる存在があって、互いにバランスを取って成り立たせ合っている。カタカムナの世界観まで行くと、その仕組みを解明することができるんだよ。
ところが、現代物理学はこの宇宙の中で、現象という「ある」目線からだけでその仕組みを解明しようとしているわけだ。それが究極になっていくと、この世界全体を捉えるところまで行くことになるだろう。そこでこの世界をAとしたら、それを存在させるBなのかもしくはA’なのかA⁺なのかわからないけれど、必ず対になる存在があるはずなんだよ。A⁺が存在すれば、必ずA⁻がある。あるものを理解するには、必ずそこから離れて、それに対抗する側から観る必要がある。マイナスから観るからプラスがわかり、プラスから観るからマイナスがわかるんだよ。
ということは、我々がこの世界を理解するためには、例えば今A⁺の世界にいるとしたら、A⁻に行ってみたらいいんだよ。ところが、そこへ行くための思考回路は、人間という物質性の思考を超えたものでなければならないんだよ。今我々が光を基軸とした世界にいるとしたら、その光すら超越しなければならない。今の世界を理解するのに思考を使っているとしたら、思考すら超越しなければならない。光の世界での最速のものは光だよね。でもあちらの世界に行くには、光を超えたものでなければならないんだよ。我々の存在は光が基軸だから、光を超えると消滅する。つまりどう考えても、向こうへは行けないんだよ。そうすると、この物理学の探求では、限界に突き当たってしまう。

現代の物理学はそこまで来ている。だからもう、どうしようもないんだよ。現象の世界だけをすべてとして、その中だけでこの世界を解釈しようとしている。しかしこの世界を理解するには、現在の物理的思考回路では解釈できないところへ行かなければならないのだけれど、物理学者や科学者はそれを超えた世界を認めないんだよ。
そこで、カタカムナに至って初めて、物理を超えた、物理が発生していない「ない」という世界の存在を知ることによって今の行き詰まりを突破できるのだから、カタカムナ理論をもって、次の世界が観えてくる。宇宙の本当の悟りに至るんだよ。エラいものに出会ったもんだなぁ。ここは世紀の学会だよ。大したことないメンバーだけどね(笑)。

本当は今日は蜂の点検をするんだから8時からやらなきゃいけないのに(みんな:笑)、もう9時になっちゃったよ。今日はありがたいことに雨が降っていて、ここの人たちもやることがないから「手伝うよ」と言ってくれて、でもたいして役に立たないから(みんな:笑)どうやって使おうかな~と考えていたらこんな時間を持つことになった。それでこのままずーっとしゃべっていたら、結局何もやらないで終わったりしてね。それでもいいんだよ。別に蜂は怒らないし。それでも生きていけるんだから、これでいいのよ。

でも、やろうね(^m^)

 
21世紀への大いなる実験

いさどん:
要は、すべてどうでもいいじゃんという世界が結論なんだけど、それでも今ふと気が付くと、生命が生きているという物質性の変化変容の躍動の中にあって、デレーッとしてたらいかんだろう。短く区切って現実を見たらね。そうやって今を生きて、瞬間瞬間をつないでいくんだよ。結論は求めない。ただ、行ってみた先にある結果をいただくだけ。
そういう飽和安定を持って今を生きている人たちがいたら、そこには危機感がない。不安もない。そうすると、どんな世界ができるか。その状態に至った人たちが「創る」ということはないんだよ。それは「いただく」だけの世界だよ。いただくだけのところに至った人たちが生み出す空気というのは、とても不可思議な世界だ。それは宇宙を生きるということ。それをロータスランドで表現しようと言っているんだけど、まだ至っていない。我々もまだ知らない。僕も行ってみないとわからないんだよ。だけどそれはきっと、めちゃくちゃおもしろい世界だろうね。それこそ、「あれ?ここはどこだろう?」という世界だ。

これは21世紀への大いなる実験だよ。人間がそこへ行けるのかどうなのか。でもいずれは行くよ。あと12900年もすれば光のピークへ行くんだから。かつてカタカムナ人たちが、宇宙のままに生きていたように。勉強しなきゃ、とか、成果を上げなきゃ、なんてことはなーんにもない。だって地球は、そこに存在するものすべてがネットワークの中で存在するように創られているんだから。
金星に行ったって、物理的には生きられないよ。金星は物理的には常に熱風が吹いていて、とても生命が生きられる場所じゃない。月は風も吹かず地殻変動もないから、アポロ11号のアームストロング船長の足跡がいまだに残っているだろう。あれから50年近く経つのに、まだ足跡が残っているんだよ。
地球なら、そんなことはない。常に変化変容し続けて、「この間草を刈ったばかりなのに、もう草だらけじゃん!」というくらい、いたるところに生命があふれている。これを当たり前だと思っちゃいけないよ。これは特別に創った世界なんだよ。だからおもしろいんだ!と、思えたらいいんだけどね。
実際、物理的にもそれが立証されているんだけど、それが当たり前であることに慣れ過ぎちゃって、新鮮味が感じられないんだよ。

太陽系の闇のピークと連動して、地球上に人口のピークが来ている。過去にこれほど爆発的に人間が増えたことはない。有史以降は記録があるから明らかだ。有史以前は記録がないが、どちらにしてもその頃の歴史はそう大したものではない。今は非常に複雑化していて、歴史に刻まれなければならないようなことがあちこちで起きている。北朝鮮は一生懸命水爆を作ってるしね。ピ――――ッと長い間一直線の横ばい状態で進んできた歴史が、産業革命以降に急上昇して一気にピークになった。そんなことが過去にあったかといえば、ないんだよ。

では、もっと視野を広げてみよう。これはもしかすると、過去に生命の大量絶滅がくり返し起きたのと同じように、生命の大変革の兆候かもしれない。そういう意味で言ったら、過去に同じようなピークというのはあったんだよ。今から6500万年前に恐竜は絶滅したけれど、あの時も一種の生命のピークだったんだよ。そこに隕石が落ちてきて、それまでの生物がリセットされた。それと同じことが、もしかすると今、起きているぞ。楽しみだろう?大量絶滅♪ (・∀・)

時々、朝にパッと目が覚めて、あ、NHKの7時のニュースを観よう、と思う時がある。この間もそんなふうに目が覚めてテレビを付けたら、孤立死の特集をやっていた。それを観てから、日本、ヨーロッパ、そして世界の人口推移について調べた。そして今は歴史上特別な状態であることが観えてきたわけだけど、そこで僕は「これはいかん」と思ったんだよ。今、うちには心のケアで滞在している人が4名いるけれど、彼らを自立させたら孤立死の道を歩ませることになってしまう。それで彼らを呼んで、時代を読み解くプレゼンテーションを行った。
NHKの特集からここまでのことが読み解ける。こういうことに気付くとおもしろいぞ~。それは番組からヒントを得たことだけど、その前にパッと目が覚めて「ニュースを観よう」と思うことも流れの中に在るんだよ。

ともこ:
ねぇ、「心の水爆」は、気付きの種だね?

いさどん:
フッフッフ。ちょっと表現が違うな。

ともこ:
じゃあそれを表現すると?

いさどん:
そうやって聞き出そうとするんだろ?話さないよ。(みんな:笑)すごくカンタンなことだよ。

 

 

────── いよいよ最終章「大町道中記④」へつづく!

 


大町道中記② 〜 心の水爆

車は無事に大町に到着!そして大町ビレッジメンバーのこうちゃん、くわっち、みほさん、きたじゅんとの夕食後、いさどんが語り始めました。


 
今起きていることが 宇宙の答え

いさどん:
9月1日から、チャンネルが切り替わった。でも切り替わったことを知らない人がほとんどだ。9月1日から、北朝鮮とアメリカの立場が逆転したんだよ。今は北朝鮮の方が優位に立っている。
アメリカがずっと優位のままでいると、北朝鮮は核兵器を使う可能性がある。でも北朝鮮優位なら核兵器は使わない。だから人類にとっては、北朝鮮優位の方がいい。おもしろいね。
アメリカは、これまで自分たちがやってきたのと同じことを北朝鮮がやり出したら、北朝鮮を「ならず者」だと言う。同じことをずっとやってきているのに。だから北朝鮮はあえてならず者の役割をしており、それは大きな役割ではあるけれど、つまらないね。幼稚だから。

うちにケアに来る人たちも、引きこもったり、精神病になったりして、今の社会の矛盾を表現している。それも役割だ。彼らのような状態の人なんて、戦時中にはいないよ。みんなもっと生きることに必死だから。今の彼らの状態は、時代の矛盾を表現している。でも、僕ならそんな役割はしないね。それはものが観えずにそこでしか使い物にならないから、その役割をしているんだよ。僕が「賢くなれ」と伝えても、愚かな自分に囚われている。評価されたいのに、評価されない方へ自分を貶めていく。自業自得なんだからそのマスターベーションをやめなさい、とわかりやすく伝えても、最後は「わからない」と言う。それでは救われないよ。それは「わからない」のではなく、拒否している状態。わかろうとすればわかるのに、「わからない」と言うのは、そういう自分であることを認めたくないんだよ。

すべてのことは、そういう事実が起きたんだということを受け入れるところから始まる。その事実は、実体でしょう?実体とは何かと言ったら、宇宙の答えだよ。すべては宇宙の法則の通りに動いているのだから、今起きていることはこれまでの自分の行いに対する答えであり、それを受け取ることは宇宙の意志を受け取るということなんだよ。

こうちゃん:
いさどんブログに奇跡や神通力のことが書いてあったけど、僕が思うのは、いさどんは現象化の人だということ。その視点から見ると、このコミュニティが今こうして存在していることも奇跡だし、カルマ読みも地球暦もカタカムナもすべて奇跡じゃない?すべてが神通力以外の何ものでもない。

いさどん:
神通力と言うと異常なことが起きるように思うかもしれないけど、そうではないんだよ。この世界で現象化すること自体が神通力なんだよ。Tくんが精神病もどきになることも、みんな神通力なんだよ。

ともこ:
今日ここに来る車の中で、人はいらない思考にエネルギーを使っているという話があった。自分の思考については、どれがいらない思考でどれが必要なのか、しっかり見ればわかると思ったけど、例えば大人ミーティングのような全体の場で、この話し合いはいらないとか見極めるのは難しい。その場にいると自分もその話し合いにのめり込んでいって、後で誰かから「あの話し合いは必要のない時間だったね」と客観的に言われて、初めて「そうか」と思うくらいで。

