3000年に向けて新たな時代を生きる人々へ

2014年7月26日のマヤ新年の祭典

7月26日はマヤの新年です。3年前の2014年7月26日に、メキシコの太陽マヤ族最高司祭である尊母ナーキン氏が木の花ファミリーを訪れ、富士山を望む聖地・宮ノ下広場でマヤ新年を祝う祭典を行って以来、木の花ファミリーでは毎年この日に地球を祈りのウェーブで包む祭典を行ってきました。
2017年7月26日早朝、霧雨の降る中、宮ノ下広場にファミリーメンバーが集い、カタカムナのウタヒや舞を奏上した後、いさどんは次のように語りました。

 

3000年に向けて新たな時代を生きる人々へ

ー 人生の中で出会うことはすべて、私たちの生きた証 ー

 
今、この祭典に立ち会い、曇り空の下、ミストのような雨が降る中で、頭の中にある映像が浮かびました。それは、宇宙空間に浮かぶ地球の姿です。

地上に雨は降りますが、地球そのものに雨は降りません。それは、地球が宇宙空間にあるからです。今この場所には、天の配慮のような霧雨が降りそそいでいます。これは、私たちが地球に生きる証である、生命の水です。それを不愉快なものと捉えれば、不愉快な世界が地球上に展開されてゆくでしょう。しかし、命の潤いを与えられているのだと思えば、そしてそれを「いただきます」という心で浴びるならば、それはとても尊いものをいただいていることになります。その恵みがあるから、私たちは命を紡いで生きることができるのです。

今日は7月26日、マヤの新年です。なぜ私たちはこのような祭典をしてマヤの新年を祝うのかというと、そのようなことに出会う生き方をしてきたからです。それは、私たちが生きた証でもあるのです。

私たち人間は、生きている限り、この地球上で様々な出来事に出会います。人生の中で出会うことは、すべて私たちの生きた証であり、それまでの生き様にふさわしい結果として出会っているのです。今、世の中には、世界的な規模で解決策を見出せないようなたくさんの滞りがあり、それを何とか解決しようと世界のリーダーたちは模索していますが、その動きでは解決できないでしょう。なぜなら、どのような現象も、そこに生きる者たちのそれまでの生き様の結果として与えられたものですから、その現象を変えるには、それをもたらした人々の生き様を変える必要があるのです。その現象に出会った結果、それまでの自らの生き様がどのような結果をもたらすものであったのかを悟り、その生き様を変えていくことによって、自ずと、自動的に、その現象は存在する意味をなくし、消えていくのです。そこで、原因である生き様を変えずに、学びのない姿勢のまま、現象を追い求めていることを「欲」と言います。

この自然界、そして宇宙の法則は、すべて因果応報の仕組みで成り立っています。原因があって結果がある。そこでは、その原因にふさわしい現象が起きることが約束されているのです。こんなにありがたいことはありません。なぜなら、その者にふさわしい現象が顕れるからです。そして今、この場に立ち会う人々も、なぜここに集うのかというと、それにふさわしい生き方をしてきたからです。今皆さんは、どのくらいの意識を持って今日この場に集っているのか。その今の意識が、皆さん一人ひとりのこれから先の人生に形として顕れていくと同時に、社会を創っていくのです。それは当然のことなのです。

人類はそろそろ、そのことを知らなければなりません。出来事の表面だけを見て、それが不愉快だと言って解決しようとする時代は終わりました。これからどのような時代を生きていくのかは、その者が自らの人生をどのようにしようとしているのか、そこで何を望んでいるのかによって変わっていきます。つまり、生きることが自らの手の中にあるのです。これまで、なぜそれが人々の手の中になかったのかというと、自らの独りよがりで、この世界から与えられている命の仕組みを無視し、欲のままに生きてきたからです。

私たちが今日ここに集うのは、そういったことを理解した者として、自らの人生にそれを現象として顕わす自覚があるからです。そこには損得勘定や、より良い人生を生きたいというような願望はありません。ただひたすら、時代が要請するままに、宇宙が成り立っていくように生きる。そのことによって、この大きな節目の時にあたり、その先の時代を人々はどのように生きるかを明快に示すことができます。それを自覚した者として、皆さんはここに立っているはずです。

今、雨が降りそそいでいます。祭典の日はカラッと晴れるのが天の恵みなのかというと、それは人間の勝手な都合の思いであり、欲です。もしもずっとカラッと晴れ続けたら、私たちは生きていけないでしょう。今のこの恵みの雨は、そういったことを示しています。宇宙空間から見れば、これは地球の生命循環の作用です。こういった仕組みを私たちは生きていることの証として理解し、愉快なことも不愉快なこともすべてが命の仕組みの中にあることを理解する必要があります。そのことを理解した者たちは、自らにとって都合の良い心で生きることはありません。それが、宇宙の法のもとに、欲望を断ち切った美しい生き方をするということです。

毎年が特別な年であり、毎日が特別な日です。私たちは毎日毎瞬、未知の場所へと進み続けています。その中でも、今年2017年の7月26日は特別な日です。個人的に僕には「来る時が来た」という心境です。というのは、今この祭場の四隅に、樫の幼木が植えられています。つい先日植えたものですが、僕は何も意識していませんでした。ポットに種を播いて、春が来て、梅雨が来て、ある程度育った幼木がポットの中のままで夏を過ごすのは苦痛だろうなと思い、ではこれをどこに植えよう、と考えた時にふっと閃いたのが、この宮ノ下広場の祭場の四方に植えることでした。そしてここに植えることにより、この祭場の意味が完成したのです。

ヒマラヤ樫の幼木

この樫は、ヒマラヤ樫です。この名前は僕が付けました。というのは、3年前にヒマラヤのハルトラビレッジから招待を受けてそこを訪れた時に、何か記念になるものをと思いながら村を歩いていたら、樫の木がありました。そこにまだ熟していない青い実がなっていて、僕に「持って行きなさい」と言うのです。そして木の根元を見ると、その青い実が落ちていました。未熟ですが持って行けというものですから、いくつかを拾って持ってきました。そしてその実を播いたら、その中の4つだけが育ちました。そしてその4本の幼木を、この祭場の四隅に植えたのです。

物理的には何の根拠もありませんが、ヒマラヤは僕の魂のふるさとです。僕が今から1000年ほど前に地球に降り立った時に、最初に暮らした地です。そして3年前にインドの友人から招待を受けてヒマラヤを訪れ、ヒマラヤの山と対話してきました。「戻ってきたよ」と。それは自分のルーツを確認する旅でした。その証として、今は日本の富士山麓にいます。富士山は、地球上で最も霊的に高い山です。プレートとプレートがせめぎ合い、高い地球の波動を発する中心点にあるのが富士山です。それはもっともエネルギーが高いところであり、地震や噴火など天災が起きる場所ですが、それは命の再生が激しいというこというです。それは宇宙の実体を表しています。破壊と再生をくり返し、生きるということです。

命とは、常に変化・変容・変態をくり返し、循環し、巡り巡って、未知なる未来へ進んでいきます。私たちが、10年、20年、30年、40年と生きていく中で、同じところに立ち止まったことは一度もありません。赤ん坊としてこの世に誕生し、そこからずーっと人生を刻んできましたね。そのことを、どこかで忘れています。私たちは二度と同じところに存在することはできません。それは、命だからです。私たち人間だけではなく、地球もその旅をしていますし、宇宙全体もその旅をしています。私たちは、その命の物語を地球と共に、太陽と共に、銀河と共に刻んでいるのです。