みほさん:
うんうん。

いさどん:
今「うんうん」と言ってるけど、その「うんうん」は理解できていないよ。

みほさん:
いや、今考えてて。とりあえず話を聞いちゃうなーって。

いさどん:
だから今の話が腑に落ちてないんだよ。そういうことをわからなければいけない。それは「うんうんもどき」なんだよ。つまり、わかったもどきということ。そこで「私はそういうことがさっぱりわからないんだ」と自分の実態を認識した時に、わかる人への道がスタートするんだよ。それなのに、ただ話の内容を聞くだけで終わりにしようとするから、自分がわからない人であるということを理解しないんだよ。それでは「わかったもどき」が続くだけで、いつまで経っても自分がわからない人であることを認識できないよ。
簡単だけど難しい話で、これはカラクリなんだよ。みんなそういうカラクリに引っかかっている。大事なのは、自分の状態がどういうものであるかを認めることだ。いい人でありたいなんて思っちゃいけない。そんなことはどうでもいいんだよ。実態がこういうものであると認めたくないところを、認めるということだ。認めた時に、自分はこういう人なんだ、だからどういう風になっていきたいのか、という訂正の道が始まるんだよ。

みほさん:
そうだね。

いさどん:
いや、本当に「そうだね」か?そこが怪しいところだ。

みほさん:
確かに。

いさどん:
「確かに」というのも怪しい。どこまで行っても怪しいんだよ。それで先ヘ進めば、ほらわかってなかったでしょうという現象にちゃんと出会うんだよ。

 
「異常な状態」を認識して生きていく

いさどん:
誰でもそうだけど、いい人生を生きようとして自分流に生きた結果、人生に行き詰っている。それは誰のせいなのかと言ったら自分のせいなんだよ。自分に対する想いが空回りして現状を作っている。それは自分が間違っているのだから、「自分は間違っているんだ」と気付いた時に初めて間違いを改める道がスタートするのだけれど、自分への思い入れが強く執着していると、いつまで経ってもそこから抜けられない。自己矛盾の最たるものだよ。自分で自分を苦しめながら、その自分のやり方で何とか楽になろうとしている。それが自分を辛くしているのだから、カラクリでしょう?すごくわかりやすい話だけど、難しいんだよ。何で難しいのかと言ったら、自分からの目線が強すぎて、外側から客観的に自分を観ることができないからさ。それが自我というやつで、自分がかわいくて仕方ないんだよ。

だけど人間が優れているのは、誰でも己を忘れて世のため人のために生きられる道があるということ。優れているとは、己を離れることができるということだよ。この世界の法則のままに存在するということだよ。それなのに、己に囚われることが自分を幸せにすると思っているんだから、すごい矛盾でしょう?そんな人間ばかりだから、宗教は「あなたの願いを叶えますよ」と人集めをするようになったんだよ。だけどそれは違う。必要なのは、「願いを叶えます」ではなく、「自分の実態がわかりますよ」ということ。「そうすると、呆れてその自分を捨てられますよ」ってね。そうすれば自由になれる。今の宗教がやっていることは逆さまなんだよ。

日本の人口推移を見ると、2008年が人口のピークになっている。ではどのあたりから増え始めたのかというと、1600年、つまり文明1600年周期の闇のピークなんだよ。
そこから徐々に増え始めて、明治維新以降、加速度的に増えた。明治維新というのは、日本の産業革命だよ。ヨーロッパを見てみても産業革命を機に一気に人口が増えている。世界も同じ。その前はほぼ横ばい状態だが、微妙に増え始めたのは6500年前の有史以降。それは紙が発明されて、人間の思考が平面的な二元思考 ――― 即ち良いか悪いか、勝つか負けるかといった二元的な価値観で生きるようになった頃だ。その頃から、三次元の人間は宇宙を忘れて、自分の損得で生きるようになった。
そして日本は2008年をピークに人口が減り出した。それは日本が世界の象徴だからで、世界の人口のピークは、2100年頃だと予測されている。112億ぐらいになって、そこから減り始める。そして学者は2100年のピークまでは想像しているが、そこから先のビジョンがない。つまり、有史以降の価値観は右肩上がりの発想しかなく、下がっていく価値観がわからないんだよ。そういう発想自体が、思考にない。
そこで僕はそれを想像した。長い間ほぼ横ばいできたものが、産業革命を機に急激に上がった。その後どうなるのかと言ったら、急激に落ちるんだよ。そしてその後は、また低い位置でほぼ横ばいとなるだろう。今我々は、まるで事故のように急激な人口増加のピークの時に生まれて、この世界のカラクリを知って、そして死んでいく。そこでこの時代をどう捉えるのかと言ったら、「すごい時に生まれてきたんだな~」ということだよ。そこに何か意志を感じない?

この異常な状態にいることを、視野が狭いとわからない。長い歴史からしたらほんの一瞬である自分の経験だけをもとに「今までこうだったんだからこれからもそれを維持して保っていこう」という浅はかな発想になる。視野を広げたら、今の状態が異常なんだとわかるはずだ。この状態は異常で、終わっていくものなんだとわかったら、その思考に囚われる必要はない。
そうしたら何も心配はない。今は異常な中にいるのだから、その異常を体験してるだけのことであって、それを大変だの辛いだのと言う必要はないんだよ。

今、太陽のメカニズムをコンパクトにして活用する技術が進んでいる。水爆も太陽のメカニズムだ。あれをコンパクトにしてロケットにくっつけて破壊するために使うというのだから、人間というのはおかしな生きものだ。視野を広げて過去から現在にかけて見渡してみても、そんな愚かなものはどこにもいない。逆に未来にも、そんなものはいない。いかに今が異常か。
それがわかったら、客観的にその状態を観て、「今自分は異常な中にいるんだな」と認識して生きていく。そうすると、例えば自分は社会に適応できないとか自立しなきゃとか悩んでいても、ああ自分は異常な時代を表現する役割をしているんだな、ということが観えてきて心が穏やかになる。そこであくせくしてどうにかしなければなんてことは必要ないんだよ。そうすると冷静になれるでしょ?冷静になれば、ものが観えてくるようになる。今は、異常な中にいて自分まで異常になって、自分を傷めつけているんだよ。傷めつけながら、まだその自分に執着している。
その自分をやめなさい。そうしたら、その苦痛から解放される。他人を見るのと同じように、すべてのものを見るのと同じように自分を見ればいい。ところが執着していると、自分の姿だけが見えない。その自分が唯一自分を貶めているのに。
お釈迦様の言う悟りの境地とはそこにあるんだよ。ところが宗教は全然違うところに行ってしまった。四苦八苦から解放されることが目的となり、「色即是空」というようにすべてが無いものと捉えたら人は何も苦しむことなく平穏な毎日を過ごせると説いているけれど、そんなものはおまじないだよ。無理やりつくったバーチャルな境地だ。

事実に基づいた思考回路を持たなければいけない。そして自らが自らを救済する。なぜなら、自らに対する加害者は自分自身なのだから。

これは極めて面白く、そしてやりがいのあることだよ。なぜなら現象化するからさ。宗教的救済では現象化しない。自らを救われる対象にしているから、いつまでもそのレベルにいて、結局救済されないんだよ。そうではなく、救う自分、もっと言えば、救う必要のない自分になるということだ。

 
心の水爆

ともこ:
今、答えを言ってくれたね?

いさどん:
何が?

ともこ:
さっき、「9月になったらあることがわかったんだ」って言ってたでしょ。でも具体的にどういうことなのかは教えてくれなかった。

いさどん:
最終的な結論はそうかもしれないけど、もっとコンパクトなことだよ。だから・・・超ミニの水爆みたいなものだよ。北朝鮮が作っているのは大量破壊する水爆だけど、僕が言っているのは超ミニの水爆。

くわっち:
自分の自我を爆破するってこと?

いさどん:
言わない。

みんな:
えー!!

いさどん:
薬で言うと、これをひとつ飲めばたちどころに効果が現れるというようなカプセルがあるとするでしょ?そんなようなものだよ。

ともこ:
ちょー気になる!!!

いさどん:
それはプロセスも何もいらないんだよ。だってそうじゃん。人間の思考回路を見てごらんよ。すべてにプロセスがあり、こういう原因があってこういう経緯でこの結果になって、というのが連続して、ずーっと物語を刻んでいるんだよ。それは宇宙の法であり、何かと言ったら因果の法則を立証しているわけだ。原因があってそれにふさわしい結果が起きて世界はこのようになってるんですよ、と。
ということは、現状が良くないものであるとしたら、そこから抜け出るにはどうしたらいいか。こうするとこうなるからああしてこうして・・・などと頭を回しても、それは今の結果を作ってきたのと同じ思考回路だから、結局同じ結果になるんだよ。そうではなく、この思考回路の物語をここで爆発させて、終わらせるということだ。
「わかったぞ!だからこうしよう」なんてことを繰り返していても、結局は同じことなんだよ。そこで爆発させると、物語が終焉を迎える。だから、これは言わば小型の水爆。霊的水爆だよ。

ともこ:
そんなものがあるの!?(✪ω✪)

いさどん:
いやいや。9月1日から、何かが変わった。それは宇宙的なものだ。現象としては、地球上ではダラダラとした状態が続いていて、明らかに何かがどうしたというものではない。しかし、確かに何かが切り替わった。
2012年の12月21日に銀河の冬至を越えて、次の時代が始まったでしょう。闇が増していくサイクルが終わり、光が増していくサイクルに入った。それと同じことが9月1日にあった。だから少し、言うことが変わった。
今、超能力や神通力の世界に入ってきている。超能力や神通力というと、普通の人にはできないようなものだと思われている。しかしそもそも、この世界のメカニズムを理解できている人というのはほとんどいない。ということは、それを理解していない人々ができないことをできるようになることは、超能力なんだよ。わからないことがわかるようになることは、超能力だ。
それをわかるということは、この世界の仕組み ─── 神が運営している仕組みに通じているということ。それが「神通力」だよ。

それをわかると、とんでもない奇跡が起きるようになる。それはどういうことかというと、太陽と地球の関係、銀河と地球の関係、そういったものすごく大きなスケールで、同じことを繰り返すことなく無限に、超緻密に運営している宇宙の仕組みが、人間の生きる世界に顕わされるということ。
そうすると、食べ物を食べる効率もずっとよくなるし、ものごとも阿吽になっていく。不要な打ち合わせはいらない。そこからが、水素爆弾の話だよ。

みんな:
へぇー!

いさどん:
ハイ終わり。

みんな:
え ────!!!Σ(゚д゚;)

いさどん:
この世界はフリーエネルギーだ。考えてごらん。空気があって、その大部分は窒素と酸素と炭素だ。それがこの世界を創っている。空(くう)が原料なんだよ。すごいでしょう?空から有が生まれてるんだよ。これこそフリーエネルギーだ。そしてそれが循環しているだけで、この世界は時代を刻んで、今こうしてここにいるんだよ。そうしたら、どうしてそんなにあくせくする必要がある?もっともっとと欲しがる必要がある?すでにここが宇宙であり、極めてわかりやすいフリーエネルギーの世界なのに、どうしてこんなに右肩上がりに偏らなければいけないのか。その偏りの反動で、今異常が起きているんだよ。

 
勘違いの最高傑作

いさどん:
有史以前は、この世界は天が創るものだった。しかし有史以降、人間の能力が創る世界になった。そして物語が紡がれていって、その結果として今がある。だから「有史」と言うんだよ。そこに歴史があるということであり、それは人間の歴史の記録なんだよ。
それ以前は、人間も天の支配の下にあった。しかし紙の発明と共に、「ニンゲン」は二元論になっていった。それが「ヒト」になると、「ヒ」から「ト」までの十元論というか、多次元になるんだよ。今は、二元論の人間がずーっと世界を創ってきて、そうすると結果的にこうなるんだよということを教えてもらっているだけなんだよ。
地球では、過去6億年の間に6回大量絶滅が起きている。このままいくと、人類は7回目の大量絶滅の引き金を引くかもしれない。実際に、2100年に112億人まで人口が増えて、その後に一気に減っていくわけだから、これは大量絶滅と言えるね。

みほさん:
今が異常な状態であることを知るのと、自分のアホさを知ることは一緒だと思った。

いさどん:
一緒だよ。異常な状態というのは、普通ではなくアホな状態なんだよ。そこでテンションが上がっちゃいけない。異常な状態をわかるためには、距離を置いて冷めた目で見ることだよ。そのためには自分に水をかけてやることが必要だ。それができないから、いつまで経っても自分目線のままでいる。だから、懲り懲りしなければいけないんだよ。同じことを繰り返すということは、天はこの仕組みを使って、人間を懲り懲りさせようとしているんだよ。いつまでその狭い自分に執着しているんだ、もっと広い自分がいるだろう、とね。

宇宙にはいろんな次元があり、一つひとつの現象にも無限の可能性がある。自分をフリーにしてやると、それがあふれ出てくるんだよ。地球は生命の海でしょう?ということは、生命の数だけその可能性が表現されているんだよ。火星や月へ行ってもワンパターンだけど、地球にはものすごく多様なパターンがあり、人間はその最たるものだ。そこには、70億通りの表現がある。

だから、行き詰まりの突破口も無限にあるよ。それを無限に利用できるかどうかは、美しい状態でなければできないよ。自分の想いややり方に囚われていたら、そこに染まってワンパターンを繰り返すだけだから。でもこの世界は、本当は無限なんだよ。

人間というのは、本当におもしろいものだよ。宇宙を創造して、銀河を創造して、太陽系を創造して、地球と太陽と月の関係を創造して、地球生態系を創造して、あり得ないような可能性の上に自分がいるんだよ。それなのに、このレベルの社会しか創れていない。そしてこのレベルの自覚しか持てていない。
我々はある意味、ものすごく貴重な生き物なんだよ。今の世界は、ここまで外すかというくらい外れた世界になっている。ここまでの世界を創れるとは、それはもう傑作だよ。神様にしてみたら、とびっきり変態を創ってみたいという衝動に駆られたんじゃないの。大いなる勘違いを一度創ってみたいなぁと。本当に、これは勘違いの最高傑作だよ。

ともこ:
でも同時に、大いなる勘違いだとちゃんと気付くような仕組みに、世界を創った。

いさどん:
そりゃそうだよ。そうでなければ、そのままいっちゃうでしょう?そうすると、「おいおい、私の範疇を超えていっちゃいけないよ、あくまでもこの世界は私の範疇なんだから」って神様は言うんだよ。
僕が今考えているのは、我々が所属する神様の範疇を超えた世界があるかどうか。

ともこ:
いさどん、昔神様にそのことを質問してたよね。

いさどん:
その時は「それを聞いてどうする?」という返事が返ってきた。僕はそういうことをついつい考えるんだよ。
必ず、あるんだよ。この世界は必ず一対だから、今我々がいる世界があるということは、必ずそれと対になる世界がある。そちらはどうなっているんだろうと考えたら、神様から「やめておけ。おまえのすべてはこの世界でできているのだから、そこと対になる世界を想像する要素を一切持っていないのに、考えてもわかるわけがない」と言われた。好奇心が膨らみすぎてそこまで行くと、不要な思考の最たるものになる。解釈できないものを解釈しようなどという不要なことはやめておけということだよ。それでも人間は欲が絡むと、それをわかりたいと言うのだから、恐ろしいね。

 
仏という存在は「道」 それを歩めるのが人間

いさどん:
あのね、面白い解説があるんだよ。神という存在と、仏という存在がある。「神」という存在は、この世界の実体。「あってあるもの、なきてなきもの」というように一対になっている、この世界の実体そのものを神と言うんだよ。ところが「仏」という存在は、道なんだよ。何も見えない愚かしいところから、どんどんどんどんこの世界の実体を知って、切り開いて、目覚めていく道のことを仏と言うんだよ。そして神の実体へと近付いていく。

そうすると、実体である神は、そこに在り続けるだけなんだよ。これってむなしいでしょう?神様の領域に在り続けることはむなしいんだよ。しかし、仏という状態は、愚かしいところから実体へと向かう道で、とても希望のあるものであり、それを歩めるのが人間なんだよ。人間は、愚かしいところから神までへも行ける幅の広いもので、神よりももっと豊かなもの ──── その可能性を秘めたものであり、それが「ヒ」から「ト」までを歩む「ヒト」なんだよ。

そういう解釈があるんだよ。そうすると、「人に生まれるってすっごいな ────!!!」と思わない?この宇宙のすべての存在には魂があり、その一つひとつの集合体がこの世界の実体となっている。その一つひとつの魂が、「自分はここだけしかわからない」「自分もここの部分しかわからない」「もっと全部をわかりたい!」と思った時に、人間となって、仏道を歩み始めるんだよ。だから人間に生まれてきたことはとても価値があるんだよ。そして「ヒト」の道を歩むんだ。カタカムナの単音の思念でひも解くと、「ホトケ」とは、気配でしかない実体のない見えないもの(ケ)が統合し(ト)、継続して保たれている状態(ホ)を言うんだよ。

おもしろい話でしょう?今、この場では何も生産しない。だけど心が、「ああ、そうだったのか~」と開けていく道のこと。

くわっち:
人間てすごいなぁ。

いさどん:
違う。人間がすごいんじゃない。

くわっち:
神様?

いさどん:
違う。そうじゃない。
この世界の実体には、いろいろな存在がある。では今の話を、そこにあるパソコンが語れるだろうか?そこのさつま芋の葉っぱが、外をうろうろしている熊が、空気が、語れるか?どれも語ることはできないよ。その仕組みを語れることがすごいんだ。そこに至ることがすごいことなんだよ。つまり、その「道」がすごいということだ。
僕は自分で「幸せ者だなぁ、これを語っているよ」と思う。そうするとあなたは、「幸せ者だなぁ、それを語っている場に出会って」ということでしょう?それよりも、自分がこれを語れる人になることだよ。そしてさらに語っていかなければいけない。

時代はもう、21世紀なのだから、20世紀までの「尊い」なんてどうでもいいんだよ。21世紀とは、20世紀がリセットされて3000年に向けてスタートしているのだから、これまでの価値観を全部捨てなければいけない。そうしないと、次の時代に通用する道は観えてこない。
その時に必要なのが、心の水爆だ。すべてを壊す。9月1日を境に、僕の中で「プツン!」と破裂したんだよ。

来年は大町の他にもさらに番外地ができる。福井でも、タイでも始まるよ。僕なんてそのことに対してまったく無力だよ。だってそうでしょう。現状では何もできることはない。だからいいんだよ(^皿^)
それは、僕の道じゃない。私の道ではなく、あなた(天)の道ですから、段取りをどうぞよろしく。そういう無責任でいいんだよ。植木等の「無責任男」だよ♪
どうなっていくのかわからないけれど、わからないのがいいんだよ。つまり、わからないということは想像できないことが起こるということ。そこに希望を見出せばいい。想像できることが起きて、それで安心なんて言っていたら、そんなつまらないことはないよ。想像できないことをポジティブに考えると、どっちみち想像できないことが起こるけれど、それはポジティブの延長線上に来るんだよ。

この世界はすべてがポジティブだからね。ということは、神様がポジティブなんだよ。その証拠に、ネガティブに見えることでも何でも、ポジティブに捉えられるようになっている。それをネガティブに捉えるのは人間の特徴だよ。

 

────── 「大町道中記③」へつづく!

 


大町道中記① 〜 フリーエネルギーで車は進む

いさどんの周りには、いつも楽しいことがいっぱい!
話しても話しても宇宙の叡智があふれ出てきて、尽きることがないのです。こんこんと湧き出す泉のような叡智は日常の曇りをサァーーーッと吹き払い、わからなかったこと、悩んでいたことが「そうだったのか~~!!」と理解に変わって、気が付けばあら不思議、身も心も軽くなって宇宙を旅しているみたい♪

ある日、いさどんは蜜蜂のお世話をしに、養蜂隊のちなっぴー、ともこと一緒に、2泊3日で大町ビレッジへ出かけました。さて、今日はどんな話が飛び出すかな?まずは、大町へ向かう車中の会話から ────


 
いさどん:
すごい爆弾があるんだよ。電磁パルス攻撃と言って、原爆や水爆のように地上近くで破裂するのではなく、宇宙空間で破裂させて、すべての電子機器が機能しないようにしてしまう。とても高いところで爆発するので、撃ち落とすこともできない。

ともこ:
えー!それってやばいじゃん。

ちなっぴー:
パソコンとかが使えなくなるってこと?

ともこ:
パソコンどころか電気、ガス、水道、ライフライン全部アウトだよね。通信も交通も何もかもダメになるから、現代社会は日常生活が成り立たなくなるんじゃないの?