さて、今の地球上の人々に、そういった意識が日々の中であるでしょうか。ないでしょう。ないから、意識が人間意識であり、自我に囚われ、感情や欲望のままに生きているのです。

すべての出来事は、そこに関わる人の意識がどのレベルにあるのかによってふさわしく出会うようになっています。これは宇宙の仕組みです。今の人間社会がなぜこのような状態なのかというと、日ごろの意識がそこにあるからです。そして、その意識にふさわしい現象が起きているのです。そう言うと罰を与えられているかのように聞こえるかもしれませんが、この仕組みの真実を知ると、「なんてありがたいのだろう」という想いが湧き上がってきます。それは、人生は自らの意識のままに、思いのままになるということです。すべての出来事は、そのことを教えてくれているのです。

3年前、僕の魂のふるさとであるヒマラヤから樫が来ました。富士山が、天から宇宙の法が降りてくる天教山なら、その教えが天教山を通って地球へと入り、マグマを経て再び地上へと吹き出す地教山がヒマラヤです。そのヒマラヤへの旅の前に、日本の地教山、即ち世界の高天原へ挨拶をするために、富士浅間木の花祭りの舞の奉納に行きました。その地が熊野です。前日は、930hPaの台風が直撃するという予報の中熊野へ向かい、一度も暴風雨に出会うことはありませんでした。そして早朝に熊野三山奥の院である玉置山の玉置神社へ辿り着いた時には、辺りはとても清浄な空気になっていました。無事に舞を奉納し、帰りに辺りを散策していた時に、神代杉に出会いました。そして「この種を持って帰れ」と言うのです。それを持って帰って播いて育ったのが、祭場の中央に植えられているこの木です。

これを植えた時に、木の花の神主であるひろっちに「200年後にあなたがここで祭典をする時には立派な熊野杉になっていますから、それを楽しみにしてください」と言いました(笑)。今は幼木ですが、その命は確実に、地球の高天原である熊野の神代杉から受け継がれ、ここに定着したのです。

熊野と言えば、国之常立神の地球の住まいです。その艮(東北)の方角には富士山があります。地球のへそと言われるインドから艮の方角を見ると、日本があります。日本という地には富士山という山があります。天の教えが富士山を通って地球の中へと入り、マグマを経てヒマラヤから地上へと吹き出し、それがガンガー(ガンジス河)を通って南へ流れ、インドの南端であるポンディシェリに辿り着いて、インド洋から世界へとその教えが広がりました。それは6500年の歴史です。そして今、その文明がこういった形で地球上に広がっています。2012年12月21日に銀河の冬至を迎え、その文明のリセットの時が来たのです。

私たちはその文明の次を生きる時に来ています。「私たち」とは、すべての人間のことです。幸いなことに、チバニアンの発見によって地球の磁場が逆転するということが立証されました。これまで何の根拠もなく磁場の逆転を語ってきましたが、それが立証される時代が来たのです。磁場が逆転するということは、ものの価値観が逆転するということです。

これまでは、命をないがしろにする時代でした。命を壊していくことによって、物理的な豊かさを求める時代でした。これからは、命の尊さに沿い、命をつなぎ、調和を表現していく時代です。私たちの命のもとは太陽です。それを現象化し、顕わすのは地球です。次のサイクルは、自らの自我によって命を壊し、欲望を満たして豊かになろうとするのではなく、命の法、即ち宇宙の法に則り、連携し、調和して、愛豊かに生きる時代が始まりました。これまでは、こんな簡単なことが、自らを自我で愛することによって、表現できない時代だったのです。 

まだまだ世界の人々は、欲望と競争と怒りと争いの中で豊かさを求めています。エネルギーとエネルギーをぶつけ合ってそれを消耗させて、豊かになるわけがないのです。地球生態系は、つながることによって豊かになっていきます。それは無限なのです。命は形を変えながら次へ次へとバトンをつなぎ、そこに破壊はありません。そして命のネットワークを築いて、より世界を豊かにしていくのです。それはまさしく、太陽と地球、惑星たちの関係そのものです。それによって私たち人間も生きているのです。

皆さんは、縁があって木の花ファミリーへやって来ました。特別な決意を持ってここに集っているのですが、毎日の生業に没頭してはいませんか。それでは、本当の豊かさは現象化しません。縁があって集い、生涯を通じて決意したことを毎日自らのベースとして意識しながら、日々与えられる出来事をいただいて生活していく。そうすると、天体が織りなす無限で持続可能なエネルギー、即ちフリーエネルギーが、生活の中に顕れてきます。人類はまだ、その豊かさを知りません。人々がすべてを分かち合い、自然と一体で、命はひとつであることを表現した時に、地球上に、今は想像もできないような豊かさが顕れてきます。それを私たちはこの地に顕わし、もうすぐそこまで来ている新たな時代の先駆けとして、その見本とならねばなりません。

2014年に、ここ宮ノ下広場で、太陽マヤ族の最高司祭である尊母ナーキン氏と共にマヤ新年10OCを祝いました。今日はメキシコのトニナ遺跡でマヤの祭典が行われています。今は午前6時40分です。2017年7月26日の早朝にあたり、地球を祈りのウェーブで包む儀式の始まりがここです。こんなふうに地球を常に意識して、私たちは地球人としての意識を持って宇宙を生きていく。そういった意識を持った人々の地球規模の祭典の始まりです。

もう一度、始めの話に戻ります。

日ごろどのような意識を持って生きるかによって、私たちは未来に出会う出来事の縁を紡いでいます。ですから、出会ったことに不満を持ってはいけません。それは忠実に、あなた自身が持っている意識を現象化してくれているのですから。それに不満を言うようでは、自らの姿を見ずして他者に文句を言っていることになります。出会ったことを潔く受け取り、自らの姿勢を正したならば、一人ひとりの人生はより豊かで、優れたものになるでしょう。我々はそれを自覚して生き、見本となるべき者として生きてきたのです。

僕は、多くの人にとって意味のわからないことをたくさん語ってきました。富士山という山を艮の方角にいただいて、地教山の樫の木と、地球の高天原の神代杉がこの地に根をおろしました。僕の語ることに、根拠はありません。地球上で磁場が逆転するということを語ってきたのも、そこに暮らす人間や生命の価値観が変わっていくよ、ということを語っていたのです。そこに根拠はありませんが、湧いてきたこと、降りてきたことは、真実です。

損得勘定を持って邪な思考で考えたことは、その人だけの思い上がりです。しかし本来私たちは、宇宙の法のもとに顕わされた生命なのです。自らの心が美しければ、宇宙の智恵が自然と降りてきます。自らの心が美しければ、生命の始まりから未来まで、無限なる智恵が自らの中から湧き出します。ですから、自らを磨かなければなりません。どうやって磨くのかというと、今自分が何を思って生きているのかということを、常に観ていくこと。そしてそれは誇れる意識かどうかということを、常に意識して生きること。そして毎日の役割を果たしていくのです。