いさどん:
元々はアメリカが研究していたものを、北朝鮮が知って研究し始めた。迎撃できないから対策のしようがないんだよ。そしてそういうものを開発している国というのは、政府や軍の指揮系統などだけは、その爆弾の影響を受けないようにしてあるから、仮に自国が攻撃されたとしても、やり返すことができるんだよ。

ともこ:
だけど指揮系統だけ残っても、その後の生活が成り立たないよね。

いさどん:
もし、北朝鮮がそんな武器を使ったら、北朝鮮を叩くことはできない。

ともこ:
テレビでは北朝鮮が問題だということばかりが言われていて、どうしてそこに至ったのかという話はまず出てこないね。

いさどん:
ずれておかしくなったところから問題を解決しようとしても、できるわけがない。例えば人間でも、今問題を抱えている人がいるとしたら、子どものころの親との関係とか、学校でいじめにあった時に自分はどういう性質をしていて相手はどういう性質だったのかとか、その出来事の始まりのところから見ていく必要があるし、もっと言えば生まれ持った性質のところからスタートしないといけない。それを、事が起きて現象を積み重ねて歪んでしまってから解決しようとしても、そこだけで解決できるわけがないんだよ。
(北朝鮮情勢の分析については「宇宙視点で北朝鮮について語る」をご覧ください♪)

民主主義には独裁はない。トップにも期限があるから、そういう意味では愚かしさが継続しないという面もあるね。だけど民主主義の問題点は、多数決を基本としていて、多数意見が正義になること。それではいけない場合がある。少数でも大事なことは大事だという時があるんだよ。それを見極められる力量がある民主主義でなくちゃね。でもそうすると今度は、自分に都合のいい意見を通すために「少数意見を認めろ」という者が出てくる。
ケア滞在中のRくんに、正直に生きていかないといい人生は生きられないよと言ったら、今度はわがままでもなんでも主張し始めた。そういうのを未熟という。子どもなんだよ。

ともこ:
とても難しいことだね。

いさどん:
なぁ。だから人にはそれだけの技量がないといけないんだよ。
もうひとつ、そこでは人間が自分に都合のいい思考を回して生きるのではなく、時代の流れとか、世の中を動かしている法則や流れを読みとかないといけない。それがいるんだ。広い視点と言っても、個人が個人を忘れて「国家のために生きます」と言うような精神状態に陥ったら、神風特攻隊になってしまう。その視点の意識レベルがどこにあるかによって、世の中でも、個人の人生でも、方向性はどのようにも変わっていく。

 
余計な思考をするな

いさどん:
Rくんは、自分が望むことをやろうとしても実現しない。(同じくケア滞在中の)Tくんは、それをさらに捻じ曲げて、実現できないことを不平として人にぶつけていく。うまくいかないことの原因を、自分の外に求めるんだよ。
だけどね、自分をチェックすることがすべてだよ。自分の問題点を面と向かって伝えられている間は「その通りだ」と納得しても、それは伝える側の組み立てに乗って聞いているから理解してるのであって、後で一人になると、また自分の組み立てで考え始めるから、わからなくなる。伝えられている間は「そうです」と言っていても、自分の思考で考え始めたら、被害者になる。自分こそが加害者で、人にも、自分自身にも迷惑をかけているのに。

そういったものの本質を理解できない人を引き受けて、真実を伝えていこうなんてことをしているんだから、僕は不幸な人生を歩んでいるもんだ。もっとも、そのことに対して何も思わないけどね。そういう負荷を受けても生きることができる人生を送っているというだけのことだから。なんの評価もいらない。だって、わからない人間が理解できるわけないから。

ともこ:
言われている間はそれに乗っかって聞いているから「そうだな、そうだな」と思っている。だけどそれを自分で考え出した時に自分の思考になっていくって、よくわかる。

いさどん:
だから自分に溺れないような精神構造を持たなければいけない。それが可能なのは、自分をもチェックできる人のことだ。

ともこ:
自分で自分を見ようとしても、実は全然振り返りになっていなくて、ただ自分ごとにはまっていくだけになる。

いさどん:
自分が汚れているという認識がないからね。目が曇っているものが何を見たって、たとえ一生懸命でも情熱があっても、曇っている状態でエネルギーを使っているわけだから、それは的が外れるよ。
Tくんは陰性男子の特性とでも言うのか、自分の評価と感情が優先した状態でものごとを思考しているから、どんな話を聞いても常に「自分だったら」と自分をかぶせてネガティブに解釈する。そうではなく、「自分だったら」はとりあえず置いておいて、まず「そういう捉え方があるんだ」と受け止める。いろんな捉え方があることを知った上で、その中の一つが自分だ、というように見ればいいのに、自分を絶対とする目線で他のものを見るから、「合わない」とか「否定された」という発想が生まれてくる。

みんな、余計なことばかり考えているんだよ。やるべきことは、自らの思考をよく振り返って、余計な思考をしない。するべき思考を取れ。考える容量というものがあるとしたら、その容量の中の大部分が必要な思考で回っている人もいれば、大部分が不要な思考の人もいる。その不要な思考をやめていくと、そこに使われていたエネルギーが、的を射た思考に使えるようになる。
ところが、不要な思考をやめると、まともな思考を考えたことがなければ、何を考えたらいいのか、何をやったらいいのかわからない、となる。(ケア滞在中の)Uくんは、例えば宮ノ下で草を刈っていて、一通り自分の周りをやったら「次はどこをやったらいいですか?」と聞いてくる。「見てみろ、周り中草だらけじゃないか、まだ草刈りが始まったばかりなのにどこをやったらいいですかもないもんだ」と言うと、今度は隣りの敷地まで入って草刈りをし出す。それでも彼は一生懸命なんだよ。

的を射た思考をしなさい。思考をシンプルにしていく。そうすると不要な行動をしなくなるから、少ないエネルギーでたくさんの成果が上がるようになる。さらに進んでいくと、その先は、思考や行動がこの宇宙の流れに沿っていくようになり、道理の通ったものとなるから、予想以上の成果が上がる。なんでこうなったの?というくらいにね。
さらに、思考を優先させず、直感が働くようになると、道理を超えて宇宙の法の下に現象が起きるようになるから、すべてに無駄のない、フリーエネルギーが表現された場所が生まれる。「あれ?ここはどこだろう?」というくらいの場が生まれる。それを僕はずっと考え、伝えてきたんだよ。

そういった世界が、この世界には実現可能なんだ。実現可能だけど、現実には毎日、ワイドショーで解説される北朝鮮情勢のような世界が続いている。

ともこ:
ワイドショーで語られていることって、不要な思考だね。

いさどん:
それはもう不要な思考だよ。でも人々の興味がそういうところにあるから、番組としてはウケるんだよ。真実を伝えることが目的ではなく、人々の興味をそそり、最終的にはお金儲けが目的だから。ジャーナリストや大学教授に元スポーツ選手までコメンテーターとして番組に登場するけれど、それはいかに多くの人の興味をそそるかが目的で、ものごとの本質を見出し、見る人の質を問うわけではないんだよ。
そういう意味で言うと、ロータスランドは人々にウケることを狙っているわけではなく、うちのコンセプトで作ったものを提供する場であり、我々の生き方の延長に表現されているから、筋は通っているね。

 
10いさどんのコミュニティ

(話しながら、いさどんは車を運転しているちなっぴーに対して、その運転が危険であることを伝える。)

いさどん:
僕はちなつに対して、繰り返し同じことを伝えている。そういう自分を変えなさい、と。例えばケアの人に対しても、ともこに対しても伝える。だけどみんなはやっぱり同じことをやる。
そうすると、僕は無理なことを伝えているのだろうか、と思う。つまり僕も、「いさどん流」を変えろと言われても変えることはできない。ということは、ちなつがちなつ流を変えられないことに対して僕は変えろと言っているのかもしれない。ともこがともこでなくなるようなことを言っている可能性があるんだよ。

(ここでまた、左カーブで左に車線変更をしようとしたちなっぴーに対していさどんは注意をする。)

僕は同時に二つも三つものことを考えている。今も話をしながら、ちなつに運転を任せているとでたらめな運転をするからサポートしている。
僕は繰り返し同じことをちなつに伝えているが、ちなつは聞かない。それはなぜかというと、本人が本当に真剣に、自分を改めるという気にならないから。「うんうん、わかった」と返事していること自体がちなつ流なんだよ。
そこで僕は考えた。ちなつがちなつでなくなることはないとしたら —————— それは重要なことだよね。いさどんがいさどんでなくなることもないわけだ。そうしたら、ちなつはちなつのように、いさどんはいさどんのように考える。僕は自分で自分のことを考えて、自身が誇れる人になろうと思う。ちなつはそんなことは考えてもいないから、まずは人から言われない人になるということだ。それはアホをやらない人ということ。
どうしたらそうなるのか。それには、ちなつという人間性を有効に使っていく。それをやりさえすればいい。僕はとても個性的でクセがあり、熱い人間でしょう?年がら年中このままでは、問題が起きるよ。みんながこういう風になっても問題は起きる。采配を振るう人間ばかりになってしまうから。それではまとまらない。

そこでだ。仮に、コミュニティの全員がいさどんだったとしよう。そうしたらどうなるか。10人のいさどんがいて、例えばいさどん1が役割としてリーダーシップをとったとする。すると、2から10までのいさどんはそれに従うんだよ。自分の中にあるリーダーシップを取ろうとする性質は収めて、今度はサポートする能力を発揮するようになる。そうやって常に自らの立ち位置をチェックしながら、役割を果たしていく。そういったことをわきまえているのが、「ヒフミヨイムナヤコト」と進むこの世界の構造である「ヒ」から「ト」までを理解した「ヒト」という存在だよ。
もしもいさどんが10人いたら、僕はきっとご飯も作るだろう。そうしたらとびっきり美味しいご飯を作るよ。同時に蜜蜂の世話をして「今日はこれだけの蜜が採れたよ」と報告するいさどんもいるだろうし、それを受けて「ご苦労様。じゃあしっかりそれを売るからね」と言ういさどんもいる。どの場でもいさどんが有効に働いて、全体がまわっていくんだよ。
だけどちなっぴーが10人いても、同じ人が10人いることになってしまい、コミュニティは成り立たない。

ともこ:
10ともこでもダメだね。

いさどん:
成り立たないよ。ところが、10いさどんなら成り立つ。僕に女性の体をくれたら、ちゃんと妊娠していい子育てをするよ。心配しなくて大丈夫ですよ、子育ては私に任せてください、ってね。依存はさせないけれど愛情不足にもしない。何でも来いだよ。

ともこ:
いさどん、蜂さんみたいだね。

いさどん:
蜜蜂は、例えば若い蜂がいなくなったら、本来若い蜂の役割であるローヤルゼリーを分泌して女王に与えることを、年を取った蜂がやるようになる。掃除も若い蜂の役割だけど、いなければ年を取った蜂が外に採蜜に行くのをやめて掃除をするようになる。なぜそんなことができるのかというと、蜜蜂たちは、個々の役割のために存在しているのではなく、その群れが継続していくために存在していることをわきまえているからなんだ。そういった全体のために自らの立ち位置をいつでも変えられる存在のことを、「成熟している者」と言うんだよ。
これだよ。だから、「ヒ」から「ト」までを理解した「ヒト」にならなければいけない。

ともこ:
今の10ともこだとコミュニティは成り立たないけど、そういう視点を持ったらできる気がする。

いさどん:
できるよ。それには、その仕組みの中に存在することを自覚し、自らを自由自在に活かすことだ。
のんのんは本当に頭を使わない。普通に話をしている分にはいいが、ちょっと考えなければいけないことを質問すると、もうフリーズしてしまって何も出てこない。「フリーズのんのん」だね。これはロータスランドの夏のメニューにいいね(笑)。

ともこ:
でもそれも、のんのんが自覚を持って全体視点を持ったら活かせるってことだよね。キャパや能力の違いはあるにしても。

いさどん:
活かせるよ。自覚をすればキャパは関係ない。自覚しないから、自分のクセ性分の範疇の分しか発揮できない。自分というものをいろんな場所で活かすことができるようになるためには、囚われがあってはいけないんだよ。女にもなりまっせ、男にもなりまっせ、リーダーシップもとりまっせ、でもついていく側にもなりまっせ、というように、「何にでもなれまっせ」となればいいんだよ。

ともこ:
持って生まれた個性があるから、向き不向きはあるよね。

いさどん:
向き不向きがあるからこそ、向いているところでは存分にその個性を発揮して、不向きのところでは意識してやっていくんだよ。つまり意識が必要なんだよ。自分はそれが苦手だからこそ、この場合はあえてこういう姿勢をとりましょう、と意識する。自分はこれが向いているからこれがいいんだ、ということでは、向いていないところでは使い物にならないということになる。
Tくんは、パン屋になるか、もしくはNPOに入って東南アジアの恵まれない人たちを支援する活動をしたいという。何を根拠にそう言っているのか。彼が将来のプランを語るのを聞いていると、どれをとっても関連性がなく現実味がない。彼は自分には向き不向きがあるから向いている方を活かすんだと言うけれど、それは向いている方を活かすのではなく、自分がやりたい願望を並べただけなんだよ。僕からすると、そのどれも向いていない。パン屋をやりたいと言うが、ではパン屋を経営するとしたらその資金となる融資を得るための信用がなければいけないし、社長としてのリーダーシップや経理のセンスや従業員をまとめる力も必要になる。それがあなたにあるのかと問うと、ありませんと言う。つまり何も考えていない。ただパンが好きだからパン屋になりたいというだけで、それが「向いている」ことだと思っている。
そこで僕が「それではダメだよ」と伝えると、「いさどんは僕を理解してくれない」と言う。理解しているからそう言ってるんだよ。まぁ、彼自身が彼のためを考えたら、いつかは理解する時が来るんだろうけどね。

 
誰とでも、最高のパートナーシップはできる

(いさどんはちなっぴーと交代し、車を運転しながら話し始めました。)

いさどん:
こうして話しながら、今僕は車を時速95kmで運転している。だけどこの場は、今誰かが運転をしているから気を付けなくちゃ、という感じがしないでしょう?ちなっぴーが運転していた時には「運転してますー!!」という空気が充満していたけれど、今はそういう感じがまったくない。ただ道路に沿って進んでいって、後ろについてくる車があれば左車線に入ってやり過ごす。流れに沿っているだけで、次に追い越し車線に入るタイミングが来ればそちらに入るけれど、安全になるまでは絶対に行かない。今は左車線もずっと前まで車がないから、車線変更する必要もない。運転に道理が通っているから、話に集中しながら、自動運転になっている。
ものすごく大事な話をする時は、ちょっと待って、運転を代わってもらうから、と普通ならなるけれど、僕はどうするかと言うと「運転よろしく」と天に投げて、あとは話に集中している。そうすると、時間があっという間に過ぎるんだよ。あれ!もう着いちゃった!って。僕の運転する意識はどこかへ飛んでいっているけれど、自動的に運転ができている。
今、右車線の前の方が詰まってきたでしょう?だからこの場合は右車線に入って、一緒に左車線の車を抜いていっても大丈夫なんだよ。そんなことも見ながら、話をしている。

ともこ:
ちなっぴーはちなっぴーで注意しながら運転してるでしょう?でも、いさどんがこれだけちなっぴーに伝えるということは、何かが足りないということだよね。

いさどん:
僕が「あなたは足りないよ」と伝えるとするでしょう。それを自らの身に付けていく気があるかどうかだけなんだよ。僕が足りないよと言うと、ちなっぴーは耳では聞くが、心ではまったく聞いていない。変える気がないんだよ。縁が深いし、養蜂には欠かせない重要な存在だから切り離さないけれど、ちなっぴーと一緒に仕事をすると僕はストレスが溜まる。だからいいパートナーではないんだよ。重要だけど、いいパートナーにはならない。ストレスの発生源でもある。そういうことが本人はわかっていない。
本当のパートナーシップというのは、ストレスが取れていくものさ。今日はこういうことがあって大変だったけれど、あなたのところへ戻ったらストレスが取れたよ、ありがとうね、という関係にならなければいけない。例えば僕とまりこの関係はそうだ。

ともこ:
いさどんとまりちゃんは三文字陽性同士で、もともと相性がいいわけじゃないよね?

いさどん:
三文字陽性同士だと、お互いに相手を自分の支配下に置こうとするからな。付き合ってもつまみ食い程度だね。
僕がまりこを修理した話、知らない?修理されて別人になったんだよ。縁が深いから、そこまでのことができた。

ともこ:
だけどまりちゃんの三文字陽性の性質が消えたわけじゃないよね?

いさどん:
だから、有効活用するんだよ。まりこが、最初はボケているから目を覚まさせた。そして、自分のためじゃない、人のために生きるんだ、それが価値だということを伝えた。ボケれば、何を目的にして生きているのか、人生の目的を失うぞ、と伝えてきた。もっと大きな志のために生きているんだぞ、と。まりこはそこに目覚めたから、もうボケることはない。インプットされたからね。

ともこ:
修理されると、三文字陽性同士だろうが何だろうが、どんな組み合わせでもやっていけるんだね。

いさどん:
どんな組み合わせでもやっていけるというより、どんな組み合わせでも最高のパートナーシップができる。それは人と人の関係だからだよ。それが高次の人だ。その行いは、すべて世のため人のため。自らのためは、無し。

 
自動運転で車は進む 会話も進む

いさどん:
なぁ。今大切な話をしているけれど、僕は同時に時速100km以上で運転してるんだよ。ちなっぴーは危なっかしくて仕方ない空気を発しながら必死になって運転していたけれど、僕はこうして運転を忘れたように話しながら、後ろから車が来れば左に寄って、同時に先を見て、左車線が詰まってきたら今度は右が開いているからスッと移動する。

ちなっぴー:
余裕でやってるね。

いさどん:
余裕というか、頭を使ってるんだよ。

ともこ:
いさどんは余分な思考に頭を使わない。

いさどん:
余計なことをしなければ、こういうことが可能になるんだよ。

ともこ:
何が余計で何が余計じゃないかは、自分で仕分けがつくね。

いさどん:
つくよ。その気になれば。でもチェックする気がない人にはいつまで経っても全然わからない。その気になるかならないかだ。
今、後ろに蜜蜂を積んでいる。今日は単箱だ。継ぎ箱で2段にも3段にも積んでいて幌がなければ隙間からびゅんびゅん隙間風が入るからいいけれど、単箱で蜂が多いと、蒸殺(じょうさつ)と言って巣内が暑く蒸れて、蜜蜂が溶けてしまう。だから蜂のことを考えたら、スピードも出してやらなきゃいけない。しかもこの車には幌もついているから、直接巣箱に風が入らないので、温度だけでも下げてやる必要がある。隙間風が入れば外の涼しい風が幌の中を回って温度が下がるが、窓を開ければうるさい。エアコンを入れるには寒いし、かと言って閉め切っていたら暑いから、とりあえずエアコンを弱めに入れよう、というように、僕は運転と同時に蜂や空調のことも考えている。

(窓の外の大豆畑を見ながら)あれは葉の色が濃すぎるね。大丈夫だろうか。機会があったら車を停めて花の付き具合を見てみたいね。花は付いても、実が付かないかもしれない。
(田んぼを見ながら)ここは上手だね。見てごらん、あれだけ実りながら稲が転んでいない。これは収量が多いぞ。反10俵はいける。(隣りの稲が倒伏した田んぼを見ながら)ここまでいっちゃうとダメなんだよ。さっきのところがギリギリのラインだ。そのギリギリのラインを「目指すぞー!!」と田んぼと会話するんだよ。養蜂と同じだよ。分蜂をさせないギリギリのラインで強い群を育てて採蜜するぞー!!ってね。すごくマニアックで、ある意味変態だけれど、変態にならなきゃいけないんだよ。その変態になった時に、喜びが湧いてくるんだよ。
田んぼを見ていると、それを作っている人の性質や技術力、熱心さが観えてくる。おもしろいね。あの大きなコンバインを見てごらん。ここの人はすごいやる気だよ。でも欲をかくと重くなって倒れるんだよ。ここは水を抜くのが遅れたんだね。根がゆるいからあちこち向いて倒れている。穂が大きくなって腰が弱くて倒れる場合は同じ方向にぺたーっと倒れるけれど、水抜きが遅くて倒れる場合は倒れる方向もまちまちだ。ここはきれいだね。うちの田んぼもきれいだけど、もうちょっと収量が欲しいね。ここは反8俵かな。もう少し危険にさらしてもいい。そのギリギリのラインをどう狙っていくか。それが極めるということだ。だから10いさどんのいさどん3に田んぼを任せてくれたら、ちゃんと育てるよ。今どれだけできるかというよりも、一つずつ経験を積みながらそこを目指していく。そしていさどん4は畑を耕す。

ちなっぴー:
いさどんがやる畑はきれいだよ。

いさどん:
例えばナスの支柱を立てる時に、ナスは支柱のてっぺんがきれいにそろって真っ直ぐなラインを描いているかどうかなんて求めていない。しかし大切なのは、誰がそれをやったか。自分がこれをやったんだという自負心を持つためには、ただナスが収穫できればいい、というものではないんだよ。
(窓の外を見ながら)ここの田んぼはいつも草だらけだったけど、今年はまともになってるね。

Yくんは、養蜂に手伝いに来るうちに蜂に興味を持ち出した。それで僕も、蜂の点検をしながら、ずーっと説明していく。それは何かと言うと、頭の中で展開していることをただ言葉にしているだけなんだよ。つまり、頭の中は常に回りつづけている。
今も車の運転をしながら、あそこの田んぼがどうだとか話し続けてるでしょう。これは何も特別に説明をしているわけじゃないんだよ。つまり、僕は黙っている時も常に頭が回っていて、休ませていない。だから一人でいても退屈しないよ。

ともこ:
さっきいさどんが、いくら自分で自分を見ようとしても、結局心をきれいにしていないから、曇った目で見るから見えないんだって言ったでしょう?