そうすると、宇宙があなたの生き様に顕れます。地球生態系という、無限なる命の連鎖があなたの生き様に顕れます。それは愛ある、優れた、豊かな生活を私たちにもたらしてくれるでしょう。

長く話していたら、ミストのような雨がやみましたね。このミストは本当に、私たちの命をつくってくれている元の波動です。今日を機会に、思いが本当に現象化するのだということを、しっかりと認識してください。それは恐ろしい事でもあるのです。ろくでもない思いを持って生きれば、それが現象化するのですから。だからこそ、自らをしっかり監視すること。監視するべきは自らの心です。

2017年7月26日早朝。マヤの新年ではありません。地球意識の夜明けのセレモニーとして、ここにいる人々と共に、3000年に向けて新たな時代を生きる人々へのメッセージを確認しました。

宇宙は無限なる世界を、私たちに命として示してくれています。それを汚すことなく、忠実に表現していきたいものです。

 

2017年7月26日 ー 熊野の神代杉とともに

 

 


皆さん一人ひとりに、新しい自分自身をプレゼントします

2月19日、「1ヶ月間の真学校2017」がスタートしました。
「1ヶ月間の真学校」は、自分を変え、世界を変える1ヶ月間のプログラムです。開講にあたってのいさどんの挨拶をご紹介します。

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皆さん一人ひとりに
新しい自分自身をプレゼントします

— 1ヶ月間の真学校2017開講の挨拶 ―

最近僕は、自分はなぜこのような人生を生きているのだろう、と考えることがあります。それは自分の意志ではないと思っています。過去の歴史からつなげて今の時代を観てみると、世界は今、変革の時を迎えているということがわかるからです。

皆さんは、一人ひとりそれぞれの人格を持ち、それにふさわしい人生を生きています。そのふさわしい人生を、多くの人は、自分の意志で選んで生きてきたと思っています。
しかし、今の時代の社会を、自分で選んでつくることはできません。世の中が今こうなっているから自分はこういう人生を生きているのだ、というように人は捉えます。人によっては、自分の思うような人生が生きられなければ、自らを犠牲者のように捉える人もいます。時代を思うようにはできないということも、自分の人生は自分でつくってきたのだと思うことも、どちらも実は違うのではないか、と思うのです。
今、あえて「違うのではないか」と言ったのは、そのことを明快にするためにこの1ヶ月間の真学校があると考えるからです。

時代は、物語を刻んでいます。それを小さく区切って自らの目の前のことだけを見て、日常の中に思考が囚われていては、時代が物語を紡いでいることを理解することはできません。多くの人は時代に翻弄され、実際に水の中で溺れてはいなくとも、心は時代の波にのみ込まれています。自分自身の感情にすら翻弄されているのです。
ずっと昔、人間がもっと自然に近かった時代には、そのようなことはありませんでした。それは、自然から与えられた環境のままに人間が生きていたからです。人間はとても高い能力を持っていました。やがて火を使うようになり、道具を使うようになり、どんどん賢くなって、生きることに工夫をするようになりました。
そうすると、人間の中に「あれが欲しい」「これがしたい」という思いが湧くようになりました。そしてその思いがだんだん膨らみ、育っていきました。何のためにそれがしたいのかというと、自らの満足のためにしたいのです。それが自我の目覚めです。

自我とは、本能と同じものです。本能のままに自我はあります。しかし人間が他の動物や植物と違うのは、その自我がある意味欲望であり、感情であり、それぞれの精神性にふさわしく膨らませていくものであるということです。それが行きついたところが、現代の社会です。
1ヶ月間の真学校では、このことについてひも解いていきます。現代は人間の自我が極めて膨らみ、本来私たちは自然の生命でありながら、非自然の中に生きるようになりました。生命は自然の仕組みそのものですが、人間は自然とはかけ離れた欲望を持ち、自然とはかけ離れた環境を創り出し、生きるようになったのです。
その結果、「あれが欲しい」「これがしたい」という欲望もどんどん膨らみ、本来の自然の生命観からしたら不要な思いをたくさん持つようになりました。皆さんも、持っているでしょう?その不要な思いを持つことによって何が起きるのかというと、それは自然の中では矛盾ですから、本来自然の中にあるべき秩序を乱し、この世界に歪みをもたらし、人々がつくる社会にも不調和をもたらします。自然界では、動物の関係も植物の関係も自然の循環の中にあり、とてもスムーズです。ところが人間は、人間同士の間ですら関係が難しくなりました。さらに、自らの思いが自然から離れることで、自らの体にまで矛盾を発生させるようになりました。それを病気といいます。

現代の人々はそのような分析はしません。病気が蔓延していることや、世界にまだ戦争があることなど、自然にはありえない現象が人間の世界にたくさん存在していることを、当たり前に思っているのです。そしてそれが在ることを前提に、対処しています。ですから、なぜそれが起きているのかを根本的に考えるということをしないのです。
根本的に考えるとは、もっと大きな枠でその現象を捉えるということです。しかし人々は、まずそれがあることを前提にして見ていますから、その目線では決してその根本的原因を理解することができず、問題の解決を図ることはできません。

今回1ヶ月間の真学校に参加された皆さんは、参加の理由はそれぞれにあることでしょう。しかし、共通して言えることがあります。
皆さんは、この時代にこういったものごとの捉え方を得る機会に出会いました。この時代だからこそ、この視点が必要なのです。それを得ると、皆さんの人生は確実に変わります。
どう変わるのかというと、生きるということに対する解釈が変わっていきます。1ヶ月間が経てば、確実に変わります。ただし、そのことに対する一人ひとりのニーズの内容はそれぞれでしょう。今の暮らしを安定した人生にすることを求めている人もいれば、新たな人生を歩みたいという人もいます。ニーズはそれぞれですが、確かなことは、今この時を生きる人々にとって、こういった学びが必要とされているということです。

今、世界中でたくさんの矛盾がピークを迎えています。その矛盾を理解し、新たな時代へと移行していく時に、その先端を行く者はごく少数から始まります。やがてそれは全体へと伝播していきますが、今はまだ、世の中全体は混乱の中にあり、多くの人々は次に進むべき新たな世界を見出せずにいます。そして矛盾が発生し続けています。皆さんは、このことを理解し、これからの時代のために、世の中のために生きていってくれる人たちだと思うのです。

そこで、では自分は世の中のために何ができるだろうと考えます。簡単なことです。自分一人を変えれば、自分一人分世の中が変わります。あなたがご機嫌で、幸せで、理に適った生き方をすれば、あなた一人分世の中を良くするのです。
今、時代は大きな切り替えの時に来ています。その変化が連鎖していく種になるということは、あなた自身が変化の波の先端に立ち、これから後に続いてくるであろう人々の見本にもなるということです。

実は、皆さんへの講座で使うプレゼンテーションを今用意しているのですが、その半分ほどは、もしかするとちんぷんかんぷんかもしれません。その、よくわからないものを皆さんにプレゼントしようとしています。「これを聞いてもきっと理解できないだろうな」と思いながら、プレゼンテーションを準備しています。
それはなぜかというと、もしも皆さんがわかることを得るとしたら、皆さんはきっと納得することでしょう。しかしそれでは、あなたの心は満足するかもしれませんが、あなたが変わることにはならないのです。
多くの人は、自分が納得できるものだけを得ようとします。しかし納得できるということは、それは自分の理解の範囲内のものだけを得るということですから、そこに進化はありません。時代は常に進化し続けているのですから、今の考えのままでい続ければいつかは必ずそこに矛盾が発生し、行き詰まるようになっています。ですから、皆さんのために、「きっとこれは理解できないだろうな」と思いながらプレゼンテーションを用意しています。

新たなものに出会うということは、「そういう捉え方があるのか!」と、これまでの自分の枠を突破することになります。ですから、皆さん一人ひとりにできる限り寄り添いながら、理解できるようにお話ししていきますが、わからなくてもいいんですよ。なぜなら、わからない話に出会っている、というだけで、すでにあなたは、今までのあなたの枠を外し、新しい世界にいるからです。
そうでしょう?自分がわからないところへ積極的に行こうとするなんて、普通はしませんね。そこにいるというだけで、新たなものを得ようとする姿勢があるということなのです。それは、進化しようとする姿勢の証です。

木の花ファミリーには、毎晩夕食後に「子どもミーティング」というものがあります。通常は、その日にあった出来事などを子どもたちが話し、それに対して大人たちがコメントをするなどしてやり取りをする場です。
そこに時々、いさどんが登場することがあります。いさどんはできるだけ子どもたちにもわかるように話しますが、それは世界観が広く、小学生以下の子どもたちには難しい話です。中学生以上でも難しいかもしれません。できるだけ理解できるように話すものの、本来そういった世界観を、子どもたちはまだ持ってはいないのです。
ではなぜそんな話をするのかというと、わからなくてもいいのです。つまり、子ども達はそこで言葉を聞いているのではありません。いさどんという人が、何か大切な話をしている。それを大人たちが熱心に聞いている。言葉も難しくてわからないけれど、何か大切なことを言う人がいて、それを大切に受け取っている人たちがいるという、その空気を感じているのです。
そうすると、意味がわからなくても、子どもたちは「自分のわからないことで大切なことがあるんだ」ということをしっかりと受け止めていきます。ですから日常の中でちょっとそういった話に出会うと、子どもたちはパッとそれを受け取り、いつの間にか大人よりも立派なことを言うようになるのです。大人は頭で学習しますが、子どもたちの言葉は内からにじみ出てきたものですから、本物です。

これから1ヶ月間、きっとわからないだろうというような話を、皆さんに伝わるように、精一杯やっていきます。皆さんも、わからなくても付き合ってみてください。そうすると、1週間経ち、2週間経ち、3週間経ち、1ヶ月が経つと、皆さんはきっと変わっています。
これから、とても充実した1ヶ月間を皆さんにプレゼントします。皆さんも、自分の頭の中で先に何かを予測するのではなく、すべてを白紙にしてお付き合いください。そうすれば、皆さん一人ひとりに、新しい自分自身をプレゼントすることができるだろうと思っています。

1ヶ月間、よろしくお願いします!

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自分を変え、世界を変える1ヶ月間の始まりです

 


毎日が「マツリ」

3月21日、異次元空間カフェ「ロータスランド」がオープンします。

ロータスランド完成イメージ
ロータスランド完成イメージ

建築やメニュー・商品開発などが同時進行で進む中、テラスの上の壁に「富士山麓の四季」をテーマにした壁画を描くプロジェクトもスタートしました。
そして昨日の早朝、ふと目を覚ましたいさどんがこんな話を語り始めました。

いさどん:
ロータスランドのオープンに向けて、今、みんなで一丸となってひとつのことをやっている。一丸となってひとつのことを越えていくというのは、たくさんの心がそこに共鳴しあって、人に希望を与えることだ。
その中で、誰か一人でも自我にまみれていては、そのような場はできない。自我を忘れて、みんなが渦になる。カタカムナで言えば、「マワリテメクル」ということ。それは地球の動きだ。地球は自転し、公転し、歳差運動をし、微振動をしながら進んでいる。これは、古くから日本人の中にある、「マツリ」の精神だ。

今、我々は生活の中でマツリを表現している。そこでただ物理的なことを目指していると、何か特定の目的があって、それを達成するためにみんなでひとつになろうという世界になる。そこでも、自我があっては調和的な世界を創ることはできない。
今日、1ヶ月間の真学校の講座で使うカタカムナのプレゼンテーションをチェックしながら、改めてカタカムナの精神について振り返っていた。カタカムナの精神とは、マツリの精神だ。マツリの精神とは、命の仕組みの精神であり、宇宙の天体の成り立ちを言う。
そのことについて思考を巡らせていたら、北朝鮮の金正男氏が暗殺されたことが思い浮かんだ。そしてトランプ政権のフリン補佐官が更迭されたことが思い浮かんだ。世界中で争いやいがみ合いが起きている。人間のご都合主義の世界が、今の世の中に蔓延している。

ここで表現しようとしているのは、それとは別の世界だ。これをカタカムナ精神と言っていいものかどうかはわからないが、ここの生活にはカタカムナが浸透している。つまり、カタカムナを学ぶのではなく、カタカムナを語り、カタカムナを生きているということだ。魂のこもった生き方とは、そのようなことを言うのだろう。それをやっていかなければならない。いくら知識を学んで語ったところで、それが生活の中で現象化しなければ、生きることに反映されないのだから。
これからそれをやっていこうということではなく、我々は今、現実にそれをやっている。そしてその現象化したものを、1ヶ月間の真学校で伝えていく。それはとても難しいことだ。カタカムナの講座は6時間あるが、たったの6時間でどこまで伝えられるだろうか。ほとんどは理解できないだろう。なぜなら、まず価値観が違うからだ。価値観は違うが、縁があって出会った人々にそれを伝えることは、大変ではあるが希望のあることでもある。

例えばカタカムナ理論というように特定の用語を作って固定してしまうと、数ある理論の中のひとつのように思えるが、これは宇宙に遍満している法則そのものだ。
宇宙は、動いている。我々は毎日を認識し、時が過ぎていくが、これは巨大なエネルギーがうねっている「マワリテメクル」の世界だ。その中の一環としてこの仕組みがあるということを理解すると、すべてのところにその法則が遍満していることが観えてくる。それを意識しながら生きていくことが大切だ。
この理論が体得できるようになると、自我は消え、この世界を構成するものとして、大いなる生命としての役割を果たしながら、宇宙の実体のままに生きていくことになる。現代の人々は大いなるものから離れ、自我にまみれていがみ合っているが、そういったことがすべて帳消しになってしまう世界が、いがみ合いの奥にいつでもちゃんと控えているのだ。
それを語っていくことは、物理的な現状の地球を見ていると不可能なように思えるかもしれないが、ここではその存在を知って、語り出した。いずれ必ず、人間たちがそれを理解する時が来る。既に扉は開き、その動きは始まっているのだと思うと、やはりテンションは上がる。それこそ病魔に侵されて死にかかった者が生きることの本当の意味を知って「死んでなんかいられない」となるように、僕も、夜中だけど寝てなんかいられないよというテンションになった。まあ、語ったらまた寝るけどね(笑)。しかし何か、この今のときめきを語っておかなければいけない、と思った。

今日、来月上演する木の花劇団の劇の読み合わせをやった。この劇は、ガンになって死の瀬戸際まで行ったきょうこちゃんの体験を元にして、彼女自身が脚本を書いている。そこに出てくる自分のセリフを読み上げながら、あれはセリフではなく、日常会話の中から出てきた言葉だから、本番でもアドリブを交えて、そのまま生でやれたらいいと思った。最後にみんなが泣くシーンがあるが、あの涙はいいね。その場で本物の涙を流しながら、やりたいね。

(ここでひとみちゃんが、ロータスランドの壁画の下絵を持って部屋に入ってきました。)

いさどん:
何をしていたの?