いさどん:
見れないというより、曇った判断になるから、結局それが災いになるんだよ。そうすると臆病になって、余計に考えるようになる。ああ、この田んぼはいいなあ。あれで実ったらそうとう採れるぞ。ああいう田んぼをうちの人にも作ってもらいたいね。人が惚れるような田んぼをね。小谷村の人がうちの蜂を見て、「こんな蜂見たことない」と言うんだよ。何でこんなに差があるのかと言うんだけど、それは飼う人に差があるんだよ。しかもその蜂は、一軍と二軍を採蜜に持って行った後に残った、三軍なんだよ。

こうして話しながら、小谷村の景色やその人たちと交わした会話が頭に浮かぶけれど、車は変わらず安定して走り続けている。
今は6時15分だね。あと15分から20分くらいで到着だよ。富士宮の中神倉庫から朝霧養蜂場まで30分、そこから2時間30分で合計3時間だから、いいペースで来てるよ。何も滞りはない。
暗くなってきたから、田んぼ評論家もできなくなってきたね。(窓の外の川を見ながら)僕は思うんだよ。この川は、昔は龍だったんだよ。だから武田信玄が、信州から甲斐の国にわたるまでを治める時に、治水をしたんだよ。だから支配することができた。この川はもともと暴れ川だったんだよ。その龍をおとなしくさせることが、国を治めることだったんだよ。だから武田信玄は優秀な領主だったんだろうね。
いつも思うんだよ。この川は暴れ川だったなぁ、と。だから大水が来るとこの辺もドバーッと洪水になって、米を作っても全部流される。その代わりよくできるんだよ。川が微量要素を運んでくれるから。肥料なんか入れなくてもいい。その代わり大水が来たら全部持っていかれるというリスクがある。川は、龍だから。生命力の顕れだから。命が運ばれてくるんだよ。

 
自分のキャパを超える状況に出会った時に、僕がすること

いさどん:
(窓の外に流れる風景を見ながら)すごいなぁ。このくらいの大豆畑を作りたいねぇ。あっ、これは芝生屋さんだよ。芝生を作って、30㎝角くらいに切り取って1枚いくらで売るんだよ。グリーンを作る時にはそれを敷きつめていくんだよ。この田んぼは大きいねぇ。福井へ行くともっと大きいよ。

ともこ:
(福井に里帰りした)まっちゃんがヒエだらけの田んぼの写真を送ってきたけど、あそこをヒエ取りするのは気が遠くなるね。

いさどん:
稲は倒伏しているしヒエはすごいし一体どうするという感じだね。僕だったら、そういう時にさてどうするかと考えるんだよ。今までにない状況に出会った時に、僕がすることは何か。

自分のキャパを超えるような状況に出会った時に僕がまず何を思うかというと、その状況の原因が自分にあるとしたら、まず自らの姿勢を振り返る。例えばそのヒエだらけの田んぼのような状況に出会うとしたら、あまりにも田んぼに対して幼稚な段階だよね。田んぼにはヒエをはやすものではないと認識していたら、そのような田んぼはそもそも作らない。
それでもまっちゃんのように、人の田んぼを預かってそれをやるということに出会ったら、まず、とりあえず最善を尽くしてやれることをやる。だけど場合によっては、その田んぼのヒエをすべて取ろうとすることを放棄する。それは無駄な労力だから。放棄して無駄な労力を使わない代わりに何を学ぶかといったら、こういうことを二度と起こさないための対策を考える。僕はやれることはやるけれど、脳の中の映像としては、来年のことを考えている。自分のキャパを超えるような状況であること自体、そこからモノにしようとしたって実際に無理なんだよ。
それが僕のやること。つまり、学んで次に活かす。その状態でも収穫はできるんだよ。ヒエをバラまけばいいんだから。ヒエは細かくてこぼれるから、ちゃんとお米は収穫できる。でもそれだと毎年ヒエはひどくなっていく。その結果があのヒエだらけの田んぼだよ。そのままだと来年はもっとひどくなる。そのうちに米も育たなくなる。そうしたらどうするかというと、ヒエも米も一度なしにして、例えば2、3年くらい、耕すだけで何も作らないとか、丘ものを作るとかして、それから米を作るとかね。
うちでは新しく田んぼを借りた時には、1年か2年は米を作らないで蓮華を作ったりする。大豆を作ればヒエは気にならない。麦でもヒエは気にならない。何年かそうやっていくうちにヒエの種はだんだん減っていくから、そうしたら米を作る。それだけのことだよ。

ともこ:
それって聞くと当たり前のことだけど、その当たり前のことをしていないから同じことを繰り返すんだね。

いさどん:
当たり前じゃん。何より、そんな無駄な労力使ってたら楽しくないじゃん。だから、楽しくやるためには無駄なことはやらない。それが僕の考えね。

(ここでちなっぴーが、大町ビレッジに電話をかけようとする。)

いさどん:
おい、電話しなくていいぞ。どうせ向こうに着くんだから。

ちなっぴー:
もうすぐ着くって伝えなくていい?

いさどん:
そんな必要ないだろう。びっくりさせてやった方がおもしろいじゃん。たわけだなぁ。どうせ着くことはわかってるんだから、連絡なしで家に入っていって荷物降ろして「おう、荷物降ろしといたぞ」って言った方がよっぽどおもしろいじゃん。もっとも、向こうもアンテナ張って待ちかまえとるから、そんなことにはならんだろうけどね。

 

あふれる叡智は止まらない!「大町道中記②」へつづく。

 


3000年に向けて新たな時代を生きる人々へ

2014年7月26日のマヤ新年の祭典

7月26日はマヤの新年です。3年前の2014年7月26日に、メキシコの太陽マヤ族最高司祭である尊母ナーキン氏が木の花ファミリーを訪れ、富士山を望む聖地・宮ノ下広場でマヤ新年を祝う祭典を行って以来、木の花ファミリーでは毎年この日に地球を祈りのウェーブで包む祭典を行ってきました。
2017年7月26日早朝、霧雨の降る中、宮ノ下広場にファミリーメンバーが集い、カタカムナのウタヒや舞を奏上した後、いさどんは次のように語りました。

 

3000年に向けて新たな時代を生きる人々へ

ー 人生の中で出会うことはすべて、私たちの生きた証 ー

 
今、この祭典に立ち会い、曇り空の下、ミストのような雨が降る中で、頭の中にある映像が浮かびました。それは、宇宙空間に浮かぶ地球の姿です。

地上に雨は降りますが、地球そのものに雨は降りません。それは、地球が宇宙空間にあるからです。今この場所には、天の配慮のような霧雨が降りそそいでいます。これは、私たちが地球に生きる証である、生命の水です。それを不愉快なものと捉えれば、不愉快な世界が地球上に展開されてゆくでしょう。しかし、命の潤いを与えられているのだと思えば、そしてそれを「いただきます」という心で浴びるならば、それはとても尊いものをいただいていることになります。その恵みがあるから、私たちは命を紡いで生きることができるのです。

今日は7月26日、マヤの新年です。なぜ私たちはこのような祭典をしてマヤの新年を祝うのかというと、そのようなことに出会う生き方をしてきたからです。それは、私たちが生きた証でもあるのです。

私たち人間は、生きている限り、この地球上で様々な出来事に出会います。人生の中で出会うことは、すべて私たちの生きた証であり、それまでの生き様にふさわしい結果として出会っているのです。今、世の中には、世界的な規模で解決策を見出せないようなたくさんの滞りがあり、それを何とか解決しようと世界のリーダーたちは模索していますが、その動きでは解決できないでしょう。なぜなら、どのような現象も、そこに生きる者たちのそれまでの生き様の結果として与えられたものですから、その現象を変えるには、それをもたらした人々の生き様を変える必要があるのです。その現象に出会った結果、それまでの自らの生き様がどのような結果をもたらすものであったのかを悟り、その生き様を変えていくことによって、自ずと、自動的に、その現象は存在する意味をなくし、消えていくのです。そこで、原因である生き様を変えずに、学びのない姿勢のまま、現象を追い求めていることを「欲」と言います。

この自然界、そして宇宙の法則は、すべて因果応報の仕組みで成り立っています。原因があって結果がある。そこでは、その原因にふさわしい現象が起きることが約束されているのです。こんなにありがたいことはありません。なぜなら、その者にふさわしい現象が顕れるからです。そして今、この場に立ち会う人々も、なぜここに集うのかというと、それにふさわしい生き方をしてきたからです。今皆さんは、どのくらいの意識を持って今日この場に集っているのか。その今の意識が、皆さん一人ひとりのこれから先の人生に形として顕れていくと同時に、社会を創っていくのです。それは当然のことなのです。

人類はそろそろ、そのことを知らなければなりません。出来事の表面だけを見て、それが不愉快だと言って解決しようとする時代は終わりました。これからどのような時代を生きていくのかは、その者が自らの人生をどのようにしようとしているのか、そこで何を望んでいるのかによって変わっていきます。つまり、生きることが自らの手の中にあるのです。これまで、なぜそれが人々の手の中になかったのかというと、自らの独りよがりで、この世界から与えられている命の仕組みを無視し、欲のままに生きてきたからです。