ひとみ:
壁画の下絵を描いてた。

いさどん:
テラスの上の壁画を描くのに、足場に手すりをつけないのはどうしてだか、わかる?

テラスの上の壁に壁画を描くひとみちゃん
テラスの上の壁に壁画を描くひとみちゃん

ひとみ:
落ちるように?(笑)

いさどん:
あなたは、足場が壁に近すぎて、全体を見ながら描くことができないと言う。それはわかる。だから池の方に向かってデッキの端まで足場を作り、壁から離れて見られるようにするが、それは面倒なことであり、できればなくていけたらいい仕事だ。
人は自分の頭の中に構想を持っていて、それを物理的に現す時に、大きな絵なら離れて全体を見ようとする。その遠くから全体を見る目を、例えば他の誰かが補うとか、足場の下に降りて離れて見るということもできる。あなたが「近いから見にくい」と言うと、みんなはすぐにそれを解決してあげようとする。それは悪いことではないが、それよりも、そういったことを含めて、あなたの神がかり的な能力を発揮してやってもらいたい。

ひとみ:
大丈夫だよ。降りたり上がったりしながら描いてるから。

いさどん:
降りたり上がったりしながら、あなたのシャーマン的精神を呼び覚ましてもらいたい。あなたには、きっとできる。

(ここで、ひとみちゃんが持って帰ってきた絵を広げて見ました。いさどんの助言を受けて、絵には新たに太陽と月が描き加えられていました。)

ああ、いいね!月をもう少し上に上げて、月と太陽が斜め45度の角度に並ぶようにしよう。太陽はもう少し富士山の右肩に隠れて、半分だけ顔を出して、これからもう半分が出るよ、という感じになるといい。鶴と亀はどこに描くの?亀が空を飛んでいてもいいね。ルールは破ればいい。写実画を求めているわけではないのだから。(しばらくアドバイスをした後、しみじみと絵を眺めながら)いいね。テーマは、やはり花だよ。花がなければいけない。
あなたが一人でこれを描いているという気がしない。これは協同作業だ。一緒にやろう。時間のことは気にせずにやっていけばいい。そうすれば、必要なことは必要なように、事が成っていくから。これは仏像をつくるのと同じで、そこにあるものが描かれていくのだから、自分でやってやろうだなんて思わないことだよ。「これはこうだな」「これは少し違うな」と、あるものを探りあてていく、手探りのような作業だ。完成形があるわけではなく、そこに関わっていくと自然と成っていく。
あなたがあそこで絵を描いている姿は、絵になるよ。そこを通りがかる人は「何をしているんだろう?」と思い、進捗状況を気にするようになるだろう。こんなふうに、お金持ちがお金を払って誰かに絵を描いてもらうのではなく、生活の中ににじみ出る余裕から、そこに表現されていく。それは、生活そのものがマツリだからこそできることだ。

「祭」という字は「サイ」とも読む。「何々祭」というと、それは日常の生活から離れた儀式の場で使う用語になる。そこには天と地があり、地が天を崇めて祭典をするという「サ」=差のある状態だ。「サイ」は「マツリ」とは違い、まだマツリに至らない段階の儀式に用いられる。
それが「マツリ」になると、「マ」は宇宙空間であり、生命が躍動する特定の場、宇宙の法則が表現される場所のことであり、「ツ」は集い、「リ」は離れるということ。自我から離れた者たちが集い、宇宙の法則のままに生命が躍動する。それがマツリだ。そのような無我の境地で、美しく、日々を舞い踊るように生きたいものだ。

 

 


 

春、ファミリ

新しいお店がオープンします

 

異次元空間カフェ ロータスランド
2017年3月21日(火) OPEN

地球と共に季節巡りを感じがら
時がもたらす旬に出会うお店です。

日届いたとれたてお野菜、
会話中でふっと湧くインスピレーション、
そこから生まれるそ場だけスペシャルお料理。

天然ちみつ、一点限り手作り服、
陶芸や機織り、とびっきりスイーツ。

誰かが歌を歌っていたり、宇宙話が飛び出したり、
いったいここどこだろう?と
不思議だけどどこか懐かしい
そこにいるだけでわくわくする異次元空間カフェ
「ロータスランド」始まります。

 

cafe&shop
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ロータスランドと色とりどりが咲き乱れる桃源郷ことです

〒419-0302 静岡県富士宮市猫沢239-9
ファミリ「おひさまハウスひまわり」より徒歩1分!

午前8時から午後7時まで営業
(カフェラストオーダー午後6時)
毎週曜日定休

お問い合わせファミリーへどうぞ!
電話:0544-66-0250

3月21日(火)から5月2日(火)までプレオープン期間とります。ぜひお越しいただき、5月3日グランドオープンに向けて皆さまご意見やご感想をどうぞお聞かせください。スタッフ一同、心よりお待ちしております!

 


こんなふうに、年を取ればいいんだよ

 ー 2017年立春正月祭でのいさどんの挨拶 ー

立春正月、明けましておめでとうございます。

私たちは毎年この時期に節分を迎え、その翌日に立春を迎えます。立冬から始まり、冬至を経て寒さを増してきた冬の季節が終わり、ここから春が始まります。冬の間にじっとエネルギーを蓄えていた植物たちも、いよいよ芽吹きの準備を始めます。
1月28日に、富士浅間木の花祭りが開催されました。冬の間に蓄えてきたエネルギーを爆発させるのが、この祭りの意味です。内に秘めたるものは、外に見えているものよりも大きなことがあるでしょう。そのような準備の期間を終え、立春を迎えて、いよいよ内なるものを現象として現す時がやってきました。

立春は農の始まりです。農に生きる者とは、農業をやっている人だけではありません。すべての生命は、自然から命を頂いています。人間は田畑を耕しながら、清浄な空気と水、心地よい風、そして太陽の光を恵みとして頂いて生きています。それは自然の成り立ちであり、命の仕組みです。立春正月祭が進行していく中でそのようなことを感じていたら、ふと、昔の人はどうだったのだろうという思いが浮かびました。

もうじき、梅の花が咲きますね。春が来れば、動物たちは冬眠から目覚め、子どもを産み、育てながら、夏へと向かっていきます。生きることが季節と共にあるのです。
今年の立春は去年の立春と同じようにやってきましたが、実は一つサイクルが先へ進んでいます。つまり、去年とは違う新たな春を迎えたのです。それは命が成長している、進化していくということです。子ども達は、学年が一つ上がりますね。大人も一つ歳をとります。そして成長していく。ですから、去年と今年は違うのです。昨日と今日も違います。新たな成長を迎え、命は常に、地球と共に進化しているのです。
そういったことを意識しながら、昔の人は生きていたのでしょう。地球に四季の巡りがあるのは、地球が他の星々と対話をしながら、宇宙の中を動いているからです。つまり星と星との関係が、季節となって現れているのです。昔は天文学のような難しい解釈はなかったかもしれませんが、人々は自然と対話しながら日々を生きていました。

農に生きる者は、まず土と対話します。土は私たちに健全な作物を命としてもたらしてくれるものです。そして、天の気と対話します。天の気とは天候のことです。恵みの雨が降るだろうか。日照りになるだろうか。そのように人々は天の気を読み、作物を植え、育ててきたのです。そして、風と対話します。作物を逞しくして健全な恵みがもたらされるよう、良い風が吹いてくれるように願いました。そして空気。人間が汚すことなく、良い場を提供できるように。
そうやって、人々は常に自然と対話しながら、お天道様の意向を伺い、そこから命を頂いて、新たな年を迎えてきたのです。天文学のように複雑なことがわからなくとも、本当に自然と共に、地球と共に、宇宙の仕組みのままに、昔の人は生きていました。

さて、今はどうでしょうか。スーパーに行けば、あらゆる食べ物が一年中手に入ります。農業は季節に関係なく、工場の中で化石燃料を使ってまで作物を育てるようになり、自然から命を頂いているという意識が人々の中から消えていきました。そして人々の関心は、お金にばかり向いているのです。星と星が対話していること、地球の季節が巡ること、土と対話すること、天の気を読むこと、良い風が吹いてくれますようにと自然に語りかけること、太陽の恵みを頂いて感謝して生きること ──── そういったことを、人々は忘れてしまったのです。

それを忘れるとどうなるかというと、人間が傲慢になります。自分の力で何でもやれると思うようになるのです。そういった人間の心が今、地球上でピークに達しています。そこにトランプ大統領が登場し、世界をかき廻し始めました。好き放題に振る舞うトランプ大統領に世の中は右往左往し、人々は不安になっています。しかしこれは、時代が変わるということを示しているのです。
地球は一瞬たりとも留まることなく宇宙を進み続け、同じ場所に戻ることは二度とありません。常に変化変容し続けるのがこの世界の実相です。今の一瞬が過ぎれば、次の瞬間にはもう新たな自分がいます。今日の自分は、明日には違う人になるのです。去年の春から四季が巡って一年が過ぎ、新たな春を迎えるように、去年の自分と今年の自分が違うように、この宇宙の中に生きるということは常に変化し続けているのですから、何かを固定して「これが絶対だ」と思わないことです。そのように囚われのない心で、今年一年を頂いていくのです。
自然と対話することなく自らの思考ばかりを回していると、わがままな人になります。人は、わがままな人に出会うと「困ったものだ」と思うのですが、自分自身のわがままは許すのです。そして自らの思い通りになることを願うのです。しかしこの世界の真実は、そうではありません。
昔の人がそうであったように、自然の仕組みに沿い、そこから命を頂いて、時代の変化に付き合いながら歳を重ね、人生を終わっていく。生きるとは、大いなるものに寄り添い、それに従うことなのです。それが本来の人間の生きる姿です。そのことを人々が忘れていた時代が続きましたが、ようやく人々が気付く時代がやってきました。

ここに、たくさんの人がひしめき合っています。今の時代に、人々の関係がこれほど近く、心が通いあっている生活を見ることは、なかなかできません。この、世にも稀な生き方をしていることを私たちは誇りに思い、喜びとできる時代がやってきました。人々が自分のことだけを考えて生きるのではなく、みんなで助け合い、力を合わせて事を成していくのがこの生き方の神髄です。
そういった暮らしは、地球にとってやさしいです。自然に沿っています。すべての生き物に、命にやさしい暮らしです。命にやさしいということは、人間にもやさしいということです。そして健全な未来につながっていくのです。
これまでは、人間中心で自然を壊してきた時代がしばらく続きました。そのピークを迎え、新たな時代へと切り替わろうとしている今、これまでの生き方をまだ続けようとしている人々は混乱の中にいますが、いよいよこの暮らしが本当に必要とされる時が来たことを感じます。私たちは、そういった意義ある春を迎えたのです。

今年一年の変化は大きなものになるかもしれませんが、それだけ波が大きく、躍動するということですから、楽しんで迎えたらいいと思います。大きな波が来ると、大変だと不安になる人もいるものですが、そうではなく、それと向き合い、それを楽しみ、そして時代と共に思いっきり変化するのです。

今年は、ファミリーにはやることがたくさんあります。きっと忙しくなることでしょう。「忙しい」という字は、「心を亡くす」と書きます。ですから、忙しい時にこそ、心を忘れないことです。損得勘定は置いておいて、天の気と共に、時代と共に、いよいよこの生き方が大切となる時を迎えたのだということを胸に今年一年を過ごすと、来年のこの時間には「本当にそうだった」と思うことになるだろうと、確信しています。
この先がどうなるのかは、行ってみなければわかりません。そこでどうしようかと自分の中だけで思考を回すのではなく、この世界はたくさんの精妙なる仕組みによって動かされているのですから、そういったことを意識しながら日々を頂いていくことです。農に生きる者なら、土と対話する。作物と対話する。それは自然の気を読むことです。風を感じることです。お天道様に感謝して、どう生きたらいいのかを頂くのです。
そうすると、この世界によって自らが生かされていることを感じるようになるでしょう。私たちは常に大いなるものと共にある ──── そのことがわかると、一年が充実します。現代の多くの人は、そのことを忘れてしまいました。その生き方を実践するのが、ここの暮らしです。

これからいよいよ、誇りを持ってこの生き方を世の中に伝えていく時がきたのだと思うと、心がウキウキします。その証が、ロータスランドです。開店まで、あと1ヶ月半となりました。世の中はこれからますます大変なことが起きるでしょう。その中で、なぜそういったことが起きるのかを感じながら、みんなで忙しく働き(=傍楽)ながら楽しく生きて、こういうふうに一年を過ごすといいよ、こういうふうに年を取ればいいんだよ、という見本となっていきましょう。

とても楽しみな年を迎えたと思っています。
みなさん、今年もよろしくお願いします!

 


 

春、ファミリ

新しいお店がオープンします

 

異次元空間カフェ ロータスランド
2017年3月21日(火) OPEN

地球と共に季節巡りを感じがら
時がもたらす旬に出会うお店です。

日届いたとれたてお野菜、
会話中でふっと湧くインスピレーション、
そこから生まれるそ場だけスペシャルお料理。

天然ちみつ、一点限り手作り服、
陶芸や機織り、とびっきりスイーツ。

誰かが歌を歌っていたり、宇宙話が飛び出したり、
いったいここどこだろう?と
不思議だけどどこか懐かしい
そこにいるだけでわくわくする異次元空間カフェ
「ロータスランド」始まります。

 

cafe&shop
lotus-land-rogo

ロータスランドと色とりどりが咲き乱れる桃源郷ことです

〒419-0302 静岡県富士宮市猫沢239-9
ファミリ「おひさまハウスひまわり」より徒歩1分!

午前8時から午後7時まで営業
(カフェラストオーダー午後6時)
毎週曜日定休

お問い合わせファミリーへどうぞ!
電話:0544-66-0250

3月21日(火)から5月2日(火)までプレオープン期間とります。ぜひお越しいただき、5月3日グランドオープンに向けて皆さまご意見やご感想をどうぞお聞かせください。スタッフ一同、心よりお待ちしております!