私たちが今日ここに集うのは、そういったことを理解した者として、自らの人生にそれを現象として顕わす自覚があるからです。そこには損得勘定や、より良い人生を生きたいというような願望はありません。ただひたすら、時代が要請するままに、宇宙が成り立っていくように生きる。そのことによって、この大きな節目の時にあたり、その先の時代を人々はどのように生きるかを明快に示すことができます。それを自覚した者として、皆さんはここに立っているはずです。

今、雨が降りそそいでいます。祭典の日はカラッと晴れるのが天の恵みなのかというと、それは人間の勝手な都合の思いであり、欲です。もしもずっとカラッと晴れ続けたら、私たちは生きていけないでしょう。今のこの恵みの雨は、そういったことを示しています。宇宙空間から見れば、これは地球の生命循環の作用です。こういった仕組みを私たちは生きていることの証として理解し、愉快なことも不愉快なこともすべてが命の仕組みの中にあることを理解する必要があります。そのことを理解した者たちは、自らにとって都合の良い心で生きることはありません。それが、宇宙の法のもとに、欲望を断ち切った美しい生き方をするということです。

毎年が特別な年であり、毎日が特別な日です。私たちは毎日毎瞬、未知の場所へと進み続けています。その中でも、今年2017年の7月26日は特別な日です。個人的に僕には「来る時が来た」という心境です。というのは、今この祭場の四隅に、樫の幼木が植えられています。つい先日植えたものですが、僕は何も意識していませんでした。ポットに種を播いて、春が来て、梅雨が来て、ある程度育った幼木がポットの中のままで夏を過ごすのは苦痛だろうなと思い、ではこれをどこに植えよう、と考えた時にふっと閃いたのが、この宮ノ下広場の祭場の四方に植えることでした。そしてここに植えることにより、この祭場の意味が完成したのです。

ヒマラヤ樫の幼木

この樫は、ヒマラヤ樫です。この名前は僕が付けました。というのは、3年前にヒマラヤのハルトラビレッジから招待を受けてそこを訪れた時に、何か記念になるものをと思いながら村を歩いていたら、樫の木がありました。そこにまだ熟していない青い実がなっていて、僕に「持って行きなさい」と言うのです。そして木の根元を見ると、その青い実が落ちていました。未熟ですが持って行けというものですから、いくつかを拾って持ってきました。そしてその実を播いたら、その中の4つだけが育ちました。そしてその4本の幼木を、この祭場の四隅に植えたのです。

物理的には何の根拠もありませんが、ヒマラヤは僕の魂のふるさとです。僕が今から1000年ほど前に地球に降り立った時に、最初に暮らした地です。そして3年前にインドの友人から招待を受けてヒマラヤを訪れ、ヒマラヤの山と対話してきました。「戻ってきたよ」と。それは自分のルーツを確認する旅でした。その証として、今は日本の富士山麓にいます。富士山は、地球上で最も霊的に高い山です。プレートとプレートがせめぎ合い、高い地球の波動を発する中心点にあるのが富士山です。それはもっともエネルギーが高いところであり、地震や噴火など天災が起きる場所ですが、それは命の再生が激しいというこというです。それは宇宙の実体を表しています。破壊と再生をくり返し、生きるということです。

命とは、常に変化・変容・変態をくり返し、循環し、巡り巡って、未知なる未来へ進んでいきます。私たちが、10年、20年、30年、40年と生きていく中で、同じところに立ち止まったことは一度もありません。赤ん坊としてこの世に誕生し、そこからずーっと人生を刻んできましたね。そのことを、どこかで忘れています。私たちは二度と同じところに存在することはできません。それは、命だからです。私たち人間だけではなく、地球もその旅をしていますし、宇宙全体もその旅をしています。私たちは、その命の物語を地球と共に、太陽と共に、銀河と共に刻んでいるのです。

さて、今の地球上の人々に、そういった意識が日々の中であるでしょうか。ないでしょう。ないから、意識が人間意識であり、自我に囚われ、感情や欲望のままに生きているのです。

すべての出来事は、そこに関わる人の意識がどのレベルにあるのかによってふさわしく出会うようになっています。これは宇宙の仕組みです。今の人間社会がなぜこのような状態なのかというと、日ごろの意識がそこにあるからです。そして、その意識にふさわしい現象が起きているのです。そう言うと罰を与えられているかのように聞こえるかもしれませんが、この仕組みの真実を知ると、「なんてありがたいのだろう」という想いが湧き上がってきます。それは、人生は自らの意識のままに、思いのままになるということです。すべての出来事は、そのことを教えてくれているのです。

3年前、僕の魂のふるさとであるヒマラヤから樫が来ました。富士山が、天から宇宙の法が降りてくる天教山なら、その教えが天教山を通って地球へと入り、マグマを経て再び地上へと吹き出す地教山がヒマラヤです。そのヒマラヤへの旅の前に、日本の地教山、即ち世界の高天原へ挨拶をするために、富士浅間木の花祭りの舞の奉納に行きました。その地が熊野です。前日は、930hPaの台風が直撃するという予報の中熊野へ向かい、一度も暴風雨に出会うことはありませんでした。そして早朝に熊野三山奥の院である玉置山の玉置神社へ辿り着いた時には、辺りはとても清浄な空気になっていました。無事に舞を奉納し、帰りに辺りを散策していた時に、神代杉に出会いました。そして「この種を持って帰れ」と言うのです。それを持って帰って播いて育ったのが、祭場の中央に植えられているこの木です。

これを植えた時に、木の花の神主であるひろっちに「200年後にあなたがここで祭典をする時には立派な熊野杉になっていますから、それを楽しみにしてください」と言いました(笑)。今は幼木ですが、その命は確実に、地球の高天原である熊野の神代杉から受け継がれ、ここに定着したのです。

熊野と言えば、国之常立神の地球の住まいです。その艮(東北)の方角には富士山があります。地球のへそと言われるインドから艮の方角を見ると、日本があります。日本という地には富士山という山があります。天の教えが富士山を通って地球の中へと入り、マグマを経てヒマラヤから地上へと吹き出し、それがガンガー(ガンジス河)を通って南へ流れ、インドの南端であるポンディシェリに辿り着いて、インド洋から世界へとその教えが広がりました。それは6500年の歴史です。そして今、その文明がこういった形で地球上に広がっています。2012年12月21日に銀河の冬至を迎え、その文明のリセットの時が来たのです。

私たちはその文明の次を生きる時に来ています。「私たち」とは、すべての人間のことです。幸いなことに、チバニアンの発見によって地球の磁場が逆転するということが立証されました。これまで何の根拠もなく磁場の逆転を語ってきましたが、それが立証される時代が来たのです。磁場が逆転するということは、ものの価値観が逆転するということです。

これまでは、命をないがしろにする時代でした。命を壊していくことによって、物理的な豊かさを求める時代でした。これからは、命の尊さに沿い、命をつなぎ、調和を表現していく時代です。私たちの命のもとは太陽です。それを現象化し、顕わすのは地球です。次のサイクルは、自らの自我によって命を壊し、欲望を満たして豊かになろうとするのではなく、命の法、即ち宇宙の法に則り、連携し、調和して、愛豊かに生きる時代が始まりました。これまでは、こんな簡単なことが、自らを自我で愛することによって、表現できない時代だったのです。 

まだまだ世界の人々は、欲望と競争と怒りと争いの中で豊かさを求めています。エネルギーとエネルギーをぶつけ合ってそれを消耗させて、豊かになるわけがないのです。地球生態系は、つながることによって豊かになっていきます。それは無限なのです。命は形を変えながら次へ次へとバトンをつなぎ、そこに破壊はありません。そして命のネットワークを築いて、より世界を豊かにしていくのです。それはまさしく、太陽と地球、惑星たちの関係そのものです。それによって私たち人間も生きているのです。

皆さんは、縁があって木の花ファミリーへやって来ました。特別な決意を持ってここに集っているのですが、毎日の生業に没頭してはいませんか。それでは、本当の豊かさは現象化しません。縁があって集い、生涯を通じて決意したことを毎日自らのベースとして意識しながら、日々与えられる出来事をいただいて生活していく。そうすると、天体が織りなす無限で持続可能なエネルギー、即ちフリーエネルギーが、生活の中に顕れてきます。人類はまだ、その豊かさを知りません。人々がすべてを分かち合い、自然と一体で、命はひとつであることを表現した時に、地球上に、今は想像もできないような豊かさが顕れてきます。それを私たちはこの地に顕わし、もうすぐそこまで来ている新たな時代の先駆けとして、その見本とならねばなりません。

2014年に、ここ宮ノ下広場で、太陽マヤ族の最高司祭である尊母ナーキン氏と共にマヤ新年10OCを祝いました。今日はメキシコのトニナ遺跡でマヤの祭典が行われています。今は午前6時40分です。2017年7月26日の早朝にあたり、地球を祈りのウェーブで包む儀式の始まりがここです。こんなふうに地球を常に意識して、私たちは地球人としての意識を持って宇宙を生きていく。そういった意識を持った人々の地球規模の祭典の始まりです。

もう一度、始めの話に戻ります。

日ごろどのような意識を持って生きるかによって、私たちは未来に出会う出来事の縁を紡いでいます。ですから、出会ったことに不満を持ってはいけません。それは忠実に、あなた自身が持っている意識を現象化してくれているのですから。それに不満を言うようでは、自らの姿を見ずして他者に文句を言っていることになります。出会ったことを潔く受け取り、自らの姿勢を正したならば、一人ひとりの人生はより豊かで、優れたものになるでしょう。我々はそれを自覚して生き、見本となるべき者として生きてきたのです。

僕は、多くの人にとって意味のわからないことをたくさん語ってきました。富士山という山を艮の方角にいただいて、地教山の樫の木と、地球の高天原の神代杉がこの地に根をおろしました。僕の語ることに、根拠はありません。地球上で磁場が逆転するということを語ってきたのも、そこに暮らす人間や生命の価値観が変わっていくよ、ということを語っていたのです。そこに根拠はありませんが、湧いてきたこと、降りてきたことは、真実です。

損得勘定を持って邪な思考で考えたことは、その人だけの思い上がりです。しかし本来私たちは、宇宙の法のもとに顕わされた生命なのです。自らの心が美しければ、宇宙の智恵が自然と降りてきます。自らの心が美しければ、生命の始まりから未来まで、無限なる智恵が自らの中から湧き出します。ですから、自らを磨かなければなりません。どうやって磨くのかというと、今自分が何を思って生きているのかということを、常に観ていくこと。そしてそれは誇れる意識かどうかということを、常に意識して生きること。そして毎日の役割を果たしていくのです。