 


地球は真釈天技場

いさどん:
みんなはこの生き方を楽しんでいるだろうか?

ともこ:
楽しんではいるだろうけれど、まだまだ楽しみきれていない。

いさどん:
充実はしていると思うが、楽しめてはいないだろう。これが楽しめるようになったらいい。

ともこ:
楽しめたら桃源郷だね。この間ここを訪れたある人が「もっと楽しむことですよ」と言っていた。

いさどん:
しかし、楽しむにもレベルがある。どのレベルで楽しんでいるのかという度合いがあるから、一概に言うことはできない。
目指しているものに到達しなければ楽しむことはできないが、それは目指しているものがどのレベルにあるかによって変わってくる。目指すものが高くて到達できずに楽しめていないこともあれば、目指しているものが低くて到達しているから楽しんでいるということもある。どこを目指すのかによって変わってくる。それはつまり、その者の目がどこを向いているのか、旬がどこにあるのかということだ。
そこで、無理に高いものを目指して楽しめていないことも問題だが、低い所で楽しめているからそれでいいというものでもない。自らがどの位置にいるのかということが客観的に観えていないと、楽しめているのかどうかもわからない。

先日ロータスカフェで「経済革命」のプレゼンテーションをしながら、皆は話についてこれているだろうか、と思った。彼らが考えたこともないような話をしているのだから。考えたこともないような話だからこそ聞いていられる、ということもあるのだが。
我々が無意識に毎日行動していることがこの世の中の混乱になっていたり、格差を生んでいたり、現代の様々な問題の原因になっていませんか、と問いかけると、そこについてはみんな理解する。道理が通っているから、「そう言われればそうだな」とわかる。では自分の生き方を今から変えるかというと、そうはならない。

ともこ:
ならないね。昔自分が会社勤めをして暮らしていた時も、これではいけないと思いつつ、どうしたらいいのかがわからなかった。結局は心のことだから、一般社会にいようとどこにいようと本当はできることがあるんだけど、わからなかったな。

いさどん:
社会にいてもできることはあるが、社会にいてはできないということもある。仮に頭でわかったところで、社会にいる限り、自分一人がそんなことをしても世の中が動くだろうかというと、動かない。だから少なくとも、その理解が確実に現象化して大きなうねりになる動きを見付けるか、もしくはその中に入ることをしないと、結局はその理解もただの知識として持っているだけになる。そして何も変わらない。
しかし、生きているということは、自動的にその動きの中にいるということでもある。自分がそういった行動を取ろうが取るまいが、確実に世界はその方向へ向かっているのだから、生きていることによってそこに参加していることは確かだ。大事なのは、そのことをよく理解して行動しているかどうかということだ。
自分一人が行動したとして、世の中に対しては大した力になれないとしても、世界の流れには呼応しているのだから、それを自らの人生の結果につなげたければ、その意識を常に持って生きていくということだ。

何かが成就するかどうかは、結局時代の側が握っており、それは自らの手の届かないところにある可能性がある。今回の人生でそこに旬がなく成就しなかったとしても、それに対して道理をしっかりと積み上げて旅立てば、次にそれが起きる旬に生まれてくる可能性もある。そしてそこで事が成る。だから、ここで終わりとしないということだ。

ともこ:
自分の思考が二元論的であることを日々感じている。そうではないと思いつつ、無自覚のうちにものごとを「これはいい」「これは悪い」と判断している。今の話のようにずっと先までつなげて捉えるのではなく、今だけを見ているからそういう判断に陥りやすいのかな。

いさどん:
そこだよ。二元的な教育を受けてきた現代人は二元論に慣らされている。だから、ついついそこで結論を出したがる。しかし実際は、二元論ではなく、三元でも四元でもないところに世界の実体はある。我々は形の世界にいる。そこは本来三元の世界だが、現代人の思考は三元にすらなっていない。
しかし、世界の実体はもっと多次元の中にあり、いいとか悪いとか単純に決めることのできないものなのだから、この世界に存在するあらゆることはすべて認められることだ。どんなに理不尽なことであっても、現象化が可能だということは、認められることなんだよ。そのことを理解すると、ものごとを「これはいい」「これは悪い」と判断して固定する視点に囚われなくなる。しかしそこまで悟ってしまうと、人はそれぞれ他者にはないオリジナルな個性を持って役割を果たしているのだが、その役割もなくなってしまうことになる。
例えば道を極めて聖者となった者に対して、本来、そこに御利益を求めるということ自体があり得ないことだ。聖者とは、何人の側にも立たない者。そこに御利益があるのではなく、己の側に立たず、単に宇宙の法則と同化しているにしか過ぎない。元々の仏教の世界観は、そこにすがって御利益を求めるようなものではなく、ただ人として生きることの道しるべとしてあるものだった。ところがその境地まで至らぬ者たちが、自らの飯の種としてそれを利用した結果、現在の御利益宗教や葬式仏教につながっていった。
寺院には仏塔や仏像があるが、それに対してどんな心で向き合うべきかといったら、本来、そういった仏教的建造物は、この世界の実体をわかりやすくひも解くための道具にしか過ぎない。そんなものに向き合わなくとも、直接自然と向き合い、その奥にある仕組みや法則、即ちこの世界の実体を感じることができれば、それで道は開かれる。この世界は真釈天技場(しんしゃくてんぎじょう)なのだから。

ともこ:
真釈天技場?

いさどん:
昔僕が田舎に創ろうとしていた道場の名前だよ。それは地球のことだ。だから、我々が地球上に肉体を持って人として生きるということは、地球という心の道場に修行に来たようなものなんだよ。真釈天技場の「真」は真実の真、「釈」は解釈の釈であり、お釈迦様の釈でもある。仏教の真理とは「天」を理解する「技」である、というのが真釈天技場の意味であり、その道場が地球なんだよ。
僕が「私は特定の場所を指定してそこに人々が道を求める場を創ろうとしているが、本来人間が真実を理解するための場所はどこなのか」と天に問うたら、「真釈天技場」という文字が降りてきた。その5文字の示す意味を解釈していくと、そのために地球は創られているのだから、地球上すべてがそうだということだ。ということは、宇宙空間はそうではないということ。もともと宇宙には、地球のような三次元生命世界がなかった。そして宇宙の魂たちは、コンパクトにかつ短期間に宇宙の法則を学ぶ世界を求めていた。だから、その総意によって地球が創られたんだよ。地球上には、これほどまでに多様な生命が無限のネットワークを織りなし、宇宙の法則が凝縮して表現されている。宇宙中を探しても、こんな世界はない。

ともこ:
私たちは真釈天技場に生きてるんだ。

いさどん:
だから地球上ならどこでもいいのだが、南極と北極のような極地に近い所はあまり適さない。一日を体験するのに理解し難い場所だから。赤道に近い所は生命力旺盛で変化は激しいけれど、その変化は常にワンパターンで四季の移ろいもあまりないから、ここも適地とは言い難い。大陸の中は、海の影響がなく変化が極端で、四季の微妙な機微に欠ける。
そういう意味で言うと、中心から斜め45度上にある日本の環境はいい。四季があり、海に囲まれて変化に富んでおり、極めて真釈天技場として相応しい場所にある。