そうすると、宇宙があなたの生き様に顕れます。地球生態系という、無限なる命の連鎖があなたの生き様に顕れます。それは愛ある、優れた、豊かな生活を私たちにもたらしてくれるでしょう。

長く話していたら、ミストのような雨がやみましたね。このミストは本当に、私たちの命をつくってくれている元の波動です。今日を機会に、思いが本当に現象化するのだということを、しっかりと認識してください。それは恐ろしい事でもあるのです。ろくでもない思いを持って生きれば、それが現象化するのですから。だからこそ、自らをしっかり監視すること。監視するべきは自らの心です。

2017年7月26日早朝。マヤの新年ではありません。地球意識の夜明けのセレモニーとして、ここにいる人々と共に、3000年に向けて新たな時代を生きる人々へのメッセージを確認しました。

宇宙は無限なる世界を、私たちに命として示してくれています。それを汚すことなく、忠実に表現していきたいものです。

 

2017年7月26日 ー 熊野の神代杉とともに

 

 


皆さん一人ひとりに、新しい自分自身をプレゼントします

2月19日、「1ヶ月間の真学校2017」がスタートしました。
「1ヶ月間の真学校」は、自分を変え、世界を変える1ヶ月間のプログラムです。開講にあたってのいさどんの挨拶をご紹介します。

IMG_2316

皆さん一人ひとりに
新しい自分自身をプレゼントします

— 1ヶ月間の真学校2017開講の挨拶 ―

最近僕は、自分はなぜこのような人生を生きているのだろう、と考えることがあります。それは自分の意志ではないと思っています。過去の歴史からつなげて今の時代を観てみると、世界は今、変革の時を迎えているということがわかるからです。

皆さんは、一人ひとりそれぞれの人格を持ち、それにふさわしい人生を生きています。そのふさわしい人生を、多くの人は、自分の意志で選んで生きてきたと思っています。
しかし、今の時代の社会を、自分で選んでつくることはできません。世の中が今こうなっているから自分はこういう人生を生きているのだ、というように人は捉えます。人によっては、自分の思うような人生が生きられなければ、自らを犠牲者のように捉える人もいます。時代を思うようにはできないということも、自分の人生は自分でつくってきたのだと思うことも、どちらも実は違うのではないか、と思うのです。
今、あえて「違うのではないか」と言ったのは、そのことを明快にするためにこの1ヶ月間の真学校があると考えるからです。

時代は、物語を刻んでいます。それを小さく区切って自らの目の前のことだけを見て、日常の中に思考が囚われていては、時代が物語を紡いでいることを理解することはできません。多くの人は時代に翻弄され、実際に水の中で溺れてはいなくとも、心は時代の波にのみ込まれています。自分自身の感情にすら翻弄されているのです。
ずっと昔、人間がもっと自然に近かった時代には、そのようなことはありませんでした。それは、自然から与えられた環境のままに人間が生きていたからです。人間はとても高い能力を持っていました。やがて火を使うようになり、道具を使うようになり、どんどん賢くなって、生きることに工夫をするようになりました。
そうすると、人間の中に「あれが欲しい」「これがしたい」という思いが湧くようになりました。そしてその思いがだんだん膨らみ、育っていきました。何のためにそれがしたいのかというと、自らの満足のためにしたいのです。それが自我の目覚めです。

自我とは、本能と同じものです。本能のままに自我はあります。しかし人間が他の動物や植物と違うのは、その自我がある意味欲望であり、感情であり、それぞれの精神性にふさわしく膨らませていくものであるということです。それが行きついたところが、現代の社会です。
1ヶ月間の真学校では、このことについてひも解いていきます。現代は人間の自我が極めて膨らみ、本来私たちは自然の生命でありながら、非自然の中に生きるようになりました。生命は自然の仕組みそのものですが、人間は自然とはかけ離れた欲望を持ち、自然とはかけ離れた環境を創り出し、生きるようになったのです。
その結果、「あれが欲しい」「これがしたい」という欲望もどんどん膨らみ、本来の自然の生命観からしたら不要な思いをたくさん持つようになりました。皆さんも、持っているでしょう?その不要な思いを持つことによって何が起きるのかというと、それは自然の中では矛盾ですから、本来自然の中にあるべき秩序を乱し、この世界に歪みをもたらし、人々がつくる社会にも不調和をもたらします。自然界では、動物の関係も植物の関係も自然の循環の中にあり、とてもスムーズです。ところが人間は、人間同士の間ですら関係が難しくなりました。さらに、自らの思いが自然から離れることで、自らの体にまで矛盾を発生させるようになりました。それを病気といいます。

現代の人々はそのような分析はしません。病気が蔓延していることや、世界にまだ戦争があることなど、自然にはありえない現象が人間の世界にたくさん存在していることを、当たり前に思っているのです。そしてそれが在ることを前提に、対処しています。ですから、なぜそれが起きているのかを根本的に考えるということをしないのです。
根本的に考えるとは、もっと大きな枠でその現象を捉えるということです。しかし人々は、まずそれがあることを前提にして見ていますから、その目線では決してその根本的原因を理解することができず、問題の解決を図ることはできません。

今回1ヶ月間の真学校に参加された皆さんは、参加の理由はそれぞれにあることでしょう。しかし、共通して言えることがあります。
皆さんは、この時代にこういったものごとの捉え方を得る機会に出会いました。この時代だからこそ、この視点が必要なのです。それを得ると、皆さんの人生は確実に変わります。
どう変わるのかというと、生きるということに対する解釈が変わっていきます。1ヶ月間が経てば、確実に変わります。ただし、そのことに対する一人ひとりのニーズの内容はそれぞれでしょう。今の暮らしを安定した人生にすることを求めている人もいれば、新たな人生を歩みたいという人もいます。ニーズはそれぞれですが、確かなことは、今この時を生きる人々にとって、こういった学びが必要とされているということです。

今、世界中でたくさんの矛盾がピークを迎えています。その矛盾を理解し、新たな時代へと移行していく時に、その先端を行く者はごく少数から始まります。やがてそれは全体へと伝播していきますが、今はまだ、世の中全体は混乱の中にあり、多くの人々は次に進むべき新たな世界を見出せずにいます。そして矛盾が発生し続けています。皆さんは、このことを理解し、これからの時代のために、世の中のために生きていってくれる人たちだと思うのです。

そこで、では自分は世の中のために何ができるだろうと考えます。簡単なことです。自分一人を変えれば、自分一人分世の中が変わります。あなたがご機嫌で、幸せで、理に適った生き方をすれば、あなた一人分世の中を良くするのです。
今、時代は大きな切り替えの時に来ています。その変化が連鎖していく種になるということは、あなた自身が変化の波の先端に立ち、これから後に続いてくるであろう人々の見本にもなるということです。

実は、皆さんへの講座で使うプレゼンテーションを今用意しているのですが、その半分ほどは、もしかするとちんぷんかんぷんかもしれません。その、よくわからないものを皆さんにプレゼントしようとしています。「これを聞いてもきっと理解できないだろうな」と思いながら、プレゼンテーションを準備しています。
それはなぜかというと、もしも皆さんがわかることを得るとしたら、皆さんはきっと納得することでしょう。しかしそれでは、あなたの心は満足するかもしれませんが、あなたが変わることにはならないのです。
多くの人は、自分が納得できるものだけを得ようとします。しかし納得できるということは、それは自分の理解の範囲内のものだけを得るということですから、そこに進化はありません。時代は常に進化し続けているのですから、今の考えのままでい続ければいつかは必ずそこに矛盾が発生し、行き詰まるようになっています。ですから、皆さんのために、「きっとこれは理解できないだろうな」と思いながらプレゼンテーションを用意しています。

新たなものに出会うということは、「そういう捉え方があるのか!」と、これまでの自分の枠を突破することになります。ですから、皆さん一人ひとりにできる限り寄り添いながら、理解できるようにお話ししていきますが、わからなくてもいいんですよ。なぜなら、わからない話に出会っている、というだけで、すでにあなたは、今までのあなたの枠を外し、新しい世界にいるからです。
そうでしょう?自分がわからないところへ積極的に行こうとするなんて、普通はしませんね。そこにいるというだけで、新たなものを得ようとする姿勢があるということなのです。それは、進化しようとする姿勢の証です。

木の花ファミリーには、毎晩夕食後に「子どもミーティング」というものがあります。通常は、その日にあった出来事などを子どもたちが話し、それに対して大人たちがコメントをするなどしてやり取りをする場です。
そこに時々、いさどんが登場することがあります。いさどんはできるだけ子どもたちにもわかるように話しますが、それは世界観が広く、小学生以下の子どもたちには難しい話です。中学生以上でも難しいかもしれません。できるだけ理解できるように話すものの、本来そういった世界観を、子どもたちはまだ持ってはいないのです。
ではなぜそんな話をするのかというと、わからなくてもいいのです。つまり、子ども達はそこで言葉を聞いているのではありません。いさどんという人が、何か大切な話をしている。それを大人たちが熱心に聞いている。言葉も難しくてわからないけれど、何か大切なことを言う人がいて、それを大切に受け取っている人たちがいるという、その空気を感じているのです。
そうすると、意味がわからなくても、子どもたちは「自分のわからないことで大切なことがあるんだ」ということをしっかりと受け止めていきます。ですから日常の中でちょっとそういった話に出会うと、子どもたちはパッとそれを受け取り、いつの間にか大人よりも立派なことを言うようになるのです。大人は頭で学習しますが、子どもたちの言葉は内からにじみ出てきたものですから、本物です。

これから1ヶ月間、きっとわからないだろうというような話を、皆さんに伝わるように、精一杯やっていきます。皆さんも、わからなくても付き合ってみてください。そうすると、1週間経ち、2週間経ち、3週間経ち、1ヶ月が経つと、皆さんはきっと変わっています。
これから、とても充実した1ヶ月間を皆さんにプレゼントします。皆さんも、自分の頭の中で先に何かを予測するのではなく、すべてを白紙にしてお付き合いください。そうすれば、皆さん一人ひとりに、新しい自分自身をプレゼントすることができるだろうと思っています。

1ヶ月間、よろしくお願いします!

IMG_2680
自分を変え、世界を変える1ヶ月間の始まりです