ともこ:
日本はある程度南北にも長いから、日本国内でもバリエーションがあるね。

いさどん:
斜め45度は艮の方角であり、人間の体で言うと心臓の位置だよ。インドを地球のへそとか子宮だとすると、日本は心臓の位置になる。
人間の体のどこかに問題が起きると、その問題は血液を通って心臓に戻ってくる。送り出した血液が問題のある場所で汚染されてまた戻ってくるのだから、心臓は情報が集約される場所だ。本来日本はそのような位置にあるのだが、それだけの役割がありながら、現代の日本人は本来の大和心を忘れ、アメリカボケしている。
現代は、文明800年周期説で表されているように、この800年間世界をリードしてきた西洋文明に代わって、東洋文明が台頭してくる切り替えの時にある。その時に、より多く矛盾が発生するのは東洋の社会だ。西洋文明が西洋文明であるのは当然のことであり、それは800年ごとに東西の盛衰が入れ替わる文明のサイクルに沿い、ごく自然にこれから低調期に入っていく。ところが、これまでの東洋は東洋でありながら西洋かぶれをしていたのだから、本来の東洋的傾向が台頭してくる時に、そのギャップを埋め合わせる分だけ、より多くの矛盾が発生することになる。これから真実が紐解かれていく中で、東洋はより激しく変化するが、その激しい変化の中に、新たな時代への指針が生まれてくることになるだろう。

ただ、こういったことを語れば語るほど、ある意味孤独を感じるものでもある。なぜこのような思考が湧き出してくるのかというと、そういった思考の次元に意識がアクセスしているから話すのだが、それに共鳴する者は限られている。そういった解釈に触れれば人々は「なるほど」とは思うだろう。道理が通っていれば、否定はしない。実際に起きている現象もそれを明らかに裏付けている。しかしだからと言って、そういった刺激を受けて人々が生き方を変えるかというと、そこまではいかない。
今は、ピコ太郎が世界的にウケるような時代だ。今朝、福島と熊本の被災者がくまもんを通じて支援し合うということがテレビで放送されていた。NHKが視聴率を上げるための物語で、とても浅い話だが、そういった話題は人々にはウケるだろう。しかし、それでは今の社会の根底にある矛盾を根本的に解決することにはつながらない。

ともこ:
私はよく動画を編集するけれど、その時に思うのは、映像というのは編集者のバイアスがかかることなしには成り立たないということ。数ある情報の中でどれを採用するのか、長いコメントのどの部分を切り取るのかは編集者にかかっていて、その情報も嘘ではないけれど、一つの作品として仕上がった時に、それは完全に編集者の意図による寄せ集めになる。もっとも、編集者の意図も時代の流れだとも言えるけれど。

いさどん:
それを言うならば、今の情報はすべてがそうだ。本来そういったことは、自らの意図を乗せているということを自覚して行うことが大切だ。そこに気が付かなければ、自分が正義の旗印のもとにいるかのようになり、その時点で情報提供ではなくなってしまうことになる。
編集者の意図が乗るのは仕方がない。どこかで意図を持たなければ単なる出来事の羅列になってしまい、物語として成立しないことにもなる。それではわかりにくいから意図が乗るのはよいとして、そこで編集者が自らの感情が入っていることを理解し、そのことに配慮すると、フリーな映像になる。
先日、アニメ映画『この世界の片隅に』についてのクローズアップ現代を観たが、あれは極めて表面的な作品だった。それを時代の風潮として取り上げる番組には意図が働いていた。しかしその意図が観えない視聴者は、テレビの中で語られるミーハーな感想に乗っていってしまう。

なぜそうなってしまうのかというと、日頃から自らの意思をよく表現していないし、物事をよく観ていないから、出来事の奥にあるメッセージを感じ取るような思考を巡らせていない。思考を巡らせるとは、やりくり算段をするということではない。それは自動的に湧き出してくるものだ。例えば目が自動焦点になっているように、心の焦点をぐっと絞って観る。意図してやるのではなく、瞬間瞬間の状況に合わせて自動的に思考が巡る。そうすると気付きが湧いてくる。それは、人智を回して出てくるものではない。
その気付きの自動焦点機能が働くようになるためには、どうしたらよいのか。それには自らの精神を研ぎ澄ませて、無我の状態でいることが最もふさわしい。研ぎ澄ませて無我の状態でいるということは、緊張も一切ないということ。リラックスして自由自在に物事に対処できるということ。それができていない状態で生きることは、人生の奇跡に滞りを発生させることになる。滞りの種を播きながら生きているようなものだ。自らの人生にも、世の中にも。

この世界には流れがある。自らが常に流れと共にあれば、滞りは発生しない。流れに沿って動けばよいだけだから、難しくもなく、とても効率的だ。エネルギーも少なくいける。そのためにはやはり、自らを研ぎ澄ませることだ。
本来、地球上に生きるということは、宇宙の精妙なる法のもとに存在することを、極めて短期間に、そしてコンパクトに体得できる道場に生きるということ。それは、我々人間が生命として地球上に生まれ、生命ネットワークの中で役割を果たす(他者のため)ということと、自らを磨き高次の存在として目覚めていく(自らのため)ということの、二つの生きる目的を果たすことだ。それを同時に達成できる宇宙に存在する唯一の場所が地球であり、それが真釈天技場なのである。

 


 

「自分」という囚われを解き放ち

地球に生まれてきた本当の意味を知りたい方へ

2017年2月19日~3月18日
「1ヶ月間の真学校」開催!

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囚われを外したら

そこは宇宙だった

 
何か問題が起きた時「自分は悪くないのになぜこんな事が起きるのだろう」と思ったことはありませんか。
人は問題を見つけると、とかく自分の外に原因を探し、周りを変えようとします。ところが周りはどうにも変わることなく、問題だけが積み重なり、今や家庭の中から地球規模に至るまで、どこもかしこも問題だらけの、行き先の見えない世の中となりました。
しかしそれは視点を変えれば、大転換のチャンスでもあるのです。

1ヶ月間の真学校は、人生の問題のあるなしに関わらず、生きることの突破口を開く場です。そこに特定の正解はありません。一人ひとりが客観的に自己を捉える冷静な目を養い、視野を広げ、その人らしい人生を自ら切り開いていく力を身に付けます。

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【日程】
2017年2月19日(日)~3月18日(土)
【会場】
木の花ファミリー
【定員】
15名 定員に達し次第受け付けを締め切ります。
【参加費】
18~22万円 収入に応じたスライド制です。受講料や食費など1ヶ月間の滞在費全てを含みます。
【内容】
「農」「食」「医」「経済」「環境」「教育」「社会」「芸術」と多彩な切り口の講座を通して、受講生一人ひとりの心の性質や人生の使命、そして時代の流れを読み解きながら、この世界の真実を観抜く心の目が開かれるよう、いざないます。
講座例:人格を学ぶ講座(カルマ読みと地球暦)/コミュニティ創設講座/天然循環法の畑作・稲作/ファシリテーション/世界観を広げる/菩薩の里の経済/自然療法プログラム/食養生/有用微生物群の培養/天然醸造味噌作り/創造性と芸術/カタカムナ/性と宇宙/自然災害と防災/持続可能な心の持ち方

講座詳細やこれまでの受講生の体験記はこちら!

→ 1ヶ月間の真学校ブログ

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